第7話 12月4日

 彼女は以前同様、右前方の窓際の席に座って友達と楽しそうに会話していた。彼女たちのいつポジもといいつものポジションがあの席なのかもしれない。彼女が横を向いたときにちらっと見える笑顔が僕の心をくすぐる。なんなんだこの気持ちは。

「惚れた?」

 隣の席に座る朔太が唐突に言った。

「まさか!」

 僕は心の中を覗かれたような気がして、つい大声を張り上げてしまった。近くにいる学生の視線が僕に集まる。僕は背中を丸め、小さくなる。赤面。

「あのさ、朔太って髙沢さんと仲良いの? 親しげだったけど」

 僕は、黒板に書かれた白い文字をノートに写しながら、朔太に尋ねた。

「俺、瑞香ちゃんと同じ高校だったんだよね。ま、直接話したことはなかったけど。バドミントンのサークルで会って高校一緒って言ったら謎の親近感生まれて仲良くなったみたいな?」

「そうだったんだ」

「おう」

「高校のときから、あんなに明るい感じだったの?」

 朔太は数秒間沈黙した。

 僕は朔太の顔を見た。

「それがさ、高校のときの瑞香ちゃん、いつも暗い顔してたんだよな。人生のどん底みたいな……ドロッとした暗い影が瑞香ちゃんのあの笑顔を根こそぎ奪っている感じがした」

 朔太は神妙な面持ちで言った。

「そう、なんだ……」

 なんだか妙な雰囲気になったので、僕は冗談の一つでも言ってやろうかと思ったが、この場にふさわしい冗談は思い浮かばなかった。


 髙沢瑞香との二度目の再会は予期せぬ形で訪れた。

 僕が図書館で課題として出された憲法のレポートを書くために必要な本を探していたときだ。

 本来であれば入学した四月時点で購入必須になっていた憲法の判例集を、僕はケチって買わなかった。せいぜい二千円前後だったが、それを買うくらいならチョコレートを買ったほうがマシだと本気で思っていた。それに、判例集を買わずに半年以上も経過したのだから、ここまできたら意地でも買わずに単位をとってやると謎の闘志すら湧き出ていた。

 法律に関する本が並んだ陳列棚で判例集を探していると、彼女がいた。よりによって、憲法と書かれた棚の前にだ。僕はCDショップの時と同じように急いで隠れた。目の前には高校時代から大嫌いな数学の本がずらりと並び、僕の様子を窺っている。まるで「こいつビビりだぜ」とでも言っているかのようだった。彼女がいなくなったのを確認して憲法の陳列棚に向かう。お目当ての判例集が見つからない。さては彼女が持っていってしまったのか。落胆して僕が後ろを振り返ろうとしたときだった。誰かの腕に僕の肘が当たった。バタンと音をたててその人は床に倒れ込んだ。そこまで強くは当たってないはずなのだが。

「すいません!」

 僕は急いで頭を下げて全身全霊で謝った。

「いったーい」

「本当にすいません!」

 僕はさらに深く頭を下げて謝った。そして顔を上げて被害者の顔を見た。

「あ」

「あ」

 被害者の顔は髙沢瑞香であった。両手をついて床に倒れ込んでいるというのに、なぜか楽しそうだ。その証に口角がとてもよく上がっている。

「やっほ」

 めいいっぱい開かれた彼女の掌が僕に向けられた。彼女の手は小さくて指は細かった。中指には金色の指輪がはめられていた。

「こ、こんにちは……」

 僕は、再度一礼して答えた。

「他人行儀な挨拶だね」

「初対面みたいなものですからね」

「ええ? うそお? 私は旧知の間柄だと思ってたんだけど」

「二度目だよ」

「今日はちゃんと私の顔見て話してくれるんだね」

「女性を転倒させてしまったからね……怪我はないですか?」

「んー、とりあえず起こしてくれないかな? 立てなかったら複雑骨折ってことで慰謝料もらわないといけないかな」

 彼女はとても楽しそうに言う。

「からかってるの? 真面目に聞いてるんだけど」

「真面目に言ってる。起こして」

 彼女は、はいっと、僕に向かって手を差し出している。その手をとるべきか迷ったが、非が完全に僕にある以上断るわけにはいかない。慰謝料なんてたまったもんじゃないし。鼻で大きく息を吸って彼女の手に僕の手を伸ばした。触れそうになった瞬間、彼女が手をひっこめて自分で立ちあがった。

「無事に立てました」

 なぜか勝ち誇った顔で彼女は言った。

「それはなによりです。それじゃあ」

 僕は再び彼女から視線をそらし、その場を立ち去ろうとした。

「ちょっと!」

「はい?」

「足くじいたみたい」

 彼女は自分のスニーカーを人差し指で指している。

「ダンス部でしょ? いつもくねくねしてるんだから足くじいたなんてうそでしょ」

「なんでダンスやってること知ってるの? もしかしてストーカー?」

 そう言って、彼女は掌で口を覆った。おおげさに。

「朔太が言ってたんだよ」

「私のこと興味あるんだ?」

 彼女は手を後ろで組んで、体をくの字にして僕を見ている。

「興味……ない……かな……」

「うわ」

「あ、いや」

 僕は取り返しのつかないことを言ってしまった気がする。でも、興味あるかと聞かれて興味あるなんて言ったらそっちのほうがいやらしく思われるんじゃないか?

