第17話 12月14日

 憂鬱な朝だった。大学を休もうかとも考えた。だが、定期試験を来週に控えた今、講義を休むのは自殺行為に等しい。雨は昨日よりやや落ち着いていたが、地上に広大な影をつくっているどんより雲を見ると、さらに僕を鬱々とさせた。髙沢さんと朔太にどんな顔をして会えばいいのか。僕は、鉛を引きづるかのように重い足取りで大学へと向かった。学内の並木道でコンビニの彼と遭遇した。

「よお。元気かあ?」

 僕は、彼に目もくれず、足早に彼の前を素通りした。彼はすかさず僕を追ってきた。

「無視すんじゃねえよ!」

 彼は僕の肩を強く握り、僕の歩行を制止させた。肩に置かれた彼の手は、僕の身体を横暴に彼の方に半回転させた。

「いい顔してんじゃねえか」

「痛いから放してほしい」

「朔太とは仲良くやってるかあ?」

 事実無根のほらを朔太に吹き込み、僕と朔太の関係を壊した張本人。僕は、ふつふつとはらわたが煮えくり返るのを感じたが、すぐに冷却装置が作動し、拳を強く握りしめただけで何も言い返さなかった。彼に対して抱く感情よりも、中学時代をなぞっているだけの自分に対して抱くいらだちの方が大きかった。

「あ、そーだ。朔太と瑞香さっき二人仲良く歩いてたぜ」

 僕は無言を貫き、彼の手をはらい彼に背を向け歩き始めた。

「あっはっはっ! ごしゅうーしょおーさまあー!」

 彼の不快な笑い声が、僕の耳にこびりついて取れなくなってしまいそうだった。

 講義室に着くといつもの席に朔太はいなかった。そんなことはわかりきっていたことなのに、僕は寂しいと思ってしまった。僕は彼がどこにいるか探そうとはしなかった。いつもの席に座り、講義の準備をした。顔を下に向けたまま、目の端で窓際の髙沢さんがいつも座る席を見た。彼女は、紙に何かを書いているようだった。隣の席の子が身体を寄せその紙を覗き込む。彼女は慌てて教科書で紙を隠した。そして、笑いながらその子の身体を優しく押し戻していた。

 講義が始まる。教授が黒板に文字を書く。目を凝らして何度も見るが、アラビア文字にしか見えない。

「ねえ」

 僕の口から自然とその言葉が漏れ出て、自然と隣の席に顔を向けた。いつもなら悠々とノートをとっている朔太の姿は、そこにはない。あるのは空虚だけだった。まっさらな空虚だけが僕の隣の席にあった。僕は、教授の文字をそのままノートに転記した。あとで見返せば何かわかるかもしれない。いいや、違う。怖かったからだ。手を動かさないと、この空虚さに飲み込まれてしまう気がする。それが怖かったんだ。無心で手を動かし続けた。もう黒板は見ていなかった。ただただボールペンをノートの上で走せていた。終業を告げるチャイムが聞こえる。椅子と床のこすれる音が聞こえる。僕は重いまぶたをあげた。いつの間にか眠っていたらしい。ノートの上では、ボールペンからでたインクが不自然なダンスをしていた。黒板の右端に書かれた文字がまだ写せていない。講義室を出ようとする学生の図体のおかげで黒板が見えない。背筋を伸ばしてダメだったので、仕方なく立ち上がってみたが、それでもダメだった。やむなく僕は黒板に近づこうと席を離れたが、黒板付近で髙沢さんが友人らと話していたので諦めた。中途半端な文章で終わったノートを閉じて、僕は講義室を出た。

