第9話 12月6日
待ち合わせ場所は、大学の正門前だった。通称黒門と呼ばれているその正門は、時折見かけるお屋敷の立派な門などではなく、学内へと続く道の両脇をただブロック塀で挟んだだけの代物である。これが門と呼べるのか。僕は、黒門という名称を知ってからこの門を通るたびに思ってしまう。
黒門をじっと眺めながらそんなことを考えていると、肩を二度叩かれた。僕の身体はビクッと身震いし、急いで後ろを振り返った。髙沢瑞香が笑みを浮かべて後ろに立っていた。僕の頬に何かが触れている。彼女の腕が僕の肩に伸びていた。今日は手袋をしているようだ。彼女の四本の指は僕の肩に乗せられている。残りの人差し指は、どうやら僕の頬に向けられているようだ。
「あははっ」
彼女は僕の肩から手を放し、そのままお腹にあてて笑い始めた。
「わーい、引っ掛かった!」
僕はムッとした。だが、子供のように無邪気に笑う彼女の表情を見ると、その感情も冷めてしった。
「そんなに笑うことないでしょ」
それでも一応、怒ってるんだぞということを彼女にアピールするため、僕は強引にムッとした顔をつくって言った。
「怒った?」
高らかに笑っていた彼女は、手のひらを返したように真剣なまなざしで僕の様子をうかがった。
「いや……別に……」
「だよねー! 笑う門には福来るだよ! おおいに笑お! はっはっはっはー!」
彼女は腰に手をあて背中をめいっぱいのけぞらせて、雲一つないまっさらな青空に笑い声を届けている。大きな木の枝の上できょろきょろと辺りを見回していた小鳥たちも彼女の声に合わせてさえずり始めた。僕は、静かに彼女と小鳥たちが奏でるはちゃめちゃなハーモニーに耳を傾けていた。太陽が彼女をまるごと照らしていた。どうやらお天道様も彼女を気に入っているようだ。
あの事故がなければ、そしてタイムスリップがなければ僕はこうして彼女とこの時間を共有することはなかっただろう。人間なんて、結局人を傷つけるのに。中学のあの日、僕はそのことを身をもって知ったはずなのに。だから、必要最低限の人付き合いしかしないと思っていたのに。閉ざしたはずの僕の心に、彼女は土足でずかずかと入り込んできた。それだけでは飽き足りず、彼女は線光弾を何発も放り投げ僕の心を眩しいくらいに照らしてくる。
「じゃあ行こっか、出発進行!」
彼女が歩き出す。僕はその場に突っ立ったまま彼女の後姿を見つめる。黒い生地に小さくて白い花模様が吹雪いているスカート。純白のタートルネックに、深緑のフェイクファーブルゾン。そして、財布とスマホを入れたらもう何も入りそうにない小さなカバン。大学で見かける学生はみんな似たり寄ったりの服装で、特に女子学生は僕の目からはどれも同じように見えていた。普段なら女の子の服装をじっと見つめる気すら起きない。だが、今日は不覚にも彼女に視線が釘付けになってしまった。
彼女が立ち止まった。クルっと僕のほうを振り返る。回転するときの空気抵抗でスカートがふわっと広がる。まるで花びらが咲く瞬間のように僕は思えた。
「何そこでぼーっと立ってるの? はやく来ないと置いてくよー」
彼女はやまびこポーズで僕の起動を促した。僕は気持ち駆け足で彼女の元へ向かった。
「今、私のこといやらしい目で見てたでしょ?」
「……」
「図星か」
「いやらしいことは考えてない。でも見てたのは事実。ごめん」
「見てたのは認めちゃうんだ。まあ、素直でいっか。でも他の女の子にはしちゃダメだよ。私の心は空より広くて海より深いから、寛大な心で許してあげられるけど、世の中の女がみんなそうとは限らないからね。以後、気を付けるように」
彼女はなぜか胸を張り、自信満々で言った。
「とてもためになるアドバイスをありがとうございます」
