第12話 12月9日

 僕は、講義が始まる二十分前に講義室に着いた。僕より先に講義室に着いている人はいなかった。仕方なく講義室の電気をつけて、暖房のスイッチを押した。一等賞の褒美として席を選び放題だったけれど、僕は迷わずいつもの席に座った。始業十分前になり、学生がぞくぞくと講義室に入ってきた。実際に入り口を見ているわけではなく気配でそれを感じとった。僕はアプリで、下落の一途をたどっているモルグループの株価を眺めながら地獄の底に突き落とされていた。一人で意気消沈していると、普段は空席の僕の右側の席に誰かが座った。僕は、机の右側のフックにかけていたリュックを自分の膝に置いた。筆箱と「食品添加物」と表紙に書かれたノートを取り出す。そしてリュックを左側のフックにかけた。一連の動作は、右側に座った人に荷物が邪魔にならないように行ったささやかな思いやりである。

「うわ、避けた」

 最近この声を本当によく聞くようになった。

「え」

 声の主は髙沢さんだった。彼女がこの講義をとっていることを僕は今知った。

「真琴くんもこの講義受けてるんだね」

「単位が取りやすいって誰かが言ってたから。あと興味もあって。少しだけだけど」

「食品添加物だよ? そんなのに興味あるの?」

 彼女は鼻で笑いながら言った。

「健康第一だから。健康維持のために食事に気を配るのは当然だと思う」

 僕は真剣に答えた。

「確かにね。じゃあ、食べ物の原材料とか気にしてるの?」

「実は、今はあんまり気にしてない……」

「なんじゃそりゃ」

「昔は、添加物まみれの食品は食べないようにしてたんだけど、ある日気づいたんだ。あれ、僕一生食べたい物を我慢しないといけない人生なのかって。大好きなチョコチップクッキーもずっと食べるの我慢してたんだ」

「まあ、ほとんどの食べ物は添加物入ってるからね。チョコチップクッキー好きなの?」

 彼女はさっきからバッグの中を漁りながら話している。バッグの所定の場所に物を入れておかないから探すことになるんだ、と僕は思った。

「まあね。僕の身体の三分の一はチョコチップクッキーでできてるんじゃないかな」

 とっさにひらめいた冗談を言ってみる。

「私が食べてあげよっか」

 冗談に乗ってこられても困る。

「美味しくないよ」

「食べてみなきゃわかんないよ。あ、あった」

 そう言って、彼女は、バッグから掘り出した筆箱を高々と頭上に掲げた。お目当ての宝物を発掘したトレジャーハンターのようだった。喜ぶ彼女の顔を見て、僕は何がそんなに嬉しいのかわからなかった。でも、そんな些細なことで喜べるなんて、彼女は幸せ者だなとも思った。

 講義が始まった。今日は酸化防止剤と着色料について教授は語る気らしい。僕は教授が話している内容をノートにとる。彼女が近くにいるからなのか少し緊張している。その証拠に普段は猫背なのに、今日は背筋が伸びている。彼女の握りこぶしが僕の方に伸びてきた。一枚のメモが、彼女の手から僕の机の上に落ちた。

『しりとりしよ』

 強そうに書く漢字とは打って変わり、ひらがなは丸っこい字で書かれてあった。彼女の顔を見ると、三時のおやつを待つ小学生のような目をしていた。

『チョコレート』

 僕の大好物で火ぶたを切ってやった。

『トマト』

 僕の大っ嫌いな食べ物で返ってきた。

『トレジャーハンター』

 僕は筆箱を取り出した時の彼女の顔を思い出して、つい笑ってしまった。

「ねねね」

 彼女がひそひそと僕に向かって話しかけたきた。

「なに?」

 僕は、教授が背中を向けているのを確認して、彼女を見た。

「しりとりでさ、伸ばし棒で終わるときってさ、伸ばしきった母音に続けるか、それとも子音に続けるかで意見分かれない?」

 ねえ、どっち? どっち? という目で彼女は僕を見ていた。

「そんなことどうでもいいからさ、静かにしないと怒られるって」

「なんだよお、冷たいなあ」

 彼女は、しょんぼりしてメモに文字を書き始めた。メモがなかなか僕に戻ってこなかったので、僕は怒らせてしまったかなと少し申し訳ない気持ちになった。

『明日、私の家で夜ご飯一緒に食べよ。チョコチップクッキー焼いとくからさ。もちろん真琴くんの身体を焼いたりしないから安心して』

 やっと返ってきたしりとりが、僕が思いもよらぬものだったので、返答に困ってしまった。おまけに、猟奇的な一文まで書かれてある。怖い。

『ごめん。明日はバイトなんだ。また今度』

 嘘はついてない。明日バイトがあるのは本当だ。決して彼女の家に行きたくないわけではない。彼女は僕が返したメモを見て、しばらく考えてからペンをとった。書き始めてからも何度かペンを止めて考え込んでいた。そして満を持したかのように僕の机にメモを放った。彼女は、前の黒板を見ている。

