E.

 都築はそこまで読み返して、後頭部を拳で軽くとん、とん、と叩いた。ここから先をどのように進めるべきか、悉皆さっぱり見当が付かなくなっていたのだ。考えれば考えるほど、小説の先が分からなくなった。このすぐ後に起こることまでは、都築の頭の中にはあった。しかし、この小説の主人公がこれから一体どのような体験をするのか、という点に於いては、作者の都築にもさっぱり先が分からなかった。そうした重要事全てを等閑なおざりにしたまま小説を書き出してしまったことに、都築は後悔に近い思いを抱いていた。だが、これも乗り掛かった船だ。何とか捻り出して書かねばならない。肚を据えて掛かれば、何とか行き着くかも知れぬ。

 その時、梯を上って来る足音がした。時計を見ると、まだ十一時前である。昼食にはまだ早い時刻だ。足音は須黒のものだった。のし、のし、と廊下をこちらに近付くと、襖障子の向こうで止まり、

「おい、都築。入っていいか」と言うなり、返事も待たずにがらりと開けた。「何だ、仕事中だったのか。こりゃ、邪魔して済まないな」

「いや、いいんだ。何の用だい?」

「それがさ、きみ宛にこんなものが届いているんだ」

 須黒は都築に一枚の紙切れを渡した。都築は怪訝そうな顔付きでそれを受け取り、手元で改めた。それは一通の絵葉書だった。宛名は「柏屋気付 都築明様」となっている。住所は、「神奈川県足柄下郡箱根町小涌谷×××」と柏屋の所番地が書かれていた。しかし、差出人の名を見た都築は言葉を失った。そこには、「都築和弘」とあったからだ。都築和弘は都築の父の名である。都築は、葉書の下半分に細かな字で書き込まれている文面に目をやった。


「 明様

  大変ご無沙汰しておりまして申し訳ございません。お変わりなくやっておいででしょうか。こちらは相変わらずの暮らしを暮らしております。私の方から少しお願いしたいことがございます。どうかお聞き届けをお願いしたく存じます。追ってまたご連絡差し上げます。お元気でお過ごし下さい。」


 裏返して見ると、北斎の赤富士が描かれてある。都築はもう一度表に返して、まじまじと文面を見直した。これは良子に見せないと確たる判断は出来ないが、都築の見た所では、どうも失踪した父親の筆跡と瓜二つだった。

 父親の都築和弘は洋画家であった。美大を出た後で欧州に渡り、暫くそこで修行した上で日本に戻り、それから更に精力的に制作を続けて個展を開くまでになった人である。その人生の行程の中で良子と出会い、結婚し、都築を儲けた。然る美術家団体にも所属し、都築が物心つく頃には、中堅の画家として認知されていた。都築が小学校五年の時に、芸術書の刊行でよく知られているK堂から画集を出したことは都築もよく覚えている。

 しかし、その都築和弘は、明が中学二年生だった時、ある秋の夜に、忽然こつぜんと自分のアトリエから出奔しゅっぽんし、姿をくらましてしまった。その当時、三人は三鷹に一軒家を借りて住んでいたのだが、アトリエに充てていた一階の洋間から、夜中にフランス窓を開けて外に出て行ってしまったのだった。書置きの類は一切なかった。

 明は、和弘がいなくなった翌朝、良子がどこか浮かない顔付きで明の寝室に入って来たことをよく覚えている。

「お父さんが、いないのよ、家に」

「いない? いないってどういうこと?」

「昨夜、あたしが休む時は確かにアトリエで仕事していたんだけど。今朝見たら、アトリエにもいないし、ベッドにもいないのよ。それで、アトリエの窓が開けっ放しになっているの。財布も置いてあるし、着の身着のままみたいなのよ。おかしいわね」

 都築がアトリエに行って見ると、良子の言った通り、中はもぬけの殻で、開け放たれた窓辺でカーテンが朝の軽い風にそよいでいるだけだった。都築が何となく部屋の中でぐるりを見回していると、父親が最後に仕事をしていたと思しき画架が目に入った。

「ちょっと、母さん」

 と都築は大きな声で母親を呼んだ。良子はすぐに飛んで来た。

 画架の上に載っていた絵は、ほぼ完成した作品だった。しかし、その余りの不気味さに、明も良子も声がなかった。

 キャンヴァスの真ん中に大きく描かれているのは、赤い屋根の小さなほこらだった。しかし、古い祠なのか、その戸は既に失われ、中が見えるようになっている。そして、祠の中は空ではなかった。祠の中には生々しい女の生首が入っていたのである。女は虚ろな眼差しでこちらを見詰めている。口が少し開いていて、そこから真っ赤な舌が覗いていた。

