第8話 12月5日

 休日ということもあり、図書館にいる人は少なかった。外で待つには寒すぎたので、入ってすぐのロビーにある椅子に座って僕は彼女の到来を待った。集合時間の十分前に到着したが彼女の姿はまだなく、その五分後に彼女は姿を現した。

「おはよ! 唇がへの字になってるよ」

 彼女の首に巻かれてある黄色のマフラーを見て、僕は無意識に唇に力を入れてしまったようだった。

 朝八時なのに、彼女の表情はからっとした笑顔である。

「おはようございます」

「なんで敬語?」

「クセ……かな?」

「じゃあ現時点より、敬語禁止令交付ね」

「そんな、また、急な……」

 彼女は学習机が並ぶスペースへ歩き出していた。奔放すぎだ。僕は急いで彼女の横に並んだ。

「判例集いるなら貸すよ。僕は朔太のやつ借りるからさ」

「やだ。どうせ同じ課題なんだし、一緒にやった方が早いでしょ?」

 そう言って、彼女の足が止まった。彼女が僕を見る。

「もしかして私と一緒に勉強するの嫌?」

「そんなことないけど……」

「ですよねえ」

 彼女はニンマリと笑みを浮かべた。そして歩き始める。歩くペースが少し早まった気がした。

 四人がけの席に彼女が先に座った。その後、僕は彼女の斜め前の席に腰をおろした。正面に座るのはマナー違反だと前に本で読んだからだ。仕入れた知識をいざ実践で活かせるとなんだか嬉しい。僕が嬉しさに浸っていると、彼女が僕の目の前の席に移動してきた。すかさず僕は彼女の斜め前に座りなおす。彼女はまた僕の真正面に移動した。小学生でもやらないようなことをもうすぐ二十歳になって大人の仲間入りを果たそうという二人がやっているのだから面白い。そんなことを悠長に思っている場合ではない。移動するたびに引いた椅子の足音が静かな図書室に鳴り響いている。僕らのこの不毛なやりとりが始まってから、数人の学生が僕らの方を迷惑そうにチラチラ見ていた。

「ちょっと何やってるんだよ」

 僕は小声で強く彼女に言った。

「真琴くん、マナー違反。真正面に座るのがマナーってやつでしょ?」

「違うから。それ間違ってるから」

「間違ってないし。おとなしく真正面に座りなよ。周りの人たちにも迷惑だよ」

 彼女は、細い人差し指で彼女の真正面の椅子をさしている。人差し指が一瞬包丁に見えて僕は戦慄した。例に漏れず、これ以上の事態の悪化を避けるため、潔く僕は彼女の真正面に座った。彼女はよくできましたと言わんばかりの顔をしている。この一件で僕は、現実というものは、自分の知識など大きく超えてくるのだということを強く感じさせられた。

 僕らは、各々パソコンと筆記用具とノートを机の上に広げ、レポートを書く準備をした。

「真琴くんはどの判例について書くの?」

「尊属殺かな」

 この判例はまだ講義で習っていない範囲だったが、タイムスリップ前に朔太のノートで勉強していたので復習がてら選んでみた。

「それって、娘が父親を殺害した事件だよね」

「そうだけど、よく知ってるね」

「岩原先生、時々どうでもいい話始めるから退屈で。そのときに教科書読んでたら見つけた」

 彼女の声のトーンが落ちた。出会って数日だが、彼女の暗い声を聴くのは初めてだったので僕は少し気になった。

「真琴くんは、その判例についてどう思う?」

 僕は、事件の概要を朔太のノートで軽く見た程度だったので、ここでペラペラと私見を述べることはできそうにない。

「私は、この娘さんの気持ち少しわかるかな」

「どうして?」

「この娘さんってお父さんから虐待受けてたんだよね」

「そう……だったんだ」

 初耳だった。朔太のノートにそんな記載はなかった。朔太のやつドヤ顔で僕に写メとらせてくれたけど、ノートとり忘れてるじゃないか。

「うん。ある日お父さんから突然いやらしい手つきで体触られる女の子の気持ちわかる?」

 彼女の声のトーンがさらに落ちた。

「気持ち悪いかな」

 僕も彼女のトーンに合わせて答えた。

「家族のためにお仕事頑張ってくれて、きっと大変なこともあるんだろうけど、家族に生活できる場所を提供してくれて。そんなお父さんを見て、私も頑張らなきゃって……。でもある日、そんなお父さんが私の服の中に手を入れてくるの。初めは何が起こっているのかわからなくて混乱して……」