『わかった。じゃあ今夜にしよ! チョコチップクッキーは焼けないけど、あと部屋も片付いてないけど、急遽予定変更になったんだから大目に見て!』

 僕は、わざわざそこまでして、自宅に誘う必要があるのだろうかと思った。今夜バイトのシフトは入っていない。だが、髙沢さんの自宅に行くのは少し違う気がする。僕は彼女と仲良しになりたいわけじゃない。僕はただ彼女を事故から救うために、面識を持っておいたほうが何かと動きやすいと思ったから、彼女と一緒にいるだけだ。お断りの言葉を書こう。

 僕はペンを取る。横から熱い視線を感じる。おそるおそる横を見る。口を開いていないのに、髙沢さんの口から「わくわく、わくわく」の声が聞こえる。おまけに、心なしか彼女の瞳が輝いているように感じる。僕の断る気持ちが急速に萎えていく。僕は、なんだか断りづらくなってしまい、大きなため息を心の中でつく。これも事故回避のためだと、強引に自分を納得させる。「お邪魔します」と記載したメモを彼女に渡すと、彼女は口角を大きく上げてメモを大事そうに筆箱の中に閉まった。必然的にしりとりも終焉を迎えた。

 僕が髙沢さんの家の場所を知らなかったので、僕らは図書館で待ち合わせて、一緒に彼女の家に行くことになった。彼女は当初「黒門で待ち合わせ」と言い張ったが、僕が破竹の勢いでお断りの言葉を連発した。大学の正門で彼女と待ち合わせをしているところを学内の人たち、特に彼女に恋心を抱き密かに狙っている狼に見つかって、僕の命が危険にさらされることは断固避けたかった。

 今日の図書館の中はいつもより寒かった。大学の方針で光熱費をケチっているのか、たんにエアコンを酷使したせいで使い物にならなくなってしまったのかは不明だが、とにかく寒かった。極度の冷え性である僕は、そろそろ南国への移住を本気で考えなくてはいけないのかもしれない。

 図書館の中を適当にぐるぐる歩いていると、僕のお尻が、ズボンの後ろポケットの中で眠っていたスマホの振動を感じ取った。メールの送信者には、電話帳の友だち第二号、髙沢瑞香の名前が表示されていた。

『今、図書館着いたよー! どっちが先に見つけられるか競争ね! よーい、どん!』

『図書館の使い方、激しく間違ってると思う』

『うるさい! 先に見つけた方が今夜のデザートのアイスクリーム奢るんだからね! ちょー高いやつ選んであげるんだから』

 こういうことを藪から棒に言い出すのが髙沢瑞香という人間なのだ。彼女のような自由奔放な人間に、僕みたいな人間が抵抗する術はない。シロナガスクジラに体当たりするイワシのようなものだ。僕は彼女の茶番に付き合うことにした。

『わかった。でも、僕が勝ったら、チョコクッキーとチョコチップ入りのチョコレートアイスを買ってもらうからね』

『チョコチョコチョコで鼻血がどぱどぱ出てきそうだね。今一階? 二階?』

『教えるわけないでしょ』

 メールを打ちながら歩いていると、時折人にぶつかりそうになるので、早々にこの茶番を終わらせたほうがよさそうだ。でも、心のどこかで少しウキウキしている僕がいて、僕もまだまだ子供だなと思った。

 三十メートル先、英文書のコーナーで周りをキョロキョロ見回している黄色いマフラーの女の子を僕のレーダーが捕らえた。後姿しか見えないが、おそらく髙沢さんで間違いないだろう。僕の勝ちだ。人気のない夜道なら女性に背後から近づくなんてありえないが、白昼でかつ人様の迷惑になっているので今回はよしとする。どこかの国のエージェント気取りで、忍び足で、内心ルンルンで、その子に近寄って行く。その子が僕に気づく気配は微塵もない。

