É Accaduto Una Notte
深町桂介
A.
その晩のショウでは、
都築は、連れの
「これはうちのじゃないよね?」
と気付いた芹沢が、演奏に負けじと大声を上げると、ウェイターは畏まって言う。
「これはプレゼントだそうです」
「誰から?」
「さあ…お名前は明かしたくないそうです。お持ちすればお分かりになる、とのことでしたが」
「じゃあ、飲んじゃおうぜ」
酔眼の芹沢は言いながら手を伸ばし、よく冷えていると思しき白ワインを手に取った。ウェイターは一緒にカードも置いて行った。千竃が目敏くそれに目を留めてカードを取った。
「これ、お前じゃないか?」
と千竃は、ステージを見ていた都築の袖を突付く。都築がカードを受け取って見ると、そこには明らかに女文字で、
「Thanks for coming & listening to us!」
とあった。都築はあっ、と思ってステージを見た。最前、バンドは演奏を止めて、休憩と称して十五分間ライヴを中断していたが、その時に篠生が書いたものに違いなかった。さてはぼくが来ているのが分かったか、と都築は破顔した。
「あれだ、バンドのヴォーカリストが贈ってくれたんだよ。飲んでいいよ。ぼくはもう十分」
都築はそう言って、カラフェの中の冷えたシャブリの白を千竃のグラスに注いだ。
「あれ、そんないい仲だったとは聞いていないぞ」
芹沢が茶化すように言ったが、都築は聞き流した。
「じゃ、遠慮なくいただこう」
こちらもすっかり出来上がった千竃もネクタイを緩めながらグラスに手を出した。
演奏は申し分なかった。客は、芹沢と千竃も含めて、みな興に乗っていた。今ひとつ乗り切れていないのは都築一人だった。
この日、高校時代の友人である芹沢と千竃を誘ったのは都築の方である。この所全体的に低調な都築は、何か気分転換が欲しくて、仕事とは無関係にこの日のライヴ・コンサートの予約を入れたのだった。芹沢も千竃も、高校時代は都築と同じく軽音楽部に所属していたので、この手の音楽には目がない方だったが、都築は音楽誌に寄稿する仕事を持っており、篠生とはその縁で知り合い、
午後七時に開演したショウは九時過ぎまで続いた。熱のこもったアンコールに応えて、バンドは二度もステージに呼び戻された。最後の曲はZZトップのカヴァーだった。キリストは今シカゴを離れて、ニュー・オーリンズに向かった…と篠生は歌う。ギタリストは最後の四十八小節のソロを完璧にこなした。客はやんやの喝采をおくった。しかし、スタンディング・オヴェーションの中でも、都築は着席したまま、軽く行儀の良い拍手をしただけだった。
バンドがステージを離れ、電灯が点くと、聴衆はざわざわと立ち上がり、三々五々に散り始めた。入り口の分厚いドアには、ギターを抱えて陶酔の表情を浮かべるマーク・ボランのレリーフが入っている。そのドアがスタッフの手で開けられ、客はいよいよ本格的に出口に向かって流れ始めた。都築ら三人も椅子を引いた。
「ぼく、ちょっと挨拶に行って来るよ。さっきのワインのお礼」
と都築は席を立った。余り飲まなかったので、足元は確りしている。
「そうか。じゃ、おれたちは先に帰るから。仕事、頑張れよ」
ドアの外でスタッフに声を掛けると、間もなく都築は楽屋に案内された。こつこつ、と拳でドアをノックすると、すぐに篠生の声で、「はあい」と返事があった。
「今夜はお疲れ様」都築はドアの陰から顔を出した。「あと、ワインご馳走様」
都築はこういう気分の夜には本当はすぐに帰って寝たかったのだが、努めて社交的になろうとして、少々おどけた声を出した。
「あら、わざわざ来てくれたの。どうもありがとう」
篠生は既にブラウスとジーンズに着替えている。バンドの全員が揃っていて、ベーシストは煙草を吸っていた。
「いや、ぼくが来ているのがよく分かったね」
「分かるも何も、ステージ前に陣取っていればすぐ分かるわよ。あたしなんか、一曲目の途中で分かっちゃったもん」
「そうかい。ワインは何のつもり? ひょっとして袖の下かな?」