「昨夜は、制作で忙しいから遅くなるって言ってたんだけど、徹夜してこんな物を描いていたのかしら。気味が悪いわね」

 良子は眉を顰めて暫く絵を眺めていた後でぽつりとそう言った。

 その日、都築はどうして過ごしていたのか、記憶には残っていない。ただ覚えているのは、丁度中間考査が行われていたということだけだ。家に帰ると、良子が途方に暮れた顔で待っていた。

「お父さん、帰って来ないのよ。白幡さんのところにも高科さんのところにも行ってないって」

 交友範囲の狭い和弘は三日経っても帰宅せず、良子は警察署に行って捜索願を出した。それから数ヶ月が経ち、いつの間にかそれが数年になり、そして九年間が過ぎた。その間に良子と明は借りていた借家を出てマンションを買い、転居した。都築は高校を卒業し、昨年大学も卒業した。良子は、和弘の失踪の後の数年間は、思春期の都築の目から見てもやつれた様子を見せることが多かった。良子は都築には隠していたので都築は口には出さなかったが、良子が暫くの間精神科を受診していたことも知っている。しかし、ここ数年間の良子はどこか達観たっかんしたような落ち着きを取り戻していた。

「どうしたんだ?」葉書を手にしたまま何も言わない都築に、須黒はいぶかしそうに声を掛けた。「何かあるのか? それ、誰からだ?」

 都築は須黒に事情を話すかどうか迷ったが、結局話すことにした。

「これは親父からなんだ」

「なんだ、親父さんに、ここの住所を教えていたのか」

「いや。ぼくがここにいることなんか知りもしないよ」

 都築は、事情をつまんで須黒に説明した。須黒は目を丸くして都築の話を聞いていた。

「そんなことがあったのか…。それで、この葉書のことは、おふくろさんに知らせなくていいのか?」

 須黒の問いに、都築は首を傾げた。頭の中でぐるぐると思念が混乱した渦を巻いている。そこから出て来るままに、都築は言葉を口から出した。

「ああ。どうしようか迷っているんだ。もしかしたら、ぼくが知らない間に戻って来た親父がおふくろにここの住所を聞いて――ああ、ぼくがここに来たのは昨日のことだから、それはありえない確率の方が高いけど、それでここに葉書を送ったのかも知れない。でも、多分おふくろは何も知らないと思う。とすると、この葉書は誰かの悪戯なのかも知れない。ただ、そんな悪戯をしそうな奴の心当たりはないからな…。一番確かなのは、この葉書をおふくろに見せて、真贋しんがんを確認してもらうことだけどな」

「きみの目には、筆跡はどう見えるんだ?」

「親父の手にそっくりだよ。いや、ぼくには本物にしか見えない」

 須黒は都築に断って葉書を取り、文面を追い、裏に返して赤富士を眺めた。

「ふうん。これ、読んだか? 何かきみに頼みたいことがあるみたいだな。追って連絡をするって書いているが」

「ああ、そうだったな。また葉書を出して来るってことかな?」

「ううん、おれには分からんが。きみがここにいればここに連絡が来るのかな。国分寺に帰ればそっちに連絡が行くのかも知れない」

「そんな、馬鹿な」都築は笑った。「ぼくの居場所をすぐに突き止める手立てなんかありゃしないよ」

「けど、現にこうしてここに葉書が着いているんだからな」

「ああ。一体どうして分かったんだろう?」

「さあな」須黒は顎の下を掻いた。「しかし、方法はどうあれ、きみの親父さんには居所が分かっているみたいだな。どうする? 一回、山を下りるか?」

 都築は少し考えてから首を振った。

「いや。国分寺に戻っておふくろにこれを見せれば、親父の手かどうかははっきりするけどな。まだ、おふくろには知らせない方がいいと思うんだ」

 都築は、良子がまた精神的に不安定になるのが心配だった――都築が高校生の頃は、良子は夜中にこっそりキッチンで飲酒していたのだ。

 須黒は頷いて、腰を上げた。

「それじゃあ、まず親父さんからの第二報を待つことだな。しかしまあ、妙な話もあるもんだな。仕事中、邪魔して悪かった」

 そう言い残して、須黒はのっそりと梯を下りて行き、都築はまた一人になった。つくねんとして座卓に向かい、「誰か」が出した葉書をめつすがめつしていると、都築は妙なことに気が付いた。この葉書には五十円分の切手が貼ってあったが、消印が押されていないのだ。それはつまり、この葉書は誰かが直接、須黒の家のポストにこれを入れて行ったということだ。

