第22話 X+1年12月25日
定期試験最終日、僕は開放感への期待と試験に対する不安で朝を迎えた。今年は春ごろに世間をにぎわせたなんとかウイルスのせいで授業の日数に変動が生じ、試験日が休日にずれ込んでいた。クリスマスの休日に登校を命じられた学生諸君の顔は、うんざりという感じがにじみ出ていた。例に漏れず、僕も休日登校は勘弁してもらいたかった。
最終日を迎えるまでの二週間、僕は普段は重くて持ち歩かない鈍器もとい六法全書と、拝借した朔太のノートとにらめっこしながら試験勉強に明け暮れた。分からないところがあるとすぐに朔太へ電話をかけた。朔太はすぐに返答をくれたので、自分だけで勉強する時の二倍の速さで理解が進んだ。朔太には本当に頭が上がらない。
今日は朝から図書館で朔太と駄目押しの復習をする予定になっている。僕は愛用の自転車にまたがり、体の芯から凍えるような冬の冷気に負けじと、ペダルを大げさにこいでみた。大学へと続く一本道には人一人いなかった。冬の朝、誰もいない道を我が物顔で全力疾走できる爽快感はたまらない。だが同時に、静けさの中で時折聞こえてくるカラスのカアカアという鳴き声がちょっと怖い。
朔太は館内の入り口でスマホを見ながら立っていた。僕もスマホで時間を確認する。開館時間まで少し時間があった。
「おはよう」
「おう」
「今日も寒いね」
「ほんとそれ。勘弁してほしいわ」
朔太はちらっと顔を上げてすぐにスマホに視線を戻した。ぱらぱらとスマホの画面に舞い落ちる雪を、たびたび服で拭っている。
「今日の試験終わったら飯食いにいこうぜ」
朔太はスマホの画面をスクロールしている。
「どうしようかな」
「は? お前そんなこと言うのかよ。せっかく誘ったのに。あ、もしかして女でもできたのか? 俺を差し置いて……」
朔太の顔は本当に悔しそうな顔をしている。
「まさか。あるわけない」
僕は呆れて答えた。だって、大学で同級生の女の子と話す機会なんてそもそもない。いや、別に欲しているわけではないのだけれど。
「だよねー」
朔太の満面の笑みを見ると、無性に腹が立った。
「朔太は? そういう人いないの?」
「え、いそうな感じする?」
「んー、かろうじて、ぎりぎり、顔は悪くないからね」
悔しいけど事実なのだから、正直に言った。
「んんー、ちょっと気になるところはあったけど、あざーす。可愛い子はたくさんいるけど、本気で好きになった人はいないなー。俺の好みは、天真爛漫で明るくてかつ誰にでも優しい子なんだけど、なかなかそんな子いないよなー」
「理想が高すぎるんだよ」
「理想は高く、夢は大きくが俺のモットーなんだよ」
朔太は自慢げに言った。
「はいはい。じゃあ、何食べいく? クリスマスランチ」
「任せる」
「うそでしょ? それ一番困るやつだから」
僕は割と強めに言った。「何がいい? 何でもいい」って人任せすぎやしないだろうか。少しは協力的になってくれたっていいじゃないか。
「まあまあ、ぱっと頭に思いついたやつ言えばいいんだって。それが今お前が一番食べたいやつだからさ」
朔太はうんうんと頷きながら、なんか今いいこと言った俺、みたいな顔をして言った。確かに大事な試験前に昼食のメニューごときで頭を使う余裕なんてない。朔太の言うことに大人しく従うことにした。
「じゃあ、ちゃんぽん」
「ちゃんぽん! 久しく食べてないわー。それじゃあ試験明けのご褒美はちゃんぽんに決定な。ギョーザもつけちゃおっと。やべ、想像したらもうお腹空いてきた」
朔太の鼻の穴が大きくふくらんた。僕はそれを見て見ぬふりをした。笑いそうになったから。
「ガキみたいなこと言うなよ」
僕は冷静沈着を装う。人の大きく膨らんだ鼻の穴を見て笑いでもしたら、それこそガキみたいだ。