『今、数学の陳列棚にいるんだけど。真琴くんどこ? 全然見つからないよ。もしかしてどこかに隠れてる?』

 僕は、腹の底から笑いが込み上げてきて、思わず吹き出しそうになるのを必死に堪える。そんなウソに騙されるほどバカじゃない。黄色いマフラーの女の子との距離を縮める。あと十メートルの所まで来ている。たかが茶番にいつの間にか本気になって、しかも目の前の勝利に心躍らせている自分のことは一旦脇に置くことにした。彼女に「楽しかったでしょ?」なんて言われて「うん」なんて言いたくない。こんなのは子どもの遊びだ。茶番、茶番。

「真琴くん」

 髙沢さんの声が聞こえた。しかしそれは、僕の視線の先にいる女の子ではなく、僕のすぐ後ろからだった。僕は樹齢何千年の巨大樹のようにぴたりと立ち止まった。さっきまで感じていた興奮が急速に冷めていくのを感じる。

「まるでストーカーだよ。すごい顔であの女の子見てたけど。公共の場で風紀を害すような行為は慎むべきだよ」

 僕の耳元で彼女がささやく。僕は後ろを振り返った。彼女が一歩下がる。

「公共の場、ね」

 僕は、そっくりそのまま今の台詞を彼女に返したい気持ちをぐっと抑えた。

「あと、僕は、女性に対してそんなことはしない……」

 僕は中学の頃ことを思い出し、少し気分が暗くなった。

「しない、じゃなくて、できないでしょ」

「うん……」

 僕は、気を持ち直して、彼女の顔を見る。

「いずれにせよ、人に危害を加えるようなことはしないから安心してよ。お巡りさんに捕まりたくないし」

 僕は無理やり笑顔をつくって言った。

「楽しかったでしょ?」

 僕の予想通りの質問を、彼女は顔を輝かせて言った。

「うーん」

「ええー、うそお」

 彼女は残念そうに言った。

「まあ、少しだけ」

 彼女が可哀そうになったので、仕方なく僕は言った。

「めっちゃスリルあって楽しかったじゃん!」

 彼女は心の底から楽しんでいたようだ。

「じゃあ行こっか。うわ、すっかり外暗くなっちゃったね」

 髙沢さんは、僕に背を向けて窓のほうを見て言った。

「ちゃんと私を守ってね……か弱き女の子を襲いかけてた怪獣さん……」

 彼女は窓を向いたまま言った。最後の方は小さな声だったので少し聞き取りづらかった。

「だから、あれはあの子が君だと思ったからで……てゆうか、怪獣はさすがに言い過ぎでしょ」

 僕がそう言うと、彼女は僕の方を振り返り、ふふんと笑った。


 晩ご飯には、髙沢さんの得意料理だというハンバーグを作ってくれるらしい。僕と彼女は近くのスーパーに食材の買い出しに行った。僕が持っている買い物かごに、彼女は矢継ぎ早に食材を放り込む。料理に縁遠い僕は、彼女がぶつくさ言いながら食材を選ぶ姿を無言で温かく見守っていた。以前、朔太と立ち寄ったスーパーで、カレーの肉は豚か鳥かで意見が分かれお互い一歩も引かず不毛な議論に多大な時間を浪費してしまったことがある。その反省を本日遺憾なく活かせたことで、彼女に奢るはめになった、たった紙コップ一杯分に五百円の値がついたアイスにも喜んでお金を払うことができた。やはり過去の経験から学んだ教訓を活かせたときの喜びは格別だ。

 十五分ほどで買い物を終え、髙沢さんの家に向かった。その途中で通り過ぎたコンビニの男性店員が、僕を見て苦虫を噛み潰したような表情で眼を飛ばしてきた。彼女は自分の話に夢中で気づいていない様子だったが、僕はコンビニが視界から消えるまで心中穏やかではなかった。

 スーパーから十五分で髙沢さんの家に到着した。見るからに真新しいアパートで、僕のアパートと違って階段に落ち葉が溜まっていないし、ポストの下に広告が散乱している様子もなかった。

