第15話 12月12日
休日ということもあって、駅は人でごったがえしていた。僕は、改札口付近には近づかず、近くのコンビニで髙沢さんの到着を待った。数分と待たず彼女は現れた。
「お、おはよ……このまえはご」
僕は少し緊張しながら彼女に挨拶した。
「おはよ!」
僕の謝罪の言葉を遮るように、彼女は大きな挨拶を僕に返した。彼女は、先日の一件はなかったかのようにケロッとしていた。何のためらいもなく一直線に僕に近寄り、僕のポケットから財布をすり、お金を取り出して切符を買い、切符に記載されている行き先は絶対に見るなと厳重注意をした。彼女の言い分によると、行き先が分からないほうがスリルがあって楽しいから、ということだった。僕は彼女の勢いに圧倒されてしまい、目の前で起きている出来事をただ眺めているだけだった。
僕と彼女は改札口を抜け、列車の車両に乗り込んだ。二人して空いている席を探し始めると、彼女は絶対に窓際に座ると言った。初めに乗り込んだ車両には彼女のご所望の席がなかったので、二つ目の車両に足を進めた。運よく客が少なく、席は選び放題だった。彼女は右列の窓際に座った。とても満足そうな顔をしていた。僕は左列の窓際に座った。
「ちょっと、なんでそっちに座るの? こっち空いてるじゃん」
彼女は自分の隣の席の、通路側の席を手で二度叩いた。
「僕も窓際がいい」
「は? 小学生みたいな駄々こねてないで、はやくこっちに座りなって」
彼女は同じ席を二度叩いた。また険悪な雰囲気になることは避けたかったので、僕は、おとなしく彼女の隣の席に座った。腰を下ろす際に、僕の肘が彼女の腕に当たった。
「いたっ、え、もしかして怒ってるの?」
面倒ごとは勘弁してほしいのに、こうなってしまうのは、僕の悪運の強さのせいだろうか。
「ごめん。わざとじゃない」
「うそだ。前にもこんなことあったもん」
「あった?」
「うーわ、なんて人」
そういえば。僕は、図書館の中で彼女を背中に担がされた日のことを思い出した。あのときも、僕の肘が彼女に当たったんだっけ。ほんの一週間前の話だというのに、ずいぶん昔のように感じられた。
周りを見渡すと、僕と彼女がいる車両の席はいつの間にか埋まっており、僕が座っていた左列の席には小さな男の子とお母さんらしき女性が座っていた。男の子が窓にほほを張りつけ、外の景色を指さした。お母さんは、男の子の顔の横に自分の顔を寄せ、彼が指さす方向を一緒に見た。お母さんは男の子に何かを話し始めると、男の子は目をキラキラさせながらお母さんの話に聞き入っていた。
「あの二人、幸せそう」
髙沢さんが僕の耳のすぐそばで言ったので、僕はとてもくすぐったかった。
「そうだね」
僕は、髙沢さんと距離を少しとって言った。
「真琴くんは、お父さんとお母さん、どっちが好き?」
「前にも話したと思うけど、父さんとはあまり話さなかったから、自然と母さんと話すことが多かったね」
「じゃあ、お母さんとの思い出は?」
僕は、左列の母子を眺めながら母さんのことを思い出す。思い出したのが小さいころの話で、それ以降、母さんとの思い出がないことに気がついて僕はすこし悲しくなった。僕は、二つの昔話を髙沢さんにした。
※
一つは空き地缶蹴り。僕が幼稚園生のころ住んでいた国道沿いにあるアパートは、国道にあるバス停から、百メートルほど歩いた場所にあった。アパートを出て、百メートル歩くと、バス停に送迎バスが止まっていて、僕を幼稚園へと連れ去っていく。あのころの僕は、幼稚園に行きたくなくて、いや、ほんとは母さんと離れたくなくて、少しでも一緒にいたくて、百メートルの道がもっと長かったらいいのにといつも思っていた。百メートルの道の両側は塀になっていて、塀の外側は空き地になっていた。送迎バスがくるまでの数分間、空き地で母さんと缶蹴りをするのが日課だった。僕が草むらに隠してある空き缶を引っ張り出して、母さんに向かっておもいっきり蹴り飛ばす。空き缶は音をたてて母さんに向かっていく。母さんもそれを僕に蹴り返す。僕と母さんは一言も話さず黙々と空き缶を蹴り合う。数分後に来る幼稚園の送迎バスが、僕と母さんを引き離すことを僕は知っている。泣き出しそうになる僕の代わりに、地面とぶつかりあって空き缶がカランカランと泣き声をあげていた。