僕は、一応敬意を払って謝辞を述べてみる。彼女はスッと僕の方に手のひらを差し出してきた。
「その手は?」
「講演料です。千円になりまーす」
僕は眉を寄せ、目を細めて、彼女をギロリと見た。
「冗談でーす」
僕らは横に並んで一緒に笑った。
僕の歩く速さは都会人並みだ。小学生のとき友達の歩調に合わせることができず家まで一人で帰っていた。中学時代には「生き急ぐなよ」と親友……いや、ある男の子に言われたことがあった。そんなペースで歩く僕の隣を、彼女は事も無げに歩いていた。驚きだ。
「そういえば、真琴くんはバイト何やってるの?」
「え、あ、うん」
驚きはいったん脇に置き、僕は正直に皿洗いと答えるか、前職の塾講師と答えるか迷った。塾講師と答えた方が、大学生バイト人気ランキングトップというお墨付きもあるため無難かなと思った。皿洗いと答えたら彼女はどう思うだろうか。きっと生粋の陰キャラだと思うだろう。ま、事実だけど。試行錯誤して、最終的にここで嘘をついたところでしょうがないという結論に至った。
「皿洗い」
「え?」
やっぱり塾講師って答えるべきだったかな。すこし後悔。
「水冷たくないの? 手、凍死しちゃう? 手、ポロリととれちゃう?」
この子は一体何を言っているのだろうか、まさか冷水で皿を洗っているとでも思っているのだろうか。それとも「手、ポロリ」が彼女のマイブームで、ただそれを言いたいだけなのだろうか。こういう冗談にはあえて乗ってあげないに限る。朔太との経験から学んだ知恵だ。僕はまじめに返答することにした。
「凍死はしないかな。温水だし。あ、でも、投資は好きだよ」
トウシをかけて、おやじギャグみたいな流れで行ってみる僕も我ながらどうかと思う。
こんな感じで僕と彼女は他愛のない話をし、彼女の繰り出すジョークを究極の無の顔でスルーしながらも内心ではクスリと笑ってしまいながら、一時間ほど歩いて商店街の入り口に着いた。大学からここまでの道のりは決して短い距離ではなかった。でもあっという間だった。いつも一人で歩く道を誰かと並んで歩く。いつも黙って歩く道を誰かと話しながら歩く。ただの歩くという行為が、隣に誰かがいるだけで時間を忘れるくらい楽しい……楽しいものになるなんて僕は知らなかった。
その楽しさも一瞬で消えた。商店街の中央を貫く直線道は人で溢れかえっている。僕は人の多さに圧倒され気が滅入ってしまった。
「人多いね」
彼女はポロッと口からこぼれたように言った。
当たり前だ。今日は日曜日だ。僕の胸からはすでに、愛しの我が家に帰りたい気持ちがふつふつと湧きあがっている。だが彼女がいる手前、その気持ちを顔に出すわけにもいかない。そんな僕とはうってかわって、彼女は、和気あいあいと語らいながら歩く人々を見て目を輝かせていた。彼女は人が好きなんだろうな、そう僕は思った。僕には理解できないな、とも思った。
「あ、ちゃんぽん! 歩いてお腹すいたから食べ行こ!」
違った。彼女は単にお腹を空かせていただけだった。
「まだ十時だけど」
「えーまだそんな時間なのかー。じゃあ、今日のお昼もちゃんぽんにしよ!」
「どうぞどうぞ。君に任せる」
「君?」
「君」
「君って誰のこと?」
「君は君だよ」
僕は、彼女を見て答えた。
「私、髙沢瑞香。君なんて名前じゃない。前に瑞香って呼んでって言ったよね?」
彼女は少し怒っているみたいだ。僕は彼女の顔から視線を外す。
「いやー……出会って間もない人を名前で呼ぶのはちょっと……それに……」
「それに何?」
彼女の眉間にしわが寄っている。「あまり寄せすぎると、怖いを通り越して面白いよ」って言いたいのをぐっと堪える。
