第20話 12月25日➀

 定期試験は滞りなく進み、最終日を迎えた。

 ついに今日という日がやってきた。

 髙沢瑞香が、トラックに轢かれる日―。

 数日前に図書館で話して以来、髙沢さんとは話していない。もちろん朔太とも。二人が一緒にいるところは学内で何度も見かけた。見かけるごとに二人の距離は近づいていた。物理的な距離も、そして、心理的な距離も。僕はモヤモヤした気持ちになりつつも、二人の姿を見てきっと朔太が髙沢さんをトラック事故から救ってくれるに違いないと、そう思うことにした。

 試験最終日に手をこまねいて待ち構えているのは、試験の山場である憲法だった。試験開始の合図が鳴る。問題用紙には、選択式の三つの設問があった。一番目の設問と二番目の設問は、僕が事前に予想し、張っておいた網にかすりもしなかった。最後の望みをかけ、三番目の設問を読む。尊属殺重罰事件―。この事件はタイムスリップ前に朔太オリジナルキャラクター付きのノートで読んだ事件であり、タイムスリップ後に髙沢さんが異様な空気感で見解を述べていた事件であり、僕がレポートでまとめた事件でもあった。念入りに復習した判例ではなかったが、何度も読んで何度も理解を試みたものである。そのおかげもあって、憲法の試験に対して感じていた大きな不安にも屈することなく答案をまとめることができた。

 十五時。

 すべての試験を終えて僕は帰路につく。自転車をアパートの駐輪場にとめる。ポストの中を見る。ピザのチラシと不動産のチラシが数枚入っていた。大家さんが置いてくれたポストの下のゴミ箱に、チラシを捨てる。ポケットの中のスマホが振動した。発信者を確認する。僕はつい二度見してしまった。父さんからだった。父さんから電話をかけてくるなんてことは大学に入ってから一度もなかった。いや。思い返せば、中学に寮に入った時から一度もない。驚きと緊張と不安が入り混じる渦の中で、僕はおもいきって着信ボタンを押した。

「もしもし」

『もしもし。今、大丈夫か?』

「うん。ちょうどさっき試験終わったところ」

『そうか』

「どうしたの?」

 僕は恐る恐る聞いた。

『ああ、実はだな。この前、家に帰ってきたとき大学の友だちつれてきただろ』

「うん……」

『その時』

「あー、あの子が言ってたことなら気にしなくていいから。何を言い出すかと思えば、あんなこと言い始めてこっちもびっくりしたぐらいだよ」

 僕は父さんの言葉を遮るようにして、明るい声で言った。父さんからの返事が滞る。数秒間沈黙が続く。

『実は、お前にずっと言えなかったことがあるんだ』

 普段なら威厳のある父さんの声が、今は心なしか弱々しい。

「なに?」

『お前が中学生になるとき、寮がある学校に行かせたのはな、修二おじさんの借金が原因だったんだ』

「え?」

『修二おじさん、小さい頃に会ったことあるだろ? おじさんな、経営してた会社が潰れてしまって借金ができてしまったんだ。返済のためにあちこちからお金を借りてたみたいで、その中に手荒な連中がいてな、身の危険を感じたおじさんはある日夜逃げしたんだ。父さん、おじさんの保証人になっててな、その手荒な連中が家に来るようになったんだ』

 父さんの言葉が止まる。初めて耳にする話だった。

『お前には何も心配をかけたくなかった。だから、お前を家から離れた学校へ行かせたんだ』

「そんな……」

『黙ってて悪かった。髙沢さんだったかな。お前が帰った後な、あの子一人で家に来たんだよ。そのときにどうしてもお前に本当のことを話してやってくれって頭下げられてな。……あの子、泣いてたんだよ』

「髙沢さんが……?」

『ああ。それにあの子、お前が中学のときにどうとかって言ってただろ? 中学のとき何かあったのか?』

 僕は父さんの一言一句を聞き逃さないようにスマホのスピーカーに耳を押し付けていた。父さんの言葉は僕の耳から僕の体に流れこみ、胸の奥にある僕の心に注がれていく。心の奥底で下を向いていた小学六年生の僕が、ゆっくりと顔を上げ、父さんの言葉に耳を傾けている。