もう一つは転倒自転車。古い自転車を近所の子がくれたので、僕は、母さんと一緒に乗る練習をした。初めは補助輪をつけて乗っていたが、音がうるさいから外してほしいとお願いしてすぐに外してもらった。補助輪なしで初めて乗った自転車から、僕は盛大に転げ落ちた。膝小僧からは血がにじみ出ていた。
「おがあさーん、いだいよお」
「あららー、痛かったねー、よしよーし」
泣きじゃくる僕を前にして、母さんは笑っていた。笑いながら、優しく僕の頭をなでていた。
「痛い痛いの、飛んでけー」
母さんは僕の膝小僧の前で、人差し指をぐるぐる回し、勢いよくその指を青空へと向ける。
「いだいよお」
「あれれー、おかしいなあ」
母さんは僕の泣き顔をみて微笑みを浮かべている。
「そうだ、真琴。言いこと教えてあげる」
「なあにい?」
涙があふれて、母さんの顔ははっきりと見えなかった。
「涙がとまらない時はね、笑うの」
「痛いのに笑うのお?」
「そうよ。真琴が笑えば、痛いのもきっと笑い返してくれてどっかに飛んでってくれるのよ」
母さんは、両の手をゆっくりと僕の背中に回し、僕を強く抱きしめた。
「真琴、泣いてばかりいてもね痛いのは飛んでってくれないの。だから笑ってね。母さんは真琴の笑った顔が大好きよ」
母さんは、僕の背中を優しくさすりながら言った。
「うん。わかった」
僕は頬の涙を手でこすりとり、笑顔で言った。
※
「#$%#$&¥」
昔話を終えた僕に向かって、髙沢さんは鼻をかみながら言った。
「え、なんて?」
「だから、#$%#$&¥」
「ねえ、喋るか鼻をかむか、どっちかにしてよ。何言ってるのか全然わかんない」
「だーかーら、いい話だねって」
彼女は鼻の中がスッキリしたようで、すがすがしい表情をして言った。
「どーも」
呆れた僕は、駅前のコンビニで買ったメロンパンをリュックから取り出した。もちろんチョコチップ入りだ。袋を開けると甘い香りが僕のお腹をくすぐった。彼女はバッグから本を取り出し、読み始めた。
「髙沢さんは、お父さんとお母さんとどっちと仲が良いの?」
僕だけ話して、彼女の話を聞かないのはいかがなものかと思い、僕は尋ねた。本を持つ彼女の指に不自然に力がこもった気がした。
「んー、どっちとも仲いいよ。お父さんもお母さんもほんとに優しいの」
僕は、彼女の言葉と表情が一致していないのを見逃さなかった。そういえば、図書館で彼女とレポートを書いていたとき、気になることを言っていたことを思い出した。
「ところでさ、真琴くんの初恋は?」
僕が彼女の両親の話の深堀りするのを阻むかのように、彼女は唐突に言った。
「いきなり?」
「うん。聞いてないなーって思って。さあ白状なさい」
彼女は、三十度ななめに首を落とし、興味津々な顔で僕の顔を覗き込んでいる。彼女の両親のことについて少し気になったが、彼女の表情を見ると尋ねることは憚られた。
「やだよ。話したくない」
「いいじゃーん、いいじゃーん、このけちんぼー」
彼女は、子供みたいに足を座席の前でバタバタし始めた。あきらめの悪い子供のようだ。
「教えてくれないと、もう一生口きいてあげない」
彼女は、窓に映る景色を眺めながらわざとらしく大きめの声で言った。まだ足をバタつかせている。
「はあ⁉」
僕の口から無意識に出たこの言葉は、この場面では、まっとうなセリフだろう。
「はあ?」
