第14話 12月11日
華の金曜日だというのに、僕の気持ちは沈んでいた。髙沢さんとどう接すればいいかわからなかった。学校では極力、彼女の目に触れないようにしよう。金曜日に彼女と出会う可能性がある講義は一つだけだ。そこさえ凌ぐことができれば、僕の平穏は守られる。
自転車を駐輪場に止めた。今日はずいぶん早く大学に来た。通学途中で彼女と鉢合わせするのを避けるためだ。一限目が始まる時間まで四十分もある。二階にある講義室の真下の一階にある自習室で時間を潰すことにした。
しばらく経って自習室の外がざわつき始めた。自習室の窓からそっと外を眺める。たくさんの学生が、階段に列をなして登っており、掃除機に吸い込まれるように講義室の前方のドアに吸い込まれていた。その中に、黄色いマフラーを首に巻いた髙沢さんを発見した。彼女が講義室に入ったのを確認し、僕は自習室を出た。後方のドアから講義室に入り、いつもの席に座ろうとした。しかし、その席から少し離れた席に座った。コンビニの彼が僕を睨みつけていたからだ。それにもかかわらず、僕より遅れて講義室に入ってきた朔太はわざわざ僕を探し出し、隣の席に座った。あーあ。朔太は、席に座るや否や僕の肩にバシッと手をおいた。そして、窓際の席をほぼ睨みつけるような目つきでこう言った。
「俺、決めた。瑞香ちゃんに告白する。告白する」
朔太の目は、あきらかにハンターの目だった。獲物を狩りに行く目だった。並々ならぬ決意を感じさせる目だった。髙沢さんを一心に捉えて離さなかった。
「わざわざ二回も宣誓しなくていいから。それと告白のことは昨日も聞いた」
髙沢さんの体調はすっかり良くなったようだ。友達と雑誌を見ながら何かを話している。彼女が横を向いた。僕は、瞬時に彼女の席の真反対側に顔を向けた。
「瑞香ちゃんがこっちに手振ってるぜ。かわええなあ。恋のキューピッドも応援してくれてんのかなあ」
僕はリュックの中で何かを探しているふりをした。講義に必要な物は既に出してしまっているのだけれど。朔太が手を振っているのが僕の視線の端に映る。朔太の手が止まったのを確認して、おそるおそる彼女のほうを見た。彼女は雑誌を読んでいた。
講義が始まった。講義中、僕は数回、彼女の後姿を眺めた。朔太は、スマホで『告白必勝フレーズ、フレフレそこのメンズくん』というサイトを見ながら決戦に備えている。コンビニの彼は、どうやらゲームに勤しんでいるようだ。
講義は粛々と進み、終業を告げるチャイムが鳴る。僕は、チャイムが鳴る五分前に片付けを終えていたので、チャイムと同時に席を立ち、朔太に向かってガッツポーズをして、そそくさと講義室を出た。出入口のドアを開けるとき、彼女の視線を感じたが、僕は気づかないふりをした。急いで階段を降りる。つまずいてこけそうになったが間一髪で、大惨事は避けられた。速足で駐輪所へと向かう。
「待って!」
髙沢さんの声が聞こえる。
自転車の防犯チェーンのロックがうまく外れない。最近調子が悪くて買い替えようと思っていたが、先延ばしにしてきたつけが回ってきたようだ。髙沢さんが僕の傍によって来る。前かがみになって手を膝の上に乗せて、肩を上下させている。彼女の口から真っ白な息がしきりに吐き出ている。
「元気になったみたいでよかった」
僕は、ロックの解除を再開した。だが、どうしても外れない。
「なんか私のこと避けてない?」
「そんなことないよ」
「ぜったい避けてるうー」
「避けてないー」
やっとチェーンが外れた。僕は急いで自転車にまたがる。
「ごめん、次の講義があるんだ。それじゃ」
僕は足の力をなみなみと注ぎこみペダルをこぎ出した。髙沢さんが僕のリュックを掴みに来る。だが、僕のリュックはつるつるの革製のため、つまむことすらできない。
「ちょっと!」
あきらめの悪い彼女は、僕を呼び止めようとする。僕は全力でペダルをこいだ。コンビニの彼に彼女と一緒にいるところを見られでもしたら、面倒だ。それに、朔太の告白のこともある。中学時代の反省から友人の思い人とは距離を取った方がよいことは学習済みだ。
学内のいたるところにそびえ立つ樹木の葉は落ちきっていて、素っ裸にされたら彼らも寒いだろうなと僕は思う。突然、自転車のチェーンがギーギーと嫌な音を立て始めた。だんだん音が大きくなり始め、耳障りな音を四方八方へまき散らしている。過ぎ行く人々が僕とその自転車を見て、迷惑そうな顔をしていた。心の中で謝罪の言葉を繰り返し述べつつ、次の講義室へと向かった。
「おはよう! 聞いたよ聞いたよ! 昨日お皿割っちゃったんだって?」