「築三十年。見えないでしょ?」

 彼女は二階建てのアパートを見上げながら言った。

「うそ? 僕のアパートと築年数変わらないじゃん」

 僕もアパートを見上げて言った。

「大学合格した後さ、生協主催のお部屋探しサポートあったじゃん? その時にカッコいいお兄さんがこっそりここ教えてくれたんだ。私の美貌にやられちゃったのかな」

「それは羨ましい限りだね」

 僕はなお、アパートを見上げたまま言った。

「ちょっと、ツッコんでよ。それ自分で言うかーってさ」

「髙沢さんが自分でツッコむことわかってたから、ちゃんと取っといてあげたんだよ。心配りだよ。感謝してほしいくらいだよ」

「真琴くんもだんだん私のことわかってきたんだね。嬉しい」

 彼女はにこにこしながら言った。

「嬉しがられても困る……」

 僕は彼女の顔を見ないようにして言った。

 スマホの時計を見ると二十時を回っていた。辺りは静けさに包まれており、僕と彼女の声だけが世界に響いている。階段を上って彼女の部屋の前に着いた。彼女は、クマのキーホルダーが付いた鍵を取り出しドアを開けた。

「お邪魔します」

 初めて入る女の子の部屋。僕は、緊張駄々洩れの声で彼女の部屋に挨拶をした。

「どうぞどうぞ」

 部屋の主は温かく迎え入れてくれる。

 彼女の部屋はとても質素だった。僕と同じ六畳の一室に小さなテーブル、テレビ、開けっ放しのクローゼットの中にある服はせいぜい五着程度だった。今すぐにでも引っ越しができそうなくらいだ。彼女は買ってきた食材を冷蔵庫に入れ始めた。

「そこらへん適当に座ってテレビでも見てて。あ、初めての女の子の部屋存分に堪能していいからね」

 僕が、女の子の部屋に入るのが初めてだってことをどうして知っているのか聞こうと思ったが、それはやめにした。そんなことより先にやることがある。

「手伝うよ。人様の家にお邪魔させてもらってるんだから」

 僕は、スーパーの袋に入った食材に手を伸ばす。

「いいからいいから。こういうときは『お言葉に甘えて』って言うんだよ」

 彼女が、その袋を取り上げて言う。おまけに表情は真剣そのものだ。

「はあ……それじゃあ、お言葉に甘えて」

 彼女の顔がほぐれる。

「よろしい。ドラマとか歌番とか適当に録画してるからご自由にどうぞ」

「ありがとう」

 僕はキッチンから出て、部屋の真ん中に置かれたテーブルに座った。目の前にはテレビがある。僕が中学高校を過ごした寮には、テレビがなかった。テレビのない生活に慣れきっていたし、ニュースはスマホのアプリで事足りる。そのため大学生になってもテレビは買わなかった。六年ぶりに再会を果たしたテレビリモコンにおそるおそる手を伸ばす。電源と書かれた赤いボタンを押すと、綺麗な女性の顔が一面に映し出された。六年という月日を経て、大きな進化を遂げたテレビの画質に僕は圧倒されてしまった。画面に映る女性の顔がなおいっそう美しく見える。

「市川南、結婚したね」

 髙沢さんが、キッチン越しからこちらへ顔をのぞかせて言った。

「あ、うん」

 画質の美しさに圧倒されて気づかなかったが、画面に映っていた女性は僕の好きな女優だった。画面右上に「市川南・結婚記者会見」と書かれてある。

「真琴くんは好きな女優とかいる?」

 彼女の声が聞こえた後、水道がシンクに流れ出る音が聞こえた。調理を始めるようだ。

「市川南かな」

「目の前に書いてある名前言っただけでしょ」

「本当だって」

「ふーん、そうなんだ。クールビューティー系が好きなの? そういえば映画館でチケットくれたお姉さんもそんな感じだったよね、真琴くんの同僚の」

 シンクに流れ出る水の音が不規則になった。手でも洗い始めたのだろう。

「うーん。クールビューティーが好きというか市川南が好きかな。彼女の系統をカテゴライズしたときの特定のカテゴリーが好きというわけじゃないかな」

「なんか回りくどくてよくわかんないけど、つまり市川南が好きってことね」

「まあ、そうかな」

「じゃあさ」

 と彼女が言ってから、少し間が空く。

 包丁とまな板が出会う瞬間に生まれる音だけが、僕の耳に届く。

「法学部で好きな女の子は?」

 トントントントン、リズミカルな音が聞こえてくる。

「ん?」

「教えてよ。誰にも言ったりしないからさ」

 考えたこともなかった。試しに、僕は法学部女子の顔を思い浮かべてみた。数秒経って気づいたことがある。全然、思い出せないということだ。日頃いかに人の顔を見ていないか実感させられた。唯一浮かび上がってきたのは、髙沢さんの笑顔だけだった。