彼女は僕の口調を真似て言う。
「はーあ。あーあ」
僕はあきれた気持ちを隠しきれず、その気持ちを言葉にのせて口から吐き出した。
「教えてくれるよね?」
彼女は窓から顔を離し、僕に身体をグッと寄せる。近い。
「はあ。わかったよ」
「ヤッタネ」
彼女の顔がだんだん小悪魔に見えてきたので、僕は少し恐ろしくなった。
※
僕の初恋、たぶん初恋は、小学校六年生のときだった。
修学旅行前に六年生のクラス合同の説明会があり、長方形の教室に生徒は一列に体操座りで座っていた。僕の隣には違うクラスの女の子が座った。名前はもう忘れてしまったが、髪が長くて眼鏡をかけており見るからに大人しそうな子だった。僕は五年生で転校してきて、その日が初めて彼女と会った日だった。
先生からの説明が始まり、僕は、配られた修学旅行のしおりに先生が話してる注意事項を書き込んでいった。説明中、隣の女の子の後ろにいる男の子たちの話し声がずっと聞こえていた。僕は静かにしてくれないかなと思いながら男の子たちを横目で見ていた。するとその中の一人が、女の子が鉛筆をもつ手の肘を押した。彼女のしおりの一ページに不必要な一本の線が描かれた。彼女は何も言わず筆箱を漁り始めたが、一向に消しゴムが出てこなかった。僕は見かねて、そっと彼女に消しゴムを差し出した。彼女は、それに目もくれず黙々と筆箱の中を漁っていた。
「これ使っていいよ」
僕は、見るに堪えかねて彼女に言った。彼女はやっと手を止め、僕を見た。僕は固まった。初めて見た彼女の顔は、小学生には見えないほどやつれきった顔をしていた。
「いらない」
彼女は、氷のように冷たい声で僕に言った。彼女の首元に二枚の絆創膏が貼られていた。その絆創膏は青いあざを完全に隠しきれていなかった。僕は、そのあざが彼女から元気を吸い取っているような気がした。だから僕は、彼女に少しでも元気をあげたいと思った。
「じゃあ、ここに置いとく。使いたくなったらいつでも使って」
僕は、僕と彼女の丁度中間点に消しゴムを置いた。彼女はその消しゴムをじっと眺める。
「これほんとに消しゴム?」
「もちろん。今人気の怪獣消しゴムだよ。知らない?」
彼女の顔はキョトンとしていた。その消しゴムは、当時有名だったアニメに登場する怪獣を模した消しゴムだった。そして、その怪獣は僕の一番お気に入りのキャラクターだった。
「どうしてこれが人気なの? 怪獣って街を壊す悪いやつでしょう?」
「怪獣だっていいやつはいるんだよ。こいつは優しい怪獣なんだ」
僕は、彼女との間に置かれた小さな消しゴムを見ながら、自慢げに話した。
「ふーん」
彼女は、消しゴムを手に取り、まじまじと見つめている。
「ありがとう」
彼女はそう言って、小さな怪獣の足で鉛筆の線を消し始めた。
「どういたしまして」
その後は、先生の話に耳を傾けていた。彼女の後ろの男の子たちは飽きもせず、彼女にちょっかいを出していたが、僕は彼らに何も言うことができなかった。説明会が終わり、教室に戻ることになった。僕は最後に教室を出ようと、入り口に群がる子供たちがいなくなるのを待っていた。彼女もまた、同じように入り口を眺めていた。みんなが出終わった最後に、僕と彼女は一緒に教室を出た。
「これ、ありがとう」
出てすぐ彼女は、僕に消しゴムを返そうとした。
「それあげる」
正直に言うと、先生が話している間、僕の脳裏には、彼女の首元の絆創膏がずっと浮かんでいた。彼女を元気にするために僕に何かできないだろうか。ちょっかいを出していた男の子たちにやめなよとも言えない僕でも彼女を元気にするためにできることはないだろうか。そう考えていた時、唯一頭に浮かんだのが、消しゴムをあげることだった。
「いいよ。いらない」
僕の唯一のアイデアを、彼女は無下に一蹴した。僕は悲しくなったが、ここで引き下がる僕ではない。
