F.
メールを送信してしまうと、都築はもう一度仕事のファイルを開いた。これまでに書いた分を、全て読み直す積りだった。ファイルは途中で終わっている。それは都築に、何となく造り掛けで中断された小さな橋を連想させた。
『 ぼくが美砂と出会ったのは、そういう時期のことでした。
正直に言いますが、ぼくは美砂の前には女を知らず、また美砂の後にも女は知りません。ぼくに取っての女とは、美砂ただ一人です。美砂を除いては女はいないのです。うまく言えませんが、美砂はぼくの全てなのだろうと思います。
さて、ぼくは先ほど、高校生の女の子に家庭教師をしていたと言いましたが、その関係で一つアルバイトを見つけました。その女子高生の父親は翻訳会社を経営していたのですが、その人に頼まれて、会社に短期間出向き、翻訳物のチェック作業を行うことになったのです。短期間、そうですね、三ヶ月間ほどの仕事だったと思います。客先は製薬会社や官公庁が多く、翻訳物の多くは医学論文や臨床治験の関係の堅い書類でした。事務所は初台にありましたが、会社は規模が小さなもので、社員はぼくを入れたアルバイトも含めて十五人もいたでしょうか。ぼくは、大学のことなどもうてんで気にかけず、朝から会社に出て翻訳の仕事をしました。仕事は幸いぼくの性に合い、楽しく働くことができました。会社の人もみな親切で、和気あいあいとした風景を絵に描いたような環境でしたので、ぼくは、これならちょっとばかし「社会人」になって見てもいいかな、などと生意気なことを考えたりしていました。――ぼくは、在籍していても学校にはほとんど顔を出さない生活を送っていましたが、卒業あるいは中退して学校を離れてからどうするといったこともろくに考えてはいませんでした。ただ、漠然と、自分はものを書く仕事につこう、という程度のことが頭にあるだけだったのです。しかし、漫然と読書だけはしていたものの、著述家になるための積極的かつ継続的な努力などしていませんでした。結局のところ、物書きになりたいというのは、甘ったれた学生が、現実から目を背け、自分の中の不安を取りあえず
さて、その会社には、Kさんという社員がいました。ぼくよりは三つか四つ
Kさんには色々な店に連れて行ってもらいました。そこでぼくは、初めて酒の味を覚えたと言っていいでしょう。気が合った者どうし、好きな話をしながら、音楽を楽しみながら飲む酒のうまさが格別であることに気が付いたのはその時です。
Kさんとは色々な店で酒を飲みましたが、その中に一軒のロック・バーがありました。ロックばかりでなく、ジャズもよくかけたので、厳密にいうことはできませんが、とにかく様ざまなレコードがそろっていて、その中からぼくとKさんとはロックばかりリクエストしたので、一応ロック・バーだということにしておきます。
その店の主人は、サラリーマン上がりだという四十がらみのちょび髭を生やした男で、Kさんは顔なじみらしく、ぼくのよく分からない話も二人でしていました。ぼくはそこに、Kさんの知り合いだという顔をして何回か通いました。そこでは、本当に刺激的な音楽を聞くことができました。グレアム・ボンドとかフェアポート・コンヴェンション、それにニック・ドレイクやジェネシスなどといった、当時のイギリスの最先端の音楽を聞けたのは都内でもぼくの知る限りはそこだけでした。ぼくはそれまで、ロックでもジャズでもアメリカの音楽を聞くことが多かったのですが、その店では酒以外に音楽の味わいも知ったということです。ぼくは次第にイギリスのブルーズに惹かれて行き、ズート・マネーやステイタス・クォー、それにジョン・メイオールなども聞くようになりました。
さて、Kさんには本当に良くしてもらったのですが、残念なことにそのKさんは途中で仕事を辞めて郷里の福島に帰ることになってしまいました。何でも、お父さんが亡くなって、家業の保険代理店の仕事を手伝わなくてはならないことになったということでした。
Kさんがいなくなった後も、ぼくはその店に通い続けました。その内に徐々に店のマスターともうちとけて話をするようになって、そうなると一層足しげくその店に通うようになりました。そうですね、お金の続く限りでしたから、週に一回、多い時で週に二回ほども行ったでしょうか。
