第16話 12月13日
朝の八時。僕は一人、実家を出て大学のアパートに戻るため電車に揺られていた。昨日の夜、髙沢さんにメールを送ろうとしたが、悩んでる間に寝落ちしてしまい送れなかった。手から滑り落ちたスマホがベッドの下で無力に横たわっていた。その姿が、どこか自分を見ているようで笑ってしまった。期待はしていなかったが、彼女からの連絡はなかった。
アパートに着いたのは十二時だった。ぽっかりと空いてしまった午後をどう過ごそうか考えていたとき、朔太からのメールが入った。
『ひま?』
『ひま』
『サイクリング行こうぜ』
僕は、二つ返事で同意の旨のメールを送った。三十分後、朔太のアパートの下で待ち合わせになった。自転車のタイヤの空気が抜けていたので、タイヤがギブアップと言うまで空気を入れた。曇り空が広がっていたが、天気予報では夕方まで曇りマークになっていたので傘は持っていかないことにした。朔太のアパートは髙沢さんの家のその先にある。彼女の家へと向ったときと同じ道を通らなければならない。ばったり彼女と会ったらどうしようかと不安もあったが、そんなことは起こらなかった。起こったのは道中のコンビニで、以前僕に釘をさしてきた例の彼が、薄気味悪い笑みを浮かべて僕を見ていたことくらいだった。髙沢さんの家からさらに上と伸びる長い坂を上り、朔太のアパートに着いた。朔太は既に外で待機していた。
「急に悪いな」
開口一番、朔太の調子がいつもと違うことに気づいた。僕は少し身構えた。
「なんだよ、改まって」
「いや、何でもない。行こうぜ」
朔太は僕と視線を一度も合わせずに、下り坂を降りて行った。僕も朔太の後を追う。気持ち良いはずの下り坂の向かい風が嫌に冷たい。曇り空がさっきより暗くなっている気がする。朔太の自転車はロードバイクで僕のママチャリよりスピードがでる。だから、朔太とサイクリングに行くときは、朔太がいつも僕がちゃんとついてきているかを適宜確認し、僕のスピードに合わせてくれていた。でも今日は一度も僕を振り返ることなく、さきへさきへとペダルを漕いでいた。まるでわざと僕から距離を取ろうとしているかのようだった。ぐんぐん、ぐんぐん、僕と朔太の距離は開いていった。呼び止めようとしたけれど、さっきの朔太の表情を思い出すと、のどから声が出なかった。僕は何も言わず、必死に朔太の後を追った。ふくらはぎがはちきれそうだった。自転車のギアを一番早いやつにして、がむしゃらにペダルを漕いだ。チェーンがキシキシ泣き声をあげていた。二十分ほど自転車を漕いで、小さな公園の前で朔太が自転車を止めた。
「ちょっと休もう」
朔太はまだ僕と視線を合わせようとしない。なにかしたかなと不安な気持ちになる。
「わかった」
僕らは並んで大きないちょうの木の下に腰掛けた。朔太が自販機で買ったペットボトルのお茶を一口飲んで、蓋を閉めた。
「雨降ってきそうだな」
朔太の声には不機嫌さがはっきりとにじみ出ていた。冷静を装って、不機嫌さを僕に悟られぬようにしていることもわかった。でも、それを抑え込むことはできていなかった。
「天気予報は曇りだったよ」
僕の気はピンと張り詰めていた。朔太が何を言い始めるのか僕には皆目見当もつかない。だから余計に怖い。
「お前さ。瑞香ちゃんと付き合ってんの?」
「え?」
「堤から聞いたぜ。お前が瑞香ちゃんの家に行って何時間も家から出てこなかったって」
「堤って?」
「ああ、お前は知らないよな。俺の高校の時の友だちで、俺らと同じ法学部のやつだよ」
「堤……もしかして朔太の家までの坂の途中にあるコンビニでバイトしてる?」
「してる」
「あの人、堤っていうのか」
「知ってんの?」
「まあ、ちょっと話したことはありはする……」
コンビニの彼の名は堤。講義室の外で、僕をけちょんけちょんに言いくるめた彼の顔が思い浮かぶ。今は思い出したくない顔だった。
「お前にも、俺以外に話せるやついたんだな」
朔太は人ごとのように言った。
「えーと、いやでも話せるってほどじゃないよ」
「そんなことはどうでもいんだけどさ、堤の話ホント?」
朔太の一言一言があまりにもそっけなくて、僕は少ししんみりした気持ちになった。
「誤解だよ。僕と髙沢さんはそんな関係じゃないよ」
「お前、俺の瑞香ちゃんに対する気持ち知ってるよな?」
「もちろん。朔太と彼女はなんていうかその……ほんとにお似合いだと思ってる」
僕の口からその言葉が出た途端、胸がズキンと痛んだ。なんだ今の……。
「しらじらしい口利くなよ! お前、俺のこと影で笑ってたんだってな! 自分が仲良いからって、俺が瑞香ちゃんと付き合うなんか無理だって! 全部知ってんだからな!」
朔太の怒声がのどかな公園に張り詰めた空気を生み出した。
「そんな……誤解だって……」
目の前の光景と、中学のときの光景がピタリと重なった。
「誤解? じゃあお前の口で本当のこと言ってみろよ!」
「……」
僕はまた、声を出すことができなかった。
「見損なったよお前のこと。友達だと思ってたのに。じゃあな」
朔太の背中がどんどん遠ざかって行く。僕は、去り行く朔太の後姿をただ呆然と眺めていた。後姿が完全に僕の視界から消えた。その瞬間を待ちわびていたかのように雨が降り始めた。小雨だったのはものの数秒で、すぐに大粒の雨へと変化を遂げた。雨は、流星群のように次々と僕の身体に打ち当たってきた。痛かった。身も、心も。中学の、あの時のように。
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