第21話 12月25日➁

 僕の脳は完全に沈黙していた。髙沢さんは僕にゆっくりと近づいてきてすぐ隣に腰を下ろした。触れてもいないのに彼女のぬくもりがこっちに伝わってくるようだった。彼女は水平線の彼方の真っ暗闇を見つめている。

「私たちが初めて話したときのこと覚えてる?」

 停止していた僕の脳がピクリと動く。おぼろげに彼女との日々の一ページ目一行目を思い出す。

「バドミントンサークルで体育館で会ったとき?」

「ブッブーざんねん」

「講義室出るときに肩当たって、適当にすいませんって言った相手が君だったとか?」

「それもざんねん。ていうか肩当てすぎ」

 僕は、依然十パーセントしか活動していない脳を必死に回転させて思い出す。しかし、僕の記憶では彼女との始まりはやっぱり体育館だった。

「いつ……?」

 僕は上まぶたを広げ、ちらりと横目で彼女を見る。彼女は唇を噛みしめていた。怒ってるのかな……。彼女の顔が僕に向き始めたので、僕は急いで海に黒目を向かわせた。

「小学生のときだよ」

 彼女はぼそりと小さな声で言った。僕は思いも寄らないその言葉に自分の耳を疑った。

「え? どゆこと?」

「私たち、同じ小学校に通ってたってこと」

「へええー。え? 髙沢さん、僕と同じ小学校だったの?」

「いえす。真琴くん、確か五年生のときに転校してきたよね。だから同じクラスになったことはなかったけど」

「そうだったんだ……同じクラスだったら、どの子が君になったか全然わからなかったよ」

「まあ、女の子は変わちゃうからね」

 彼女は、足をブランコのようにぶらぶらさせ始めた。どこか嬉しそうな表情をしていた。

「修学旅行の説明会覚えてる? 六年生全員集められたやつ」

「うん。覚えてる」

 彼女が唾をゴクリと飲み込んだ。そのゴクリは僕の耳まで届くくらい大きかった。いや、そんなゴクリ音なんてあるわけない。僕が彼女の言葉に全集中しているだけだ。

「あの日だよ。私たちが初めて会ったの」

「え⁉」

 僕が記憶する限り、あのとき喋った女の子は一人しかいない。絆創膏を青あざの上にはりつけていたあの子……。

「もしかして……僕が怪獣消しゴムあげたあの子……?」

 彼女は心なしかはかなげな笑みとともに僕を見つめ、嬉しそうにうんうん頷いている。

「ほんと⁉ そんなことある⁉ あー、思い出すとめちゃくちゃ恥ずかしいんだけど……」

 恥ずかしかったから、僕は両手で顔を覆った。ほんとは恥ずかしかったからだけじゃない。嬉しかった。またあの子に会えたことが。その溢れる喜びを髙沢さんに見られたなくて顔を覆った。