「父さん……」

『なんだ?』

 僕は、深呼吸し、心を落ち着かせ、頭の中で伝えること伝えたいことを整理する。大きく息を吸う。

「父さんは小さい頃から僕の憧れだったんだ。口数は少ないし、一緒に遊んでくれたこともなかったけど、毎日仕事に向かう後ろ姿を見て憧れていたんだ。だから受験をするよう言われたとき、父さんを喜ばせようと必死に頑張った。だけど合格発表の日、父さんは嬉しそうな顔一つ見せてくれなかった。そのとき僕は思ったんだ。父さんは僕のことが嫌いなんだ、って」

 僕は、胸の奥深くに秘めていた思いを洗いざらい吐き出す。

『すまなかった……。本当はお前の合格を祝ってあげたかった。でも……本当にすまない……』

 父さんが心の底から謝っているのが、電話口からでも十分に伝わってきた。

「いいんだ。ありがとう、本当のことを話してくれて。あ、中学時代は楽しかったよ。母さんから家の手伝いをうるさく言われることもなくなったからね」

『本当か? 何かあったんなら正直に話してくれ』

「本当だよ。まあ、一つだけあった事件と言えば、夜中の二時に友達とこっそり寮を抜け出してコンビニにお菓子を買いに行ったんだけど、帰ってきたら寮の先生が玄関で待ち構えててさ、こっぴどく叱られたことくらいかな。父さんに見つかったらそれだけじゃ済まなかっただろうけど」

 僕はあけっぴろげに言った。

『補導ものだな』

「だよね」

 父さんと一緒になって笑った。数年ぶりの出来事だった。

 僕の心の中にあった重しがすっと消え去っていくのを感じた。心が軽い。

「これからバイトなんだ。正月は家に帰るから」

『わかった。帰ってきたら真琴の好きなちゃんぽんでも食いに行こう』

「うん。楽しみにしてる」

『ああ』

「それじゃあ」

『バイト頑張れよ』

「ありがと」

 僕はスマホをそっと耳から離して電話を切った。消えた心の重しは、小学六年生の僕が抱えていた悲しみだ。心の奥深くでずっと待ってたんだ。救いを。悲しみという暗闇に陽の光が差し込むのを。きっかけをつくってくれたのは髙沢さんだ。彼女が父さんに言ってくれたから、幼き僕は救われた。今度会ったときには、心の底から感謝の気持ちを伝えよう。