「い、いないよ、そんなの。そもそもまともに話したことすらないし」

 僕の頭に浮かんだ髙沢さんの笑顔を、僕は押しどけて言った。

「いつも朔太くんと一緒か一人だもんねー」

「まあねー」

 公然の事実なので、異論の余地はない。

「ねえ、疑問なんだけどさ。どうして私のわがままに付き合ってくれるの? 正直、困ってるでしょ?」

 僕は、手元にあるリモコンでチャンネルを変えながら考える。彼女と一緒にいる理由。クリスマスの事故を防ぐ。そのために彼女と面識を持っておく。ただそれだけ。いや、本当にそれだけだろうか。確かに、彼女には振り回されてばかりだ。初日から目を見て話せだの、次の日には背中に担がされるし、今日なんか図書館でかくれんぼだ。でも、思い返してみると迷惑だと思ったことは一度もなかったことに気がついた。僕は、すべてのチャンネルを一周して、市川南の結婚会見のチャンネルに戻した。

「困ってなんかないよ。どうしてって、それは……」

 挽き肉やたまねぎなどの具材を、手でこねるときに発せられる独特の音が聞こえてくる。その音と、テレビの中で市川南が記者の質問に答える幸せそうな声だけがこの部屋に流れている。

「どうしてかな……? 僕にもわかんないや。でも、髙沢さんを迷惑だと思ったことは一度もないよ。本当に」

 僕は、市川南が映っているテレビに向かって言った。

「ほんとに⁉ よかったあ! じゃあ安心してこれからもたっくさんわがままに付き合ってもーらおっと」

 彼女の言葉には純粋な嬉しさと、僕の身に危険を感じさせる何かが滲みこんでいるように感じた。僕の背すじに悪寒が走る。これ以上彼女にあっちへこっちへと振り回されて僕の身が持つか、いや持たない。早いうちに限界を迎え、路頭にぶっ倒れる僕の姿が頭に浮かぶ。

「その『安心』が意味するところを是非お聞かせ願いたいな……」

 僕は戦々恐々としながら、彼女がいるキッチンに目を向ける。彼女は、楽しそうに具材をこねていた。そして鼻歌を奏で始めた。あのクリスマスの夜と、同じメロディだった。

 それからしばらく時間が経って、彼女お手製のハンバーグが僕の座るテーブルに運ばれてきた。香ばしい匂いが僕の鼻腔の中に充満した。僕はさすがに食事の準備くらいはやらないとなと思い、お箸やら飲み物やらの準備を手伝った。一通りの準備を終え、僕らは席に着いた。

「どうぞ召し上がれ」

 彼女は顔を赤らめながら言った。

「いただきます……」

 僕もすこし気恥ずかしさを感じながら言った。

 僕はハンバーグの真ん中にスッと斜めに箸を入れた。すると、待ちわびたようにそこからジューシーな油が湧き出てきた。すかさず僕は一切れをつかみ、口の中に放り込む。

「んんー、おいひい」

 こんなに美味しいハンバーグを食べたのは生まれて初めてかもしれない。というより、ハンバーグ自体、あまり食べたことがないことに気がついた。どうしてこんなに美味しい料理を食べてこなかったのかと、とても後悔した。僕の人生の中の、失われたハンバーグ期間を埋めるかのように、僕は次から次にハンバーグをぱくついた。

「ありがとう。真琴くん子どもみたい。どんどん食べてね」

 彼女は手を口元にあて、こぼれる笑みを隠すように言った。僕は、ハンバーグの美味しさに免じて何とでも言えという気持ちだったので、箸の勢いを止めることはしなかった。

 僕と彼女は、しばらく談笑しながら食事を楽しんでいた。ハンバーグも残りわずかとなり、僕はもの寂しさを感じていたが、突然彼女が姿勢を正しだしたので、僕は身構えた。

「今日、真琴くんを家に呼んだのはね……」

 彼女が畏まった顔で言ったので、僕は箸をとめて次の言葉を待った。

「真琴くんのことを知りたかったからなんだ。ほら、外じゃ話しづらいことでもここなら安心して話せるでしょ。聞いてるの私だけだから、さ……」

 彼女は、残り一つとなったハンバーグを見ながら言った。

「え……」

 僕は箸を落としそうになった。今の発言の真意はいかなるものなのだろう。

「あ、言っておくけど変な意味じゃないからね。純粋にこれまでどんな人生過ごしてきたのかなーって。真琴くんミステリアスだからさ、私の好奇心レーダーがぴこんぴこんなってて。ずっと聞きたかったんだー」

