B.

 神経衰弱であろうと、創作活動が完全な不振にあろうと、都築は仕事のファイルをほぼ毎日のように開く。そして、ワード・プロセッサを起動して、日がな一日白紙を目の前にして過ごす。それは都築にとっては耐え難い苦行であり、耐え兼ねた都築は、たまさか一層いっそのこと、ここ一年間は特に疎かになり勝ちだった研究にもう一度身を入れて取り組み、行く行くは博士課程にまで進もうか、とさえ考える程だった。しかし、研究に不熱心だったため教授陣の受けはすこぶる悪く、良い選択肢とは思えなかった。

 軽い睡眠導入剤を服用しているためか、最近の都築は朝が遅い。八時半に合わせた目覚まし時計では起きられずに、九時半過ぎに目を覚まし、簡単に朝食を済ませる。その後で自室に入ってPCを立ち上げ、いつものように一言半句も書けずに夕方まで過ごす。書き掛けた文章はそのまま残しておくのだが、それが触媒になって何か新しい構想が浮かぶかと言えば、そうしたことは全くないのだった。

 十一時前、都築は一つ大きな溜め息を吐くと、茶を淹れるために席を立った。

 ドリッパーから落ちるコーヒーを眺めている時、都築はふと、本の内容を下敷きにして書いて見るのはどうか、と思い付いた。それならば芥川でも太宰でもやっていることだ。少々方向転換して見るのも悪くはなかろう。

 コーヒーを部屋に運んだ足で、都築は書庫に向かった。都築には父親がなく、母親との二人暮しの生活には3LDKのマンションは広過ぎる。住居のうちの一室の洋間を、都築は母親の許可を得て書庫に充てていた。都築は「錬金術」か「ケルト」の二つを当てにして幾つかの書棚を漁り、数冊を手にしたが、目当てにしていた一冊が見当たらなかった。「錬金術の鳥」という本である。暫くの間、あちらの本棚、こちらの本箱と鵜の目鷹の目で探したが、やはり見当たらない。仕方なしに都築は自室へ引き返した。

 「錬金術の鳥」は他人に貸したまま戻って来ていない、ということに思い当たったのは、コーヒーを飲みながら資料の本をぱらぱらと抜き読みしていた時のことだった。

 では、誰に貸していたか。都築は机に頬杖を突き、窓から見える空を睨んで暫く考えた。本来余り社交的な方ではなく、人付き合いの範囲が限られている都築なので、思い出すのは難しくない筈だったが、漠然とかなり以前に貸した覚えがあるだけで、中々思い出せなかった。都築は、自身が学部生時代に所属していた、文芸や音楽の二、三のサークルの名簿を出して一人ひとり名前を確かめて行った。

 っと名前が浮かんだのは、「文藝会」の古い名簿を引っ張り出して見返していた時だった。須黒岳彦と言うその名前と共に、都築の脳裏には、無口で、口数の多い学生たちの中に入ると存在感を失ってしまう、痩せた姿が浮かんで来た。都築は、自分同様に人付き合いの悪い須黒に親近感を覚えて、例会などで顔を合わせると必ず須黒の近くに席を占め、何かと話し掛けていたのだが、須黒は一、二回都築の家に遊びに来た程度で、思うように打ち解けずに終わってしまった。都築はそうしたことを懐かしく思い出した。

 そうだ、「錬金術の鳥」は須黒に貸したのだった。

 よく考えると、貸したのは、もう二年も前のことになるようだ。本を貸したことはすっかり忘れていたが、「錬金術の鳥」はよく読んだ本なので、内容はかなり頭に入っている。貸したことに気付かず過ごしていたのはそのせいだった。それでも、今回は図版が見たいと思うので、やはり現物の本があった方が良かった。図書館に行こうかとも思ったが、この手の本は近所の図書館では中々見付からない。大学の図書館ならば所蔵しているだろうと思われたが、今は入学試験シーズンで、学内への出入りには制限がある。

 須黒の名簿を見ると、メール・アドレスが載っており、大学から与えられたものではなく、民間のプロヴァイダのアドレスだったので、都築は試しにそちらへ連絡を取って見ることに決めた。須黒は卒業後、小さな広告会社に就職したはずだった。確か本人がそう言っていたのだ。そうすると、連絡が来るのは少し遅れるかも知れないな、と都築は思った。


「 須黒君

 文藝会で一緒だった都築です。大変お久し振りですが、覚えておいででしょうか。

 実は、きみにお貸ししていた本が急に必要になり、メールを出した次第です。

 本のタイトルは、『錬金術の鳥』といいます。

 申し訳ないが、この本を至急お返しいただけないでしょうか。

 返信をお待ちしております。

 どうかよろしく」


 都築の思惑に反して、その日の夕刻には簡単な返信が届いた。


「 都築君、大変お久し振りです。メールをどうもありがとう。大事な本を長い間借りっぱなしにしていて申し訳ない。きみの作品は雑誌で読んでいます。ぼくの方は、今は勤めをやめて実家に帰っています。東京の近郊というわけではないのですが、良かったら本を取りかたがた一度遊びに来ませんか。実家は今改修工事前なので、他に客は誰もいません。のんびりできると思います」