「それに……女の子だし。女の子の名前なんて呼んだことないからさ」
眉間のしわがきれいさっぱり消えた。彼女の顔がぱっと明るくなった。彼女の瞳に光が灯った気がした。いや、灯ってた、それはもう神々しいくらいに。
「それじゃあ私……真琴くんの初めての女になるんだね……ぐふっ。ほら、言ってみ!」
ちょっと待って。ぐふっじゃない。今のは大きな誤解を生みかねない発言だ。こんなに人が大勢いる場所で言っていいような台詞じゃない。僕は顔を右に左にぶんぶん振りまわし、周囲の人たちの挙動を確認する。そんな僕の気持ちなんか意にも介さず、彼女の視線はまっすぐ僕の顔をつらぬいていた。助けてください神様。ピンチです。
「……髙沢さん……どうぞ本日のランチをお決めください」
頑張った、僕。
「ああん? なんなんですの、その他人行儀な態度は」
彼女は突如、道端のヤンキーとお城のお姫様を足して二で割ったような人間と化した。大きく一歩を踏み出し、グッと僕に近寄り、圧をかける。僕は一歩後ずさりする。
「髙沢さん……名字で呼ぶのでも頑張ってるんだよ! これで勘弁してください……」
僕は恐妻の尻に敷かれる夫、の気持ちがなんとなくわかった気がした。彼女の踏み出した足が元の位置に戻る。
「仕方ないなー。でもいつか絶対に名前呼んでもらうからね。覚悟しといて」
彼女の宣戦布告により、名前呼べ合戦は幕を閉じた。そして今日の昼ご飯はちゃんぽんに決まった。
僕と彼女は、彼女が観たいと言っていた怪獣映画を観るため映画館へ向かった。人混み嫌いの僕が、商店街の中央を貫く直線道を進むにはやや無理があった。僕は横道を歩こうと彼女に提案した。しかし彼女は「せっかく来たんだからいろんなお店を見ながら歩こうよ」と言い張った。不毛なラリーを繰り返して、ついに僕が目に涙を浮かべて懇願すると、彼女はしぶしぶ了承してくれた。その代わり、僕は昼ご飯にギョーザを彼女に奢らなければいけなくなった。
横道を歩いている人の数は、中央道の半分だった。僕はラクに息ができるようになった。冬だというのに太陽の光が異様に熱く感じられる。溢れる人混みにあてられたからなのか、彼女の名字を呼んだからなのかはわからない。とにかく暑かったのでダウンジャケットのジッパーを降ろし、その下に着ていたブルゾンのボタンを開けた。ひんやりと気持ちのいい風が僕のお腹をくすぐった。しばらく直進を続け、右に折れたところに映画館はあった。ここも相変わらず人が多い。
「人多いね」
またも彼女はけろりと言った。
「まあ、休日だからね」
僕はげんなりして言った。
「あれ、遠藤くん?」
チケット売り場の長蛇の列に圧倒され、案山子のように立ちつくしていた僕の後ろから聞き覚えのある声がした。僕は後ろを振り返る。そこには初めて見るポニーテール姿の三多さんが笑顔で立っていた。三多さんの視線がゆっくりと僕の左隣へ移っていく。三多さんと髙沢さんの視線が直線で結ばれ、二人は同時に頭を下げた。三多さんが僕の右隣にととと、と寄ってくる。僕は身構える。
「やるじゃーん。遠藤くんも隅に置けないなあ」
三多さんは僕の耳元でひそひそと言った。なぜか嬉しそうだった。
「違いますから。僕と彼女はそんな関係じゃないですから」
僕は身振り手振りで髙沢さんとの潔白な関係性を訴える。左隣からは不穏な空気を感じる。
「いいの、いいの。若者は青春を謳歌しなくちゃ。そうだ、餞別にこれあげる。お二方のお口に合うかはわかんないけど」
三多さんは八重歯をひょこっと見せて、僕の手に二枚のチケットを押し込んだ。
「それじゃ」
と、一言言い残して足早に僕らの前から去って行った。左隣から発せられる不穏な空気はより大きなものとなっている。