 都築は、葉書を卓の上の、自分から遠い位置に置いた。やはりこれは、誰かの仕組んだ悪戯ではないのか。都築は折角せっかく腰を据えて仕事に取り組もうと思っている矢先に、気持ちの中で整理し辛い問題が起こったので、戸惑いと同時に行き場のない苛立ちを感じた。混乱した心を抱え、腕組みをして、じっと宙を見詰めていると、また廊下の方で足音がした。菜穂子だった。襖障子の向こうで足音が止まり、失礼します、と控え目な声が言った。

「都築さん、お昼の支度ができましたけど、お召し上がりになります?」

「はい」と都築は頓狂とんきょうなほど大きな声で返事をした。「いま、行くので」

 菜穂子に遅れて母屋に向かい、都築は混乱した気分を抱えて食卓に着いた。やがてホット・ドッグやスクランブルド・エッグといった簡単な献立が並び、四人は食事を始めた。都築は黙々として食物を口に運んだが、味を感じる気持ちのゆとりはなかった。

「きみ、やはり一回山を下りた方がよくないか?」

 不意に須黒が口を開いた。都築は暫く黙って咀嚼そしゃくしていたが、小首を傾げた。

「どうかな」と都築はコーヒーに手を伸ばしながら返事をした。「ぼくも、どうしようかとさっきから考えているんだけど、中々踏ん切りが付かなくてね」

「どうかなさったんですか?」

 菜穂子が目を丸くして尋ねた。須黒は、諒解りょうかいを求めるように都築の方を見た。都築は無言で頷いて見せた。須黒は、先ほど都築が話して聞かせた内容を、寸分違わずその通りに菜穂子に伝えた。菜穂子と康造は声も立てずに聞き入っていた。話が済んだ後も、その場には重い沈黙の雰囲気が漂っていて、一同はやや伏目がちになってじっと食卓に向かっていた。そこへ、

「そりゃ、おかしいね」

 と康造が第一声を上げて沈黙を破った。三人は、目を上げて康造の方を見やった。康造は、ジャムを入れたヨーグルトをかき混ぜながら少し黙っていたが、やがて、

「都築さん、その葉書とやらを持って来なさい」

 と言った。都築は一旦席を立ち、旅館に取って返して葉書を持って来た。康造は眼鏡を上げて、それの表を見たり裏返したりして、数分間何も言わずに葉書をじっと眺めていた。

「これ、この筆跡は、確かにあんたのお父さんのものかね?」

 と須黒の父親は都築に問うた。

「そうですね。父がいなくなったのは九年も前の話ですし、記憶ははっきりしないのですが、ぼくの目にはそのように見えます」

「あんた、ここに来ることは誰かに言ったのかね?」

「母と、主治医と、その程度ですね」

「そうか…。しかしこの葉書には消印がないね。これはおかしいな」

 康造は、葉書を眺めながら頻りにおかしい、おかしいと繰り返して呟いた。

 都築は葉書を持って自室に引き返した。須黒にも、康造にも見せたが、やはりこれが一体何なのか埒(らち)が明かなかった。都築はその葉書を、また座卓の自分から一番遠い所に置いた。当面、この葉書の扱いは保留しておくことに決めたのだった。一体誰が、何のためにこんなものを書いたのかは一向に分からない。分からないものに一々係かかずらいになっていることぐらい馬鹿らしいものもない、と都築は考えたのだった。

 まず気持ちを切り替えようとメールを確認すると、篠生から早速返事が来ていた。


「都築さん

 こんにちは。さっそくのお返事どうもありがとう。

 いま箱根にいるんですね? いいなあ。

 私もいたら邪魔かしら? お仕事の邪魔になるかしら。

 もし良かったら、私も箱根に行きたいです。

 OKだったら呼んでください。篠生」


 都築は座卓に肘を突いて、爪を噛みながらメールの文面を何度も繰り返して読み直した。今ひとつ分からなかった篠生の意図が、少しずつ見えて来たような気がした。都築はあゆ子のことを思った。

