第5話 12月2日
今日も粛々と日々の日課をこなしていく。一度受けた講義をまた受けるというのは想像以上に退屈過ぎて苦痛だった。昨夜は自分の身に起きたタイムスリップのおかげでどっと疲れていたのでぐっすり眠れた。おかげさまで睡眠学習に勤しむこともできない。不幸なことにスマホを充電するのを忘れてしまっていた。仕方なく黒板に目を向ける。岩原教授の手によって書き連ねられる文字を見る。何を書いているのかさっぱりわからなかったので視線をそのまま朔太のノートに移した。
「朔太さ、あの文字よく解析できるよね」
「おれ天才だから」
朔太は周知の事実といった感じで言った。
「冗談きついなあ」
「は?」
「なんだよ」
時間が巻き戻っても相も変わらず僕と朔太の他愛もないやりとりは繰り広げられた。
そんな最中だった。突然、クリスマスの夜に目の前で起きた事故の光景がフラッシュバックした。クリスマスの日に黄色いマフラーの女の子がトラックに轢かれた。生死は定かではないが象ほどの物体が鷹のような速さで突っ込んだのだ。即死で間違いないだろう。あの子、死ぬのか……。そう思うと僕の気持ちは沈んだ。きっと優しくて温かい子だったのだろう。試聴コーナーでかの名曲を聞いたときの感覚がじわじわと蘇ってくる。できることなら彼女の顛末をこの世でおそらく唯一知る人間として彼女を事故から救いたい。しかし、どこの誰かもわからない。それに女の子の前にいきなり見ず知らずの男が現れて「あなたはクリスマスの夜、トラックに轢かれて死にます」なんて言ったら間違いなく奇々怪々な視線を浴びせられる。そして「何言ってるのこの人、頭おかしいんじゃないの」なんて罵声を浴びせられて奇人変人扱いされるのだ。そんなのはまっぴらごめんだ。僕はわざわざ火中の栗を拾いに行くなんて愚行は犯さない。
僕の目に彼女の横顔が浮かぶ。優しそうな顔立ちをしていた。それに、何が僕にそう感じさせるのかはっきりと言葉にすることはできないが、彼女からはどことなく自分と似た雰囲気を感じた。と、あれこれ考えたところで彼女と会うことはないんだ。自分には関係のない話だ。関係がないことを考えるのはやめにしよう。
僕は一呼吸ついて窓の方に目をやった。
「あ」
僕は時が止まったように感じた。急いで上半身を机から乗り出し、窓際の席に目を凝らす。一人の女性が楽しそうに隣の学生とお喋りをしている。彼女の机の上に見覚えのある物が置かれてある。
「黄色いマフラーだ……」
「あ? 何だって?」
朔太が訝し気に聞いてきた。
「いや、なんでもない……」
「変なやつ」
あれはあの夜見た黄色のマフラーだ。特徴的な刺繍が施されているマフラーだったので間違いない。マフラーからゆっくりと視線を上げて持ち主の顔を見た。斜め後ろからなので顔はほとんど見えなかった。でも、後姿にはどことなくあの女の子の面影がある。
「ねえ、あの子知ってる?」
「どれ?」
「窓際のさ、黄色のマフラー、机の上に置いてるあの女の子」
僕は胸の前で小さくその方向を指さして言った。
「おまっ、あの子法学部一年で美少女ランキングトップ三に入る髙沢瑞香ちゃんじゃん。俺の美少女ランキングの中では断トツナンバーワンなんだけどさ。……それはおいといて、学内でもそこそこ有名よ? もしかしてお前知らないの?」
朔太は彼女の後姿を見て即答した。顔にはお前信じられないと書かれてある、ように僕は感じる。
「そんなに有名な子なの?」
「そりゃあだってあのルックスだし、そのくせ誰にでも優しいし、いつも明るいし。まさしく天真爛漫って言葉がぴったりな子で。彼女ダンスサークルに入ってるんだよ。俺一回だけ練習風景見たことがあるんだけどさ、そのときの彼女と言ったらそれはもうセクシーでさあ」
僕は目を大きく見開いて、朔太の顔を見ていた。
「朔太。ついにストーカーになってしまったのか?」
「バカやろう」
朔太の肘が僕の二の腕に少しくい込む。
「隠れファンも多いって噂だぜ」
「ふーん、そうなんだ」
「で」
朔太の顔が僕の顔に近づいた。よく見るとまあまあカッコいい顔をしている。断っておくが、男が好きなわけではない。
「近いって」
「瑞香ちゃんのこと気になってんの?」
朔太は声を細めて言った。
「なわけないでしょ」
「太陽みたいなあの子でも、真琴くんの闇を照らすことはできないかあ」
「何言ってるんだよ。ていうか闇ってなに?」
「お前の顔からは時々闇を感じるからな」
「僕はいつでも光り輝いてるよ、眩しいほどに」
「余裕で直視できるけどな。それで、実際のところあの子がどうかしたの?」
「たまたま窓のほう見たらあのマフラーが目に入って、珍しい刺繍だなって思っただけ」
「そっか。じゃあ、お前も立派なストーカーだな」
「うるさい」
髙沢瑞香。十九歳。熊沢大学法学部一年。学部のみならず学内でも人気者。ダンスサークルに所属。そしてもう一つ。これは僕だけが知っている彼女のこと。彼女はクリスマスの夜、トラックに轢かれて死んでしまうということ。
「はあーあ」
僕はCDショップで聞いたかの名曲をスマホで流しながら、ベッドの上で大きくため息をついた。
僕は事故の部外者だと思っていたのに、運命のいたずらか完全に事故の一関係者にされた気がする。僕が彼女を救わなかったら大学中の人間に恨まれるだろうか。いや口外しなければ誰も僕を責めまい。別に僕が彼女を殺すわけじゃないんだ。いや待て。直接人を手にかけなくてもその人が死ぬことを知っていて、ただ傍観していたら何とか罪という罪に問われると聞いた気がする。待て待て。仮に罪に問われたとしてタイムスリップした僕にも適用されるのか。まさかタイムスリップ者専用の特殊刑務所なんかが存在するのか。刑務所行きなんて絶対にごめんだ。
僕は、小さいころ母さんに事あるごとに口すっぱく言われていたことを思い出した。
「真琴、いい? 警察官の息子なんだから、お父さんの顔に泥を塗るようなことだけはやったらだめだからね」
とは言うものの彼女は学内の人気者。日陰者の僕が相手にされるわけないじゃないか。
そんな弁解をしても特殊刑務所の看守のおじさんはこう言うのだろうか。
「言い訳すんじゃねえ! てめえのせいであの子は死んだんだ! このイモムシやろうが!」
ベッドから見上げた真っ白な天井にその光景がありありと浮かんだ。最悪だ。薄暗い部屋の中で数年間そうやって罵倒され続けられるのかと思うと到底耐えられそうにない。時折、勝手に発動する自分でもわけのわからない妄想力が僕の首を絞めつけてくる。ただの妄想だと、一蹴してしまうのはたやすい。クリスマスの夜、CDショップで体を揺らしながら音楽に聞き入っていた彼女の横顔が思い浮かぶ。今日見た、彼女が友人らしき人たちと楽しく肩を揺すりながら談笑していた後姿が思い浮かぶ。彼女がいなくなったらどれだけの人が悲しむだろうか。彼女を助けられるのは未来を知っている僕だけだ。たぶん……。僕をタイムスリップさせたやつが手を貸していくれるとは思えない。僕の唇に無意識に力がこもる。
我関せずの態度で事態を静観する、という選択肢はどうやらなさそうだ。
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