「ねえ。あの人、誰? どういう関係? すごく綺麗だったけど」
髙沢さんは、怪訝な顔つきで僕を睨んでいる。ヤンキーとお姫様を足して二で割ったはずの彼女は、完全にヤンキーと化していた。
「バイト先の同僚。僕、一番下っ端だからさ、いろいろと気を遣ってくれるんだ。今みたいに」
今度は、僕と三多さんの関係を釈明しなけらばならなかった。
「ふうん」
無言の時間が流れる。時計の針では数秒なのに、えらく長く感じられる。
というか、なぜ彼女は僕を睨んでいるんだ。僕を睨む理由なんてないはずなのに。
「真琴くんってああいう人が好みだったんだ、意外!だ!ね!」
「いや、違うから!」
僕は、疾風迅雷の勢いで否定した。先ほど行われた釈明会見時の倍の熱量で僕は言った。
「本当に? とおーっても、なかつむ……仲睦まじげに見えましたけれども。おほん」
髙沢さんは、今度はお姫様化してお上品に言った。だが、特筆すべき点はそこではない。僕は聞き逃さなかった。今、確かに彼女は噛んだ。何事もなかったかのように毅然としているが、地獄耳を有する僕を侮ってはいけない。
「本当だって! てか、今噛んだよね!」
僕は思わず吹き出してしまわぬよう唇を真一文字に固く結んだ。なおも毅然とした態度を崩さない彼女を見ていると、いとも簡単に唇がほどけてしまいそうになるので、僕は映画のポスターに視線を移す。
「う、うるさい!」
僕は、彼女の拳に力が入っているのを確認した。次に繰り出される言動に僕は身構えた。だが予想に反して、先に声をあげて笑い出したのは彼女自身だった。免罪符を得たかのように彼女の笑顔につられて僕も笑った。彼女と一緒にいるとどうも唇が緩みがちになる。緩んでしまうものはしょうがない。抵抗するだけ無駄なのだから、抵抗しないことにした。周囲の人々が僕らを見ていたが、どうでもよかった。一瞬人々の中に、口元を綻ばせている三多さんの姿が見えた気がしたが、もう一度よく見ると違う人だった。
僕は、手の中で窮屈そうにしている二枚のチケットを見た。三多さんが一人でいたにも関わらず二枚のチケットを持っていたのは少し気になった。まあそれは今夜のバイトのときに聞くとしよう。髙沢さんにチケットを見せると、今最も人気の映画ということが判明した。究極の純愛ラブストーリーとのことだが、僕と縁もゆかりもないジャンルなので全く興味をそそられなかった。僕は、昔、家で父さんが観ていた二人の男が銃を打ち合うアクション映画と出会ってから、アクション映画一筋だ。ラブストーリーなんてそこらへんの若いカップルが観るものだと思っている。
チケットに記載されている上映時間が迫っていた。僕らは急いでシアタールームへと向かう。突然、入り口の前で髙沢さんが立ち止まった。
「どうしたの? トイレ?」
「私、ポップコーンとチュロスとコーラなしに映画なんて見られない」
髙沢さんはそう言い放つと間髪入れず風のように売店へと向かって行った。えー、と思いながら僕はその場で右往左往し、考えを巡らせて、先に室中に入って席を確保することにした。映画を観るときの注意事項が流れているときに、息を切らしながら彼女は無事カムバックした。
冒頭で男の子が過去の出来事に思い悩むシーンを見た後の記憶がない。次に覚えているのは、その男の子が女の子に手を伸ばして涙の大洪水をせき止めようともせず必死に彼女に向かって何かを言っているシーンだった。頭がぼんやりしていて台詞は聞き取れなかったが、隣に座っている髙沢さんを見ると、目から顎にかけて一筋の涙が流れていたので、さぞ感動的な台詞なのだろうと思ってまた眠りについてしまった。