 机のただ一点だけを見つめて、淡々と話していた彼女の顔がいきなり上がった。

「あれ、私何言ってるんだろう? ごめんね! 今の忘れて! きっとこの娘さんずっと耐えてて苦しかったと思う! それだけ! 真琴くんはどう思う⁉」

 彼女が無理に明るくふるまおうとするのが手に取るようにわかる。僕は終始うつむいて話していた彼女の顔から視線を外すことができなかった。瞬き一つせず一点を見つめて話す彼女に恐怖さえ感じた。僕は、彼女が放った言葉から漏れ出るドロッとした何かを感じ取っていた。

「ごめん……わからない。嫌だって気持ちは想像できるけど、きっとそれは当の被害者が感じている嫌な気持ちとはかなり乖離があるものだと思う」

「そ、そうだよね……私も、この娘さんの気持ちを完全にはわかってあげられないかな……」

 僕らはこのやりとりを最後にお互いの作業に集中した。僕と彼女の間にはキーボードを叩く音だけが鳴り響いた。 

 僕の頭の中は、彼女が話していたことがぐるぐると駆け回っていた。彼女は無意識だったかもしれないが、彼女は「私」と言っていた。僕は、彼女が心に抱えている暗闇の片鱗に触れた気がした。そんな状況でレポートなんて書くことはできなかった。水の入ったペットボトルに手をのばすと手を滑らせて床に落としてしまった。ペットボトルを拾ってくれた彼女は「大丈夫?」と僕に言ってくれたが、僕はその言葉をそのまま彼女に返したかった。

 

 僕と父さんの関係も良好とは言えない。いや、どちらかと言えば冷めている。僕が中学生になると同時に家を追い出されてからは「父さん」と言った記憶があまりない。


 ※


 僕が小学六年生のときだった。

「市内の北木中学校を受験しなさい」

 家の中で滅多に口を開かない父さんが唐突に僕に言った。

 僕は寡黙な父さんが話しかけてくれたことがとにかく嬉しかった。そのとき初めて耳にした受験というものが具体的に何をすることなのかは分からなかったが、父さんが直々に僕に言ってくるくらいなのだからきっと大切なことなのだろうと思った。受験をすることで父さんが話をしてくれるようになるかもしれないと思った。ただ、どうして今住んでいる場所から車で五時間もかかる場所に行って、受験というものをしなければならないのか不思議だった。きっと引っ越しをするんだなと当時の僕はそう思っていた。

 聞けば受験とは中学校に入るために必要な試験のことらしく、僕は猛勉強をした。中学校で習う分野が一部試験に含まれていたので、学校の先生に教えてもらいに行った。苦手な作文も鉛筆を持つ手が真っ黒になるくらい、中指に鉛筆ダコができるくらい何度も書いた。面接という大人の人と話をする試験があるということで、勇気を出して一度も話したことのない学校の先生に自分から話しかけてみたりもした。すべては父さんに喜んでもらうためだった。受験に合格すれば父さんは僕とたくさん話をしてくれる、そう思って疑わなかった。

 僕は努力の甲斐あって無事に中学受験に合格した。合格発表があった日の十八時ごろ、家のドアの開錠音が聞こえた。僕は一目散に玄関に向かった。ドアが開くと、そこに立っていた父さんに向かって僕は大声で言った。

「おかえりなさい! 僕、受験受かったよ!」

「よくやった、真琴。今日は真琴が大好きなちゃんぽんを食べに行こうか」僕は父さんがそう言ってくれるのをひそかに心待ちにしていた。しかし父さんから返ってきた言葉は全く違うものだった。

「そうか」

 たった一言、それだけだった。その日はクリスマスだった。

 僕ら一家は引っ越しはしなかった。僕はただ一人、地元から離れた中学校の寮に入ることになった。そして、見ず知らずの人間しかいない土地、学校へと足を踏み入れた。僕は心細かった。