 次の講義は先週の金曜日に休校になった証券入門の振替講義だった。僕はスマホで経済新聞を読みながら、法学部棟から少し離れた場所にある教養棟へと向かった。道すがら、朔太と髙沢さんが楽しそうに並んで歩く姿が僕の目に入った。これでいいんだ。朔太が瑞香さんに気持ちを伝えて、クリスマスの夜に彼女の傍にいてくれたら、彼女があの事故に巻き込まれることはないだろう。僕のお勤めもこれで終わり。コンビニの彼もこれ以上、僕にちょっかいを出してくることはないだろう。なんだ、初めから僕なんて必要なかったじゃないか。僕が勝手に彼女のナイト気取りになって、事故から防ぐんだって意味もなく一人で舞い上ってただけだったんだ。ああ、恥ずかしい。我ながら滑稽だ。僕は、タイムスリップしてからの自分の一連の行動を思い出し、自分自身を嘲け笑った。

 僕は株のアプリを起動した。モルグループの文字の隣に+二五八の数字が表示されている。

 あれ。おかしい。以前なら、嬉しさで声が漏れ出ていたのに、今日は何も感じなかった。表示されているただの数字をただ眺めていた。

「おはようございます」

 今日担当の社員は、メガネをかけた恰幅のいい中年男性だった。学生一同、彼に向かって

挨拶をする。

「今日は雨の中、講義に参加してくださってありがとうございます」

 彼はまるで、僕ら学生に今から株を売り込むかのように満面の笑みを顔に貼り付けて言った。

「今日の株価上昇率一位はモルグループでしたね。先週は大幅に下げていましたが、今朝は一転高値をつけていました。さて、上昇要因は何か、皆さんご存知でしょうか?」

 彼は、右から左へとゆっくりと僕らを見回す。僕は手を挙げた。

「はい、ネイビーのジャケットの彼」

 彼は、大きい図体のわりに素早い動きで僕に近寄り、マイクを差し出した。

「どうぞ大きな声で」

「先週の続落はモルグループの新規事業への投資家の期待が高まりすぎたため、その反動によるものかと思われます。今日の上昇は動向を静観していた一部のファンドがタイミングを見計らって大きな買いを入れたものと思われます」

 僕は、経済新聞に書かれてあった文章をそのまま言った。

「ありがとう。とてもわかりやすい説明でした」

 それから彼の詳しい解説が始まり、経済界の裏話を随所に挟みながら楽しそうに話していた。僕は上の空で彼の話を聞いていた。講義終了前に、彼は投資信託のパンフレットを受講生全員に配った。チャイムが鳴り、学生がぞくぞくと講義室を出ていく。僕は席でパンフレットを眺める。社員が僕に近寄ってきて、何か気になるところはあるか、と尋ねた。僕は、いえ何もと言い返し、パンフレットをリュックに仕舞って講義室を出た。アパートに着くと、パンフレットは開きもせずゴミ箱へ放った。お腹が鳴ったので、外へ出た。コンビニ、スーパー、ファミレスに目もくれずに自転車のペダルをこいだ。お腹に入るものなら何でもよかったのに、僕の目にとまったのは、二週間前に行ったばかりのちゃんぽん店だった。店の前におかれたベンチで男女が肩を寄せ合って笑いながらお喋りをしている。僕は胸がギュッとなってその光景から目をそらす。店内に入り、ちゃんぽんとギョーザのセットを注文した。同じ料理のはずなのに、前食べた時よりも味が落ちている気がした。僕は目の前にぽっかりと空いた席をおもむろに見つめた。髙沢さんの顔が浮かんだ。僕は急いで顔をふせて麺をすすった。のどにつまって咳込んだ。水を流し込み、息を整える。バイトまでの時間は家で映画を観ることにした。一番大好きな映画を選んだのに、どうしようもなくつまらなくて、途中からだんだんうんざりしてきて、二十分見てテレビの電源を消した。