軽口を口にするにも努力が必要だった。
「まさか」と篠生は笑った。「いつもお世話になっているから、そのお礼よ。じゃあ、今夜のレヴューも書いてくれるの?」
「いや、今回のは書かないよ。次の号には何も載らないと思う。もっとも、他の書き手が来ていれば分からないけどね」
「今夜は中々悪くなかったでしょ?」
「うん。楽しめたよ」都築は、本音のように聞こえればいいと思って言った。「どの曲もよかった。二時間半があっという間だったよ」
「漸く、このバンドもまとまるようになって来て、良かったわ。最初の頃は中々合わなくて、どうしようかと思ったもの」
篠生のバンド「ナイト・ライフ」はインディーズ・レーベルから三枚のアルバムを出しており、何れも高い評価を得ていた。
「ぼくが言った通りじゃないか。場数を踏めば落ち着いて来るって」都築はさり気なく時計を見た。「あ、お邪魔しちゃったね。そろそろ、お暇するよ」
都築は六本木駅まで歩いて大江戸線に乗った。都築は漸く一人になれてほっとした。吊り革にぶら下がりながら、耳の中にまだ残響の残る今日のライヴのことをぼんやりと思い出していたが、その考えはいつの間にか鏑木(かぶらき)あゆ子のことと自分の仕事のことに
「よう」千竃の声には明らかに酔いが混じっていた。「今、帰ったところなんだ」
「そうか。今日は楽しかったな」
「ああ。お陰で、すごく楽しめたよ。それはいいんだけどさ」
「何だい」
「いや、あの後も芹沢と話したんだけど、なんか元気がなかったよな。体調でも良くなかったのか?」
千竃には昔から他人によく気を配るという習性がある。それが今は有難くなかった。
都築はどう返事をすれば良いのか、迷った。が、結局、
「今は電車の中なんだよ。また…」
とだけぼそぼそと言って、通話を切ってしまった。少し酔いが回っているのだが、酔い切れない気分は良くない兆候だった。都築の体調の芳しくないのは、書けなくなってからのことだった。始終偏頭痛がして、ここの所は一行も進んでいない。
都築は国分寺で電車を降り、冷たい空気の中を歩いて自宅に帰った。都築は国分寺駅からそう遠くない分譲マンションに、母親と二人で暮らしている。今、大学院は冬休み中なので、翌日の予定はほとんどなく、それだけが救いだった。
「お帰り。遅かったのね」
都築が玄関先で靴を脱いでいると、母親の良子が顔を出した。都築は口の中で挨拶を返した。
「さっきね、鏑木さんから電話があったわよ」
良子は都築の背後から声を掛けたが、都築はそれには何も答えずにダイニング・キッチンに入った。冷蔵庫からスポーツ・ドリンクを取り出すと、少し口を付けてから夜の分の薬を出して、わざわざ渋面を作って何錠かの薬を飲み下した。近所の医院に行った所、軽い神経衰弱とのことで出された薬である。
「聞いてるの、明? 鏑木さん、帰ったら電話が欲しいって」
ふん、と都築は腹の中で鼻を鳴らした。当面鏑木あゆ子に電話をするつもりはない。
都築は席を立つと、そそくさと自室に入った。PCを目にすると、途端に気持ちの中に胆汁のような苦い汁が湧いて来る。一応電源は入れて、メールの確認だけは済ませたが、今夜も仕事のファイルは見たい気持ちになれない。漫然とウェブを巡回していた都築は、強い頭痛を感じて机を立ち、ベッドに寝転がった。その頭痛は、篠生のバンドを見ていた時から起こっていたものらしかったが、これまでは外部からの刺戟があったので気が付かなかったのだった。都築は横になったまま、手を伸ばして机の上からアスピリンの壜を取り上げて一錠出し、がりがりと齧って飲み下した。それからベッドの上にうつ伏せになって両肘を突き、こめかみを揉み、ついでに頭髪をくしゃくしゃと
都築が今のような状態に陥ったのは、三ヶ月ほど前のことであった。
