第18話 12月18日
講義室に入ると、普段見かけない顔がずらりと並んでいた。試験前だけ講義に出席する方々である。おかげさまで僕はいつもの席に座ることができなかった。やむなく黒板に近い前列の席に座った。僕が前列に座ったため、必然的に髙沢さんが座る席が後ろになる。わざわざ後ろを振り向いてまで彼女の姿を確認しようという気にはなれない。講義室に来る途中に見かけた朔太は、僕が全く知らない友人らと楽しそうに話していた。僕と話すときの三倍の笑顔を振りまいていた。
僕の隣の席はぽっかり空いている。悲壮感を感じているわけではない。実のところ、かねてからリュックを地べたに置くのはほこりが付くから嫌だった。今日は隣の席ががらんと空いているのでそこに置くことにした。置いたはいいものの、講義室の席が足りなくなるくらいの勢いで次から次に学生が入ってくるので、結局僕はリュックを自分の椅子の下に置いた。
教授との距離が物理的に近づいたことで、授業の緊張度がぐんと高まった。教授の威圧感に睡魔も屈したようで、僕は居眠りすることなく、最初から最後までノートをとることができた。終業を知らせるチャイムが鳴ったらすぐに講義室を出ようとチャイムが鳴る十分前から、教授が後背中を向けるタイミングに合わせて筆記用具や教科書の片づけを始めた。教授が試験範囲を言い出したので、片づけたばかりの筆箱から急いでペンを取り出してノートに書きなぐった。
出入り口の争奪戦を知らせる終業のチャイムが鳴った。僕はペンとノートを乱雑にリュックに放り込んで出入り口のドアへ突き進んだ。どうやら僕と同じ考えの人は大勢いたようで、あっけなく僕の作戦は水泡に喫した。ならばと、僕は無心で大群の中へ飛び込んでみた。もたもたして朔太や髙沢さんと鉢合わせしてしまうことだけはどうしても避けたかった。神様が僕の心中を察してくれたのか、はたまた第六感がついに覚醒したのか、現在地から人混みを抜けた出口までの最短ルートが手に取るようにわかった。僕は蛇のように大勢の人の合間を縫って出口に近づく。もう少しで出口だ。そのときだった。誰かの肩にぶつかった。薄々こうなることはわかっていた。くねくねの蛇であろうと、どんなところでもすり抜けられるわけではない。
「すみません」
僕は謝りながら、ぶつかった人の顔を見た。
「いえ」
その人も僕の顔を見る。僕の心臓が止まった、ように感じた。
「髙沢さん……。朔太……」
ぶつかった女の子、その隣にいる男の子を見て僕は言った。
「あ……」
髙沢さんの顔は戸惑いの色一色だった。隣の男の子の顔は今にも僕に襲い掛かってきそうなそんな表情をしていた。
「ごめん。……それじゃ」
彼女は何かを言いたげな表情だったが、僕は兎にも角にも彼らの目の前から消え去りたい気持ちでいっぱいだった。だから、彼女の次の言葉を待たずに出口へと自分の身体をねじ込んだ。人混みの濁流に乗って外へはじき出されたので、獲物を見つけたチーターさながらに急いで立ち去った。
髙沢さんと朔太が一緒にいた。ということは、朔太はうまく彼女に思いを告げられたのだろうか。彼女が朔太の思いを受け止めたから、彼らは一緒にいたのだろうか。そこまで考えて、不毛な妄想だなと僕は思考を停止させた。
講義を二つ受けて、図書館へ向かった。試験前の図書館はスーパーのバーゲンセール並みの集客力を発揮する。一人掛けの机は、電灯が切れている一席を残してすべて埋まっている。さすがに電灯が点かない席に座る勇気はない。まるで今の僕みたいだから。四人掛けの机には男子三人組が座り、机の真ん中に置かれた分厚い本に頭を寄せ合って、身振り手振り語り合っていた。その横の席も、横の横の席も同じような感じだった。もう少し遠くに目をやると、二人掛けの机が空いていた。しめたと思い、他の人にとられまいとその席へ急行した。その席の机の上を見るとノートと筆箱が置かれていた。
「なんだよ……」
僕は小さくため息をついた。
「なんだよお」
後ろから女の子の声がした。本日この顔を見るのは二度目だ。一度目は一限目の講義で、しかも後味の悪い別れ方をした髙沢さんだった。朔太はいないようだ。