バイト先の更衣室の前。三多さんは相変わらず元気だ。
「あ、はい。まあ……」
あ。しまった。反省文を書くのをすっかり忘れていた。昨日の今日で、頭の中から存在自体まるごと抹消されていた。急いでリュックの中を漁ると、反省文と書かれた真っ白な紙が、奥深くに埋もれていた。
「おめでとうって言ったほうがいいかな? どんまいって言ったほうがいい?」
「後者でお願いします」
「おめでとう」
僕は、眉間にしわを寄せて三多さんを睨んでみる。
「ごめんって。どーんまい」
僕は、はーと深いため息をひとつついた。
「反省文書くの忘れてました。今から書きます」
「はいよ」
三多さんは、手を振りながら女子更衣室の中へと消えていった。
時間はある。ボールペンを取り出して、紙に反省の意をつらつらと書いた。ボールペンのインクが出なくなった。紙を裏返し、何度も円を描こうとするが、一向に描かれない。
「厄日だ」
僕の口からポロっと漏れる。僕は、予備のボールペンを取り出して続きを書いた。
島田さんに遭遇してすぐに反省文を提出した。島田さんは無言でそれを僕の手からかすめ取り、乱雑にポケットに押し込んだ。
「私休憩入るから、残ってる皿洗っといて」
島田さんはそう言って、休憩所へ向かっていった。
「怒られてやーんの」
僕が罪を悔い改めながら全身全霊で皿洗いに打ち込んでいるところに、三多さんが隣から水を差してくる。
「わざと割ったわけじゃないです」
「不可抗力ってやつ?」
「その通りです」
僕はうっとうしそうに答えた。三多さんの顔がムッとした。少しオーバーすぎたかもしれない。一応、六つも歳が離れているので、節度を慎むべきことは重々承知している。だが、三多さんと話すと、どうしてもたかが外れてしまうときがある。外れてしまうときの方が多い気もする。だけど、今日はそういう気分だから許してほしいと、訴える目で三多さんを見つめてみる。
「そういえば、昨日休んでましたよね。何かあったんですか?」
ムッとしていた三多さんの顔にすっと影が落ちた。
「うん……。実はさ、母が倒れたんだよね。命に別状はなかったんだけど、そのまま検査入院になっちゃってさ。それの付き添い」
三多さんが僕にそっと皿を渡す。僕はそれをそっと受け取りスポンジで洗う。
「そうだったんですね。お疲れさまです」
「うん」
三多さんの顔はまだ暗いままだ。
「うちの母ね、昔から心配性で私のこと何でもかんでも聞いてくるの。学校のこととか恋人のこととか」
「え、三多さん、恋人いるんですか?」
三多さんは、またムッとした顔に戻って僕を見た。でもすぐに水を張ったシンクにぷかぷか浮かんでいる皿に視線を移した。
「だんだん鬱陶しくなってきてさ、気づいたらろくに口も利かなくなったんだ。でも、いざ目の前でいきなり倒れられると案外るもん焦だね」
三多さんはシンクに浮かぶ皿を指でくるくる回している。
「病室でお母さんの手を見たらさ、あかぎれになってるの。パートでホテルの清掃員やってるんだけど、外の洗い場が冷水しか出ないんだって。おまけにそのホテル人手不足だから、ほぼ毎日出勤してるの。もう歳でさ、長時間の体力仕事なんて大変なのにさ。そんな仕事辞めて家でおとなしくしてればいいのにって言ったら、お母さんなんて言ったと思う?」
「なんて言ったんですか?」
三多さんは、僕が見てきた彼女の表情の中で一番真剣な表情を見せた。
「『私がいなくなっても英里華が生活できるように少しでもお金貯めておきたいから』だって。家じゃろくに話もしないのに。私のためにだって。私全然一人でも生きていけるのにね。母子家庭だから、不安なのかな? でもそれ聞いてなんか嬉しくてさ。つい、ありがとうなんて言っちゃったよ」
僕は、初めて見る三多さんの表情に戸惑い、調子が狂っていた。
「優しいお母さんなんですね」
「遠藤くんも、自分のことを思ってくれている人にはちゃんと感謝の気持ち、伝えといたほうがいいよ。その人にいつ何が起こるかなんてわからないんだからね」
「頭の片隅に置いておきます」
「手始めに私から始めてみる?」
三多さんはいつもの笑顔に戻っていた。
「丁重にお断りします」
「つれないねえ」
「これでも心の中ではちゃんと感謝してますから、ちゃんと」
「全然心こもってないけど」
「本心ですよ」
「どうだかねえ」
僕の頭の中に、三多さんの忠告が加わった。蛇口から流れる水の音、業務用乾燥機の動作音、調理場から聞こえる料理長の声。僕を取り囲む騒音が、不思議と今日は耳に響かない。髙沢さんと、朔太と、コンビニの彼と、三多さんの、それぞれの言葉が僕の心をツンツンしている。
