C.

 風呂から上がると、都築は多少さっぱりした気分になって部屋へ戻った。早速ラップトップを起動して、仕事のファイルを開く。場所が違えば少しは気分も変わってくれるだろうか、と一縷いちるの期待を掛けていたのだが、それは見事に裏切られた。一時間画面を睨んでいても、白紙に入力すべき文字は一字も思い浮かばなかった。小さな画面を眺めていると、自分の才のなさが余計に惨めに思われて来る。そうやって画面の前で呻吟しんぎんしていると、ややあってから廊下に足音がした。ぱたぱたという軽い音である。その音が襖の前で止み、「失礼します」と菜穂子の声がした。

「都築さん、お待たせしました。お食事の用意ができましたので、こちらへどうぞ」

 菜穂子の後を付いて行くと、菜穂子は旅館の裏の方へ回り、人のいないがらんとした板場を抜けて行く。

「今は板前さんも実家に帰っちゃって、いないんです。家の食事はあたしが作っているので、申し訳ないんですけどお食事は一緒にお願いしますね」

 都築は菜穂子が用意したスリッパを突っ掛けて、裏口から旅館を出た。湯上りの身体には冬の外気は冷たかった。裏口を出ると、母屋はすぐの所に建っている。菜穂子は右へ回り込んで、母屋の玄関へ都築を導いた。表札には「須黒康造」とある。都築は菜穂子の後に付いて玄関の敷居を跨いだ。

 玄関からは、暗い廊下の奥に明るく光の漏れる部屋が見え、そこが食堂になっていた。須黒も、須黒と菜穂子の父にして表札の主らしき老人も席に着いている。都築は老人に挨拶して、菜穂子の向かい、須黒の隣に腰を下ろした。

「あんまり見栄えのしない献立なんですけど」

と菜穂子は都築の湯飲み茶碗に焙じ茶を注ぎながら言った。

「だけど、この虹鱒ニジマスは芦ノ湖産ですよ」とは康造。「小田原の梅干もある。どうぞご遠慮なくやって下さい」

 康造も、都築の小説は読んだと言う。都築は、その賛辞に対して、無愛想に、

「それはどうも」

 と口籠っただけだったが、内心はかなり嬉しかったのである。

「あのう、〝晩餐ばんさん〟は結末が良かったですよ。あの二人は離婚しても仕方がないね。ぴりっとした感じの最後でした。あの話が気に入ったな、わたしは」

 四人の中では、康造が一番饒舌であった。都築は、康造に勧められるまま、ビールをグラスに三、四杯も飲んで、酔いで幾分顔が火照って来た。そこで康造が地酒を持ち出した。須黒も、都築と差しつ差されつして酒を飲みながら黙々と箸を運んでいたが、

「菜穂子、お前はこの間渡した本を読んだか? あれ、都築が書いたんだぞ」

 とふと妹に向かって問うた。菜穂子はきょとんとした目で、

「ううん。まだ読んでない。ちゃんとお部屋に置いてあるよ」

 と無邪気に答えて、梅干を一つ茶に落とした。須黒は、猪口を口元に運びながら、

「だからお前はだめなんだよ。おれが幾ら勧めても、こいつは手に取ろうともしない。まったく、短大生のくせに本嫌いだなんて仕様もないやつだ」

「好きじゃないものは好きじゃないんだもの。仕方ないじゃない」

 と言われた本人はけろりとしている。

「まあ、この旅館の経営は、次の代は菜穂子にやって貰うようだな。客あしらいは岳彦よりずっとうまいからな」

 と取り成すように康造は言う。

「それはそうだけど、目端が利けばいいけどね。その辺は分からないよな」

「あたしだって、お客様の応対はできるし、お部屋の中のことだって面倒は見られるんですからね」

 あの梅は、菜穂子が活けたものだろうか、と都築は思ったが、言葉は口にしなかった。

「そういうことを言ってるんじゃないよ。経営の才覚があるかどうかは分からない、ってことさ」

「おれの目の黒い内に、帳場のことはみっちり仕込むさ」

 と康造が須黒を宥めるように言った。

 都築は気になっていたことを尋ねた。

「ところで、この旅館をこれから直すんですか? いい建物ですのに、勿体ないですね」

「なに、建物を全部取り替えるわけじゃないんですよ。大正の地震の後の建築なんですが、さすがに耐震性の点で不安がありますもので、基礎の打ち増しをしたり、筋交いを入れたり、鉄骨を入れたり、できる範囲でいじることにしているんですよ。これから作事さくじなんです」

