D.

 都築が目を覚ますと、眩しいだけで暖かみには乏しい冬の陽光が部屋の中に一杯に入っていた。都築は夢を見た痕跡も心中に感じられず、ぐっすり眠った後の充足感を久々に満喫した。枕が変わると寝付きが悪い性分だったが、多分適度に柔らかな寝具のお陰だろう、と都築は思い、睡眠薬がまだ少し残る気怠さの中で大きく伸びをした。時計を見ると、九時を少し回っている。

 何とか布団から這い出して、習慣のようにノートPCの電源を入れ、メールを確認すると(鏑木あゆ子からのメールは入っていなかった)、意外なことに篠生からメールが入っていた。暫く前に篠生とはメール・アドレスを交換していたが、都築から積極的にメールを出すことはなかったし、篠生からもこれまで一通も来ていなかった。篠生との付き合いは、あくまでも音楽を媒介としたもので、個人的に通信をやり取りするようなものではなかった。少なくとも都築はそう認識していた。


「都築さん

 篠生です。先日は公演に来てくださってどうもアリガトウ。とても嬉しかった。

 最近、実はちょっと落ち込み気味です。ちょっと声の調子がおかしいというのもあるし、バンドの中がガタガタしているというのもあります。

 もし良かったら、一回お会いできませんか? いろいろとお話もうかがいたいですし、一回時間を取ってもらえたらとても嬉しいです。

 お返事、首を長くしてお待ちしています。篠生」


 都築はメールを読んで困惑した。篠生の意図がどこにあるのか、全く見当が付き兼ねたからである。キーボードの端をこつこつと爪の先で叩いて、都築は思案したが、結局一応の返信は出すことにした。こういう場合は、頭の中で文面を考えるより、先に手を動かした方が早いことを知っている。


「篠生様

 メールどうもありがとう。読みました。

 ぼくに会いたいとのことですが、ぼくは今東京にはいません。少々体調を崩していまして、箱根の山の中に一人で静養に来ています。

 会いたいというのは、具体的にはどういう用件でしょうか。

 お返事お待ちしています。

                                   都築」


一回読み直した後で、取り敢えずそのまま送信し、一息吐いて茶碗に白湯を注いで啜っていると、階下から菜穂子らしき足音が上ってきた。

「都築さん、お早うございます。お目覚めですか?」

 うう、ともはい、とも付かない声で返事をすると、襖障子がするすると開けられて、盆を抱えた菜穂子が入ってきた。

「申し訳ありませんね、普段はお客様を起こしたりしないんですけど、余り都築さんがごゆっくりなので、うちの者は皆朝を済ませてしまったんです。こちらにお運びいたしましたので、召し上がって下さい」

 とにこやかに言って、座卓の上に飯櫃めしびつや汁碗、茶碗や干物の乗った皿を手際良く並べ始めた。そして手ずから飯櫃から飯を盛って都築に給仕した。

「ああ、これは済みませんね。どうもありがとう」

 都築は丁寧に礼を言って箸を取った。菜穂子は座を立つかと思われたが、そのまま都築の傍に座っている。都築は人の前で飯を食うのは別に苦痛な方ではなかったが、菜穂子は都築の間近に、膝を寄せるように座って、箸の上げ下ろしをじっと見守っているように思われ、何となく座った膝の下がこそばゆい。が、構わず都築は食事をした。出し巻き卵は旨かった。普段都築などの口にしている物など足元にも及ばない程に脂の乗った鯵の干物も美味だった。

