第10話 12月7日

 太陽光線が、窓から僕の顔を直撃している。昨日カーテンを開けたまま眠ってしまったようだ。まぶしさで目を覚ました僕は、時計を見て背すじが凍った。今日はレポートの提出日で、講義開始直後に先生に提出しないと未提出扱いとなり、定期試験の点数が減点されてしまう。一年生とはいえ貴重な単位を落とすわけにはいかない。昨日の服を着たままだったが、着の身着のままでレポートとリュックだけ持って講義室へ自転車を走らせた。

 講義室後方のドアから中に入る。何十という数の学生が、前方にある教卓の提出箱へ向かって長蛇の列をなしていた。なんとか間に合ったらしい。僕はいつも座る席にリュックを置き、列の最後尾に並んだ。髙沢さんはすでに提出を済ませたようだ。いつもの窓際の席に座り、スマホの画面を指先でスクロールしている。提出は滞りなく進んでおり、提出を終えた人が一人また一人と銃弾のように列の先頭から放たれる。列が進むにつれ、僕と髙沢さんの席の距離はじわじわと縮まっていく。彼女に一歩また一歩と近づくたびに謎の緊張感が僕を襲う。お願いだから、ここでは声をかけないでくれ。周りの人間に余計な詮索されることだけはごめんだ。だが、彼女がそんな僕の心中を察してくれるはずなんてなかった。

「真琴くん」 

 彼女の席を通り過ぎ、僕が安堵の胸をなでおろしていたところで後ろから彼女に声をかけられた。いっそ無視してしまおうかと思ったが、さすがに失礼かなと思いなおし、僕は首を後ろへ回した。彼女はにっこりと微笑んで僕に手を振っていた。僕もやや強引に笑みを浮かべ、軽く会釈をした。髙沢さんの隣に座る女の子が、彼女に何かを尋ねている。おおよそ「あの人誰?」みたいなことを聞いているんだろう。僕は顔を前に戻し、前に並ぶ人とさしてない間合いをさらにつめた。

「ちゃんとレポート書いた?」

 彼女がもう一度僕に話しかけてくる。

 頼むから大学内、せめて学部内では声をかけないでくれよ。君は学内の人気者、僕は日陰者なのだから、と声を大にして言いたい気持ちをぐっと抑える。再び顔だけ彼女に向け、さっきと同じように小さく頷いた。彼女の顔がみるみる怪訝な表情になっていく。

「どうして話してくれないんだよお。もしかして私と話すの嫌になったのー?」

「そんなことないって」

 僕は槍を突き刺すように、声を細めて鋭く言い放った。

「そう。ならよかった。レポートちゃんと書けた?」

「まあ、なんとか。昨日徹夜で」

「昨日は楽しかったね」

 僕は氷のように固まった。彼女の席の前後左右の人間が、一斉に僕の顔を見た。僕は怖くなり、これ以上下げられないくらい頭を垂れた。

「そう……だね……それじゃ。提出しないと」

「うん、またね」

 僕は彼女の声が届かない距離まで前に進んだが、誰かに背中から撃ち殺されるのではないかという不安でいっぱいだった。嫌がらせを受ける悪夢の日々が始まるのではないかと気が気でならなかった。中学の時のように……。僕は無事にレポートの提出を終え、自分の席に着いた。

「生きてるか? 顔、真っ青だぞ」

 僕はゆっくりと朔太に顔を向けた。無言で首を縦に振る。

「かろうじて。呼吸はできてる」

「それなら安心だ。死ぬことはないな」

「まだ提出していない人はいますか?」

 岩原教授の声が、拡声器を通して講義室内に響き渡る。誰一人それに対して答える者はいない。雑談に勤しむ人、スマホでゲームに熱中する人、小さな鏡を持って口紅を塗りなおす人、みな各自の活動で忙しいようだ。教授は講義室を左から右へ見回し、挙手している人がいないことを確認すると講義を始めた。

「真琴さ、瑞香ちゃんと何かあった? さっき何か言われてたみたいだけど。もしかしてサークルのときのことまだ何か言われてたりする?」

 朔太は僕の身を案じるように言った。

「いや、全然。ちょっと話すようになっただけ」

「おお! そうか! 話せるようになったか! 俺は嬉しいぞ!」

「なんで朔太が嬉しがるんだよ」

「だって、真琴が女の子と話してるところなんか見たことなかったからよ。まあ、男子でも俺以外のやつと話してるとこ見たことないけどな」

 朔太が言ったことは、まぎれもなく事実だから返す言葉もない。

「心配してくれるやつがいてくれて僕は嬉しいよ」

「うんうん。心配してくれる友達は大事にしろよ」

「自分で言うなよ」


 僕は講義終了後、学食へ向かった。まだ十時過ぎなので人は少なかった。いつもの朝食メニューをトレーに乗せ、いつもの席に座る。株価は先週末に引き続き上昇基調のようだ。アプリでニュースを見ていると、肩を二度叩かれた。後ろを振り返ると頬に何かが当たった。先日もこんなことがあったような。

「ぷふ」

 僕は、息が抜けるように笑う彼女を見て、講義室で感じた不安が蘇ってきた。

「何やってるんだよ」

 僕は、一文字一文字、力を込めて言った。

「うーん、挨拶? さっき言うの忘れてたし。おはよ」

 僕は、頬に触れている彼女の人差し指を睨みつけた。

「これは挨拶じゃない」

「友情の証、かな!」

「全然違う。はやくどけてよ」

「やなこった」

「瑞香ー!」

 女の子が髙沢さんの名前を呼んでいる。僕は、急いで視線を彼女からご飯に移した。彼女の手が僕の肩からそっと離れる。そして何かを思い出したかのように、彼女はバッグの中をまさぐり始めた。そして中からぐちゃぐちゃの二枚の紙を取り出し、僕のトレーの横にそっと置いた。その紙にはダンス愛好会五周年記念やりますの題で、場所と明日の日付が記されていた。

「これ見に来て。一人じゃ絶対無理って言いそうだから、朔太くんも誘っていいから。約束ね」

 僕は置かれた紙を数秒見つめ、丁重にお断りしようと後ろを振り返った。

 彼女の姿はもうなかった。

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