 都築は、須黒の実家はどこかで温泉旅館を営んでいると聞いていたことを思い出した。相当古い旅館だということだった。もう一度名簿を見て確かめると、須黒の実家は、神奈川県は箱根町小涌谷の「柏屋」となっていた。


「 須黒君

 早速のお返事、読ませて頂きました。

 お誘いありがとう。ぼくの気持ちとしてはぜひ一度お邪魔したいです。

 ただ、少し問題があります。

 実を言うとこの所、少々健康を害していて、体調万全というわけではないのです。

 具体的に書くと、神経衰弱を患っていて、医者に通っています。

 旅行はぼくの一存で決めるわけには行きません。

 主治医と相談してから改めて連絡します」


 精神的な病に罹っているというだけで芸術家としての自分の存在が際立って来るように思えるのはどうしたことだろうか、と都築は思った。その上、最近は知己に会う度に、自分の病院通いの話を持ち出したくて仕方がないのである。ぼくと病気との関係は、昔の文士と結核との関係と同じだな、と都築は内心で自嘲して笑った。

 数日後、都築は医師のもとを訪れた。病気との付き合い方がまだおっかなびっくりでよく分かっていない都築が半ば恐る恐る箱根行きの話を切り出すと、医師はいかにも何でもないように、

「ああいいですね。いいんじゃないですか、ゆっくり骨休めをするのは」

 と欠伸あくびでも噛み殺しているような顔であっさりと許可したのだった。

 母親の良子も、

「お前は友だち付き合いが少ないから、心配していたのよ。お父さんみたいになるんじゃないかって。先生も許してくれるなら、いいじゃないの。ゆっくり行ってらっしゃい。仕事がはかどるといいわね」

 と諸手を挙げて賛成した。

 都築は早速須黒に宛てて書いた。

「…主治医の賛同が得られました。取りあえず、一泊の予定で世話になりたいと思います」

 日を置かず返信があった。

「…それなら、折角なので一週間くらいこちらに逗留するつもりで来たらいかがですか? 親父は快諾してくれました。こちらは親父とぼくの他、妹がいる位なので、気兼ねはいりません。しばらく静養するつもりで、療養も兼ねて骨休めに来たらどうでしょう」

 話は決まった。都築は小型のトランクに荷物を準備した。着替え、身の回りの細々したもの、本を数冊、それと、今回はPDAを持たないことにしたのでノート型PCも入れ、更に須黒の父親に幾許いくばくか謝礼を包み、ポータブルのCDプレーヤーも持った。都築は音質が悪いと難癖をつけてMP3を嫌っていたので、今様の携帯音楽プレーヤーは持っていないのである。

 これだけの荷物を抱えて、都築は二月のある朝に出発した。新宿へ出て、小田急の特急電車で箱根湯本まで行き、登山電車に乗り換えて小涌谷で下車する。平日の昼間のことなので、車内はいずれもごく空いていた。都築は窓際に席を占め、窓枠に面杖つらづえを突いて何ごとにも無関心な風を装って外を眺めて過ごした。その時のことだ。

(「あたし、季節の中では二月が一番好きだな」)というあゆ子の声が聞こえたような気がして、都築は思わずロマンスカーの車内を見回した。(「空気がぴんと張っているでしょ。気持ちが引き締まっていいのよね。一月は気取りすぎてるし、三月は緊張感がないし」)

 しかし、都築は首を振ってその声を打ち消した。全くの空耳だ。

 旅館に着いたのは三時すぎである。

 須黒の実家の柏屋という旅館は、国道一号線から少々引っ込んだ所にあり、余り目立たない代わりに静かで落ち着けそうな宿だった。成る程、建築は明治か大正に遡るらしく、地味に黒ずんだ、古びた木造りの小ぢんまりした二階建ての建築だった。松の木や百日紅の植わった申し訳程度の前庭がある。都築は飛び石を踏んで玄関の前に立ち、そこで暫し逡巡した。須黒らの住居は旅館の裏にあるようだったが、ここで案内を請うか、裏に回るか、都築は遣り戸の前で二、三分空うつけたように佇立ちょりつしていたが、やがて戸が内側からがらりと開いて、若い女がバケツを手にして出て来たのに鉢合わせした。

「あら」

 と女は目を丸くして頓狂な声を上げる。化粧気はないが、目鼻立ちはすっきりしていて、髪は後ろで簡単に束ねている。都築が一揖いちゆうして来意を告げると、

「ああ、都築さんですか。お話は伺っています。どうぞご遠慮なくお上がり下さい」

 と言って都築を中へ通した。がりがまちに腰を掛け、沓脱ぎで靴を脱いで上がると、上はざっくりしたスキー・セーターに、下はジーンズを穿いた女は早速先に立って古びたはしを上る。都築が案内された二階の一番奥の和室は八畳敷きで、床の間に違い棚もあった。床の間には山水画が掛けてあり、都築のためなのか、梅の花も活けてある。近代的なものといえば四ツ足の付いた旧型のカラー・テレビとエアコン、それに電話ぐらいのものだった。取り敢えず都築がマフラーを取ってコートを脱ぎ、座布団を取り座卓に向かって胡坐あぐらをかくと、エアコンを調節していた女は、