「菜穂子さん。これ、きみが全部拵えたの?」

 と思わず都築は菜穂子に問うた。菜穂子は幾分俯き加減に、

「はい。お口に合いますでしょうか?」

 と柔らかな口調で尋ねた。

「うん。この干物、おいしいね。卵焼きもよく出来てる。うちのおふくろのなんかよりずっといい出来だよ。柏屋には板前さんはもういらないんじゃない?」

 と冗談めかして褒めると、菜穂子は、

「ああ、ありがとうございます。嬉しいな。干物は小田原の港で上がるので、新鮮なんですよ」

 とはにかみを含んだような声で言った。都築は味噌汁を啜り、ここで漬けたらしい沢庵を齧った。

「都築さんて、作家…でいらっしゃるんですよね?」

 菜穂子はおずおずと尋ねた。

「そうです。一応、小説家です」

「じゃあ、けっこう本とか出されているんですか?」

「まだ短編集を二冊しか出版していませんよ」

「ふうん。でも素敵だな。あたしなんか、頭悪いから、本読んでると頭が痛くなってくるんです」

 菜穂子のことを知らない都築は返答に窮したが、言葉の先に食後の茶を飲んだ。ここで朝の分の薬を出そうかと思ったが、菜穂子が立ち去るまで待つことにした。

「そりゃあ、人によって向き不向きがありますからね。ぼくもコンピュータのプログラミングは無理でした」

「でも、知性的でなきゃ本は読めないでしょ? あたしは目の前にあるものしか分からないから。うちの兄も、書庫を作っちゃうくらい本が好きなんですけど、――あれはちょっとおかしいんです。変人ですよ」

「おかしい? まあ、いい趣向をお持ちだとは思いますけど、須黒くんは変ですか?」

「ええ、まあ、いろいろと。付き合う人も変わった人が多いし」菜穂子は曖昧な調子で言葉を切ると、「じゃあ、またお運びしますので」

 と言って空いた食器を盆に載せ、出て行った。

 都築は食後、精神安定剤のせいか、また眠気が差して来たので、敷き放しにしてある布団に転がって本を読み始めた。部屋は日当たりが良く、寝ていても十分に落ち着けて気分が良い。が、その儘寝込みそうになってしまって、都築は慌てて飛び起きた。仕事をしなければならなかった。少なくともその積もりで、嵩張る上に重たいラップトップPCを運んで来たのだ。都築は書き掛けになっている小説のファイルの一つを開いた。それは短編小説だった。男と女について書こうとした作品だったが、今後の展開が全く決まっていないものだった。都築はまとめ上げるために散々腐心ふしんしていたが、途中から一向に捗らなくなっていたのだ。題はまだ決まっていないが、「へび」という仮称は付けていた。何となく、「女」と言うと「へび」が連想されたのだ。


『 まず最初に言って置きたいのですが、ぼくがこれからお話することは、全てぼくの目の前で実際に起こったことなのです、と三番目の男は言った。男は濃い緑色の冬物のジャケットを着、その下に黒いタートルネックのセーターを身に着けていて、下はベージュのチノパンツを穿いていた。その男はどこから来たのか、何をやっているのか、その場に居合わせた数人の人間の内には知る者がなかったが、それは皆お互いに同じことだった。つまり、その日ここに集まった者は、皆他人同士だったのである。一同は寂れた晩秋の避暑地に集い、別荘の広めの居間に車座になって顔を突き合わせていた。

 起こったことには二種類あります。つまり、主観的なものと、客観的なものとがある訳です。ぼくが今日お話することがどちらなのかは、皆さんの判断にお任せします。が、これだけは伝えたいのです。ぼくは、ぼくの肉体と魂とは、確かにそのような経験をしたのだと。その経験がぼくの骨身に染み込んで、それで現在のぼくという人間ができているのだと。

 男はそこで一旦口を噤んだ。その場には沈黙が流れたが、誰も言葉を口にする者はなかった。外では一日中降り続いた雨が何時の間にか止んでいて、さやさやと微かな風の音がするばかりだ。山深いこの場所には都会の喧騒はなく、男が黙り込んでしまうとお互いの吐息まで聞こえる程だった。時刻はそろそろ夕暮れが訪れる頃で、窓からは紗のカーテンを透かして煉瓦色の寂しげな光が差し込んでいた。男はたっぷり三分間も黙っていただろうか。その間、室内にはただ静かに風の音だけが漂い、一同は身動ぎもせずに男の次の言葉を待った。