「そうですか。そんな由緒ある旅館に滞在できるなんて、こんないい話はないですね」

 都築は珍しく世辞を口にした。

「いやあ、私もこの旅館を預かるようになって大分になるのですが、私の性格ではうまくお客様に応対が出来ませんでね…。

 女房の春子がいてくれた頃はまだ華やかだったんですが、あれを亡くしてから、気が付くとそれ迄の常連さんの顔が見えなくなっていましてね…。私はどうも気が利きませんから。この旅館も歴史だけは長いのですがねぇ…。ご先祖に顔向け出来ませんよ」

やがて、食事も大体済み、菜穂子は大粒の梅干を小皿に取って、砂糖を塗して都築に給仕した。

「都築さんはお身体のお加減がお悪いとのことですけれども、この機会にゆっくり温泉に浸かって治されたらいいでしょう。この旅館にも色々お客様はありましたが、小説家の方がお泊りになるのは初めてですよ。こちらこそ、お世話できて光栄の至りです」

 康造はぼそぼそと言った。

「都築さん、どこかお悪いんですか?」

 と菜穂子は食卓の上を片付けながら、無遠慮な気安さで尋ねた。それを見た須黒が、

「こら、菜穂子。でしゃばったことを言うんじゃない」

 とたしなめた。

 都築は会話が一段落付いたのを潮に、

「大分遅いですから、そろそろ、部屋へ引き揚げます」

 と言って席を立った。酔いの回った足元が危うかった。宿の部屋で、ラップトップを前に三十分ほど本を読んでいると、廊下に須黒の足音がした。

「やあ。邪魔していいかい?」

 と言って、都築が返事をする前にずかずかと上がり込んで来た。そして、都築の向かいにどっかと腰を下ろして、茶を淹れた。都築の見た所では、須黒も少々酔っているらしい。

 都築は緊張を和らげたい時に飲む頓服薬を一錠飲み、トランクのポケットから煙草を取り出して吹かした。都築はヘヴィ・スモーカーという訳ではないが、煙草も緊張を和らげたい時に使う「小道具」の一つだった。

 二人は暫し沈黙したまま対座していたが、やがて須黒が口を開いた。

「最近は、体調はどうなんだ?」

「実のところ、余り思わしくないんだ。よく眠れないし、寝付いても良くない夢ばかり見る」都築は独白するように言葉を口から出した。「創作の方も実はちょっとスランプ気味なんだ。行き詰ってる。そうなると神経質になっちゃってね、まずいよ」

 都築は爪の先でコツコツとテーブルを叩きながら喋り、自嘲するように口元を歪めて見せた。

「そりゃ、まず何も考えないでゆっくりすることだ。不調は誰にだってあるんだし。あの文藝会の中じゃあ、ぼくの知るかぎり、一番書けていたのはきみだしね。やって行ける力はあるんだよ。だからいい版元から本が出るんじゃないか。この旅館は、今は幸い人がいないから、好きなだけのんびりして行くといいよ。この辺りを散策したいのなら案内もするし」

 須黒は、取っ付きは悪いのだが、心を開いた相手には心尽くしの配慮が出来る。都築は須黒の言葉を聞きながら、「In vino veritas.」というエラスムスの言葉を思い出していた。

「それはありがたいな」と都築は衷心ちゅうしんから言った。「恩に着るよ。最近あれこれとあって、神経がささくれ立っていてね。かなり参ってるんだ」

「へえ、あれこれねえ」

 そう言われて、酔いも手伝い、都築はうっかりあゆ子とのことを須黒に漏らしてしまった。須黒は好奇心の欠片も見えない、中立的な目をして話を聞いていた。都築の話が終わると、