 十七時。

「おはよう!」

 二週間ぶりに聞く三多さんの声。あまりの元気の良さに僕は、ふっと笑ってしまった。

「なんだよー。久しぶりのバイトで緊張しちゃってるんじゃないかと思って元気よく挨拶してあげたんだよ。それを鼻で笑うなんて、人としてどうかとお姉さんは思うなあ」

 出会って早々、三多さんの口からはぽんぽん言葉が飛び出す。

「今ので緊張ほぐれました。ありがとうございます。おはようございます」

 僕は、冷静に挨拶を返す。ふん、と三多さんは鼻をならす。その顔にすぐに笑みが浮かぶ。

「テストどうだった? ゾンビにはなってないみたいだね」

「三多さんに倣って僕は計画的に勉強したので、問題ないと思います。たぶん……」

「良かったじゃん。この前公園で話したとき顔が沈んでたからさ、友達とのこと引っ張って勉強に集中できてないんじゃないかって心配してたんだ」

 僕はじっと三多さんを見る。決して、変なことを考えているわけではない。

「なによ?」

「いや、三多さんが僕のことを思ってくれてたなんて、なんか嬉しいなあって」

「へえ。君の口からそんな言葉聞けるなんてお姉さん嬉しい。さては、友達と仲直りできた?」

「それは……まだです」

 三多さんの期待を裏切ってしまったようで、僕は少し申し訳なかった。

「え? 男でしょ? うじうじしてないでちゃっちゃか仲直りしようってぶつかっていきなよ」

「別にうじうじなんかしてないです」

「してるよ」

「してないです」

 僕と三多さんは、たった一つのマタタビをめぐってけん制し合っている二匹の猫のようににらみ合った。火花がばちばち散っている。

 頬をぷっくら膨らませて、目がつりあがっている三多さん顔を見てるとなんだかおかしくなって、僕は笑い声をあげた。緊張感がみるみる溶けていく。

「ちゃんと本当のこと言って仲直りします」

「ファイト。お子様ランチのライスの上に突き刺さってる旗振り回して応援してる」

「だいぶ頼りない気がします」

 僕と三多さんは見つめ合って肩をゆすって笑った。

 一度目のクリスマスの時と同様、お客さんの数は普段の倍だ。例の老夫婦の花束贈呈式も僕はしっかりと見届けた。

 二十二時。

 バイトを終え、店長がささやかなクリスマスプレゼントということでクッキーをくれた。店長の奥さんの手作りということで、味は保証できると嬉しそうに言っていた。バイト中には皿を割ることもなく、島田さんに鋭い視線で睨まれることもなかった。店を出るときに三多さんからクリスマスの挨拶をされたので、僕は本日初の「メリークリスマス」を言った。三多さんはさらに「良い一日を」と付け加えた。あと数時間で今日も終わるというのに。

 二十二時過ぎなのに街はたくさんの人々で溢れかえっている。手をつないで歩く若いカップル、優しく寄り添いながら歩く老夫婦。時計台の下で楽しそうに電話で話している男性。有名スイーツ店のロゴ入りの袋を大事そうに抱えている若い女性。みんな幸せそうな表情をしている。

 穏やかな気持ちで、街のイルミネーションを眺めながら歩いていたときだった。見知った顔のが僕の目に映った。どうしてここにいる? しかも一人で。僕は急いで彼に駆け寄った。

「朔太! こんなところで何してんだよ⁉」

 彼が僕を見る。瞬時に彼の表情がゆがんだ。彼は無言のまま僕を素通りしていく。

「おいって!」

 僕は彼の肩をつかみ、強制停止させた。

「なんだよ!」

 彼は僕の手を力いっぱい振り払い僕のほうを振り返る。表情が一層ゆがみを増している。

「ごめん」

 彼は舌打ちをして、歩き去ろうとする。

「髙沢さんは⁉」

 彼が立ち止まる。

「お前には関係ないだろ」

「関係あるよ!」

 彼は僕の上着を掴み、ぐいっと上に押し上げた。僕の上半身がのけぞった。

「どう関係あるんだよ? 言ってみろよ!」

「それは、だって今日は……」

 僕はそこまで言って、口を閉じた。今日は事故が起こる日。彼氏となった朔太が彼女の傍に居てあの事故を回避する、そういうシナリオだったはずじゃないのか。

 彼はまた舌打ちをし、僕を横暴に押し倒した。僕は、足がもつれてしりもちをついた。彼は振り返って立ち去ろうとする。

 正直なところ、友達なんて必要ないと思ってた。付き合うだけ面倒だし、たとえ仲が良くなっても、その関係はほんの些細なことで簡単に崩れ去ってしまう。中学三年の夏、そのことを身に染みるほど理解させられた。高校の時はいつも一人だった。表向きはクラスのみんなと仲良くするが、内心は煩わしいとかどうでもいいとか思っていた。だから、うわべだけの付き合いで、心のふれあいみたいなものは皆無だった。大学に入って、便宜上、朔太と付き合うようになった。初めはなんとなく付き合い初めて、なんとなく離れていくんだろうなと思っていた。でも、そうはならなかった。朔太との日々は悪いものじゃなかった。飽きもせずくだらないことを言って笑っている朔太を見てると、いつのまにか自分も楽しんでいることに気がついた。朔太と話しているとき、友だち関係なんていつか壊れるものだということを、僕はすっかり忘れていた。それどころか、ふと友達っていいなって思うこともあった。授業のノートを見せてくれた。講義室の席を確保しておいてくれた。そしてなにより、くだらないことで僕を笑わせてくれた。そんなことを、朔太と距離ができてしまってから思い出した。