誰かの声がする。何を言ってるのか聞き取れない。身体が揺れているようだ。地震でも起きたのか。椅子の下に隠れなくては。この椅子の下に潜り込んでも頭隠して尻隠さずの状態になることは容易に想像がつく。それでも隠れなくてはいけない。小学生の時の避難訓練で机の下に隠れると、非日常を感じられてワクワクしたことを思い出す。
「起きて!」
「ほへ!」
僕が腑抜けた返事をしたのと目を開けたのと椅子から立ち上がったのはほぼ同時だった。
「ほら、行くよ」
髙沢さんが手に持っている袋を見る。どうやらビックサイズのポップコーンとロングサイズのチュロスを一人でペロリと平らげたようだ。これだけ食べてその体型なのだから世の中は不公平だと思った。映画館の出口からはぞくぞくと人が発射され、彼らは四方八方に飛び散っていった。僕と髙沢さんも来る途中に通りかかったちゃんぽんの店へと足先を向け、映画館を出た。
「どのシーンが一番よかった?」
と、彼女に問われたところで、僕は最初とおそらく最後のシーンしか見てないのだから答えようがない。昨日のバイトが長引いたこと、昨晩、今日の事を想像してちっとも寝つけずほんの数時間しか睡眠をとれていないことが原因だ。
「二人が涙を流して感動的な台詞を言い合っているシーンかな。あんな台詞、僕なら絶対に出てこないよ。仮に出てきたとしても言えないね」
僕はさも平然と、終始目を覚ましていたかのように言った。
「寝てたくせに」
どうやら無駄な抵抗だったようだ。彼女はすべてお見通しといった感じで言った。
店へ向かう道中、彼女が映画の概要を教えてくれた。やはり興味を覚えるほどのものではなかったので、僕は単調な相槌を繰り返した。話している口ぶりから、彼女は随分お気に召したようだった。お昼時となり、商店街はなお一層の賑わいを見せている。
店内に入ると、僕らの来店を待っていたかのようにカウンターの二席が並んで空いていた。僕らは遠慮なくその席に座った。すぐに若い男性店員が注文を取りに来た。僕は、約束通り彼女のためにギョーザを注文した。彼女は、そのギョーザを真っ先に平らげた。外で待っている人たちがいるのを僕らは見逃さなかったのでそそくさと食べて、席を空けた。
「ねえ、服買いに行かない? 真琴くんいつもその組み合わせだよね。タートルネックにブルゾン、そしてダウンジャケット。タートルネックの色を変えるだけなんて飽きない?」
髙沢さんは、お腹を擦りながら言った。さすがに食べすぎなのだ。またも笑いそうになるのを僕は唇をかみしめて懸命に堪える。
「気に入ってるんだよ。それに朝から鏡の前で観客のいないファッションショーをしなくて済むでしょ?」
「ファッションショー? 何のこと?」
「試着のこと。鏡の前に立って一人でポーズ決めてさ、この組み合わせどうかなって、服を選ぶときやってない?」
「ああ、そういうこと。何言ってるかよくわかんないけど、とりあえず服屋さんに行こ」
彼女は、まだお腹を擦っていた。僕は、今のやりとりからどういう思考回路で服屋に行くという結論に至ったのか、彼女の頭の中を覗いてみたいと思った。
洋服店の入り口で全身真っ白ののっぺらぼうが、僕らを無言で迎えてくれた。僕は特に洋服屋に用はなかったので、ぐいぐい前進する彼女の足元を見ながら、とぼとぼ彼女の後ろをついていった。数メートル歩いて彼女が立ち止まったので、僕も足にブレーキをかける。そして、顔を上げた。彼女はにたにたと笑っていた。
「このえっち」
周囲を見回した僕の目に飛び込んできたのは、ピンク、白、黒、紫、色とりどりの女性下着たちだった。僕の頭の中でどんちゃん騒ぎが始まる。あー、くらくらしてきた。頭の上で、ひよこがぐるぐる回っている気がする。
「いや……僕はそんなやましい人間では……」
僕は一歩後ずさりし、あたふたして言った。