 好奇心レーダーぴこんぴこん……。こういうわけのわからない言動が突然飛び出す彼女の頭の中を、ぜひ覗き込んでみたいものだと僕は思った。いや、やっぱり辞めておこう。うっかりうつってしまいそうだ。咳ばらいをひとつする。

「……そんなことならわざわざ家に呼ばなくても、外で話すよ」

「家に呼んだのは……真琴くんの胃袋を掴みたかったからだよ! もう! 言わせるな!」

 彼女が突然シャーっと今にも襲い掛かってきそうな猫のように思えて笑いそうになる。

「本当に手で掴まれそうで怖いね」

「……なんかホラーなこと言ってる? 私、怖いの苦手なんだよね……」

 闘志に燃えさかり、逆立っていたはずの全身の毛並みがしゅんとなった猫のようでまたも笑いそうになる。すぐに僕の腕に鳥肌が立った。昔テレビで見た、しろーい生々しい手で胃を掴まれる絵が脳裏に浮かんだからだ。怖い、グロすぎる。実は僕も怖いものは大の苦手だ。自分で言ったことを後悔するなんてまぬけもいいところだなと思った。

「そ、それで、知りたいことって?」

 僕は、ハンバーグに箸を戻した。ホラーな空想のおかげで食欲は失せきっていた。しかし口に入れてみると不思議なもので、ハンバーグが残こしていたわずかな熱が僕の体中に拡がり、気分をほんのり明るくしてくれた。

「うん。じゃあまずは真琴くんの高校時代について、お聞かせ願いたいな」

「えっ、あ、僕の昔話なんて聞いても時間の無駄だよ……」

「つれないこと言わないでよ。せっかくの機会なんだしさ、お互いのこと洗いざらい話し合お」

 意識がぼんやりしてきた。頭がのらりくらりする。彼女が準備した飲み物を一ミリの疑いもなく飲んでいたが、どうやらお酒だったらしい。アルコールなんてまったく気がつかなかった。微量のアルコールを大量に飲ませて酔わせるなんて悪質すぎる。こんなの映画の中でしか観たことないぞ。もしやどこぞの女スパイか。僕の命を奪いに来たのか。こんにゃろめ。妄想はエスカレートしていく。当然だ。酔ってるからだ。もうだめだ。なるようになれ。どうとでもなれ。

 気づけば、僕らは互いのことを一問一答形式で語り合っていた。大学のこと、アルバイトのこと、自分たちの趣味のこと。お酒というのは実に恐ろしいもので、口からボロボロと秘密がこぼれ落ちていった。バイトでいつも皿を割ってしまい反省文を書かされていること。実は僕がタイムスリップしてること、はさすがに言わなかった。えらい。父さんが僕を家から追い出すために中学で寮に入れたことも彼女に話してしまった。その話をしたときだけ、彼女は悲しそうな顔をしていた。

「これは聞いていいか悩んだけど聞くね……その額の傷……どうしたの?」

 僕は彼女の質問に対して初めて口をつぐんだ。テーブルに視線を落とす。僕と彼女の間に静寂が訪れる。

「いや、なにも無理に話してほしいってわけじゃないから……」

 彼女は口をつぐむ。じゃあ初めから聞くなよと僕は思う。思いつつも、僕は、椅子の背もたれにどっぷり寄りかかる。それに合わせて、両の腕がテーブルから滑り落ちていき、だらりと椅子の両側に垂れる。僕はその手を膝の上で組み、足元を見つめる。

「この傷は……」

 僕は酔っている。お酒が僕の口を開け、僕に話をさせようとしている。まあ、話してもいいか。どうせ昔の話だ。……いや、違う。僕は話したいのか? 本当は、心のどこかで、誰かに聞いてほしいと思っていたのか……? 無意識に鼻から小さな笑いが出た。どっちでもいいかそんなこと。お酒が入ったグラスに手をのばし、一思いにのどへ流し込む。ゆっくりとそのグラスをテーブルの上に戻す。戻す途中でテーブルの上に丸い形で水滴がついていることに気がついた。グラスの丸底の形をふちどったものだ。ティッシュがないかあたりを見回すが、見当たらない。僕は背もたれから離れ、右腕の袖をぐっとひっぱり、その水をぬぐった。袖の表面がじわりと濡れ、繊維に浸透し、僕の素肌に触れるまでにさほどの時間はかからなかった。冷たかった。彼女が立ち上がり、どこへ行くのかと思うと、タオルを持ってすぐに戻ってきた。「何やってるの」と言いながら、彼女は僕にそのタオルを渡した。僕は無言でそのタオルを受け取った。肌触りのいいタオルだった。タオルを袖にぐっと押し当てる。そして、小さく深呼吸をした。