「普通とは逆だな」とだけ言った。

「逆?」

 須黒は首肯しゅこうした。

「普通なら、男の方が無神経なことを言って、女が傷つく」

「それはそうだな。――ぼくは、あゆ子のことをどうしようか、まだ決心が付かないんだ」

「それはつまり、別れるか別れないか、ということか?」

「うむ」

「今回は相当怒っているみたいだな」

「それもある。それと、とても傷ついてるね」

「でも、未練は残っているんだろ?」

「ああ。だから迷ってるんだ」

「なるほどね。そういう問題は、目鼻が付くまで寝かせておくしかないんじゃないのか?」

「それはそうかも知れない。でも、ともすると気持ちはそっちの方に行ってしまうんだ」

「今はまだ冷静に判断することができないんだろう。考えてしまうのは仕方がないと思うけど、暫くできるだけそっとしておくしかないんじゃないかな。傷の痛みはあるだろうが」

 都築は男の癖に友人に――しかも一年ぶりに再会した男に――恋愛相談などを持ち掛けていたことに気が付き、急に恥ずかしくなって、話頭を転じることにした。

「きみも、身体をこわしたとか言っていたけど、どこが悪いんだい?」

 須黒は顎の下を掻いて少し黙った。

「そうだね、特にこれと言ってどこそこが悪い、ということはないんだが…医者に言わせると、神経症だと言われたよ」

 やれやれ、この男もか、と都築は思う。類は友を呼ぶとか、そのたぐいかな?

「そうか。薬は何か貰っているのかい?」

「睡眠薬と、よっぽど調子が悪い時に飲むトランキライザー程度だよ。山を下りて、小田原まで出なきゃならないので通院は面倒だね」

「そうだなあ。でも、薬はあった方が楽だろう?」

「それがそうでもないんだな」須黒はうんざりしたような表情を浮かべた。「おれは、薬は嫌いだよ。こういう、精神に作用する薬っていうのは、結局人間の中枢に作用するわけだから、どれもきついだろう。開発されてからまだ一世紀も経たないしね、第一肝臓に悪いし、年を取ってからどういう副作用が出るか分からん。それが怖いよ」

「それは、確かに言えてるな」

 普段は何も考えず薬に頼りがちな都築も、須黒の言葉に同意した。

「それに、どのみちおれの病気は、〝死に至る病〟なんだから。諦めもつくってものさ」

「何だそれは? キェルケゴール?」

 須黒は頷いた。

「つまり、絶望なんだ」

「何に絶望したんだ?」

「言うまでもないだろう。おれ含めた、人間全体にさ」

 都築は笑った。

「バカだなあ、おれ達はまだ二十三だぜ。絶望するには早すぎるよ」

「だが、希望を持つにもちょっと遅すぎるんじゃないか、と思う」

「どうしてそんな風に思うんだい?」

「大学にいた頃」と須黒は目を細めて遠くを見るような目付きで答えた。「教会に通っていたことがあるんだ」

「へえ。きみがね」都築は信仰には関心がない。「――そう言えばきみは、ヤコブ・ベーメとかスウェデンボルグとか錬金術が好きだったな。その辺が動機かい?」

 都築も神秘主義関連の本はひと通り読み、また集めてもいたが、それはあくまでも一種の「教養」としてのことだった。

「いや。その時は純粋に信仰を求めたんだ。だが、結局通い切れなかった…。それには色々事情もあってのことなんだが…。司祭に最後に言われた言葉を今でも思い出すよ。〝あなたは多くを求めすぎる。それがつまずきの元になっているのではないか〟ってね。つまりぼくは、絶望とか何とか、それ以前の存在なんだよ」

 都築は黙っていた。須黒は暫く下を向いていたが、やがて、

「どうも、今夜はつい過ごしたみたいだな。――そろそろ戻るよ。邪魔したな。ゆっくり休んでくれ」

 とやや寂しげに言い置き、頭を振りながら部屋を出て行った。梯を下って行くみし、みし、という響きが遠ざかるのを確かめてから、都築は自分で布団を敷いた。時計を見ると十一時前だった。須黒は一時間以上もこの部屋で話したことになる。空調は利いていたが、箱根の山の中だと思うと一層底冷えがするように思えて、都築はぶるっと身震いし、もう一回温泉に浸かることにした。

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