第13話 12月10日
寝起きから頭痛が激しい。シャワーも浴びずに眠ってしまったようだ。昨日という時の残滓が染みついた服を脱ぎ捨て、贅沢に朝シャワーというものを堪能する。朝から浴びるシャワーの気持ちよさを表現する言葉、それはエクスタシーという表現が適切だと思う。シャワーを浴び終え、絶頂の果てから現実の世界に戻った僕は、昨夜スーパーで買った食パンにオレンジジャムをつけて食べた。今日の講義は二限目からなので二度寝することにした。
階段を昇って二階の講義室のドアへ向かっていた時、一人の学生に行く手を阻まれた。
「お前、昨日瑞香の家に行ってたよな」
顔をよく見ると昨日通り過ぎたコンビニの男性店員だった。どうやら同じ学部生らしい。
「え、あ、うん」
「お前、瑞香とどういう関係?」
僕は、この男性店員にお前、お前と連呼されるいわれはないはずだよなあと考える。次に、瑞香って誰だっけと考える。そして、僕の連絡帳に登録されている「髙沢」の名字の下の名前がそんな名前だったようなことを思い出す。
「お前、最近よく瑞香と一緒にいるよな。正直、目障りなんだわ。十二月に入ってからだよな。いきなり付きまとい始めやがって。みんな気持ち悪がってるぜ」
また、この男性店員は、お前と僕に向かって言った。おまけに表情からは苛ついてるようにも見える。
「別に付きまとってなんかないよ……あと瑞香って髙沢さんのことでいいんだよね?」
「お前……ふざけんなよ」
僕は、彼の苛ついている表情から視線をそらす。講義室のなかの何人かが僕と男子学生のやりとりを見ている。彼らは楽しそうに、こっちを見ている。
「昨日、瑞香の家のほうに行ってただろ」
「髙沢さんの家には行った、招待されたから」
瑞香、瑞香、瑞香。髙沢さんのことを下の名前で呼ぶなんてよっぽど仲がいいんだなと僕は思った。
「嘘つくなよ。瑞香がお前みたいなやつ誘うわけないだろ。それにな朔太も言ってたぜ、お前が瑞香にまとわりついてるのきもいって。あいつも本当はお前みたいなやつと付き合うの嫌だと思ってるよ。お前が独りぼっちで可哀そうだから仕方なく絡んでやってるだけなんだよ。いい加減気づけよ」
男子学生の顔をちらりと見ると、その目には敵意しかなく、今にも手を挙げそうな勢いすら感じた。こういう時、どう言い返せば収まりがつくんだろう。心なしか吹き抜ける冷気も彼に味方しているように感じる。
「何とか言えよ!」
僕はブルっと身震いした。
「だーかーらー、瑞香に近寄んな、そして朔太にも近寄んなって言ってんの」
彼が放つ狂気に、僕の身体は串刺しにされそうだ。朔太はおいておくとして、髙沢さんはクリスマスの事故の件がある。事故回避には、メールがあるから大丈夫か、とも思ったが、だいたい寄ってくるのは向こうからだよなと言い返したい気にもなる。
「聞いてますかあー?」
バチン! 彼が僕の顔の前で、手をおおきく打ち叩いた。僕は、後ずさりする。彼は本気だ。僕は急に怖くなった。
「わかった……髙沢さんには近づかないようにする……」
「朔太には?」
「朔太とも距離を置くようにする……」
男性店員は舌打ちをし、僕を押しのけて講義室へと入っていった。少し間をおいて僕も講義室へ入る。彼が向かった席を見ると、そこは髙沢さんがいつも座っている窓際の席の後ろの席だった。髙沢さんはまだ来ていない。彼の周囲の人たちが、興味津々な顔をして彼に話しかけている。彼は片肘を机につき、その手に顎をのせて窓から外を眺めている。もう一方の手は、気怠そうに周囲の人をシッシッとお祓いしている。僕は静かに席につき授業の準備をした。朔太が始業数秒前に到着し、息をぜえぜえ言わせながら僕の隣に座った。僕は朔太の机の側に置いていた筆箱を、反対の側に移動させた。
