第6話 12月3日

 十九時。

 僕は、大学のバドミントンサークルの活動見学に来ている。朔太がそのサークルに所属していてなんと髙沢瑞香も時々遊びに来るという。朔太が彼女についてやけに詳しかったのも納得がいった。僕は改めて朔太に感謝した。サークル活動は大学近くの体育館を借りて行われるらしい。今日の参加人数は三十人ほどだった。彼らは黙々とネットを張っていた。僕が大学のサークル活動というものに対して抱いていた賑やかで華やかなイメージとはだいぶ違っていた。控えめに言っても根暗の僕にとっては、かなりありがたかった。

 小学生の頃に母さんと何度かバドミントンをやったことがある。当時はシャトルに全くラケットをあてることができず空振りばかりしていた。ある日、僕はいよいよ腹が立ってラケットを思いっきり地面に叩きつけた。安物のラケットは目も当てられぬ無残な姿と化し、もはやラケットとしての機能を十分に果たせる形を成してはいなかった。それ以来、母さんとバドミントンをすることはなくなった。

「真琴! ネット張るの手伝って!」

 体育館の隅っこで昔の思い出に浸っていた僕は、朔太の声で現実に連れ戻された。

「僕、今日はじめてなんだけど。初参加の人は優遇されるもんじゃないの?」

「何腑抜けたこと言ってんだよ。連れてきてやったんだからさっさと手を動かしな」

「はいはい。わかったよ」

 僕は、朔太に言われた通りにネットを張った。ポールの高さが自分の目線より下になっていて驚いた。僕も大きくなったものだ。

「おつかれさまでーす!」

 体育館の出入り口から元気な挨拶と共に三人の女の子が入ってきた。

「お目当てのお嬢さんがおいでなすったぞ」

 朔太は僕に視線を送り、入り口のほうに顎をしゃくった。

「目当てなんかじゃないって」

「わかってるって」

 僕は朔太の大きな身体に隠れるようにして、おそるおそる彼女たちがいる入り口に目を向けた。三人が横一列になって談笑しながら歩いている。右の子は違う、真ん中の子も違う。左の女の子に視線を移す。彼女の視線と僕の視線が一直線に結ばれる。僕の心臓が一時停止する。急いで目をそらし、すでに張り終わっているネットと不自然に戯れる。

「それもう張り終わってるぜ」

「わかってるって……」

 僕を見たんじゃない。きっと朔太を見たんだ。動悸がとまらない。

「朔太くーん!」

 三人組の誰かが朔太の名を呼んだ。僕の心臓は大きく飛び跳ねた。

「やっほー!」

 朔太の声は僕と話す時より数倍明るい。なんてやつだ。わかりやすいやつめ。

 体育館シューズが放つキュッキュッという音が次第に大きく、近くなっている。僕は音が鳴る方向から目を背け、黙々とネットと戯れ続ける。ついに音が鳴りやんだ。僕と朔太のすぐ近くで。

「朔太くんのお友だち?」

「そうそう。同じ法学部一年だよ。人見知りなんだけど仲良くしてやって」

 朔太が笑いながら言った。余計なことを言うんじゃない。

「人見知りだったのかー。今さっきさ、おもいっきり目合って、おもいっきり目そらされたからさ、てっきり嫌われてるのかなって思ちゃったよ」

 僕を見ていたのか。何、目をそらしているんだよ。肝心なファーストコンタクトだぞ。僕の目、このばか。と、内心思いながらも、同世代の女の子と目をあわせて話すなんて大学に入ってからはほとんどなくて、僕には心の準備というものが必要だった。朔太の大きな身体に隠れて彼女と目を合わせないようにする。キュッキュッという音が朔太の身体を回り込んで僕に近づいた。俯いている僕の視界にオレンジ色のカラフルなシューズが入ってきた。

「ねえねえ、名前なんて言うの?」

 心の準備。整ってない。物事は何事も唐突だ。準備なんてさせてくれない。僕の頭の中は真っ白になっていた。彼女は今なんて言った? そうだ名前がどうとか言ってたぞ。名前だ、名前。僕の名前。