 寮に入って僕は理解した。父さんと母さんは僕を家から追い出したかったのだ。すぐに家に帰って来られない、なるべく遠く離れた場所へと僕を追いやりたかったのだ。

 僕はある夜、部屋で枕に顔を押し付け、涙を流した。止めようとしても止まらなかった。次の朝、食堂で他の寮生に赤くはれた目元を見られて笑われた。父さんと母さんは僕のことがずっと邪魔だった。僕のことを愛してはいなかった。初めて突き付けられた現実に僕は涙を流し、膝を屈することしかできなかった。


 ※

 

「やっと終わったああー」

 僕はハッと顔をあげる。彼女の能天気な一言で、あまり思い出したくない記憶から一気に現実へと引き戻された。彼女は背中をのけぞらせて大きな背伸びをしていた。のけぞらせすぎて服が伸び、お腹が見えるんじゃないかと少し心配したが、徒労に終わった。

「真琴くんは終わった?」

 彼女は僕が答える暇も与えてくれず、僕のパソコンの三百六十度回転式画面をするりと後ろに倒した。普段回転機能を利用することがなかった僕は、なるほど、この機能はこのためにあったのか、いや絶対違うだろと、そんなことを思いながらその光景を眺めていた。

「三行しか書いてないじゃん。しかもこれ事件の概要そのまま打ち込んだだけじゃん。三時間何やってたの?」

 僕は画面を元に戻して時刻を見た。時計の針は、一列に整列し、十二時を知らせていた。

「お昼何食べる? 何か買ってきた?」

 僕は来る途中で、コンビニで買ったチョコレートをリュックから取り出し机の上に置いた。

「おー! それ最近人気のやつじゃん! 私まだ食べてないんだ」

 そう言うや否や彼女はさっそく袋から中身を取り出した。そのまま我が物顔でチョコレートを頬張り始め、おいしそうに頬を膨らませながらもぐもぐ食べていた。

「ちゃんぽん食べようよ」

 僕はドキッとした。心の中を覗かれたのか、それとも彼女はエスパー能力でも持っているのだろうか。仮に彼女が持っていたとしたら……、うん、たぶん僕は納得してしまうだろう。明るくて自由奔放なこの女の子は欲しいものは何でも手に入れてしまえそうな気がするからだ。それにしても彼女はチョコレートを次から次へと口の中へ放り込む。その勢いはとどまることを知らない。人のものだということに気づいていないのか。

「ちゃんぽん? あ、ちゃんぽんね。うん、わかった」

 あの日、父さんと食べられなかったちゃんぽんを彼女と食べれば、僕の心を覆うモヤも少しは晴れるんじゃないかとなぜか僕は思ってしまった。


 休日の昼間だ。当然お店には大勢の客がいた。席は一つも空いていなかった。一組の家族連れが入り口付近に置かれた席の予約表に名前を書いていた。僕らは彼らの後ろに並び、予約表に名前を書いた。彼女の字は、僕が女性の字に対して想像していた丸みを帯びた字とは程遠い、とても角ばった強そうな字を書いていた。字は体を表すと言ったか。思わず見入ってしまっていた僕を見て、彼女は「恥ずかしいからあまり見ないでよ」と僕の視界を掌で覆うしぐさをした。家族連れはすぐに席に案内されたので、僕と彼女は空いた外のベンチに二人お行儀よく並び、名前を呼ばれるのを待った。