都築は都下にある私立大学の大学院理学研究科に籍を置いて、片手間に科学史の研究を続けながら、小説を書いて商業誌に稿を寄せ、また軽音楽部員だった経歴も生かして然る音楽誌にアルバム評やライヴ・レヴューを書いていた。大学院生として一年を終えた今は、入学した当時の予想通り、書く仕事の方が多忙になってしまい、大学院は退学する腹積もりでいる。それには母親の良子も反対していなかった。
ところが、ここ三ヶ月ほどの都築は、小説の方が全くといっていいほど書けなくなっていた。そもそも作家として都築は主に短編を書いていたので、長編小説などの連載は抱えていなかったのは
あゆ子のせいかな、と都築はぼんやりした頭で思ってみる。少なくとも時期は丁度符合する。
二人が交際を始めてから、既に二年半が過ぎていた。そもそも二人は学部生時代にクラスメートので、知り合ってからは五年ほどになる。学部の一、二年生の頃は単に仲の良い学友といった間柄だったが、三年生の春の研究室分属の際に同じ研究室に入ってから、急速に親しくなった。あゆ子は卒業後、IT関係の企業に就職している。
喧嘩になった原因は単純なことだった。数ヶ月前のクリスマスの時季、二人は一緒に買い物に出たのだが、出先で入った喫茶店で、都築は無意識のうちにPDAを鞄から出した。PDAと言ってもキーボードが付いた型落ちのシグマリオンで、外出先で書き物をすることの多い都築は、新宿の中古屋で買い求めたそれを、常時携帯していた。
しかし、それを見たあゆ子は、露骨に眉を
「なあに、それ?」
とあゆ子は見たくもない物でも目にしたかのような声を出す。
「あ、ごめん。いつもの癖でね、つい…」
都築はそう言ってPDAを仕舞い掛けた。が、あゆ子は眉を顰めたままの表情で、
「なに、その機械は?」
「ああ、シグマリオンだよ。いつも、外で書き物する時に使っているんだ。メモするのにも便利だからね」
「あたしがここにいるのに、目の前で仕事するつもりなの?」
やはり機嫌が悪かったのか、その日のあゆ子は妙にくどかった。
「いや、だからいつもの癖で出しちゃったんだよ。ここでは使わないから」
「いつもそんな機械使って、ごちゃごちゃ文章書いてるの?」
「まあね。ミニノートだと重いからね。小さいけど、便利だよ」
「でもさ、そういうのって何か常識のない根暗って感じがするよね。そんなのいやだな」
「だけど、外で何か浮かんだ時も、これがあれば書き留められるからね」
「それで何よ? あたし思うんだけどね、あなたの作品って才気があんまり感じられない。真っ当に就職した方が、あなたよっぽど稼げるわよ」
あゆ子はそう決め付けて
しかし、その夕刻あゆ子と新宿で別れ、国分寺の自宅に帰ってから、段々その時の会話が引っ掛かるように感じられて来た。都築はその折の会話を反芻動物のように腹の中で繰り返し再現してみて、その結果、これは明らかにあゆ子の言い過ぎであると判断を下した。あゆ子の
都築はそうして腹を立てたが、一番立腹していたのは、あの時即座に怒るべきだったのに悠長にしていた自分自身に対してだということには気が付かなかった。その内に都築には、あゆ子の欠点ばかりが目に留まるように思えて来て、それもまた憤懣の種になった。結局、都築は、すぐには火が点かないが、一旦火が点くと中々消えにくい炭火のような怒りを腹の中に宿すことになった。そして、あゆ子に対しては、一方的に暫く距離を置くという措置に出た。都築はあゆ子からの電話には一切出ず、メールを書くことも止めてしまった。メールが来ても一切無視した。二人の間には、親しくしている共通の知人というものもなく、あゆ子は都築の突然の心変わりには戸惑っているようであり、都築が無視を始めてからも繁く連絡をして来るのだった。
そして、予感の通り都築が書けなくなったのも、あゆ子との一件と相前後した時期のことだった。
それと共に、都築は頻繁に頭痛を感じるようになり、夜も眠れなくなった。都築は書けなくなったことで焦燥感を持っていたが、焦れば焦るほど筆が進まなくなり、苛々した気分と頭痛がいっそう募るようになっていた。
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