「きみは、学校はどこなの」
ある時、マスターがグラスを磨きながらふとぼくに尋ねるのです。ぼくが学校の名前を告げるとマスターは、
「ほう、名門じゃないの。だけど、今は大学の紛争で大変なんだって?」
と言います。
「そうなんですよ。講義もろくにないし、だから今は毎日アルバイトして過ごしているんです」
そこでちょっと静かになりました。その晩は他には客はおらず、ぼくとマスターの差し向かいでした。ぼくは、ジェスロ・タルというグループのレコードをかけてくれるように頼みました。
「きみは、ずいぶん音楽が好きなんだね。まだ大学生なのに、いろいろ知っているみたいだし」
マスターはぼくに、どこでそんな音楽の味を覚えたのか、と聞きます。ぼくは、生意気に、
「もともと音楽が好きなんですよ。それでレコード屋に入りびたりになっているせいもありますし、Kさんに教えてもらったことも大きいですね」
と答えました。
「ああ、あのKさんね」
マスターはそう言ってうなずきます。それからぼくとマスターは、一しきりKさんの思い出話をしました。Kさんはごく気のいい、
と、ふとマスターが、
「きみはどうしてKさんと知り合いになったの?」
と尋ねます。ぼくは、これこれで会社にアルバイトで入ったのがきっかけだったのだ、と説明しました。
「そうか、じゃあ今は学校に行かないで、その会社に行ってるんだ?」
「いや、それがもう来週末で終わりになるんです。短期のプロジェクトの補助をするのに頼まれて行っただけですから。いまは、この先どうしようかと思っているところなんです」
するとマスターは、それならその仕事が終わった後で、よかったらこの店で働いてみる気はないか、と訊くのです。ちょうど、その店ではアルバイト募集の告知をしていたのを、ぼくもビルの壁の貼り紙を見て知っていました。が、ぼくは元来が引っ込み思案で口下手な方でしたから、接客業には向かないだろうな、と思った程度でした。ぼくはその通りにマスターに言いました。
「いや、その程度のコミュニケーションが取れるんなら、全く問題はないと思うよ。何より、この店に来るお客さんは話がしたいというよりは、みんな酒と一緒に音楽を聞きたくて来るわけだし。実は、もう何人かこの店で働きたいと言って来ているのがいるんだよ。だけど、これは、と思うのがいなくてね。きみなら、ここで聞かせるような音楽にも十分詳しいみたいだし、それなら資格は十分にあるよ。どうだい、今の仕事が終わったら、ここに来てみないかい?」
マスターはそう熱心に言うのです。ぼくはビールを一口飲んで考えました。確かに、ぼくはこの店をとても気に入っていました。また、マスターの言う仕事のうちには、カウンターの中での手伝いの他に、レコードの買い付けなども入っているようでした。それなら、ぼくにも十二分に務まりそうな気がします。
「じゃあ、試しに一週間くらい使ってもらえますか? その上で判断して下さいよ」
ぼくはそう返事をしました。マスターは、分かったそれでいい、と言ってくれました。こうして、ぼくはそのバーで働くことになりました。
最初は、ごく単調なものではないかと思っていたバーでの仕事ですが、いざ実際にやってみると覚えることも多く、なかなか
ぼくが美砂と出会ったのは、そんな時期のことでした。お察しの通り、美砂は店の客の一人でした。しかし、常連という訳ではなく、時おり顔を見せては、止まり木の隅に席を取り、タバコを吸いながらビールや水割りを啜って、いつも黙って他の客の会話に耳を傾けている、といったような感じでした。美砂は人前ではとても無口だったのです。
美砂はたまにレコードのリクエストもしました。それはいつでも、スティーヴ・ウィンウッドだのフォザリンゲイだの、なかなか趣味の良いレコードばかりでした。じっさい、ぼくと美砂が親しくなるきっかけになったのも、元はと言えば美砂のリクエストだったのです。』