 三多さんが言うように、大学では付き合う人間は選び放題だ。出会う人間の数は、何百人といる。そのなかで、僕と朔太は出会って、話すようになって、一緒に講義を受けるようになった。気づけば季節は春から冬になっていた。入学式の日、朔太と出会ってから半年以上の月日がすぎたが、その大半を一緒に過ごしてきたように思う。

 白状する。僕は朔太との関係が中学のときと同じような結末を迎えるのは嫌だ。そして、その結末を変えられるかどうかは自分次第だということも今の僕はわかっている。僕は意を決した。

「朔太!」

 朔太が僕に背中を向けたまま立ち止まる。僕はゆっくりと立ち上がった。

「あのさ……僕、朔太のこと陰で笑ってなんかしてないよ。髙沢さんの明るさと、朔太の陽気さは本当にお似合いだって今でも思ってる。髙沢さんの家に行ったのは彼女がごはんに誘ってくれたからで、少し話をしただけですぐに帰った。帰りはコンビニの前を通らない道で帰ったんだ」

 朔太は僕に背を向けたまま、微動だにしない。

「髙沢さんが僕なんかにかまうのも、きっと面白半分なんだよ。仲が良いってわけじゃなくて、ただのいじり相手みたいな感じだと思う。だから、朔太と髙沢さんが付き合えば僕も助かるんだ、もう彼女からいじられなくてすむし……」

 朔太がゆっくりと僕のほうを向いた。

「知ってるよ、お前が陰で悪口なんて言わないことくらい。俺が腹立ったのはどうしてサイクリングのときに言ってくれなかったのかってことだ。あのときお前何も言い返さなかっただろ。どうして言わなかったんだよ」

「それは……」

 僕は唇を真一文字に結び、朔太から視線をそらす。

「俺がお前のこと信じないとでも思ったのか?」

 朔太がエスパーの力でも身に付けたのではないかと、僕は一瞬焦った。

「だって朔太、噂話すぐ信じるじゃん」

「は?」

「岩原教授のこととか」

 僕はぼそっと言った。岩原教授の噂話を持ちだしたときの朔太のにやけ面を思い出して、笑いそうになったが、必死にこらえた。ここで、吹き出してしまえば厳粛ムードぶち壊しだ。

「岩原が若い女とデキてるって噂はまた別の話だろ」

「え?」

「なんだよ。俺が何でもかんでも言葉通りに受けとって疑うことを知らない人間とでも思ってんの?」

「違うの?」

「あのなあ」

 そう言って、朔太の顔が綻んだ。僕もつられて綻ぶ。

 気づけば、いつの間にか二週間ぶりのつまらないやりとりに僕と朔太は興じていた。

 僕は思った。本当の友達になれるかどうかは、二人の関係にひびが入ったとき、そのままこなごなに壊れるか、はたまたその亀裂を修復することができるかで決まるものなのではないのかと。壊れる関係なら二人の関係は所詮その程度の関係だった。でももし、亀裂を二人で一緒に修復できたら、それはきっと真の友情と言えるのではないだろうか。修復作業でかいた汗と、無事に作業を完遂したときの二人の喜びは計り知れないものではないだろうか。そして、きっとその友情は以前よりも強固なものになっているはずだ。僕は、中学のとき、恐れて手を伸ばせなかったものに触れられた気がした。

「そうだ。俺な、髙沢さんに告白したんだ」

 唐突にしかもさらりと朔太は言った。だが、ここで動ずるような僕ではない。

「するって言ってたもんね」

「でもフラれた」

「え⁉」

 ここは無意識に動じてしまった。

「『友達として仲良くしてね』だって。さすがにあんときは落ち込んだわあ」

「でも、朔太と髙沢さんが一緒にいるところよく見かけたけど」

 二人の光景を思い出すと、なぜか胸がチクリと痛んだ。

「それは俺が瑞香ちゃんに猛アタック中のときだな。コクったの今日のテスト終わった後だったし。クリスマスプレゼントに瑞香ちゃんをお願いしますってサンタクロースにお願いしてたんだけど、見事に撃沈した。サンタってほんとにいんのかなー」