「あげる」
「いらない」
「うけとってほしい!」
自分で何言ってるかわかんなかったけど、言ったからには後には戻れない。
「いらないってば!」
「君に笑ってほしいんだ!」
彼女の虚ろな目が、少しだけ見開いた。僕の顔に全身の血が集結してくる感じがする。
「あ……いや、その怪獣さ、すごく優しいやつでさ、街の皆を守ってくれて笑顔にしてくれるんだ。僕もそういう怪獣になれたらいいなーなんて思ってさ……」
少し間を置いて、彼女がくすくすと笑い出した。彼女の見せた笑顔は、僕がそれまでに見てきたたくさんの人の笑顔の中でも、とびっきり素敵な笑顔だった。
「遠藤くんは、怪獣にはなれないでしょ」
彼女はお腹に手をあてて、笑いをこらえながら言った。
「あ、たしかに」
なんだか可笑しくなったので、僕も一緒になって笑った。
「どうして僕の名前知ってるの?」
彼女がうつむき、僕の足元を指さす。
「上履きに書いてある」
上履きを見ると、僕の下手くそな文字で僕の名前が刻まれていた。
「うわ、はずかし」
「ふふふ」
彼女の和らいだ表情を見て、彼女が抱えている暗闇の中に、一筋の光を照らせたかななんて思ってしまった。
「悲しいことがあったらその怪獣に言うといいよ。きっと守ってくれる」
「うん……ありがとう。大切にする」
彼女の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「じゃあ、またね!」
僕は恥ずかしさで頭やら目やら口から火を噴き出しそうだったので、彼女の前から急いで立ち去った。
※
「これって初恋かな? ちょっと違う?」
つい当時のことに思いを馳せて髙沢さんのことをすっかり忘れていたので、急いで彼女に問いかけた。彼女の頬に一筋の涙が流れていた。今度は僕が彼女の顔を覗き込む番だった。
「そんなに感動する話だった?」
彼女は、ハッと我に返り、涙をぬぐった。
「怪獣消しゴムって……子供だね……」
彼女の声は小さく震えていた。
「何とでも言ってよ。でさ、一番の失態がさ、その子の名前聞くの忘れちゃって。学校で何度か見かけたんだけど、私に近づかないでオーラ全開で話しかけづらくて。卒業式の日こそは、なんて意気込んでたんだけど、その子もう学校にいなかったんだよね。……元気にしてるかな」
僕は、窓の外をぼんやりと眺めた。
「きっと、元気にしてるよ。怪獣消しゴム筆箱に入れてさ」
彼女は、優しいまなざしで僕を見つめている。
「絶対ばかにしてるでしょ? 怪獣消しゴムほんとに流行ってたんだって」
僕はため息を一つついた。
「でさ、実はこの話には続きがあってさ。大学入試がいよいよ始まる直前だったんだけど、隣の机から何かがころげ落ちて僕のイスの下に転がってきたんだ。拾ったらさ、なんとその怪獣消しゴムだったんだ。懐かしーって思いながら落とし主に渡したんだけどまさかの女の子でさ。もしかしたらって思ったんだけど、髪で顔を隠されて顔見れなかったんだ。きっと恥ずかしかったんだろうけど」
僕は、笑いながら話した。彼女は、穏やかな笑みを浮かべて僕の話に耳を傾けていた。
しばらく時間が経ってから、目的地に到着したようだった。僕はすっかり眠ってしまっていた。
「ここ! 降りるよ!」
髙沢さんが僕の肩をすこし力が強くないかと思うくらいゆさぶり、夢の中にいた僕を叩き起こす。彼女もまた、いま目覚めたかのように、半分しかまぶたが開いていなかった。僕と彼女は期せずしてそろって目をこすりながら電車から降りた。
「ここは……」