図書館の中から中年の女性が現れ、開館と赤字で書かれた小さな立て看板を入り口の自動ドアの前に置いた。僕らに向かって「どうぞ」と言った。
「よっしゃ。行こうぜ」
朔太はスマホをポケットに仕舞い、待ちわびたように図書館の中へと入っていった。僕もその後に続いて自動ドアに近づいた。僕は図書館の中に足を踏み入れた。そしてふと立ち止まった。後ろを振り返る。誰かと以前この場所で同じようなやりとりをしたような気がする。こういうのをデジャブと言っただろうか。誰だったかは思い出せない。女性だった気がするが、はっきりと思い出せない。でも確かに図書館のこの入り口で誰か……それも大切な人とちゃんぽんを食べに行く約束をした気がする。僕はじっと入り口を見つめる。自動ドアがぴたりと機械音と共に閉まり、はっと我に返る。
「おい真琴! 何やってんだよ! はやく入れよ」
僕はびくっと身震いして、朔太の元へ急いだ。
十五時。
朔太とのささやかな試験終了お祝いのちゃんぽんを食べに行った。朔太は宣言通りギョーザを注文し、五つあるうちの二つを、お腹がいっぱいだからやると言って僕にくれた。会話の内容はもっぱら試験の出来栄えについてで、悲惨な出来栄えについてお互いに慰め合った。
昼食を済ませ、アパートに着く。玄関のドアを静かに閉める。スマホがブルっと震える。母さんからの電話だった。
『試験お疲れさま。正月帰ってくるでしょ? 食べたいものとかある?』
ついさっきご飯を食べたばかりだというのに、正月の食事を聞かれるとそれこそ何でもいいと答えたくなる。だが、自分が困ることを他人にしてはいけない。だから僕はちゃんと答えた。
「ハンバーグかな」
僕が瞬間的に思いついた料理だった。
『あれ、真琴、ハンバーグ嫌いじゃなかった? 挽き肉見てミミズみたいだから食べられないって小学生のときよく言ってたわよ』
「え? そんなこと言ってた?」
僕は幼少期の記憶に検索をかけたが、挽き肉をミミズ呼ばわりした記憶は一件もヒットしなかった。僕は首をかしげた。
『真琴も大人になったんだね。じゃあ食材用意しとくね』
「う、うん。ありがとう」
『そういえば、お父さんが真琴はいつ帰ってくるんだーって言ってるよ』
「正月には帰るって言っといて」
僕はなんだか嬉しくなった。正月が待ち遠しい。
十七時。
二週間ぶりのバイトだ。試験明けのバイト初日は、手の感覚が鈍ってうっかり皿を落としかねない。試験のときに感じる緊張感と同じくらいの緊張感を抱え、バイト着に着替えた。いつもより少し早めに洗い場に来たのは、洗い場の空気を体内に十二分に充填してから仕事に臨みたかったからだ。
「どうしてこんなとこでそんな真剣に深呼吸やってるの?」
懐かしの三多さんの声。摩訶不思議なことに二週間ぶりに見る三多さんが、綺麗なお姉さんに見える。「美人は三日で飽きるよのお」と映画で見たおじさんが言っていた。ならば三日かそれ以上期間を空けて見るようにすれば、ずっと飽きずに美人を見ていられると試験明けはいつも考えてしまう。そんなことを口に出したら、明日の日の出が見られなくなる気がするので口にチャックをする。
「久しぶりのバイトなんで気合い入れてたんです」
「入れすぎじゃない?」
「入れすぎなくらいで丁度いいんです」
「でもほら、自転車の空気も入れすぎたら逆にパンクしやすくなるって」
三多さんは人差し指だけを上に向けて、上下に振り回しながら言った。おきまりのポーズだ。
「おはよう」
僕と三多さんの横を通り過ぎながら、島田さんが挨拶をする。
「おはようございます!」
僕は、島田さんを見て深呼吸で溜めに溜めた気合いを満遍なく詰め込んだ挨拶をした。
この一年間で島田さんとの距離は幾分か縮まり、少しだけ親しげな挨拶を交わすことができるようになった。
島田さんは一瞬あっけにとられていたようだったが、フッと笑って洗い場の準備を始めた。
「今日クリスマスだよ。サンタさんに何かお願いした?」
三多さんがひそひそ声で言う。
「子供じゃあるまいしお願いなんて何もしてないですよ」
「えー、もったいない! もしかしたらプレゼントくれるかもしれないよ! さあ、お姉さんに言ってごらんなさい」
「三多さんに言ってどうするんですか」
「そんなこと言うんだ。もうクリスマスプレゼントあげないからね」
三多さんが含みをもたせて言うので、言ったら本当にくれるのかなと思った。いくつか浮かんだが、僕は去年のクリスマスの日からずっと胸につっかえていることを言ってみた。
「あの。欲しい物は特にないんですけど、すごく会いたい人がいるような気がするんですよね。でもそれが誰なのかどうしてもわかんないんです。おかしいですよね」
三多さんは目を細めて、柔らかい笑顔と眼差しで僕を見ている。
「おかしいね。でも、その人に会えるといいね」
「どこの誰かわかんないんですけどね」
「ふふ」
三多さんはクルッと背中を向けて、そのままホールの方へと向かって行った。
二十二時。
バイトからの帰り道にCDショップに立ち寄った。若い女性店員さんはいつものように不審げな眼で僕を見る。
今日は大好きなアーティストのCDがようやく発売される日だ。三多さんには内緒にしたが、試験が終わったら自分へのクリスマスプレゼントとして貯金をはたいて買おうと思っていた。店の入り口付近に新作コーナーが設置されている。近くに貼られたポスターに、可愛らしい女の子の絵が描かれている。その女の子が心なしかあの女性店員に似ている気がして、見比べようと彼女のほうを見たが、目が合ってしまい僕は急いで目をそらした。ビックリしたが、可笑しくて笑いそうになったので手を口で覆った。
新作コーナーでお目当ての品を見つけた。在庫が大量にありそうだったので店を散策した後、帰り際に買うことにした。いつものごとく試聴コーナーへと向かう。心躍らせ曲がり角を折れたが、残念なことに先約がいた。大きなヘッドホンに耳をすっぽりうずめ、音楽に聞き入っている女の子。彼女の後ろを、僕はゆっくりと通り過ぎた。彼女の背中を横切るとき、彼女から小さな鼻歌が聞こえた。どこかで聞いたことのある、しかも誰もが知る名曲のようなメロディのように思えたが重要なサビの部分で音が外れるので確信は持てなかった。答え合わせをしようと彼女が手に持っているCDジャケットにそっと目を向ける。しかし、先に僕の目にとまったのはCDジャケットではなく彼女が首に巻いている黄色いマフラーだった。僕はそのマフラーからどうしても視線を外すことができなかった。
彼女がヘッドホンを外し、CDを片付け始める。
僕は直立不動で彼女の一連の動作を見ている。
彼女が片付けている手をとめ、ゆっくりと体を僕の方へ向ける。
僕の心臓からすさまじい勢いで全身に血が駆け巡る。
僕の頭にふいに女性の名が浮かぶ。
僕の頬を足早に一筋の涙がつたう。
僕の口が無意識に開かれていく。
頭に浮かぶ女性の名を呼ぶ。
僕らの間に空白の間が空く。
彼女は僕に、心が温かくなるような穏やかな笑顔を見せる。
そして優しくこう言った。
「メリークリスマス」
店内のBGMが次の曲に移る。去年のクリスマスの日、この場所、この試聴コーナーで、ある一人の女性が音楽プレーヤーに残して行ったCD。あの名曲が、流れ出す。
2nd Christmas kiki @SSKI1795
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