「カップルみたいだね」

 彼女の顔がにまにましている。僕は一度彼女の顔を見て、また前を向きなおした。

「全然」

「ひどい」

 彼女は手袋もせずに、はだけた手をすりすりさせている。細くて白い手の甲が赤くなっている。

「これ使ったら」

 僕は、自分の手袋を彼女に差し出した。差し出した後に、自分の体温で温まった手袋を、女性に渡すなんて嫌がられるかなと思った。

「ひゅー、かれすぃ」

 僕の憂慮も知らないで、彼女は僕の手袋へ手を伸ばした。僕は差し出した手を素早く引っ込めて、素早く手袋に自分の手を通した。華麗なる一瞬の出来事だった。

「ごめんごめん。ああ寒いなあ。手が寒さで凍えて、終いには凍結してポロっと取れちゃいそうだなあ。ああ、痛いなあ痛いなあ」

 彼女は先ほどの倍速で手をすりすりさせながら、真剣な顔で言った。僕は思わず吹いてしまった。

「バカにしたでしょ? バカにしたよね?」

 二言目のバカは一言目よりキーがやや高かった。言葉に熱がこもっていた。少し熱くなってきた。

「してませーん」

 僕は笑わせてもらったお礼に手袋を差し出した。彼女は「わーい、ありがとう」の一言と同時に、僕の手袋に手を通した。ぶかぶかだった。若いカップルが、見るからにラブラブなカップルが店の入り口から出てきた。その後ろに続いて店員さんがやってきた。「お席にご案内いたします」と言って、僕たちを店内に誘導した。

 彼女が窓側のソファに座り、僕は彼女の正面の椅子に座った。メニューが運ばれてきて僕はちゃんぽんの単品を選び、彼女はそれにギョーザまでつけていた。さっきチョコレートをあんなにがっついていたのに。見かけによらず意外と食べる子のようだ。

「美味しいね」

 彼女は、熱い麺に息を吹きかけ冷ましながら少しずつ食べている。僕は口に物が入った状態だったので、二度大きく首を縦に振った。僕はすぐに完食し終わったが、彼女はまだ半分も残っていた。食べきれないと言って、彼女が注文したギョーザを差し出された。僕が断ると、人助けと思って食べてくれと懇願されたので一言お礼を述べていただくことにした。机の横側にギョーザのタレと書かれた容器が置かれていたが、それはかけずにそのまま食べた。ギョーザはパリっとしていて美味しかった。

 たまに、朔太と一緒にご飯を食べる時はある。だが、朔太は「学食のご飯はまずい」と言ってて学食を食べることはほとんどなく、学食好きの僕はたいてい一人でご飯を食べている。食堂に備え付けのテレビで経済ニュースを、手元のスマホで株価を見ながら、一人静かに食べている。

誰かと一緒にご飯を食べるのは久しぶりだ。ご飯が普段の数倍美味しく感じられる。不思議だ。僕と彼女はお会計を済ませて、店を後にする。身体も心も温かかった。

「映画見に行こうよ。あの怪獣映画、リスがムキムキになって大きくなるやつ。あの映画、題名なんて言ったっけ?」

 僕はもっぱら昔の映画しか見ないので、今上映中の映画には疎い。

「ごめん、今日はバイトがあるんだ。それとリスムキムキの映画は知らない」

「えー、つまんない。バイト休んじゃお!」

「無茶言わないでよ。そんなのできるわけないでしょ」

「できると思えば何でもできる。私とバイトどっちが大事?」

 髙沢さんが僕の顔を一心に見つめている。

 ずるい。そんな質問してくるなよ。こっちは君がトラックに轢かれて一度死ぬところを見てるんだ。皿洗いとその対価として得るなけなしのお金より、よっぽど人一人の命の方が大切に決まってるじゃないか。僕の手には握りこぶしができ、力がこもる。彼女の足元に視線が落ちる。

「答えられないんだー」

 君だと即答したい気持ちで山々だったが、そんな恥ずかしいこと僕には言えない。言えないけれど……。

「ま、私もこれからバイトなんだけどさ。それじゃ明日、行こうね」

「明日?」

 僕は視線をあげて彼女に問う。

「はい、決まり」

「ええ、はや」

 まあ、明日も特に用事はないのではあるが。というか休日はいつもバイト以外用事がない。つまり断る理由もない。

「じゃあまた明日ね」

 彼女は嬉しそうに僕の帰り道と反対側の道へ走りだした。自分の気持ちに素直に、そしてそれをちゃんと表現して生きているんだなと僕は思った。羨ましいなと思ってしまった。

「また明日」

 僕はどんどん小さくなっていく彼女の背中に向かって言った。

 彼女の肩に少しかかるくらいの柔らかそうな髪の毛が上下に揺れていた。僕は、彼女が角を曲がって見えなくなるまでその後姿を見守っていた。

 あの日父さんと食べられなかったちゃんぽんを、数年後に誰かと食べることになるなんて思いもしなかった。僕は、雪化粧が広がる曇り空を見上げる。中学受験合格発表日の小学六年生の僕に教えてあげたい。まあ、そんなに落ち込むなよと。数年後に食べられるからと。

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