「なんでもないです。失礼しました」
僕は四人掛け席のほうへ踵を返そうとした。
「待ってよ。どこ行くの?」
「向こうの席が空いてたから」
「空いてないでしょ。てか、そこの席空いてるじゃん」
彼女は僕が先ほど期待を盛大に裏切られた席を指さしている。
「そこ私の席だから座っていいよ」
僕の期待を裏切ってくれたノートと筆箱は、どうやら彼女の所持品諸君だったらしい。
「いいよ。誰か来るんでしょ」
「朔太くんが来る予定だったんだけど、来られなくなったって、さっき連絡来た」
「そう……なんだ……」
「だから、どーぞ」
彼女は椅子を後ろに引き、僕に座るよう催促した。僕は迷ったが、彼女に聞ききたいことが頭に浮かんだので座ることにした。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
僕は以前女からもらった言葉を使ってみた。
「おお、お言葉に甘えて」
彼女は、顔を綻ばせて僕の目の前の席へ向かった。久しぶりに見た彼女の笑顔だった。
僕は教材を一通り机の上に出し終わって、気にしないようにしてもどうしても拭えない疑念を晴らすことにした。これから問う質問は、トラック事故を防ぐためにどうしても聞かなくてはならないから気になるのであって、その理由を抜きにして僕自身が気になっているわけではない。そう自分に言い聞かせる。
「髙沢さんとさ、朔太は付き合ってるの?」
「どうしてそう思うの?」
彼女は教科書に黄色のマーカーで線を引きながら答えた。耳にかけた長い髪が前に垂れ、それを細い指でまた耳にかけなおす。流れるようなしぐさだった。
「最近、二人で一緒にいるところをよく見かけるから」
僕は朔太が告白宣言を僕にしたときと、ここ数日頻繁に見かけるようになった彼女と朔太が一緒にいる光景を思い出していた。
「えっ、ストーカー? 今度の標的、私?」
彼女はどうしても僕をストーカーにしたいらしい。
「そんなんじゃないって」
「ま、朔太くんには告白されたけどね」
彼女はさらりと言ってのけた。僕の手に不自然な力がこもる。開いていた手がゆっくりと閉じて拳に変わった。
「そんなことよりさ、お父さんとはあれから……」
彼女は不安な面持ちで僕を見つめている。
「どうって、どうもなってないよ。いつもと変わらないよ」
「本当の理由は……聞けた?」
またこの話か。僕の拳に力がこもる。今度は自分の意志で込めた力だった。
「あの場で父さんが言ってたことが全てでしょ。ていうか、小学校はどこだったの? A中学校にいたってことは、僕のいたB小学校か、少し離れたC小学校のどっちかだったってことだよね? 僕はB小だったから、髙沢さんはC小?」
僕は強引に話題を変えた。
「お父さんの話は絶対嘘だよ。A中はほんとに荒れてなかったもん」
「そもそもどうして君がこの件にこだわるのか、その理由の方が僕は気になるよ」
「それは……。前にさ、真琴くん、家から追い出されたって言ってたじゃん? その話をしてたときの真琴くんの顔、すっごく辛そうだった。小学六年生の真琴くんがまだ心の中で泣いているんじゃないかって思って、私はただその涙を」
バン!
乾いた音が図書館に響き渡る。周囲の目玉という目玉が僕と彼女に向けられている。掌がジンジンする。音の発生源は僕の掌らしい。ハッと我に返る。
「ごめん……蚊が……冬なのにおかしいな。ははは」
僕は赤くなった掌を彼女に向け、無理やり笑顔をつくっておどけてみせた。彼女は一切笑わなかった。そして、なぜか辛そうな表情をしていた。
「ごめん。うちに帰るよ」
僕は立ち上がり、目玉のひとつに僕の目玉を合わせた。その目玉は、本来あった正しい位置へと返り、何事もなかったかのようにまた教科書に向かっていった。ほかの目玉も同様にあるべき位置へと戻って行った。
彼女と会うたび、後味の悪い別れを迎える。
いっそ彼女と出会わなければ、なんて思っている自分がいる。
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