さて、ここからどうしようか、と都築は画面を前にして茶を啜りながら思案したが、全て自明のことだ。頭の中は真っ白で、これ以上稿を進めることは事実上不可能だった。少し入力しては消去し、また少し書いては消す。小一時間も画面に向き合っていると頭が痛くなって来たので、都築は一旦作業を止め、湯に入ることにした。時刻はもう五時前で、窓の外は薄暗くなっている。
ゆっくりと温泉に浸かっていると、久々に思い返す父親のことも、母親の良子のことも、
湯から上がると、間もなく菜穂子が夕食を告げに来た。食卓に就いた四人は、俯き加減に黙々と箸を動かした。その沈黙を破ったのは須黒の父だった。
「あ、都築さんね、新しいお客さんのこと、了解しましたので。お一人さまで良いんですよね?」
「はい。どうも済みませんね、こうしてお世話になっておきながら人を呼んだりしてしまって」
都築は頭を掻いて謝った。しかし康造は手を振って、
「なに、お客様が多いのはいいことですから。歓迎しますよ」
と気さくに言うのだった。
「来るのは男かい? 女かい?」
須黒が口を挟んだ。
「女だよ。ブルーズ・シンガーをやっている知り合いなんだ」
「へえ。そりゃあ賑やかになるな」
「いや、普段はごく大人しい方だと思うけどね。放って置くと一日中ヘッドホンで音楽を聴いてる」
都築は笑った。と、菜穂子が、
「あら。女の方なんですか」
と驚いたような声で割り込んで来た。
「そう。女ですよ」
「何だよ菜穂子、そんな大きな声で言うこともないじゃないか」
須黒が
「ご免なさい。でもちょっと意外だったものですから」
と肩を
「ぼくに女友だちがいるのは意外でしたか」
都築はちょっと笑って言った。菜穂子は慌てて、打ち消すように顔の前で手を振って、
「違います。そういう意味じゃないんですけど。…ちょっぴり気になっただけなんです」
と必死で弁解した。頬が赤く染まっている。
会話はそれで済んだ。都築は黙々と箸を使い、食事が済むと、仕事をするから、と理由を付けてすぐに自分の部屋へ引き取った。
もう一度、朝に都築和弘の名前で来た葉書を取り上げて読み直していると、携帯電話が鳴った。ディスプレイには都築の知らない携帯電話の番号が表示されている。都築は「通話」ボタンを押して電話を耳に当てた。
「もしもし」
「あ、もしもし。都築さん?」
「もうメールは読んだのかな? ひょっとしてもうこっちに着いたとか?」
「ううん。メールは読んだけど、まだ出発もしてないの。いま迷っているところ」
「そうなんだ。携帯、替えたんだね?」
「そうなの。この間替えたばっかりなんだけど。ご免ね、お知らせしていなくて」
「それで、こっちには来るの?」
「うん。迷ってたんだけど、都築さんの声を聞いたら何だか行きたくなっちゃった。明日の朝出発するね」
「そう。じゃあ待っているから。小涌谷の駅に着いたら電話してくれれば迎えに行くから」
「突然お邪魔しちゃってご免なさい。旅館の人によろしく。じゃ、お願いしまあす」
通話は切れた。都築は携帯電話を仕舞った。PCのサスペンドを再び解除し、作品のファイルを開いて三十分ほど粘ったが、やはり稿は
(「明くんはどう思うか知らないけど、あたしは中井さんは嫌いじゃなかったわよ。確かに、学校に縫いぐるみを持って来たり、ちょっと変わってはいたけどね。話してみたら、悪い人じゃなかったし、皆なが言うほど変人じゃないよ」)
浴室を出た都築は、薄暗く寒々とした廊下を通って、暖かな自分の部屋へ戻った。それからトランクから持参のCDアルバムとポータブル・プレーヤーを出して、ヘッドホンを使って何曲か聞いた。まだ時間的には余裕があるものの、いずれそのアルバムの評を書かなければならなかった。しかし、小説の原稿が気になってどうにも気分が落ち着かず、結局少し聞いただけで都築はプレーヤーを止めた。
煙草を吹かしながら、都築は茶を啜り、ノートPCの画面を睨みながら左手の指先でとんとんと卓を叩いた。埒が明かない。時計を見ると時刻は十時を回っていた。都築は一つ溜息を吐いてPCの電源を消し、就寝前の薬を飲み、洗面所で歯を磨いてから布団に潜り込んだ。間もなく都築は眠りに落ちた。
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