僕はふと、島田さんを見た。話しづらいのは確かだけれど、それでもバイトを始めたばかりの頃は雑談もしてたっけ。皿の置き場所や乾燥機の使い方、ひとつひとつ丁寧に教えてくれたっけ。皿を割って申し訳なくて、いつの間にか話しかけることも、話しかけられることもなくなって。いつ何が起こるかなんてわからない、か。
「島田さん」
僕は唾をごくりと飲み込んだ。
「なに?」
島田さんの口調はやや威圧気味に感じる。
「この皿、初めて見たんですけど、新しく入荷したものなんですか?」
島田さんが、僕の手にある皿をちらりと見た。名前も知らない細い花が一輪だけ咲いた薄紅色の皿だった。
「そうだけど」
島田さんは仏頂面で答える。あまりに不愛想すぎる反応で、僕が話しかけたことを後悔し始めた直後だった。
「私が店長にお願いしたの。前のお皿は年季が入ってたから、買い替えたほうがいいんじゃないかって」
島田さんは後ろを向いたまま、小さな声で言った。乾燥機の爆音でかき消されそうな島田さんの声を、僕は必死にかき集めた。
「あの……素敵なデザインですよね。デザインセンスのない僕が言ったところでなんですけど」
僕は思ったことを素直に述べた。島田さんの耳にちゃんと届くように大きな声で。
「そう。ありがとう」
「え?」
「そのデザイン私が選んだの」
「そ、そう、だったんですね……」
しばらくの沈黙。島田さんは何も言わない。
「島田さん。昨日はお皿割ってしまってすみませんでした。昨日は、っていうかほぼ毎月ですけど……。来月は割らないように気をつけます。それと……島田さんのセンス、素敵だと思います。あと……ありがとうございます。僕が皿を割ったこと店長に報告するときかばってくれて」
そうなのだ。以前一度だけ偶然島田さんが店長と話しているところを立ち聞きしてしまったことがある。僕が何枚目かの皿を割ってしまったことを、島田さんが報告していたのだが、島田さんは僕のことを根は真面目ないい子だと言ってくれていたのだ。だから僕がこうしてここで働けているのは島田さんのおかげでもあるのだ。
島田さんは、皿を洗っている手を一度止めた。そしてすぐにまた手を動かし始めた。
「言葉じゃなくて態度で見せなさい」
「はい……」
「割ったら反省文三枚に増やすからね」
「え……」
ここで、僕と島田さんの会話は終わった。島田さんの顔をちらっと見たら、少し微笑んでいるように見えた。日ごろ挨拶だけで終わり、全然知らない、知ろうともしなかった島田さんのことを一つ知れて嬉しかった。ホールに続く道の曲がり角に人影が見えた。三多さんが顔だけこちらに覗かせて、ニヤニヤしながら僕を見ていた。僕はおもいっきりガンを飛ばしてやった。
バイトが終わり、アパートに帰ってシャワーを浴び、ベッドに寝転がって映画を観ていたときだった。髙沢さんからメールが来た。
『なんか私たち気まずい感じだからさ、仲直りもかねてさ、小旅行しよ! 明日バイト?』
普通の人なら、緊張関係にある人を旅行に誘うことなどできないだろう。それを易々とやってのける彼女に僕は敬意すら感じてしまった。ていうか旅行って。僕と彼女の関係はそこまで親密なものだろうか。出会って約二週間。親密な関係かと誰かに聞かれれば、はいそうです、とは僕は答えられない。彼女と旅行なんて行ったらダメだ。コンビニの彼と朔太の顔が脳裏をよぎる。お断りの文章を返信メールに打ち始める。いつ何が起こるかなんてわからないー。僕はハッとスマホから顔をあげた。三多さんの声が聞こえた気がした。このまま、髙沢さんと気まずい関係で終わりたくないな、僕はそう思った。ちゃんと彼女の目を見て一昨日のことを謝りたかった。おまけにどういう訳かは知らないが、今日のバイト終わりに突然店長が体調が悪いと言い始め、明日、明後日店を閉めると言った。だから、予定は何もない。少し時間をおいて、僕は彼女に行くと返信した。僕がメールを送ってすぐ、スケジュール表が送られてきた。あまりの用意周到さに僕は驚きを隠せなかった。店長の体調不良は彼女によるものではないかと思ったぐらいだ。さすがにそれは言いすぎか。送られてきたスケジュール表で一つだけ気になったことがある。行き先が書かれていなかったことだ。僕と髙沢さんは朝早くに駅で待ち合わせすることになった。
髙沢さんに会ったら、まず言うこと。それを考えているうちに僕は眠っていた。
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