 その頃、ぼくは御茶ノ水にある大学に通っていました、と、男はっと言葉を継いだ。男のぼそぼそした声は、室内の乾いた空気の中にすぐに溶け込み、消えて行った。男はちょっとグラスの水を口にして、更に言葉を続けた。ただ、当時は所謂学生運動の盛んだった時期で、ぼくは身分上こそ学生とは言いながら、講義など行われないのを良いことに、滅多に学校にも顔を出さず、毎日中野のアパートにぶらぶらしていて、実質はふうてんと変わりのないような生活を送っていました。

そうです、ぼくは典型的なノンポリ学生だったのです。ぼくは、ぼくの蛸壷のように狭苦しい生活が取り敢えず平穏に過ごせて、ごく個人的な、ささやかな幸福さえ得られればそれで満足でした。学内にはトロ字の看板が溢れていましたが、大学のシステムとか政治とか、そういう大きなことを考えるのには、そもそも資質として自分が適していないことはよく分かっていましたし、また関心もありませんでした。

 ぼくは、その頃、同級生の男から殴られたことがあります。ぼくは文学部の心理学科に在籍していたのですが、ちょうどアルバイトの申し込みに必要な在籍証明書か何かを取りに、珍しく学校に顔を出した時に、その男がヘルメットをかぶってビラ配りをしている所に行き合ったのです。ぼくは以前、その男、仮にMとしておきますが、そのMとは少しばかり親しくしていた時期がありました。ぼくは高校時代、タキトゥスの「ゲルマーニア」やスエトニウスの「ローマ皇帝伝」などを好んで読むような生徒だったのですが、入学式の直後に行われた新入生向けオリエンテーションで席が隣同士になった関係で少し話をしたMもマルクス・アウレーリウスの「自省録」が好きだと聞いて、そんなところから同じ講義を取ったり、本を貸し借りする仲になりました。しかし、そのMは、学生運動に積極的に身を投じるだけあって、若さも手伝ったのか、性格的には少々ラディカルな所が散見され、ぼくはそれに閉口して、少しずつ距離を取るようになりました。「自省録」が好きだという点からして変わっていますが、Mが好んで読んだ本の中には、「きけわだつみの声」もありました。要するに、Mはストイックさを追究するという点を以って人生の美学としていたのでしょう。実際、Mは空手の道場に熱心に通っていて初段なのだと公言していました。

「よう、○○、久しぶりだな」とMは声をかけて来ました。「今夜、どこそこで集会があるんだが、お前も来ないか」

 ぼくはやんわりと断りました。ぼくは、そのような集会にはかつて一度だけ足を運んだことがありますが、そうした会場に漂っている、汗の混じった熱気を吸い込むと、まるで自分の中にまで遠慮なしに、ぴりぴりした電気を帯びた「思想」が侵入して来るような気がして嫌気が差したので、それ以降は一度たりとも行ったことはありませんでした。

「なんだ、おれたちが今夜開く集会は、今後の学校運営を考える上で重要なテーマを扱うんだぞ。時間があるんだったら来いよ」

 Mはしつこくぼくを誘いました。以前から、Mはぼくにそうした集会への参加を強く勧めて来ることが度々あったので、ぼくは一回はっきり言って置こうと思い、自分は学校の運営にも、政治にも関心がない旨をMに告げました。するとMは、一転して怒気どきをはらんだ声で、

「お前はここの学生なのに、この大学がどうなってもいいのか。お前は日本人なのに、この国がどうなってもいいのか。お前は以前からへなへなした奴だと思っていたが、そこまで根性がないとは思わなかった。お前に、生き方という奴を教えてやる。ちょっとこっちへ来い」