「なあ、真琴」
「?」
僕は口を開かず、顎を少しだけ前に突き出して応答する。
「俺、瑞香ちゃんに告白しようと思う。んだけどさー、どう思うう?」
僕の心と額の傷が、告白という言葉にチクリと反応した。重ねて、さっきのコンビニの彼の言葉が僕の脳内でエコーし始めた。僕は動揺を隠すように、ペンのスピードを緩めず黒板に書かれた文字をノートに書き写し続ける。
「いいんじゃないかな。二人お似合いだと……思う……」
中学のときもこんなこと言った気がする。二度あることは三度あるならぬ、一度あることは二度あるなんてことにならないよなと思ったりもする。
「やっぱり⁉ そうかーそうかーお似合いかあー」
朔太は体を気持ち悪いくらいにくねくねとよじらせている。その姿が僕の視界の端に映っているが、何も言わずせかせかとノートを取る。
僕のスマホにポップアップが表示された。髙沢さんからのメールだった。
『二日酔いで、まな板の鯉ならぬベッドの上の髙沢さんになってます。助けてください』
最悪のタイミングで送られてきたメールに、僕は到底笑える気分じゃなかった。
『僕は用事があって行けないので、代わりに朔太を行かせます。あと、まな板の鯉の使い方間違ってると思います』
数分悩んで彼女のメールに返信した。
『いやです。お願いしたいことあるから、真琴くんが来てくだはい。まな板の鯉の意味もちゃんと教えてくだはい』
髙沢さんの調子は相変わらずのようだ。僕はそのメールに返信しなかった。代わりに、ノートと筆箱をリュックに仕舞い、始まって三十分しかたっていない講義をおいとまさせていただくことにした。コンビニの彼もわざわざ講義を抜け出して追ってはくるまい。
「おい、どこ行くんだよ?」
朔太が不思議そうな目でこっちを見ていた。決して真面目とは言えないが、講義は欠かさず出席しているだけに、目の前で起こっている僕の行動が不思議なのだろう。
「金魚にエサやるの忘れてた。あいつら一日でも断食させたら飢え死にしてしまうからさ」
「お前、金魚とか飼ってないだろ」
「先週から飼い始めた。ノート任せた」
「お、おう」
僕は、教授が背中を向けたタイミングを見計らって、後ろのドアから講義室を抜け出した。
彼女の家に向かう途中、コンビニで飲み物とりんごを買った。道中、隠れるようにして彼女の家に向かった。電線の上に威風堂々と立っている一羽のカラスが僕を睨みつけている。僕は、コンビニの彼がカラスに化けているのではないかと思った。
髙沢さんのアパートが見えてきた。僕は電柱の後ろに隠れるようにして立ち、迷子になった子供のように周囲を見回した。オールクリア。誰もいないみたいだ。コンビニの彼のように、髙沢さんと親しくしている学生に、僕が髙沢さんの家に行く姿を見られ責められたらたまったもんじゃない。電柱から彼女のアパートまで、電光石火で駆け抜けた。ドアのベルを鳴らすと彼女が出てくるまでに数分かかった。僕は、チャイムが聞こえたらすぐにドアを開けるよう彼女に先に伝えておくべきだったと後悔した。
「はあい」
目をこすりながら、くじらの潮吹きの形の髪形をした髙沢さんがドアを開けた。彼女の顔はげっそりとしていた。昨晩、僕の二倍のペースでお酒を飲んでいたのだから無理もない。
「来てくれたんだ」
「来いって言われたから」
「どうぞ入ってー」
「いや、ここでいい。はいこれ」
僕は飲み物とりんごの入ったビニール袋を彼女に手渡した。
「ありがとおええぇ」