降りた駅は、僕が知っている駅だった。駅は以前から改装工事が行われていた。今では昔の面影はとうに消え、文明開化を起こして近代的な駅へと変貌を遂げていた。特にこの駅に思い入れはないのだけれど、この駅を見ると周囲の環境は気づかぬうちに変化しているのだと思わされる。自分だけ何も変わらないまま、昔に取り残されている気がした。僕と彼女は改札口へと歩を進めた。彼女はまだ目を人差し指ですりすりしながらむにゃむにゃ言いながら歩いている。いい加減、目を覚ましてほしい。こけられるとこっちが困る。改札口を抜け、駅のホームを潜り抜けた。ホームを出たすぐのところに、変な顔の銅像が置かれていた。「へっ」と今にも言い出しそうな顔をした銅像だった。僕はあまりセンスを感じなかった。
「えええ! 何これ! ステキ!」
彼女は、夢の国から現実へと帰還し、さきほどまでの眠気を感じさせないくらい興奮し、急いで銅像に駆け寄った。
「真琴くんもそう思うでしょ?」
僕には銅像センスもないのだろうか。
「うん! そうだね!」
彼女のこの顔のきらめきを見て、誰に否定的発言ができようか。僕には到底理解しがたいが、彼女の瞳に映っているのであろう銅像が放つ美しさを、僕も懸命に見つけ出そうとした。しかし、僕の目は、銅像の中にきらめく光景を見つけることができなかった。
「写真撮ったげようか?」
とっさに思いついたので言ってみた。彼女の瞳が、なお一層のきらめきを宿す。
「わあい! じゃあ、あ……」
彼女は自分のスマホを手に取って、青ざめた表情をしている。
「充電切れみたい」
彼女は心の底から悔しそうに言った。
「じゃあ、僕のスマホで撮って後で髙沢さんに送るよ」
「いいの⁉ やったー!」
ここからが地獄の始まりだった。彼女は写真の出来栄えに異様なほどの執着を見せた。僕は不平不満を一言たりとも漏らさず、満面の笑顔とともにスマホのシャッターを押し続けた。道行く人々の注目を浴びていたが、十枚目を撮る頃には諦めがついていた。彼女が満足したのは三十枚目の写真だった。二人で近くにあったベンチに座る。
「いい感じに取れてるじゃーん」
彼女は、嬉しそうに言う。
「じゃーん」
「私の遺影にできるね」
「え?」
僕が今、無意識に感じていた穏やかさに突然亀裂が入る。クリスマスの夜、道路に横たわった彼女の姿が脳裏にちらつく。
「冗談、ジョーダン、じょーくぅー」
「冗談もやすみやすみ言ってよ」
それ、冗談じゃないからと言いたかった。彼女の遺影なんて誰も望んでない。
「ねえ」
「ん?」
「私のこと忘れないでね」
彼女は僕が撮った写真を一枚一枚ゆっくりめくりながら言った。
唐突すぎる発言に僕は言葉を失った。ダンスを見に行ったときもそうだったが、彼女は時折あまりに悲観的なことを言う。まるで自分の存在がこの世から消えてなくなってしまうような、そのことを予期しているだけではなく、すでに受け入れているかのような、そんな感じが彼女の言葉からは漂っていた。僕はただ、その言葉が出た彼女の唇を眺めていた。
「ジョーダンだよーん。さあ行こっ」
彼女は、僕にスマホを渡し、素早く立ち上がった。
「う、うん」
つられて僕も立ち上がる。
「で、どこに?」
「真琴くんのいえかな」
「はいはい。で、どこ?」
「真琴くんのおうち」
「言い方変えただけで、指してるところ変わってないよ」
「連れてって。ちなみに彼女枠で」
「そんな枠ない」
「お願い」
どこまでも冗談を言うんだなと思った。でも、彼女の眼差しは真剣だった。それは、鬼気迫るほどに本物だった。彼女の眼差しに頭を鷲掴みにされてしまった僕は、答えを出すのに時間を要した。数秒後、僕は近くのバス停へと黙って歩き始めた。
「ここから歩いて行くには遠すぎる」
「やった」
彼女の表情には、柔らかさが戻っていた。
バスの中では何も話さなかった。僕はもう一度思索にふけっていた。どうして私を忘れないでなんて言ったのか。考えれば考えるほど、僕は深い海の底にゆっくりと落ちていく感覚を覚えた。彼女に聞けば、すぐに水面に出て、陽の光で疑問も晴れるかもしれない。いや、それはないか。だって、彼女はそれを聞かせるスキを絶対に僕に与えない。