 告白という名の一世一代のビッグイベントに挑み、見事大破した朔太は心底悔しそうだった。

「そうだったんだ……サンタクロースには荷が重かったのかな……」

「どういう意味だよ」

 朔太が僕を鋭い目つきで睨んでいる。口元はにやけているのだけれど。

 僕はハッと重大なことを思い出した。

「髙沢さんは⁉」

「え?」

「今日最後に髙沢さん見たのいつ⁉」

「えーっと、最後の試験のあとだから、夕方くらいだったかな」

「それから会ってないってこと⁉」

「そりゃあね、意気消沈したまま家帰ってそのまま寝て。飯食いに街まで出てきただけだから」

 時計の針を確認する。長いのと短いの二本の針で、二十三時を指していた。

「ごめん、急用思い出した! また正月明けに会おう! メリークリスマス!」

 僕は朔太に手を振って一目散に駆け出した。朔太は僕の突発的な行動に目が点になっていた。

「お、おう……。お、おい! あのさ、この際だからついでに言っときたいことがある」

 僕は、スタートをきった足に急ブレーキをかける。

「俺さ、入学式のときにお前に声かけたじゃん?」

「あ、うん」

「お前さ、あの日の朝、横断歩道で立ち往生してたおばあちゃんを助けてただろ?」

 僕は入学式の朝のことを思い出す。雨が降っていた。入学式の会場に向かう途中、横断歩道のど真ん中に、うつむいたまま立ち尽くしていた高齢の女性がいた。あまりに挙動がおかしかったので、自分らしくないなとは思いつつ、自分から声をかけたのを今でも鮮明に覚えている。

「あー、なんかそんなこともあったような」

「堤とは高校が一緒でよくつるんでたんだ。でもほんとは離れたかった。堤ってああいうやつじゃん? あいつの顔色うかがって、なんとなく合わせてなんとなく一緒にいる自分が嫌だった。でも、おばあちゃんを助けるお前を見て、こいつとならありのままの自分でなんていうかその……友達? になれると思ったんだ」

 朔太は恥ずかし気にはにかみながら言った。

「そうだったんだ……そんなとこ見られてたとか、なんか恥ずい」

「俺のほうが恥ずい」

「なら言う必要なかったのに」

「ついでだよ、ついで。ほら行けよ。急用、あるんだろ?」

「うん。ありがと。あのさ、僕もついでに言っときたいことがある」

「なんだよ」

「入学式の日、声かけてくれてありがとう」

「はっ、はやく行けよ」

 朔太は、僕を追い払うように手を大きく振っている。僕は朔太に背を向けて駆け出した。

 商店街の人混みを必死にかきわける。CDショップへ入る。客はほとんどいない。若い女性の店員が、息をぜいぜいきらしている僕を不審者でも見るような目でチラチラと見てくる。店の中央にある試聴コーナーへ向かった。入り口の自動ドアからまっすぐ進んで左に曲がったところにある。僕は曲がり角のところで立ち止まり息を整えた。駄目押しの深呼吸で、獅子のように荒ぶる呼吸を完全に落ち着かせる。おそるおそる角から顔を出す。髙沢さんはいない。CDショップにしてはやや広めの店内も一周した。だが、彼女はいなかった。店内は諦めて事故現場である交差点へと向かうことにした。店から出る間際、一応僕は不審者じゃありませんと目で女性店員に訴えかけた。女性店員はなお不信感を増した表情をした。

 事故が起こる交差点までは少し距離があるが、走ればなんとか間に合う。僕は馬車馬のように足を回転させ続け、ただ交差点だけを目がけて歩道を駆け抜けた。僕の視界にすれ違う人々の姿は新幹線の窓から眺めた景色のようだった。彼らの顔はびゅんと後ろに過ぎ去り、男か女かも見分けがつかなかった。ただただ全力で駆け抜けた。