 そうぼくを詰ると、ぼくの腕をぐいっとつかんで引っぱろうとします。ぼくはそれに抗ったので、丁度二人で揉み合うような格好になりました。Mの力は強いので、ぼくはそちらへ引かれそうになるのですが、何とかMの手を引き離そうとして、ぼくの手には思わず力がこもりました。結果的に、ぼくはMを半ば突き飛ばしたような形になってしまい、反射的にぼくの心中には後悔の念が生じました。ぼくはMに向かって、済まない、と言おうとしたのですが、その時、ぼくが口を開くその前に、Mの拳が飛んで来ました。Mのパンチはぼくの左頬に炸裂しました。一瞬ぼくの目の前で星が弾けました。ぼくはあっという間もなく体勢を崩して尻餅を突きました。実際はその場で倒れただけでしたが、三メートルも吹っ飛ばされたような気がしました。それからぼくは、痛みと怒りでぜになった心を抱え、緩慢かんまんな動作で立ち上がりました。構内を行き交う人々の、好奇心に満ちた視線がぼくに向けられているのが分かりました。Mはもう何も言わず、ぼくに背を向けてビラ配りを再開しています。ぼくはその時、何故だか分かりませんが、不意にMに対して羨望と執着が生じるのが分かりました。Mは日々、こうしてビラ配りをしたり集会に出たりして、その日を充実させて生きている。それに引き換え、ぼくは毎日を無為に過ごしているだけなのでした。ぼくは急に、Mとの間に測り知れないほどの距離が生じていることを感じ、それを直ちに埋めたいという気持ちが芽生えたのでした。ぼくはMに追いすがろうとしました。しかし、ぼくは同時に、どんなに努力してもその溝は埋められないのだ、ということにも気付いており、結局もう一度Mに近付くことはぼくには出来ませんでした。

 ぼくはその日、そのまま抜け殻のような気分で自分のアパートへ帰りました。鏡で見ると、左頬は見るからに腫れていて、それはぼくに、その日起こったことを訴えかけて来るようでした。ぼくはつくづく、自分という存在に対して愛想を尽かしかけていました。つまり、うまくは言えないのですが、核としてイデオロギーを持ったMという存在はとにかく強烈で、生き生きとしていて、ふらふらと生きているぼくよりもずっと正しい生き方をしているように思えたのです。ぼくは、出来ることなら自分もMのように生きてみたいと考えました。しかし、それが無理であるということもぼくには痛いほど分かっていました。ぼくとMとは生き方が違うのだ、とぼくは自分に言い聞かせました。しかし、それでも心の一部には納得できない部分が残ります。その部分は、ぼくに対して、お前も思想を中核に持って生きよ、と盛んにせつきます。言葉を芯に抱いて生きることの強さを感じたのは、その時が初めてでした。ですが、優柔不断なぼくは、その心の一部の疼きを抱えたまま、以前の通りの軟弱な暮らしを送っていました。

当時ぼくは、高校生の女の子二人の家庭教師のアルバイトを続けながら、好きなレコードを買い、気が向いたらジャズ・バーやロック喫茶に顔を出すような生活をしていました。ぼくはあまり人付き合いに熱心な方ではありませんでしたから、大学に行かなくなってしまうと友だちとのつながりはほとんどなくなりました。ぼくの実家は、幸い楽な暮らし向きでしたから、仕送りは十分にありました。言わばぼくは、学生生活というモラトリアムの中に暮らす高等こうとう遊民ゆうみんのような存在だったのです。ぼくは毎日を根のない浮き草のように暮らし、好きな本を読んだり、レコードを聞いたりして時間を過ごしていました。そういう生活態度をじっくり振り返ることもなく、春の日溜まりのような、心地よく生温い温もりの中で、ただのんべんだらりと生きていたのです。

 言ってみればぼくは、分類するのがむずかしい、非常に中途半端な時間を持っていたのです。ぼくの周りでその時間はしばし前進をやめてしまったかのように淀み、ひと所で小さな渦を描き、ぼくもそれに従って、いささかゆっくりしすぎの感もある時間の中で淀んでいました。自分の存在している時間に名前が付けられないというのは、何と心細い、頼りないものでしょう。』

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