(「あたし、気分が沈んで仕方のない時は、うまく時間を作って中央線に乗るんだ。八王子の先までずうっと乗ってくの。一回、外の風景に見惚れて、猿橋まで行っちゃったこともあるんだよ」)

 今はあゆ子に対しては怒りも収まり掛けている。が、だからと言って気軽にメールを出したり電話が出来るかと言うと、それは別の話だった。都築はあゆ子と篠生とを比べて見ようと考えた。が、この二人を天秤てんびんに掛けようとしても、そもそも都築の気持ちの中ではこの二人は同じ次元にいないので、比較のし様がないのだった。

 都築は取り敢えず「返信」のボタンを押して、返信メールの作成画面を出したが、頭の中が中々整理できず、都築は相変わらず爪を噛みながら画面を睨んでいた。

 どうしようか、と都築は十分ほど考えた。その挙句、篠生には来いと言っても良いだろう、と結論を出した。天衣無縫てんいむほうな性格の篠生だから、お互い気分転換が図れるかも知れない。

「済みません」

 都築は自室を出て母屋へ向かい、裏口から声を掛けた。すぐに菜穂子の「はあい」という元気の良い返事が聞こえて、間もなく本人も姿を現した。

「どうかなさいましたか?」

「いや、実は知り合いがここへ来たいと言っていまして、呼んでもいいかどうかお伺いに上がったんですけど」

「お友だちですか?」

「ええ、まあ。そんな所です」

「ああ、それならいいと思いますよ。父にはあたしから話しておきますから。いつからですか?」

「まだ分かりませんが、二、三日中には来ると思います」

「そうですか。それじゃあ、日程が決まりましたらまた声を掛けて下さい」

 都築も拍子抜けする程の簡単さで話は済んでしまった。都築が部屋に戻ろうとすると、菜穂子が「ちょっと済みません」と袖を引いた。

「何ですか?」

「それが…、兄のことなんですけど」

「須黒くんがどうかしましたか?」

「ええ。ちょっと気になることがあるもので…。こちらへいらして頂けますか?」

 菜穂子は口に指を当てて、静かに、というサインを送って、都築の先に立ってキッチンを出てしまったので、都築も渋々後を追った。

 菜穂子は薄暗い廊下を摺り足で過ぎ、やはり足音を忍ばせて階段を上り、二階に向かった。二階の廊下は狭く、左右に一つずつ部屋があるだけで、納戸で行き止まりになっていた。都築は一応旅客の積りで柏屋に来ているので、経営者の自宅に直接上がり込むのは気が引けて、五歩程後から菜穂子を追って行った。菜穂子は一番奥の納戸の前で立ち止まり、遅れがちな都築を待って納戸の戸を開けた。そして手招きして、

「こっちです。中をご覧下さい」

 と小声で言い、先に立って納戸に入った。都築が真っ暗な納戸に入ると、菜穂子は戸の脇にあるスイッチをひねって灯りを点けた。裸の白熱電球に照らし出された室内の様子を見て、思わず都築はひゅっと息を呑んだ。

 納戸の右側と左側の壁には簡単な棚が二段ずつ吊ってあり、その間の空間には使われなくなったアップライトのピアノや箪笥が無造作に埃を被っている。そして、側面の棚の上と言わずピアノや長持の上と言わず、部屋の中は無数の木彫りの彫刻で占められていた。大きさには大小の差が多少あったが、それは全て同じモチーフを形にしたものだった。それはどれも、丁度成人男性のものとおぼしき左手の握り拳を彫ったものだったのである。数にして、合計すれば二百は下るまい。

 都築は、何を言ってもその場に相応しい言葉になりそうにはなかったので、黙ったまま暫くそれらの彫刻を眺めていたが、やがて菜穂子に向いて、

「これは」

 と短く尋ねた。菜穂子は、都築も分かっていると言わんばかりに軽く頷いて、

「全部、兄が彫ったものなんです」

「お兄さんが? 須黒くんがこれを全部彫ったんですか?」

「そうなんです。仕事を辞めてこっちに帰って来てから、部屋にこもってはこんなものばかり作っているんです。兄はちょっと変です。あたしが言っても、何も聞きませんし。都築さんはどう思われます?」

 都築はそう聞かれても返す言葉がなかった。沈黙を誤魔化ごまかすように、都築は手近の彫刻を一つ手に取って仔細しさいに改めた。一見した所では、どうやらのみを使って大体の形に成形した後で、彫刻刀のようなものを使って彫り出したらしい。素人の仕事なので出来は粗いが、爪の形状や金星丘きんせいきゅうの隆起まで丹念に表現されている。