「エンドー、マコト、デス」

 僕の声は緊張でうわずってしまった。うう、恥ずかしい。だが、そんなことはすぐにどうでもよくなった。僕は顔を上げて、彼女の顔を初めて真正面から見た。整った輪郭、クリっとした瞳、薄紅色の唇、開いた唇から覗く真っ白な歯、そして、見る者の心を温かくするような穏やかな笑顔。この笑顔がこの世から消えて欲しくない、そう僕は思ってしまった。

「遠藤真琴くんね。よろしく! それよりさ、さっきおもいっきり視線そらしたよね⁉ ちょっとひどくない⁉」

 彼女は腰に手をあて前かがみになって、僕の顔を覗き込んできた。三多さんと同じポーズ。僕は急いで彼女の顔から目をそらした。

「さっきのは不可抗力と言いますか……声のする方向を見ると、たまたま人がいて、たまたまその人と視線が合って……失礼だったかなと……」

「失礼? どうして? 目をそらされた方が私は悲しいけどなー」

「それは大変失礼しました……」

「じゃあはい、こっち見て」

 視線を合わせない僕に向かって、彼女は言った。

 見れるわけないだろ。初対面からハードル高いって。しかも、見てなんて言われて見るなんて恥ずかしすぎる。これでも僕は精一杯やってるんだ。もう少しお手柔らかにの精神はないのか。数秒間無言が続いた。しびれを切らしたのは朔太だった。

「まあまあ瑞香ちゃん、そこらへんで勘弁してやってくんねーかな?」

 朔太、ナイスフォローだ。やっぱりお前はいいやつだ。

「はーい」

 彼女は少しご立腹のようだ。でも、視線を合わせないくらいで普通そこまでつっかかるだろうか。別に目を合わせなくても会話できるじゃないか。

「こいつも悪気があるわけじゃないから。ただ女の子慣れしてないんだよ。俺が後でちゃーんと言い聞かせとくからさ」

 彼女の気をなだめるように朔太が弁解してくれている。女の子慣れというワードは下品ぽくって気になるが、実際慣れていないのだから目をつむる。

「わかったー」

 彼女の返事からは、さらさら納得しているようには感じられない。

「ありがとう!」

 朔太は謎に満面の笑みで言った。笑顔というのは無敵だ。

「それじゃあ着替えてくる。遠藤くん、またね」

 僕は顔を上げ、彼女の顔をチラと見て、また下を向き小さく会釈した。

 その後、サークル活動が始まり、コートに入って無心でラケットを振った。最悪のファーストコンタクトだと思った。彼女を不快な気持ちにさせてしまったに違いない。こうなるから人とは極力関りたくないんだ。彼女を助けるという名目で自分らしからぬ行動をやってみたが、無残に散った。まだまだこれからだ、と気を取り直してみるが、やはり先行きは不安しかない。

「気にすんなって」

 朔太があっけらかんと言った。

「気にしてない」

 僕はわりと本気で言い返した。ずぼしだったから。

「めっちゃ気にしてるやんって!」

 と言って、朔太は僕の胸をポンと手の甲ではたいた。

「漫才やってないんだけど」

「俺、ツッコミやりたい!」

「もう勝手にしてくれ」

「やたあ!」

 悔しいけれど、朔太のおかげで幾分か僕の落ち込んでいた気が和んだのは事実である。

 サークル中に髙沢瑞香と話すことはなかった。サークルの部長さんからサークル後の食事会に誘われた。だが、彼女が行くメンバーに入っているのを見て、席を挟んでお通夜状態でご飯を食べている僕の姿が思い浮かんだので、丁重にお断りした。妄想力発動。

 アパートに帰り、シャワーを浴び終わるとベッドに直行した。全身筋肉痛だ。腕は特にひどい。久々に身体を激しく動かしただけあって強烈な睡魔が襲って来た。眠りに落ちる直前、彼女の顔が瞼の裏に浮かんだ。温かくて穏やかな笑顔。あの笑顔が消えて欲しくないと素直に思っている自分が確かにいる。次に彼女と会ったときは、ちゃんと彼女の目を見て挨拶しよう。そう、瞼の裏の彼女に向かって僕は言った。

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