 トイレから出たところで三多さんとぶつかりそうになった。

「あ、ごめん」

「あ、すいません」

「あれ、何かあった?」

 三多さんは、不安そうな目をしていた。

「そんなことないですよ。至って平常運転です」

 僕は、できる限り平静を装って言った。

「いーや。今日の君は明らかにいつもと違うね。まあ話してごらん。人生経験が君よりかは、ちょっぴり豊富なお姉さんの胸を貸したげるから」

 三多さんは顎を斜め上にあげて、拳をつくり、自分の胸を誇らしげにたたいた。

 僕は、三多さんの胸に視線を落とした。お世辞にも豊富とは言えない。

「この変態。そういう意味じゃないんだけど」

「違います。今のは不可抗力です。僕の意思では決して逆らえない本能のせいです。変態じゃないです」

 僕は、早口言葉を述べるように言った。なまむぎうんぬんもろくに言えない僕にしては上出来だ。

「年頃の男の子だからなあ」

 彼女は胸の前で腕を組んで、うんうんと頷きながら言った。

「だから違いますって」

 僕は、投げやりな感じで言った。三多さんの顔に影が差しこんだ。

「それで、どうしたの?」

 僕に向ける三多さんのまなざしは穏やかだ。僕の心のマグマ溜りが揺れる。

「……実は」

「いらっしゃいませー!」

 店長の大きな声が洗い場まで聞こえてきた。

「あ、お客さん来た。またあとで!」

「え、あ……」

 三多さんの背中がだんだんと遠く小さくなっていく。僕は皿を洗い始める。無心で洗おうとした。でも、クリスマスの日から今日までの出来事が、映画のように白いプレートに映し出されて集中できなかった。手から滑り落ちて間一髪の所で命拾いした皿がいくつもあった。皿の上で上映される出来事を、ひとつひとつ無かったことにするかのように、僕は懸命にスポンジで皿をこすった。

「お疲れさま」

 島田さんから声をかけられて、僕はすべての皿が洗い終わっていることに気づいた。

「お疲れさまでした」

 僕は一礼して、更衣室へ向かった。

「店出て、左にまっすぐ進んだところのコンビニで待ってて。すぐ行く」

 三多さんは小さな声で僕にそう言い、更衣室の中へ消えていった。

 コンビニの駐車場で、スーツ姿の男性がたばこを吹かしていた。僕は煙を吸わないように息を止めて、男性の横を通り過ぎ店内に入った。店内を一周し、雑誌コーナーで足を止めた。見覚えのある雑誌は、髙沢さんが電車の中で読んでいた雑誌だった。その雑誌を手に取ろうとした時、店員のいらっしゃいませが聞こえた。入り口で、三多さんが僕に向かって小さく手を振っていた。僕と三多さんは近くの公園のベンチに腰を下ろした。

「何か飲む?」

 ちゃりん。ちゃりん。自販機が三多さんの手から離れたお金を吸い込んでいる音だ。

「いえ、大丈夫です」

「こういうときは、素直に奢られておくものだよ」

「はあ。それじゃあ水を」

「え?」

「なんです?」

「自販機で水を買う人初めて見た」

 僕は、目を丸くした。

 三多さんは、荒々しい音を立てて自販機の口に落ちてきたペットボトルを拾い上げ、僕に手渡した。隣に座った三多さんに感謝の言葉を述べ、半分ほど一気に飲み干し、まだ何も言われていないのに勝手に僕は話し始めた。

「実は、大学でよく一緒にいるやつと喧嘩したんです。そいつはある女の子が好きなんですけど、僕はある事情があって最近その子と一緒にいることが多かったんです。一度、彼女の家に招かれたことがあって、その光景を彼の友人が見ていてそれを彼に伝えたんです、根も葉もない真っ赤な嘘つきで。それを聞いた彼がキレて、僕と彼とはもうただの他人になったんです」

 僕は星一つない真っ暗な空を見上げながら言った。月さえも建物に隠れて見えなかった。

「その女の子ってもしかして、映画館のときに一緒にいたあの子?」

「はい」

「あー、あのお嬢さんね。可愛かったもんね。それである事情って? やっぱり付き合ってたの?」

 僕はクリスマスの日に起きたトラック事故を思い出す。

「事情については言えません。……でも、付き合ってないことだけははっきりと言えます」

「なーんだ、ちょっと期待したのに。まあ、おおよそ遠藤くんとその女の子が一緒にいるところを見た友人の友人が、ネタになりそうだと踏んで面白半分で、君の友人に付き合ってるだの、愛し合ってるだの吹き込んだんでしょ」