「これは、単なる暇つぶしに作ったものとは思えないですね。どれも随分熱意が籠もっている」

 都築は自然に口から出た感想を述べた。

「そうなんです」と菜穂子も応じた。「これ、大抵は自分の部屋で彫っているんですけど、あたしが入って行くとすごく嫌な顔をするんです。用が済んだらさっさと出て行け、って感じで」

「そりゃあ、真剣に作っているのならそうも言いたくなるものですよ」

「兄さんは、こんなものを作って一体どうする積もりなのかしら」

菜穂子は、古びたピアノの上に置いてあった小ぶりな彫刻を一つ摘まんで取り、気味の悪いものにでも触れるように顔を顰めてそれを眺めた。都築は最前から気になっていたことを尋ねた。

「ところで、こんなものをぼくに見せて、どうする積もりなんですか?」

「ええ。兄の様子が最近少しおかしいので、何かご意見でも頂けないかと思ったんですけど…」

「それは残念でしたね」都築はちょっと笑った。「生憎あいにく、ぼくはその辺の専門家ではありませんので、月並みなことしか言えませんよ」

「それでもいいんです」と菜穂子は食い下がった。「兄を見ていて、どう思われます?」

「そうですね」都築は少し考えた。「昨日も夕食後、ぼくの部屋でお話しましたが…。確かに少々神経が疲れ気味なのかなとは思いますが、取り立てて問題にするようなところはないんじゃないですか? 落ち着いてものも考えられるみたいですし」

「だけど、あたしは兄を見ていてちょっと不安なんです。普段口数も多くない方だから、何を考えているかも分からないし…」

「昨日の夜は、別におかしな所はなかったですよ」

「でも、付き合ってる人たちも普通の人じゃないんですよ。都築さん、いつ頃までこちらにおられます?」

「いや、その予定は立てていないんです。一週間いるかも知れないし、十日くらい置いていただくかも知れません」

「それじゃあ、その間、兄のことを見ていて下さいますか?」

「いいですよ」都築は二つ返事で請合うけあった。「何か気付いたことがあったら、その都度つどお知らせしましょう」

「お願いします。あと、兄には内密にお願いしますね。新しいお客様の件は、父に取り次いでおきますので」

 菜穂子はにっこりと笑みを浮かべて見せた。人懐っこい笑窪えくぼがくっきりと浮かび上がる。

「ええ、よろしく」

 菜穂子は納戸を出て灯りを消した。都築はまた菜穂子の後に付いて階下に下り、母屋を出て自室に戻った。歩きかたがた、都築はこれまでに見た須黒の様子を思い返してみたのだが、これと言って格別変わった点は見受けられなかった。自分の左手をモチーフにして幾つも彫刻を彫るというのは些か偏執狂へんしゅうきょう的と言えなくもなさそうだったが、まだ常軌を逸した段階とは言えなさそうだ。菜穂子は何を気にしているのだろう? もっとも、そういう人間と四六時中顔を突き合わせて暮らすというのは、確かに余り気分の良いものではないのかも知れない。都築はゆっくりと首を振って梯を上った。

 部屋に戻ると、都築は携帯電話を取り出した。早速、メモリに登録してある篠生の番号に電話を掛けたのだが、都築が驚いたことには、「この番号は、ただ今使われておりません。…」という例のメッセージが繰り返し流れるだけだった。何故都築が驚いたかと言えば、篠生は頻繁に携帯電話を替えるようなタイプの人間ではなかったからだ。それに、篠生から来たメールにも携帯電話に関することは一切触れていなかった。

 都築は仕方なしにスリープ・モードに入っていたノートPCを起こした。


「篠生様

 メールの用件は了解しました。

 もしこちらへいらっしゃりたいのであれば、好きな時においで下さい。

 ぼくが今泊まっているのは、小涌谷にある柏屋という温泉旅館です。ぼくの友人の、お父さんが経営しているので、ぼくは気心が知れています。

 現在改装中のために休業している旅館ですが、幾らかは包んできて下さい。

 駅に着いたら、ぼくの携帯電話まで連絡を下さい。

 それではお待ちしています。

                                   都築」


(「あたしは、明くんが他の女の人と一緒にいても、別にこだわらないよ。変に嫉妬なんかする方がずっと見苦しいもんね。その代わり、あたしが知らない男の人と一緒にいても、勘繰ったりしないでね」)

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