 

 ※


 父さんと母さんから家を追い出された僕は、単身見ず知らずの土地へ行き、そこの中学校に入学した。同じクラスになった人たちは皆、その土地の同じ小学校の出身だったから、僕のことは「あの人、だれ?」という認識をしていたようだった。父さんと母さんに愛されていなかったという真実をつきつけられ、周りに頼れる人間が誰もいない環境におかれ、僕の心は沈みきっていた。クラスの人たちもそんな僕を見て何かを察したのだろう。僕に話しかけてくる人は誰もいなかった。それでよかった。ただ一人、静かでいたかった。クラスメートの談笑も、先生の授業も、僕の片方の耳の穴から、もう片方の耳の穴へとするりと風のように通り抜けてどこかへ行ってしまっていた。

 入学から一か月ほど経ったある日の昼休みだった。僕の前の席に座る男の子が、黙々と寮母さんが作ってくれたお弁当を食べていた僕に話しかけてきた。彼が、クラスで僕に話しかけてた人間第一号になった。

「遠藤、だっけ?」

 僕は、箸でつかみあげていた卵焼きをもとの場所にもどし、ゆっくりと顔をあげて彼の顔を見た。彼の顔は、中学一年生のくせにずいぶん老けた風貌をしていた。今のは失礼だったかも。少し大人びていた、に急いで訂正した。でも、クシャっと笑った顔は子供じみていて人当たりの良さを感じさせる子だった。

「うん、そう」

 僕は淡白に答えた。すぐに卵焼きに視線をもどして、箸をのばし口へ放り込んだ。

「その卵焼きおいしそうだね。おれのピーマンと交換してよ」

 この子とは友達になれないなとすぐに僕は判断した。

「やだよ」

「けちだな」

「はあ?」

 僕は訳が分からないといった感じで言った。卵焼きとピーマンのトレードってどう考えてもわりにあわないと思う。しかも、僕はピーマンは嫌いだ。トマトの次に。

「そんなマジになんなよ、な」

 彼は僕の肩に手をのせている。僕は邪魔だからさっさとどけて欲しいと思う。彼は穏やかな表情でクシャと笑ってみせる。彼が机の上にのせていたもう片方の腕から、笑ったときの体の揺れが机につたわり、机がかたかた揺れていた。

「いやー、なんかさ、遠藤っていつも暗い顔してるからさ、生きてるのか死んでるのかわかんなくって。まあ二足歩行で歩いてはいるみたいだから、生きているとして、でも表情は確実に死んでんなーなんて。それで、ちゃんと感情あんのかなって不思議に思ってたんだよね。で、今、あるってことが判明した」

「は、はあ」

 僕はもう一度訳が分からないといった感じで言った。二足歩行が生きていることの証になるなら、魚や昆虫をはじめ、いろんな生き物は死んでるなあと思ったりした。

 彼の口は閉じることを忘れてしまったかのように、僕の一か月の観察経過をべらべらと僕に報告した。やっと終わったかと思うと、聞いてもいないのに今度はこの土地のことやクラスメートのことをいろいろ語り始めた。その日から、彼は毎日僕に話しかけてきた。席が僕の前ということもあったが、それにしてもよく話しかけてきた。理科の実験室に向かうとき、体育で運動場に向かうとき、「一緒に行こうぜ」と言って、僕を引っ張っていった。僕があまりに暗い顔をしているから、気を遣ってるのかなと思い、そうだとしたらいい迷惑だなって思った。迷惑だなと思いつつも、心のどこかでは彼の気遣いに救われていたのだろう。いつの間にか僕にとって彼は、クラスの中の唯一の友人と呼べる存在になっていた。

 しかし、ある日、事件は、唐突に、起こる。

 彼には幼稚園の頃から好きな女の子がいた。仲はとても良かったのだが、告白したことは一度もなく、数年来の片思いだった。彼はよく彼女の話を僕にした。幼稚園のときに泣いている子にハンカチを渡していたとか、小学校のとき消しゴムがなくなった子に消しゴムを貸したりとか。実際、僕も彼女と話してみるととても優しそうな子だなと思った。僕は彼に告白すべきと言った。どうしてそんなことを当時の僕が言ったのかはわからない。でも、告白が実り、彼の幸せが少しでも増えるのなら、それはいいことのように僕には思えた。