ビニール袋のとってに手をのばした彼女が、そのまま前のめりになって僕に寄りかかってきた。髪の毛のくじらの潮吹き部分が僕の顔に直撃する。痛い。僕はとっさに彼女の両の二の腕を掴んだ。髪の毛からはシャンプーのいい香りがする。
「大丈夫?」
「もう無理かも」
「吐くなら、トイレで吐いて」
「真琴くんの服で吐きたい」
「吐いたら怒る」
僕は、寄りかかる彼女の身体を僕の身体から離そうと押し返すが、彼女はなぜか力をこめてそれを阻止している。
「ベッド。つれてって。足に力はいらなくて歩けない」
「歩ける」
「歩けない。お願い」
「はあ」
僕は声とともに大きなため息をついた。玄関のドアを閉めて、彼女に肩を貸した。黄緑を基調としたベッドのそばにたどり着いた。身をかがめ、彼女をそっとベッドに降ろそうとしたときだった。抵抗する間もなかった。僕の肩に巻き付いている彼女の腕に力がこもり、そのままベッドに押し倒された。彼女は、細い腕で自分の身体を支え、僕に覆いかぶさっている。垂れ落ちた彼女の髪の毛が僕の頬に当たっている。サラサラしていてくすぐったい。僕の視界に映っているのは彼女の顔、ただそれだけ。
「あ……あの」
「真琴くん。昨日は楽しかったね」
「う、うん……」
僕は、彼女の顔から視線をそらし、昨日ハンバーグを食べたテーブルに視線を張り付けたまま答えた。
「いろいろ話してくれてありがとう。嬉しかった」
「たいして面白い話はできなかったけどね」
「ほんと、ジョークの欠片もなかったもんね」
「悪かったね」
彼女は黙った。僕は、この体勢をはやくどうにかしたかった。彼女の息遣いが聞こえるたびに僕の心臓は止まりそうになる。
「……どうして笑わなくなっちゃったの?」
「え?」
僕は、彼女の顔に視線を戻した。彼女はまっすぐ僕の目を見ている。
「昨日さ、小学生のときのこと話してくれたじゃん? すごく楽しかったって。おどけてみんなを笑わせてたとか言ってたし。でも、今の真琴くんはいつも下を向いてるよね。真琴くんが大学で笑ってるところ私、見たことないよ。お父さんのことと中学の友だちとのことが真琴くんを変えてしまったの?」
彼女は、僕の目を通して、僕の心の奥底を覗き込むようなまなざしで僕を見ている。
確かに、寮に入れられることを知るまでは小学校は楽しかった。誰とでもすぐに打ち解けたし、僕の周りには自然と人が集まってきた。僕は人の笑った顔が好きだったし、もっと笑顔になって欲しくておふざけをやったりもした。だって、家のなかで笑うことがなかったから。僕は、寡黙な父さんが怖くて、家の中で心の底から笑ったことが一度もなかった。でも、いつか父さんが笑ってくれたらいいなとずっと思っていた。
「……父さんと友だちのことは関係ないよ。ただ自分に嘘をつくことに疲れただけ。本当はおどけたりするのだって嫌だったんだ」
そう、もう疲れたんだ。信じている人に裏切られるのも。そう、もう嫌になったんだ。誰かと心を通わせることも。その先にあるのが失望しかないことを知ってしまったから。それなのに、大学に入って僕は朔太と同じ時間を過ごし、今は髙沢さんとも同じ時間を過ごしている。矛盾しているなと今更ながら気がついた。
「嘘つき。お父さんとはちゃんと話したの? 友だちには本当のことを伝えたの? 自分の中で勝手に話を完結させて、向き合おうとしなかっただけじゃないの?」
向き合う、か。どうして君にそんなこと言えるんだろう。信じていた両親から見捨てられたとき、どんな気持ちになるか。心を通わせていたはずの友だちから信じてもらえなかったとき、どんな気持ちになるか。
「君に何が分かる……」