バスが駅から離れていくと、見慣れた風景が姿を現した。変わりゆくものの中で、変わらないものもあることが僕の心に安心感を生んだ。バスの運転手が、僕の実家付近の地名を独特なアクセントでアナウンスした。
「降りる」
「わかった」
バス停から僕の実家までは一直線だ。実家に帰るなんて、父さんと母さんに伝えていなかったし、同年代の女の子を連れ帰ってきたとなれば、二人もさぞ腰を抜かすことだろう。
実家の玄関のチャイムを鳴らす。ドアの鍵が外れ、ゆっくりとドアが開く。開かれていくドアの間から顔を出したのは父さんだった。僕が子供の頃から変わらず、いつもの紺色のジャージを着ている。やや疲れ気味なのは、僕ではなく、野菜へと注がれる愛情のためだろうか。
「おお、真琴か。帰ってくるなら言ってくれればよかったのに。母さんなら外に出てるぞ」
「うん。ごめん」
僕は意識して口角をあげ、父さんの顔から視線をそらして言った。
「こんにちは」
僕の後ろから、髙沢さんが落ち着いた声で父さんに挨拶した。
「こちら髙沢瑞香さん。僕の……」
僕の? 友だち? 僕は今そう言おうとした? 何か勘違いしていないか? お前はただ彼女をトラック事故から救うために一緒にいるだけじゃないか。彼女と友達でもなんでもないだろ。もう一人の僕が、そう言った。友だちをつくるってことがどうなることかわかるよな? もう一人の僕が、そう言った。
髙沢さんの靴のとがった先っぽが僕の足に当たった。痛い。ささやいた二人の僕が瞬時に消えた。僕は咳ばらいを一つした。
「大学の……友だち……」
「チッ。彼女だろーが」
舌打ちと辛らつな発言が僕の耳にだけ聞こえた気がするけど、聞こえなかったことにした。
「そうか。はじめまして。真琴の父です。どうぞあがって。妻は今外に出ていてもう少ししたら帰ってきますから」
「ありがとうございます!」
髙沢さんは元気にお礼を言い、深々と一礼した。彼女は、父さんが家の中へと入っていくのをしっかり確認して僕を睨みつけた。僕はそっぽを向いて家の中へと入っていった。
六畳の居間の真ん中に置かれたテーブルに父さんが座り、その向かい側に僕と髙沢さんが座った。今更ながら、髙沢さんが我が家にいるというこの奇妙な光景に大きな疑問を感じる。僕は、静かに父さんが入れてくれたお茶をすすった。三人の空間は、お通夜状態だった。僕は特に話すことはなかったし、それは父さんも同じことだろう。この状況を招いた張本人である彼女はといえばお茶に一口もつけず、テーブルと見つめ合って無言を貫いている。何か言え何か言え、としきりにテレパシーを送ってみるが、どうもうまくいかない。やむなく僕がしびれを切らして、天気の話題でも振ろうとしたときだった。
「あの。単刀直入にお伺いします。どうして真琴くんを家から離れた中学校に入学させたのですか?」
彼女は息継ぎせず、一思いに言い切った。僕は彼女の口から吐き出たまさかの発言に驚愕し、彼女の顔を鬼の形相で睨みつけた。さっきまでとはうって変わって、父さんの目に火が灯る。彼女は、恐怖すら感じる父さんの眼力に負けじと対抗していた。
父さんから次に発せられる言葉に不安と期待が入り混じる。彼女の問いは、僕がずっと聞きたくて、聞けなかったこと。聞きたかったけど、聞きたくなかったことだった。
父さんがお茶を一口すすった。テーブルにコトンと湯呑をおいて口を開いた。静かに手を組む。
「近くにあるA中学校は荒れていることで有名だったからね。今でこそ落ち着いたが、私が現役の警察官だった頃は、本当にひどい有様でね。週に一回は学校から連絡がある始末でね。そんな学校に大事な息子は預けられんよ」
父さんは遠い日のことを思い出すかのように、外の庭で育ててある小さな野菜畑を眺めながら答えた。