「あのときはほんとにビックリしたよー。なんだこの緑のやつって」

 彼女は僕を小ばかにしたように言う。

「あれほんとに人気あったんだって!」

 当時の僕の熱狂ぶりが蘇ってきた。ん、なんだか体が熱くなってきたぞ。

「はいはい。まったく真琴くんはお子ちゃまだなあ」

 彼女は、僕の熱狂なんかあっさりスルーして適当にあしらった。

「小学生なんて、みんなお子ちゃまでしょ」

「今の発言、全国の小学生のみんなに失礼だよ。とりあえず謝っとこうか」

「……す、すみませんでした」

 またも彼女にはめられた気がする。だけど、今日はとことん彼女のおふざけに付き合おうって思っていた。だって、だって、楽しいんだ。髙沢さんと話していると楽しいんだ。

 目の前の海に沿って延々と延びるプロムナードに、当時の僕らの小さな背中を思い浮かべてみる。その小さな背中を見て、僕は懐かしさと微笑ましさと愛おしさを感じた。

「あのとき、すごく嬉しかった」

「それはよかった……」

「ほんとに嬉しかったんだ」

 そう言ったあと、彼女はぶらぶらさせていた足を静かにそろえて地面に降ろした。彼女の顔に陰りが見えた。彼女は、徐に話し始めた。

「私ね、ほんとはお父さんとあんまり仲良くなかったんだ」

 彼女は手を太ももの下に挟み込み、姿勢を正すように背筋を伸ばす。無意識に僕もそれに習って背筋を伸ばしていた。

「私のお父さん、周りから見たら真面目なお父さんって感じだったんだけど、仕事で嫌なことがあったときにね、私を叩くの。何度も何度も……。痛かったなあ……」

 僕は、修学旅行の説明会で見た彼女の首元に貼られた絆創膏を思い出す。

「だから私は、自分の心の奥底にある殻に閉じこもることにしたんだ。抵抗せず涙も流さずただ黙って事が済むのを待つ。殻の中にいれば傷つくのは身体だけだから。もし殻から出て立ち向かっていこうものなら、そこにあるのは今以上の苦痛と恐怖だけってわかってたから。でもそんな外の世界に緑色の小さな怪獣が現れた。小さくて優しい怪獣さんがね」

 僕は、少しだけ口角を上げた。彼女は背を丸め、うなだれるように俯いた。彼女の髪が彼女の顔を覆った。

「私が一つ歳をとるにつれてお父さんはエスカレートしていった。高校生の時には、叩くだけじゃなくて、身体を触られるようになった……。それでも、私が耐えてこられた理由わかる?」

 僕らの目の前を、若い男女が腕を組んで通り過ぎる。普段意識したことはなかったが、カツカツというハイヒールの音が不快に感じた。

「真琴くんがくれた怪獣消しゴムのおかげだよ。消しゴムくれるときにさ、『君に笑ってほしいんだ』なんて言ってさ、突然何言い出すんだろうって思ったけど、真琴くん真剣だったよね。苦しいときに消しゴム見てると真琴くんの言葉を思い出して、私、笑えたんだ」

 彼女が笑う。作り笑いなのが手に取るようにわかる。その表情の裏にある辛さがにじみ出ている。

「……君の役に立てたんだったらあの消しゴムも本望かな」

 僕は、他人の触れてはいけないような過去を打ち開けられたとき、どんな言葉をかければいいのかわからない。こんなシーン、映画で何度も見たはずなのに。

「ち、な、み、に、なんだけど、大学入試のとき、怪獣消しゴム落としたの、あれ私」

 彼女はマジックのネタ晴らしをするように得意げに言った。

「そうだったの⁉ 声かけてよ! ていうか、あのとき髪で顔隠したでしょ⁉」

 彼女は、ただでさえ暗い夜にさらに暗くなった雰囲気を打ち消そうとしている。だから僕も、ここぞとばかりに明るく振舞った。

「あ、バレてた?」

 彼女は手の甲で自分の頭を小突いた。

「ただでさえ試験で緊張してたのに、真琴くんだって気づいたときは試験の緊張と比べ物にならない心臓のバクバクだったからさ。まともに真琴くんの顔なんて見れなかったんだよ……。でもあの時、これは神様からの贈り物だなって思った。私たちさ、小学校で話したの説明会のときだけだったじゃん? だからこれは贈り物なんだって、辛かったこと全部忘れて一人でニヤニヤしながら試験受けてたよ」

 彼女は、その時のことを懐かしそうに思い出しながら楽しそうに言った。

「こっちの気も知らないで」

「ごめんって」

 僕らは目を合わせて笑いあった。

「無事に二人とも合格しててさ、私嬉しかったんだ。真琴くんがどんな人になってるのか早く知りたかった。昔のままの真琴くんでいてくれたらな、でもやっぱり男の子だから少しはえっちになったんだろうなーとか一人で妄想しながらね。でも……」

 彼女の笑みが薄れていく。僕の上がった口角も徐々に下がっていく。

「大学で見かける真琴くんには、小学生のときの面影はもうなかった。小学生のとき、私の目に映るのはいつも、たくさんの人に囲まれてる真琴くんの姿だった。真琴くんが円の中心にいて、焚火のように周りにいる人たちの心を温かく笑顔にしてた。それなのに、大学で見かける真琴くんはいつも一人。学食でご飯を食べてるときも、講義を受けてるときだって、朔太君と同じ講義以外はいつも一人。誰も俺に近づくなってオーラ四六時中全開でさ。私は、私の知らない六年の間に何が真琴くんをこんなにも変えてしまったのかどうしても知りたくなった。そして、おせっかいかもしれないけど、昔のあの笑顔を取り戻してほしいと思った。真琴くんが私を支えてくれたように、今度は私が真琴くんの力になりたかった」

 彼女は一瞬口をつぐんだ。

「でも、私には真琴くんに声をかける勇気がなかった。いざ声をかけようと思うと、怪しまれたら、不快に思われたらって不安になって足がすくんでしまった。悶々とした日々が過ぎて、気づけば十二月になってた。このまま年を越せないって定期試験後に絶対声かけるんだって思ってたけど、真琴くんもう講義室にいなくて、私発狂したよ」

 彼女の頬が大きく膨らんでいる。

「ちょっと待って。その発狂は僕のせいじゃないよね」

 彼女は、空気が抜けていく風船のように膨らんだ頬を縮ませた。

「そう。真琴くんのせいなんかじゃない。今になっても物事に立ち向かっていけない自分のせい。年が明けたら絶対声かけるんだって神様に誓ったけど、自分に腹が立って、気晴らしに音楽に入り浸ろうとCDショップに行ったわけ。そしたら、その帰りにトラック事故で真琴くんが私の身代わりになって……。あのとき私、一生分後悔した」

 彼女はゆっくりと空を見上げた。僕は、彼女の告白に返す言葉を見つけられずにいた。

「そうだったんだ……」

 僕の口から出たのは、そんな言葉だった。

「で、さっき話したお姉さんが登場して、タイムスリップして、せっかくもらったチャンスじゃん? 絶対に真琴くんを救えるように一念発起して最初っからガンガン攻めていったわけ」

 彼女の鼻息が荒くなっている。

「だから、バドミントンのときからあんなに当たり強かったんだ」

 最悪だと思っていた彼女とのファーストコンタクトが、実は数年ぶりの再会だったことに、僕は少し可笑しさを感じた。

「やっぱり強かった?」

「それはもう心にアザができるくらいには」

「うそー! ごめん! だって六年ぶりの再会だよ⁉ そりゃ顔くらい見たくなるよー!」

「冗談だよ」

「いじわる」

「ごめんって」

 僕らは以前のように明るく言葉を交わしていた。彼女が細い腕に巻いている腕時計を見る。

「もう少しでクリスマスも終わりだね。あーあ、終わっちゃうなあ」

 彼女はまた足をぶらぶらさせ始めた。僕は彼女の足をおもわず二度見した。何度も何度も指で目をこすっては、はちきれんばかりにまぶたを大きく見開いて彼女の足を見た。彼女の足は透き通るように薄れていた。

「髙沢さん! 足!」

 彼女は柔らかく微笑む。まるで何も心配いらないよ、と諭すかのように。

「まー、無料で時間を巻き戻してくれるほど世の中甘くないよね。サンタのお姉さんもビジネスだから対価を貰わないといけないんだって。ちなみに、時間の巻き戻しは売れ筋ナンバーワンの大ヒット商品らしいよ。だからそれを購入できる人は超レアなんだって。すごいでしょ、私。町内会のガラガラでティッシュしか当たったことないんだよ。あ、それでね、支払い方法をいくつか提示されたんだけど、家族の命とか、友だちの命とか、うん兆円は選べないから、消去法で自分の寿命になったよね。私の寿命なんかで真琴くんを助けることができるなら安いもんだよね」

 彼女は笑いながら楽しそうに言った。僕は、彼女が顔に貼り付けた笑顔に心底腹が立った。

「どうしてそんなことを……。僕は自分の意志で君を助けたんだ。それで死んだんならそれは僕の責任だ。君がそれを肩代わりする必要なんてどこにもないだろ!」

 僕の声が静かなクリスマスの夜に響き渡る。

「ごめん……」

 血が完全に頭に上り熱くなってしまったが、体内の冷却装置は正常に作動した。

「ううん」

 彼女はまだ呆気にとられているようだった。荒ぶったおかげかわからないが、僕は彼女に伝えなくてはいけないことを思い出した。心のさざ波を落ち着ける。息を静かに吐く。乾いた唇を濡らす。

「父さんが話してくれたんだ。僕を家から遠ざけた本当の理由。僕が嫌いだったわけじゃなかった。僕を守るためだったんだ。嬉しかった。心が軽くなった。君が父さんにお願いしてくれたおかげなんだ」

 僕は一言一句、丁寧に言った。言葉では表現できないありったけの感謝の気持ちをこめて言った。

「ほんとに⁉ よかったー。あのまま真琴くんとお父さんが気まずい雰囲気にならなかったかなってわりとガチ目に心配だったんだ」

 彼女の顔が明るくなる。我が家への突撃訪問時の彼女のことを思い出すと、たいした女の子だと思った。

「真琴くん」

 僕が次の言葉を繰り出そうとした瞬間に彼女に先手を打たれた。

「なに……?」

「私は真琴くんの力になれた?」

 彼女は、優しい声で僕に問いかける。その問いに対する答えは、考えるまでもなかった。

「君のおかげで心の中の小学生の僕がやっと笑うことができたんだ。君がいなかったら小学生の僕の涙がとまることはなかった。全部、君のおかげだよ」

 僕は、心の底から湧き出る言葉を包み隠さず彼女に伝えた。

「そこまで言われるとなんか照れる」

 彼女は自分の頭をしきりに撫でている。僕はそれを複雑な気持ちで眺めていた。彼女の指先はもう消えていた。

「じゃあさ。私と過ごした時間は楽しかった?」

 彼女は僕の心の内を探るような瞳で聞いてきた。

「……」

「うそでしょ。楽しくなかった……? アイムショック……」

 僕の頭の中に、彼女と過ごした時間が次から次にとめどなく溢れ出てくる。

「……楽しかったさ」

 熱くなった目頭が沸騰してしまわないよう我慢するのに手いっぱいで、言葉に力がこもらなかった。

「声めっちゃ小さいじゃん! ほんとは迷惑とか思ってたんでしょ⁉」

 我慢の甲斐虚しく、涙が「僕はこぼれ落ちたいんだ。潔く落とさせてくれ」と言わんばかりに、どんどん下まぶたに溜まっていく。僕は髪の毛に手をのばすと見せかけて、さっと涙を拭い応急処置を施した。それでも依然、沸騰寸前の目頭をおさえて彼女を見た。彼女の身体は、もうその先の街の風景が見えるくらいに薄らいでいる。僕の目頭が沸点を迎えた。涙、涙、涙。僕の頬をつたう、つたう、つたう。

「だのしかったさ!」

 僕の顔面は、傍から見たら涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていることだろう。

 僕は中学時代、言わないといけないときに言いたいことを言えず、かけがえのない友だちを失った。今日、同じ過ちを繰り返さないように朔太に言わなければならないことを言った。思えば、これも彼女のおかげだ。三多さんのプッシュもあったが、一番初めに考えるきっかけをくれたのは彼女だった。だから、僕が今彼女に伝えたい、ありのままの気持ちを伝えた。なのに、このタイミングで鼻水が邪魔してきやがった。

「え、いま、何って言ったの? 楽しくなかったって言った……?」

 僕はポケットからハンカチを取り出して急いで鼻をかんだ。息を整える。

「楽しかったよ……楽しかった……」

 涙はどうしても止まらない。

「よかったよかった」

「初めはなんだコイツって思ったけど……」

「は?」

 彼女の眉間がハの字になっている。

「いや、最後まで聞いてって」

「わかった」

「なんだコイツって思ったけど、髙沢さんと一緒に過ごした時間は僕の人生の中で一番楽しかったし、一番ワクワクしたし、一番ドキドキしたし、一番ソワソワしたし、一番……」

 言葉はたくさん出てくるのに涙が邪魔をしてくる。彼女のたくさんの笑顔が僕の心を埋め尽くしている。その笑顔を思い出すたびに、涙が出てくる。

「はいはい。それ以上言われたら嬉しすぎて死んじゃうよ。あ、今の冗談にしてはキツイか」

 彼女が困った顔をしているのが涙越しにわかった。彼女の身体はもうほとんど消えかかっている。彼女は深呼吸を一度し、ゆっくりと口を開いた。

「真琴くん。悲しい顔をして下ばかり見ないで。顔を上げて。そして、昔のようにあの笑顔を見せて。私、真琴くんに初めて会ったときからちゃんとわかってたよ。真琴くんが優しさで溢れてる人だってこと。だから真琴くんの周りにはいつも、たくさんの人が集まってきたんだよ。真琴くんの優しさをこれから出会うたくさんの人に注いであげて。きっと私みたいに救われる人がいるはずだから」

 彼女の身体は、まもなく消える直前だった。

「待って……もっと君と話したいことがあるんだ……」

 CDショップで初めて彼女を見たときのこと。バドミントンサークルで初めて声を交わしたときのこと。一緒にちゃんぽんを頬張ったこと。講義のレポートを一緒にやったこと。彼女と過ごした日々のワンシーンが浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。記憶の欠片を必死にかき集めようとするのに、指の間をするりと抜けるかのようにこぼれ落ちていく。

 僕は必死にサンタクロースに願った。サンタクロースはなぜ僕の目の前に現れないのか。例のサンタクロースの帽子を被ったお姉さんが現れればすぐに僕の寿命なんか差し出すのに。

「それじゃあね」

 彼女は、見慣れた優しい笑顔で言った。

「待って!」

 気づくと僕は彼女の身体に手を伸ばしていた。僕の手があまりに空しく、空をきる。

「待って……まだちゃんとありがとう言えてない……」

 彼女の身体は完全に闇夜へと消えていった。

「ううっ」

 突然、一度目のクリスマスの時と同じ頭痛が僕を襲った。

 僕の薄れゆく視界に一人の女性の姿が映った。

「三多……さん……どうして……ここに……」

 三多さんは不敵な笑みを浮かべているように見えた。

「おやすみ」

 三多さんの温かい手が僕の額に触れている。痛みが和らいでいくのを感じる。同時に、僕の意識も遠のいていく。まもなく僕の意識は暗闇に沈んだ。


「さむっ……え?」

 目の前には海が広がっている。頬に冷たいプラスチックがあたっている。体を起こす。僕はどうやらベンチで眠り込んでいたらしい。スマホを見る。クリスマスはとうに過ぎ、三十分も経過している。どうしてこんな所で一人、ベンチで眠ってしまったのか思い出せない。あまりの疲れで寝落ちでもしたのだろうか。街のイルミネーションの光は煌々と輝いていたが、行き交う人はまばらだった。僕はゆっくりとベンチから立ち上がり、アパートの方角へと足を向けた。

「いった」

 頬にピリッとした軽い痛みを感じた。この独特の痛みは遠い昔に感じた痛みだ。懐かしい。それは、涙が乾いた後の痛みだった。ついさっき、とても悲しい出来事が起きたような、はたまたそういう夢を見ていただけなのか。やはり思い出せない。

 アパートの階段を上ると、僕の部屋のドアノブに紙袋がかかっていた。僕は周囲を見回し、怪しい人がいないか探す。まさか爆弾? 僕はおそるおそる紙袋を開いて中身を覗く。袋の中には丁寧に包装紙で包まれた箱と一通の手紙が入っていた。

 家に入り、部屋の隅っこに紙袋を置く。ささっと離れ距離を取る。いかにも怪しい。誰の仕業だ。何が目的だ。僕はうなるように考える。だが僕の中の好奇心がどうしてもその箱の中身を開けようぜとせがんでくる。ならんならんと一人、押し問答を繰り広げるが、僕は好奇心には勝てなかった。

 爆弾の蓋を開けるかのように慎重に箱の蓋を開ける。中に入っていたのは一秒ずつ数字が減っている時限爆弾、ではなく、ただの黄色いマフラーだった。僕が好きなアパレルブランドの商品だった。今月初旬にその店に行った時、マネキンがつけていたのを見て、マフラーに施された特徴的な刺繍がなんかいいなと思った。僕は母さんがこっそりやって来たんだろうかと考えた。いつものメモと違って、封筒付きの手紙をよこしてくるなんて母さんにしては少し気合が入りすぎているような気もした。好奇心の赴くまま僕は、手紙の封を開けてみた。


『今、この手紙を授業中に書いてます。この先生の文字、黒板でミミズが踊ってるみたいで目を当てられないんだよね。

 誰かに手紙なんて書くのいつ以来だろう。小六の時に密かに真琴くんに書こうと思って書けなかったあの時ぶりかな。あーどらどらする。あ、どきどきはらはらの略ね。今思い付いちゃった。真琴くんも使ってね。

 いきなり真琴くんの家に連れてけなんて言ってごめん。お父さんにあんなこと言ってごめん。真琴くん怒ったよね。でも、ちゃんと理由があるんだよ。その理由もちゃんと話すから。真琴くんの一日彼女になれたことは一生忘れられない思い出になったなー。欲を言えば、もう一日くらい彼女でいたかったけど。

 今日はクリスマスだよね。どーせ街のイルミネーションでも見て気づくんだろうね。興味無さそうだもんね。真琴くんはもっと顔を上げて、周りの風景とか人とか世界を見たほうがいいよ。世界にはたくさんの面白いものや優しい人で溢れてるから。教えてくれたのは真琴くんだよ。ほら、あの怪獣消しゴムとか。消しゴムと怪獣を合体させるなんて発明した人きっと天才だね。

 真琴くんと過ごした時間はすごく楽しくてすごく充実してたよ。もしかして……こういうのを幸せっていうのかな? だとしたら私は、きっとこの幸せを感じるためにこの世に生まれてきたんだと思うな。なんかここからいなくなるのがちょっぴり嫌になったよ。でも私、真琴くんと出会えたおかげですごく幸せだったから満足してる。真琴くんが私にくれた幸せに、負けないくらいの幸せを、私は真琴くんにあげられたかな。

 この手紙を真琴くんが読む頃には私はもういないのかな。真琴くんの記憶の中にももう私の姿はないよね。ちょっとだけ、ほんのちょびーっとだけ寂しいけど、自分が選んだことだから後悔はないよ。

 今日の私はちゃんと真琴くんにありがとうを伝えられた? 本当はね、真琴くんに話かけるときいつも緊張で心臓が飛び出てきそうなんだ。だから話しかける前には必ず息を大きく吸ってから話しかけるんだよ。知らなかったでしょ?

 私たちのクリスマスがどうか最高の一日になりますように。その前に真琴くんが機嫌を治してくれたらいいんだけど。真琴くんの怒った顔結構怖かったんだからね。

 手紙の最初と最後は拝啓と敬具をつけるんだって。知ってた? 

 でも、そんなかしこまった言葉なんて私たちには必要ないよね。

 最後はやっぱりこの言葉で終わりたいな。

 メリークリスマス!

 んーベタすぎる? ごめん、やっぱりこっちにするね。

 ありがとう、いじめっ子から私を助けてくれて。ありがとう、消しゴムを貸してくれて。ありがとう、消しゴムを拾ってくれて。ありがとう、私を事故から救ってくれて。ありがとう、私と同じ時間を過ごしてくれて。ありがとう、この世に生まれてきてくれて。

 最後のありがとうは少し大袈裟すぎるかな? (笑)

 でもね、それくらい真琴くんに伝えたいありがとうはたくさんたくさんあるんだ。

 たくさんのありがとうを私にくれて、本当にありがとう。

 ていうか、怪獣消しゴムにはほんと頭あがらないね。私たちのキューピッドだもんね。

 真琴くんに言ったら「キューピッドなんかじゃない!」って怒られちゃいそうだけど(笑)

 最後って言いながらごめん。

 もしも奇跡が起こるなら、またいつかどこかで真琴くんと会えたらいいな。そのときは名前で呼んでほしいな。結局真琴くんから名前で呼んでもらえなかったし。どーせ今日だって名字で呼ぶんだろうし。まって、思い返すと名字すら呼んでもらえてないよ……。悲しい……。私の唯一の心残りだよ。だから勝手に楽しみにしてるからね。

 それじゃあ、またね。

 私たちの二度目のクリスマスが笑顔のクリスマスになることを願ってる。


 十二月十四日

 ○○○○より』


 その字は母さんの字ではなく、見たこともない字だった。手紙の裏面にはお世辞にもうまいとは言えないが、昔好きだった怪獣のイラストが描かれてある。

 いったい誰がこんな手紙をよこしたのだろう。僕を下の名前で呼ぶのは父さんと母さんと朔太くらいだ。届け先でも間違ったのだろうか。だとしたらまずい。この手紙は書き主にとってとても大切な手紙のような気がする。そして、これを受け取るはずだった僕と同じ名前の真琴という人物にとっても大切なもののような気がしてならない。

 手紙の上に一滴の水滴が落ちてきた。続けて左、右、左、右。ポロポロと勢いを増して雨を降らせている。その雨は僕の目から降り注いでいた。

「あれ……? どうしたんだろ……」

 僕は何度も何度も涙をぬぐうのに、涙の雨は勢いを増すばかりだった。なぜ涙がこんなにも止まらないのか、その理由はわからなかった。

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