 彼はついに決意を固め、中学三年の夏に彼女に告白した。彼が告白を決行した次の日から、彼の様子が少しおかしくなり始めた。僕ではない友人たちとよく話すようになり、それに反比例して僕との会話の回数は減っていった。そして、気づけば彼が僕の半径一メートル圏内に入ってくることはなくなった。彼が僕と距離を置く理由がさっぱりわからなかった。

 ある日曜日の夕方、僕は、彼が告白した女の子とコンビニの前で出くわした。少し話をすると、帰る方向が同じということで僕と彼女は一緒に帰ることになった。彼女と二人きりで話すのはこの日が初めてで、最初は緊張したが彼女の人柄のおかげか、それもすぐにほぐれていった。学校のことや趣味のことを話しているとあれよあれよという間に時は過ぎた。「あれがわたしの家」と彼女は大きなマンションを指さした。とても大きいマンションだった。目の前の交差点を右折すればすぐに彼女の自宅に着くところまで来た時だった。

「公園行こうよ。もう少し話そ」

 彼女は、僕と視線をあわせず交差点を左折した少し先にある公園を指さして言った。僕は、彼女に告白した彼に悪いと思ったので断ろうと思った。でも、気がついた。僕はもう、彼と友と呼べる距離にはいない。

「うん。いいよ」

 日はとっくに落ちて辺りは真っ暗だった。小さな電灯があるだけの公園には誰もいなかった。電灯が広い公園の中で唯一光をあてている小さなベンチに向かっていたときだ。突然後ろから彼女に抱きしめられた。

「わたし、エンドークンのことが好き」

 僕の頭は真っ白になった。こういうのには慣れていなかった。僕はすぐに、身体に絡まった彼女の腕をつかみ、ほどき、払った。

「ごめん」

 そう言って、僕は彼女のもとから走り去った。冷静さを取り戻して、彼女の腕をつかんだ時にすこし力がこもっていたかなと反省した。

 次の日、教室の扉を開けたときだった。廊下まで響いていたクラス一同の声がぴたりと鳴りやんだ。クラスのみんなが僕を見ていた。僕は一同を見回し、一人の女の子が泣いていることに気がついた。その女の子は、昨日僕に告白をした女の子だった。そして、もう一人。男の子が憤怒に狂った表情で僕を睨みつけていた。その男の子は、泣いている女の子に告白した僕の元友人だった。

 その日は、とても居心地が悪かった。最悪なことにその日は掃除当番だった。なるべくクラスの人から離れようと、教室のゴミを持ってゴミ収集所に着いたときだった。後ろから、元友人の彼が僕に声をかけてきた。僕は作業中の手を止め、ゆっくりと後ろを振り返った。次の瞬間、額に激しい痛みが走った。彼の手には小さなカッターがあった。その刃先は赤く染まっていた。

 彼は激情に任せて、次から次に僕に罵声を浴びせた。彼女が僕に告白した夜、僕が彼女の身体に乱暴をしたとか、人として最低だとか、いっそ死んでしまえばいいのにとか、彼は言っていた。僕は彼に弁解しようとした。だけどできなかった。彼が僕のことをそういうことをする人間だと信じて疑っていなかったことが悲しかった。その悲しさが、僕の口を固く閉ざしてしまった。

 次の日、学校の下駄箱で彼女と会った。そして、彼女は僕の額のガーゼを見てこう言った。

「エンドークンが悪いんだからね。私に乱暴なんてするから」

 彼女は不敵な笑みを浮かべていた。


 ※


「以上、これが僕の額の傷の黒歴史でしたとさ」

 僕は額の傷を擦りながら口を閉じた。髙沢さんは口を真一文字に結び複雑な顔をしている。

「大変だったんだね……」

「よくある話だよ」

 ハンバーグはすっかり冷え切っていた。今話したことを忘れようとお酒を一気に飲み干した。市川南の結婚会見はとっくに終わり、バラエティ番組に変わっていた。お互いに喋りすぎたせいか、お酒が二人の頭の中をかき乱しているせいか、その後の食事は厳かに進んだ。眠気が襲ってきたので、僕は家に帰ることにした。

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