「そんな言い訳が通用すると思ってるの? 現行犯だよ?」
彼女は、仕掛けた罠にまんまとひっかかった獲物を見るような目で、僕を見ている。彼女の顔はとてもイキイキしている。
「男性もののところにいるから、買い終わったらメールして! それじゃ!」
僕は彼女の返事を聞かず、視線を真下に固定して急ぎ足で紳士服コーナーへと向かった。冗談もほどほどにしてほしいと心から思った。
僕が適当に紳士服コーナーを周回していると、小さめの袋を下げた彼女がやってきた。
「パンツじゃないよ」
と彼女は言った。
「聞いてない」
と僕は言った。
「顔赤いよ」
と彼女は言った。
「赤くない」
と僕は言った。
「どれどれー?」
と言った彼女が、僕に顔を寄せる。
「何、買ったの?」
顔をそむけて僕は尋ねた。
一目惚れした商品があったそうで、衝動買いしてしまったらしい。クリスマスも近いので、誰か大切な人にプレゼントとして贈るのだろう。彼女がちゃんとプレゼントを渡せるように事故を回避するのが僕に与えられたミッションだ。そのことをすっかり忘れかけていたのだから、気を引き締めねばと自分を戒めた。僕のバイトの時間が近づいてきたので、今日はここで解散という運びとなった。別れ際に、彼女は「下ばかり見てるから周りが見えなくなっちゃうんだよ」と言った。僕は「そうだね」と返した。「楽しい一日だったね」と彼女は言った。僕は「そうだね」ともう一度返した。
「それで、あの子が遠藤くんの彼女なの?」
僕の到着を待ちかねていたかのように洗い場でスタンバイしていた三多さんが、顔を近づけて僕を問い詰めた。
「三多さん、近いです」
「おっと、ごめん」
三多さんは、いつものようにおどけた表情で言った。
「違いますよ。極めて特殊な事情が僕と彼女の間にはあって、それでやむなく一緒にいるだけです。あと、チケットありがとうございました。後でちゃんとお金払います」
「ふーん。私にはそんな感じに見えなかったけどなあ。どういたしまして。お金はいいよ」
「ちゃんと払います。僕、お金のことはきちんとする派なんです。それより、三多さんのほうこそ、あの映画誰かと見るつもりだったんですよね。チケット二枚だったし。どなたと見るつもりだったんですか?」
別に知りたいわけではない。それでもつい聞いてしまうのは、人間の性というものなのだろうか。
「あー、私、映画のチケットは二枚買う派なんだ。観賞用と保存用にね」
「二枚買う派って、派閥を組めるほど人数いるんですか?」
「え、二枚買わない?」
三多さんの目が大きく開いている。
「普通は買わないと思いますけど……僕が普通じゃないのかな……」
僕は、無性に心配になった。現実は、僕が知っていることなんて大きく超えてくるのだ。
「ひねくれものだからねえ」
「そう、ですね」
ホールの方から誰かが三多さんを呼んでいる。彼女は、おしぼりの準備を失念していたことを思い出し、さっきよりもさらに大きく目を開けてホールへと走り去って行った。
僕は蛇口をひねり、温水が出てきたのを確認して皿を洗い始めた。ふいに眠気が襲ってきた。僕の手を包み込む温かい水が悪魔に見え始めた。キキキキキと笑いながら楽しそうに睡魔に金棒を渡している。今日の敵は皿にへばりついた魚の皮ではなく温水悪魔と金棒睡魔だった。戦いは熾烈を極めたが、なんとか皿を割ることもなく、バイトを乗り切った。僕の勝利だ。
無事に家に帰りつくこともできた。帰ることはできたものの、そのままベッドに倒れ込み、朝のご飯のタイマーをセットすることも忘れて夢の中へとゆるゆると落ちていった。
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