「いまお茶をお持ちしますので。少々お待ち下さい」

 と言い残してぱたぱたと廊下を去って行った。

 都築はしんと静まり返った部屋の中で、トランクを開け、中から本やPCを出して卓上に配置した。この部屋の広さならば、卓を片付けなくとも布団を敷くことができる。和風の部屋の中では、ノートPCはひどく不調和なものに見えた。携帯電話を見ると、箱根の山の中でも電波は届くらしい。立ち上がって障子を開けると、ガラス窓がはまっていて、中庭の様子が見える。山茶花や泰山木が植わっていて、小さな池も造ってあった。池の端には宝珠ほうじゅを戴いた石灯籠が立っている。

 と、また軽い足音が戻って来て、「失礼します」と一声掛けてから最前の女が襖障子を開けて入って来た。盆の上にポットと茶道具、それと和菓子を入れた菓子鉢を持って来ていて、女は無言で手早く茶を淹れた。

「どうぞごゆっくり。すぐにご挨拶に参りますので」

 とにこやかに言い残して再び襖を開けて退出して行く。よって、都築は須黒と女の関係を直接知ることはできなかったが、(妹だろうな)と見当を付けた。

 菓子を摘まみ、茶を飲んで待っていると、先ほどとは違う重い足音が近付いて来た。その足音の主は遠慮なく襖をがらりと開けた。須黒だった。

「やあ、いらっしゃい。久しぶりだ」

 と須黒は懐かしい太い地声で久闊きゅうかつじょすると、座布団も敷かず都築の向かいに腰を下ろした。須黒は以前よりもまた少し痩せたようだった。

「ああ、久しぶりだな。卒業以来だから、一年ぶりだね。きみ、会社はどうしたの?」

「辞めたんだよ。去年の九月にちょっと体調をくずしてね。――ぼくは会社勤めには向かなかったよ。一人でここにいて、毎日本を読んだりして、それで清々している」

 そう言って須黒はちょっと笑った。手ずからポットに手を伸ばし、急須に湯を注いで茶を淹れた。

「そうそう、本を返すよ」須黒は傍らに置いてあった本を三冊、都築に渡した。「悪いね、長い間。この三冊で良かったんだよね?」

「ああ、助かるよ」

 と都築は「錬金術の鳥」を取り上げ、ぱらぱらと中をめくった。これで仕事が捗れば言うことはないのだが。

 須黒はノートPCの方に顎をしゃくった。

「きみ、ここでも何か書くつもりなの?」

「うん、環境を変えれば少しははかが行くかなと思ってさ」

 書けなくなったことは須黒には言っていない。

「それは楽しみだ」須黒は相好を崩した。「去年出た短編集、読んだよ。面白かった」

 他人から面と向かって著作についてあれこれ言われると居心地が悪くなる都築は、座布団の上で尻をもじもじさせた。

「…さっきのは妹さんかい?」

「ああ、菜穂子のことかい。――うん、今は小田原の女子短大に通っているんだ」

「そうか、菜穂子さんというのか」都築は他人の秘密を探り当てたような気分で言った。「ひょっとして字も同じかい?」

「え? 字? 誰と?」

「堀辰雄に〝菜穂子〟といういい長編があるんだよ。菜っ葉の〝菜〟に稲穂の〝穂〟に子供の〝子〟」

 堀辰雄は、現代作家の軽薄さを軽侮している都築が一番気に入っている作家である。都築は、堀辰雄のテーマへの取り組み方、豊かで繊細な感情表現、作品構成の仕方、そして文章に心酔している。しかも、〝菜穂子〟の主人公は、偶然自分と全く同じ、都築明という名前だった。そうした事情を知らない須黒は、呆気に取られたように頷いた。

「そう。その字だよ。それがどうかしたのかい?」

「いやあ。偶然の一致にしても面白いと思ってね。それだけだよ」

 作品の中の〝菜穂子〟は結核を病んでいるということは隠しておく。

「うちの菜穂子は短大生のくせにちっとも勉強しなくてね。音楽ばかり聴いているんだ」須黒は苦々しい顔付きで言った。「就職も、職種を決める前に、ライヴに行けるから東京に住みたいとか言い出してる。しょうのない奴だ」

 日頃無口な二人はそこで少しの間黙り込んだ。都築は茶を啜り、もう一つ菓子を摘まんだ。

「文藝会の連中はどうしてる?」

「さあ、多分元気でやっていると思うよ。大学に残っている松崎なんかとは時どき学内で顔を合わせるけど」

「一休みしたら、風呂に入ったらどうだい。東京からだと疲れただろう」

「うん、そうさせてもらおうかな」

 須黒は腰を上げて立ち去った。都築はトランクから着替えを出し、階下に下りて浴室に入った。

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