「なんてひどい人なの。この人でなし」

 彼女は、過激な発言を繰り出したわりには笑いを堪えているようにも見える。

「ごめん……」

「お詫びに、私おぶって入り口まで送ってよ。ほら平日の午前中で人ほとんどいないし、誰も見ちゃいないからさ。おぶってくれないなら司書さんに通報する」

 それが狙いか。彼女にうまくはめられた気がする。僕は、すでに極限まで事態は悪化したと思っていたが、司書さんに呼び出されてこれ以上事態がややこしくなるのは避けたかった。だから彼女の指示に素直に従うことにした。きっとこれも立派な処世術なんだと僕は思うことにした。

 彼女の身体は想像以上に軽かった。女性を背中に背負うなんて久しぶりだ。高校生のとき、階段でこけて歩けなくなった母さんをおぶったことがある。そのときまでは母さんがこんなに小さいなんて知りもしなかった。中学校から寮生活で両親と離れて住んでいただけに、流れた月日の長さをひしひしと感じさせられた、ことを思い出す。

「重いとか言ったらどうなるかわかってるよね? あ、そうだ。もしかしてこれ探してた? 憲法の課題に必要だもんね」

 僕の目の前が暗くなった。彼女はどうやら判例集を後ろから腕を回して、わざわざ僕の鼻先に触れる位置にかざしているようだ。

「別に」

「絶対これ探してたよね? ないーないーって顔してたし」

 判例集が僕の鼻にごりごり当たっている。痛い。

「よし、借りて行こう。借りてきて。私ここで待ってるから」

「人使い荒いな」

「何か言った?」

「いや、何も」

 僕は背中から彼女を降ろし、急いで貸し出し手続きを済ませた。

「借りてきましたよ、お姫様」

「それじゃあ、出発!」

 彼女は腕を万歳させて私をはやくお前の背中に乗せろと目で訴えかけている。僕はなされるがまま彼女を図書館の出入り口へと連れていった。司書さんは僕と僕の背中に乗っかっている姫様を一度見て、すぐに業務に戻った。学生はほとんどいなかった。屋外へ出た。僕はいつも感じる冬の寒さがちょっぴり和らいでいる気がした。いや、全身筋肉痛なのに、背中に人間乗せてるせいで嫌な汗をかいているだけなのかもしれない。

「ここでいいよ」

「でも」

「大丈夫。嘘だから。足くじいてないから」

「え? あ、そう」

 僕はゆっくりとかがんで、彼女の足を地面に着陸させる。

「怒らないんだね」

「まあ、君が無事ならそれでいいよ」

 クリスマスの日のことが頭をよぎる。僕は目を伏せる。

「優しいんだね」

「そんなことないけど」

「ふーん」

 彼女は法学部棟へと続く並木道に目をやった。

「そういえば名前言ってなかったよね。あらためまして、私、髙沢瑞香。よろしくね」

「髙沢さん……よろしく」

 彼女の名前は朔太から聞いて知ってはいたが、今知ったことにした。

「真琴くん、連絡先教えてよ」

「は?」

 僕は女の子に下の名前で呼ばれたことがなかったので、あっけにとられてしまった。

 彼女が僕との距離を詰める。彼女が僕のズボンに手を伸ばす。何をする気なんだ。ズボンの後ろポケットに入れていた僕のスマホが彼女に奪われる。

「ちょっと」

「へえ、このスマホ虹彩認証じゃん、はーいこっち見て」

 彼女は奪い取った僕のスマホを僕の目に近づけた。僕の視界がまた暗くなる。僕の鼻先にスマホの画面が当たっている。痛い。やめてほしい。

「近いって。それと痛い」

「近いと読み取れないか。そーっと離してっと」

 徐々に僕の視界に光が差し込んでくる。スマホのロックが解除された。

「やったー!」

 広大な砂漠から砂金を見つけたかのように彼女は喜んだ。連絡帳を開いて僕のメアドを自分のスマホに打ち込んでいる。

「これで登録完了! 今日から正真正銘の友だちだね!」

 僕の友だちの欄に髙沢瑞香の名前が表示されている。友だちの数が二になっている。朔太と彼女、二人だ。

「は、はあ……」

 僕はただただ彼女に圧倒されていた。ちと強引すぎやしないだろうかと思う一方で、優しくて明るくて人気者だという彼女がなぜ日陰者の僕なんかにこんな真似をするのか理解に苦しんだ。でも、きっと彼女は誰に対してもこんな風に明るく振舞うのだろうと思うとすんなり納得できた。だから彼女はみんなから好かれるのだろう。ともあれ、彼女の連絡先を知れたことは素晴らしすぎる成果だ。これで彼女を見張る必要はなくなったし、面識ができた分、二十五日のあの時間にイタズラ電話でも架けまくって事故が起こるあの交差点に彼女を向かわせなければ万事解決だ。これで彼女ともおさらばできる。一気に肩の荷が降りた気がした。

「あとで連絡するね!」

 彼女は法学部棟に向かって歩き出していた。

「え、なんで?」

「判例集! 私も買ってないんだー! あとで見せてー!」

 彼女は口の前で手を三角にさせ、器用に後ろ向きで歩きながら僕に向かって叫んだ。

「ちょっと!」

「それとー! 私の名前瑞香だからー! 瑞香って呼んでー!」

 僕は大声を出すのは恥ずかしかったので、手を大きく振った。彼女もそれに応えるように手を振り返した。

「前見ないと危ないって……」

 彼女は朔太の言う通り天真爛漫、そして自由奔放という言葉がとても似合う女の子だと僕は思った。

 

 その夜、さっそく彼女からメールが来た。

『明日、朝八時に図書館前集合!』

 僕は、特に断る理由もなかったので、少し時間をおいて承諾の意を示す二文字を絵文字も顔文字もつけずに送った。送ってから、やっぱり絵文字の一つでもつけておくべきだったかなと思った。普段使わない機能である絵文字を見てみる。ずらりと並ぶ絵文字の中で、一つの絵文字が目に留まった。にっこりマークの絵文字だった。彼女にそっくりだなと僕は思った。

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