僕は、彼女の腕を強引にはらいのけた。彼女の身体がベッドに横たわる。僕はベッドから出て、立ち上がる。荷物を手に取り、少しの間その場に立ち尽くす。彼女の言い分は間違ってはいない。僕は目の前で起きた出来事を受け入れて、それに順ずることで事を複雑にしないようにしてきた。父さんに寮に行けと言われたから行った。友だちの勘違いを受け入れて、額の傷も受け入れた。そうすれば事を荒立てずに済む。たとえ彼らとの関係が修復されなかったとしても、それでいいと思った。もうどうでもいいと思った。そして僕は一人を好むようになった。初めからつながりがなければ、壊れることもないのだから。
「お大事に」
静まり返った部屋の中に、一言だけ言いおいて、僕は玄関のドアを閉めた。パタンという音があまりにも虚しく聞こえた。頭の中は空っぽだった。瑞香と連呼していた彼が働くコンビニを通らないルートで自分のアパートへ向かう。スマホが鳴った。髙沢さんからの着信かと思ったが、表示されていたの発信者は母さんだった。五回ほどコール音が鳴った。僕はスマホの画面をただ眺めていた。午後の講義は出なかった。朔太から授業のノートの写メが送られてきたがそれを書き写す気にもならなかった。アパートに着いてベッドに寝転がると、彼女とのやりとりが蘇ってきて、むしゃくしゃした。彼女の言葉を無意識に反芻している内に、僕は眠ってしまっていた。
起きたときには、バイトに行く時間になっていた。急いで顔を洗って、バイト先に向かう。
職場の人に挨拶を済ませて、スポンジに洗剤をつけた。冷水が温水に変わるのを待つ。三多さんは休みだった。平日にも関わらず客がたくさん来た。洗っても洗っても積み上げられていく皿の枚数は一向に減らない。料理長が急かしてくるので、僕はやや焦り気味で懸命に手を動かした。洗い終わった皿をタオルで拭こうとしたときだった。僕の手から一枚の皿が滑り落ちた。その皿はゆっくりとゆっくりと地面に近づいていく。ハイスピードカメラで映しているかのようなその光景を僕は眺めていることしかできない。
パリン!
一番聞きたくない音が耳に入ってきた。皿はきれいに着地し、洗い場のコンクリートの足場にガラスの破片の大輪の花を咲かせた。僕の心が割れた音のようにも感じた。
「はやく片付けなさい」
島田さんが僕を一瞥してつぶやく。
「すみません」
僕は弱々しく返答する。ほうきで飛び散った破片を片付ける。ため息がポロっとこぼれ出してしまうと島田さんに睨まれた。帰り際に反省文の紙を島田さんに渡され、次の出勤日までに提出するように言われた。僕はもう一度謝った。謝ることしかできなかった。
帰宅途中、スマホにメールが一件届いた。髙沢さんからのメールだった。タイトルには『ごめん』とある。僕は、メールを開くか迷った。彼女は何も悪くない。なのに、僕は彼女に謝罪させてしまった。そんな自分に少しだけ嫌気がさした。
『今日は余計なこと言ってごめん。差し入れのおかげで体調良くなったから明日は大学に行けそう。真琴くんのおかげ。ありがとう。またお話しよう。真琴くんがよければだけど……』
僕はすぐに返信文を書き始める。
『こっちこそ、病人を突き倒したりしてごめん』
僕は、謝罪の言葉だけ送った。初めは『また明日』という言葉も入れていたけど、送る直前に消した。明日、彼女とどんな顔をして会えばいいのかわからなかった。何を話せばいいか、わからなかった。僕と彼女の関係は、どうなっているのかわからなかった。
彼女の問いと、コンビニの彼の警告と、朔太の告白がパスタの麺のように幾重にも絡み合っている。その麺の中心には僕の心がある。ぎちぎちに締め付けられた僕の心。胸が、苦しかった。
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