 二十三時二十分。

 なんとか交差点にたどり着くことができた。身体が焼けるように暑かったので、僕はジャケットを脱いだ。僕の二度目の十二月はここから始まった。僕は気を構えて、目をめいっぱい見開いて、付近を隅から隅まで見回した。しかし彼女の姿を見つけることはできない。彼女はここには来ないのだろうか。もしかして、過去が変わったことで未来も変わり、彼女が事故に遭うことも、いや事故さえも起こらなくなったのか。ピンと張り詰めていた緊張の糸が少し緩む。いかんいかん。僕はスマホの時刻と交差点を交互に眺める。彼女が現れたらいつでも駆け出していけるように左足を前に出し、姿勢を低くする。

 二十三時二十八分。

 僕は、スマホをポケットにしまい歩行者マークの赤信号の真下に立った。信号が青に変わる。こちら側に渡ってくる人の中にも髙沢さんの姿はなかった。僕の気も知らないで、全員が何事もなく横断歩道を渡り切り、各々の目的地へ向かって歩き去っていく。スマホを見る。

 二十三時三十分。

 どうやら運命の時刻は無事に乗り切れたらしい。僕は安堵の息をついた。よかった。彼女が事故に遭うことはなかった。大学は冬休みに入ったので彼女と会うのは年明けになる。メールよりも直接会って話したい。この二週間まともに彼女と話すことができなかったし、不自然に避けてしまったのでそのことも謝らないといけない。また難癖つけて僕の予想を大きく超える注文をつけてきそうだけど、ひとつくらいは大目に見ることにしよう。

 僕はスマホをポケットにしまい、もときた道を歩き始めた。吹き抜ける風は冷たかったが、心はほんわかしていた。なんだか今日は疲れた。とても濃密な一日だった気がする。空を見上げてみた。星が輝いていた。なんだか嬉しくなった。顔を下げ、視線を戻す。僕の横目を大きな車体が猛スピードで通り過ぎた。通り過ぎたかと思うと、次の瞬間には甲高いクラクションの音とタイヤが擦れる音が僕の耳に届いた。僕の身体から血の気がさっと引いていく。背筋が凍っていく感覚。自分の手を見ると、小刻みに震えていた。恐る恐る音が鳴ったほうへと顔を向ける。

「あっぶねえだろぉ!」

 強面のおじさんが、トラックの運転席に座る眼鏡をかけた痩せこけた男性に向かって怒声を浴びせている。

「す、すみません!」

 トラックの男性は顔面蒼白でしきりに謝罪の言葉を連発している。道行く人々の注目を集めてはいるものの、みな我関せずといったところですぐにその場から立ち去っていく。足を動かそうとするが、どうしても言うことをきいてくれない。僕は、首を突き出し、目をこれ以上開かないくらい見開いて、トラック周辺を見回した。周囲の人間の挙動からしても、ケガ人はいなさそうだ。誰も、ひかれてないよな……。一抹の不安がどうしても拭えない。

「真琴くん」

 後ろから名前を呼ばれた。僕の心臓がバクンと跳ね上がり、ブルっと身震いした。

「髙沢さん……」

 彼女は、穏やかな笑顔で僕を見ていた。

「やっほ。ねえ、少し歩こうよ」

 彼女は僕に近づいてきて、そのまま通り過ぎた。硬直しきった足を動かすのに数秒かかり、ようやく僕の制御下に戻った足で急いで彼女の元へと走り寄った。

 僕と彼女は黙ってしばらく歩いた。僕は行き先を聞かず彼女の後についていった。

「髙沢さん、実は君に言いたいことがあって」

「私も。真琴くんに言わないといけないことがある」

 僕の脳がレディファーストだと指令を出す。僕の脳は正常に機能している。

「お先にどうぞ」

 彼女は立ち止まり、柵に手をかけた。どうやら街の近くにある海辺の遊歩道に来たらしい。柵の先には、街のイルミネーションに照らされてゆらゆらと煌めく海が広がっている。僕はベンチに腰掛け、彼女とその先に広がる海を眺めた。彼女は暗い夜の明るい海を眺めている。

「お魚さんたち、きっと眠れないよね。こんなに明るく照らされてたらさ」

「そうだね」

 彼女の声がいつになく静かだったので僕は気構えた。

「そうだなー、やっぱりまずは一度目のクリスマスのときの話をしなきゃね」

「え?」

 僕は自分の耳を疑った。

「あの日ね、一度目のクリスマスの夜。私はトラックに轢かれて死ぬはずだった」

 彼女は陽気に振舞おうとしていたが、声にははっきりと哀愁の念がにじみ出していた。

「でも、ある男の子が助けてくれたんだ。さてその男の子とはどこの誰だったでしょう?」

 彼女は柵の手すりに両手をかけ、体を後ろに倒した。

「待って待って待って。一度目のクリスマスってなに?」

 僕は自分でもびっくりするくらい大きな声で彼女に問い詰めた。

「やだなあ……わかってるでしょ?」

「……」

「ささ、気を取り直して、聖夜に私を事故から救ったヒーローはどこの誰だったでしょー?」

 彼女はクイズだドンと言わんばかりにウキウキした表情で僕に問いかける。僕は、彼女がこの話を楽しそうにしているのがなんだか癪に障った。

「そんなのわかんないよ。僕が見たのは君がトラックに轢かれたところだったんだ。その後に頭が痛くなって、気づいたら過去に戻ってたんだ」

 僕はベンチの背もたれに遠慮なく身体を預けた。顎をゆっくりと下に落とす。また顎を上に戻し口笛姿勢をとる。夜空にふーっと息を吐く。息は白くて雲のように広がり、すぐに闇夜に消えていった。

「ふーん。『夢』でも見てたんじゃないの?」

 僕は、急いで背もたれから背中をひっぺはがし、両の太ももに両の肘をそれぞれ置き、肘関節が太ももに食い込むくらいに前かがみになった。

「そんなことは……」

 もはや僕の脳は正常に機能していなかった。彼女の発言にただクエスションマークを生み出す器官と化してしまっていた。僕が何も言わないので、彼女は僕の顔を見て「面白い顔」と言い、海に視線を戻した。

「あの日、トラックに轢かれて横たわる男の子が誰か、私はすぐにわかった。いつも大学で目にしてた服装だったから。急いで駆け寄ると、その子の身体はピクリとも動かず、手のぬくもりはどんどん消えていった。私は泣きながら必死にその子の名を呼び続けることしかできなかった」

 彼女の声は震えていた。弱弱しくて、はかなくて、消えてしまいそうな声だった。

「その子ね、一瞬だけ私を見て微笑んだの。そして言ったの。『大丈夫?』って。声もろくに出ない状態だったのに。優しい瞳で私の身を案じてくれたんだ。私は祈った。どうか彼を死なせないでって。こんな終わり方なんてあんまりだって」

 彼女は柵に足をかけて、柵の外に身を乗り出した。長い髪の毛が海風になびいた。僕は心配になって駆け寄ろうとしたが、彼女はすぐに柵から足を下した。

「そしたらね、一人のお姉さんが私に近づいてきたの。サンタクロースの帽子を被ったその人は男の子の顔を見て、視線をゆっくりと私に移してこう言った。『お嬢さん、その子を心から救いたい?』って。私はうなずいた。そのお姉さんは微笑を浮かべて指を鳴らしたの。急に眠気が襲ってきて起きたら十二月一日に戻ってた。私はずっと勇気がなくてその子に話かけることができなかったんだけど、もうそんなこと言ってられる状況じゃないじゃん? 悲しいクリスマスを繰り返すわけにはいかないじゃん? だから私は勇気を振り絞ってその子に声をかけたの。大学近くの体育館で」

 僕は唾をゴクリと飲み込んだ。髙沢さんは柵から手を離して、僕に身体を向ける。彼女の目にはイルミネーションの光が揺らめいていた。

「クリスマスの日、私の身代わりになってトラックに轢かれて死んだ男の子はね、真琴くん、君だったんだよ」

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