 三多さんは、呆れた顔をしていた。でもどこか面白そうにも感じている風だった。そういう声音だった。

「だいたい、そんなところです」

 僕も、三多さんと同じ表情で言った。でも全く面白みは感じていなかった。

「友人にはちゃんと本当のこと言った?」

 真剣な声音だった。

「いえ……怒鳴りつけられたときはあっけにとられてしまってて、何も言い返せませんでした」

「ちゃんと言わなきゃだめじゃん」

「……いいんです。もともと僕は誰かとつるむような柄じゃなかったし。彼とはたまたま入学式の日に席が隣になっただけで、大袈裟に言えば腐れ縁みたいなものでしたから。彼には他にも友達が大勢いるし、そもそも僕のことをどう思っていたかもわからない。でも今回の件で、僕と彼の関係は吹けば飛んでしまうようなそんな関係だってはっきりした気がするので、むしろ良かったんです。向こうにも腐れ縁で付き合わせてたら申し訳ないですし」

 不思議なことに、僕の頭の中はクリアになっていた。胸のもやもやが言語として僕の口から出て、それをはっきりと自分の耳で聞いた。自分の言葉には納得できるだけの真実味があった。

 三多さんは何も言わない。ちらりと三多さんを見ると、ベンチに座ったまま前かがみになって折れた木の枝で円を書いていた。

「ねえ。それ本気で言ってる? 君たち、大学ではよく一緒にいたんでしょ。社会に出たら嫌な相手でも一緒にいなくちゃいけないことはあるけど、学校、しかも大学ならすぐに距離なんて置けるでしょ。でも一緒に居たってことはそれなりに友情みたいなものがあったんじゃないの? それを初めから無かったものみたいに扱ってさ、それで君は本当に納得してるの?」

 僕に向いている三多さんの大きな瞳に吸い込まれそうになって、僕は急いで目をそらした。

「ねえ、どうなの?」

「仕方ないじゃないですか。今更ほんとのこと言ってどうなるんですか。信じてもらえなかったら、それこそ火に油を注いで炎上ものですよ。また怒鳴られるくらいなら今のままでいいんです。あとは勝手に時間がどうかしてくれます」

「あーあきれた。自己完結させて、それで満足なんだ。向き合おうとしないで逃げるんだ。これからもそうやって生きていくの? それで本当に自分は納得しているの?」

 誰かにも同じようなことを言われた気がする。すぐに顔が思い浮かび、すぐにそれを振り払う。僕はうつむいたまま、返す言葉を見つけられない。真夜中の静寂も、僕の口から出る一言目を待ちわびているようだった。

「ごめん。なんか言いすぎちゃったね。何勝手に熱くなってるんだろうね。あ、そうだ来週試験だから、明日からバイト休みだよね?」

 三多さんは空気をがらりと変えるように明るい声で言った。

「はい……」

「じゃあ、まずは試験に集中だ。懐かしいなあ、私も試験前は徹夜続きで最終日なんかほとんどゾンビだったからね。遠藤くんはゾンビにならないように計画的に試験対策しなね」

 三多さんは、人差し指を天に向け、それを上下に振り回しながら優しく言った。

「頑張ります……」

 三多さんが勢いよくベンチから立ち上がった。

「それじゃあお姉さんは帰りまーす。試験明けまでしばしの別れじゃ! なーんちゃって。試験頑張ってね」

 僕は黙って口角を上げてうなづいた。三多さんもうなづき返して、公園の出口に足を向けた。

三歩進んで止まった。

「遠藤くん。君の助けになりたいって心から思ってる人もいるってことを忘れないでね」

 三多さんが横顔だけをむけ、普段の優しい笑顔でそう言った。僕は三多さんの言っている意味がすぐに理解できなかったので、また何も言えなかった。三多さんが公園からいなくなったあとも僕はしばらくベンチにいた。冷たい風が僕に向かって吹いてきた。

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