僕は、むず痒い感触を覚えていた。小学生の時、聞けなかった言葉をやっと聞いた。なんだ、父さんは僕のことが嫌いだったわけじゃないのか。そんなことなら、勇気を出して聞き出せばよかった。僕は揺れているお茶の水面を見つめながら安堵の胸をなでおろした。しかし、彼女は僕の安堵を一瞬にして打ち破った。
「それは嘘ですよね。当時、私はその中学校に通っていましたが、警察沙汰になるような出来事は一度もありませんでした」
父さんの顔がゆがんだ。髙沢さんの眼をじっと見つめている。いや、睨んでいる。
「私が嘘をついていると? なぜ?」
「本当のことを聞かせてください。真琴くんが中学校でどんな経験をしたか知っていますか? 真琴くんは……」
僕の血管のありとあらゆるバブルが開かれた。自然とまぶたが広がり、力がこもった。
「辞めろ!」
僕は大声で彼女の言葉を遮った。僕の頭には一瞬にして血がのぼっていた。それは全く意識の範囲外で体に生じたことだった。中学時代のことを今さら話して父さんに余計な心配をかけたくない。それに彼女の口から話すべきことじゃない。それは僕の秘めた話であって、僕以外の誰かがベラベラ語っていいものじゃない。父さんの発言の真偽がどうあろうと、僕のことを思って家を出したのならそれでいい。少なくとも当時の僕の心は救われたのだ。それでいいじゃないか。
「帰って」
僕は彼女に、静かにその一言を放った。彼女は立ち上がり、家から出て行った。僕は居間を出て、二階の自分の部屋に行った。部屋の中は空気が凍っていた。冷たかった。きっと僕が返ってくるとき以外はこの部屋に光が灯ることはなかったのだろう。その冷たさが、興奮している僕に冷静さを取り戻させた。冷静さを取り戻した僕は家を飛び出て、彼女の後を追った。あんなに強く言う必要なんてなかった。僕は後悔していた。家の付近を全力疾走で探し回り、バス停まで探しに向かったが、彼女の姿はもうどこにもなかった。僕は額に浮かんだ汗を拭いながら、家へと戻ることにした。僕がうつむくと、額の汗が地面へと垂れ落ちて、黒いシミをつくった。
「真琴?」
顔を上げて、声のするほうを見る。
「母さん」
久しぶりに見た母さんは少し痩せたような気がした。もともと色白ではあったが、その日はいっそう白く見えたので心配になった。
「帰ってくるなら、連絡してくれたらよかったのに。ご飯の用意何もしてないわ」
「いいよ。気にしないで」
「そう? 寒いからはやく家に帰りましょう」
「うん」
僕は母さんと家に戻った。
半年ぶりの家族三人の夕食は、相変わらず静かだった。昼間の出来事はなかったかのように父さんはテレビを見ていた。母さんは学校のことやバイトのこと、交友関係についていろいろと質問をしてきたが、特に話せるようなネタはなく、すぐに会話は途切れた。三人の間を持たせたのは、テレビの中で上半身裸で贅沢なお肉を身にまとったピン芸人のキレのあるギャグだった。到底笑えるような気分ではなく、小さな箱の中で一生懸命に体を動かす彼の雄姿を僕はただぼんやりと眺めていた。
「ごちそうさま。もう休むよ」
父さんが箸をご飯茶碗の上にのせる。カチャリと音がたつ。立ち上がり、二階の寝室へと続く階段を上り始める。木製の階段のきしんだ音が聞こえた。
「おやすみなさい」
僕と母さんは父さんの背中に挨拶した。ご飯も食べ終わっていたので、僕は風呂にはいることにした。大学のアパートではシャワーで済ませていたので、湯船につかりたかった。湯船につかれば、今日あったことを少しは冷静に考えられるかなと思った。湯船につかってみたが、考えは何もまとまらなかった。身体は温まった。でも、心の中はざわついていた。そして、こころなしかひんやりとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます