第19話 12月21日

 試験前最後の休日は、家に引きこもって試験対策に勤しんだ。部屋の暖房は、上半身はぬくぬくと温めてくれたが足先への効果は無に等しかった。木で火を起こすように足をこすり合わせて熱を起こそうと試みた。だが、努力の甲斐虚しく冷え切った僕の足先は、冷淡な態度を一切崩そうとはしなかった。一時間勉強して、ベッドに潜り足を温める。そのまま眠りこけてしまい気づけば夕方になっていた土曜日はかなり焦った。

 ともあれ、火事場の馬鹿力を発揮した僕の素晴らしき集中力は時間の感覚までゆがめてしまったようで、気づけばあっという間に試験当日を迎えていた。火事場の馬鹿力というものは髙沢さん、朔太、そして父さんのことを忘れさせ、勉強に全集中させてくれるほどの威力を持っていた。僕は改めてその力の強大さに畏敬の念を抱くこととなった。

 十五分前に試験会場へ向かったが、まだ別の試験が行われていたようで中に入れそうになかった。出入り口前のロビーはすでにノートや教科書を片手に最後のわるあがきを懸命にやっている学生でごったがえしていた。一方で、すぐそこで試験が行われているというのに大声で話し合っている学生も一部いた。僕は喧騒から離れたくて、席が空いている望みは限りなく薄かったが近くの自習室に行くことにした。

 自習室は、僕が立っているこの場からまっすぐ進んで右折した先にある。僕は、自習室へと足を向けた。十メートルほど直進して右折したときだった。髙沢さんと朔太が二人並んで一冊のノートを見ながら談笑している光景が目に飛び込んできた。僕は、急いでUターンし曲がり角に隠れた。僕の後ろを歩いていた女学生がびっくりして立ち止まり、僕を不愉快そうな目でちらっと見て右折して行った。残りの大学生活ずっとこんなふうに二人から隠れ続けないといけないのだろうか。僕は大きなため息をひとつついた。

「あ、幸せひとつ逃げてった」

 顔をあげた僕の目の前に、髙沢さんがいた。あまりに自然にそこに立っていた。瞬間移動は現実にありえるのでしょうかと天才物理学者に聞きたくなった。

「ほらそこ、幸せが飛んでくー」

 髙沢さんはロビーの天井をさした指を徐々に斜め上へと挙げながら言った。

「捕まえてきてあげよっか?」

「何やってるの?」

 僕は彼女のペースにのまれず聞き返した。朔太が来て、彼女といるところを見られることだけはなんとしても避けなければならない。

「お手洗いに行こうと思って向こうから走ってきたら、角をまがったところに真琴くんがいて、真琴くんが開けた大きな口から幸せが飛んでったのを確認したので、追跡を試みようかと思い、お尋ねしているところであります」

 女子トイレは右折する角の手前にあった。つまり僕が今隠れるようにして立っている曲がり角の目の前にある。

「そうなんだ。じゃあ追跡はなしで。もうちょっと復習しときたいから失礼するね。それじゃ」

 僕は不本意ながらも喧騒の中へと戻り始める。

「あっち人少なくて静かだけど」

 彼女は自習室の方向を指さした。

「んー、いいよ。騒がしいほうが集中できるって最近読んだ本に書いてあったからさ」

 僕は渾身の嘘を炸裂させた。嘘を言い慣れていないのだが、うまく言えただろうか。

「そっか。それじゃ試験頑張ろうね」

 彼女くらいにしか通じそうにない嘘だが、どうやら成功したようだ。

 僕は拳を握り、親指だけ上げて彼女に向けた。彼女は小さく微笑み、僕と同じポーズをとった。

 学内に鳴り響くチャイムで、五日におよぶ定期試験の火ぶたが切って落とされた。法学部定期試験の先陣を任されたのは民法だった。心優しい民法の女教授は、六十歳間近ながらも学生たちから女神様と呼ばれていた。なぜなら彼女は試験範囲を極限にまで狭めてくれて、僕らからすればそれはもう問題を教えているのと同義だった。僕らにとって、彼女は天然記念物扱いの女神様なのである。答案用紙には順調に文字が書き連ねられていく。答案用紙の最後の一行に以上の二文字を書き終えたタイミングで、九十分に及ぶ戦いの幕引きを知らせるチャイムが鳴った。

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