第4話 ?月?日

「わっ!」

 ぜえはあ。ぜえはあ。呼吸が荒い。頭がひどく痛む。体中が汗だくだ。落ち着け。深呼吸だ。息を大き吸え。自分自身にそう言い聞かせながら息を整える。数回深呼吸を繰り替えした。ぼんやりとしていた視界が輪郭を帯び始める。オレンジ色の蛍光灯がついている。上半身だけが起き上がっている。腰から下半身にかけては毛布と掛布団に包まれている。蛍光灯から垂れ下がっている紐を引く。真っ暗になる。もう一度紐を引く。まばゆい光が蛍光灯から発せられる。どうやら自分の部屋のようだ。

「また、夢……? 勘弁してくれよ……」

 そう言って僕は大きなため息をついた。ベッドから出る。ふらふらになりながら汗だくのパジャマを脱ぎ捨て新しいものに着替えた。着替え終わるとそのままベッドに倒れ込み再び眠りについた。


 キーン。目覚まし時計の音が聞こえる。部屋の中は冷たい空気に覆われている。目を開ける。ベッドのそばに置いてあるスマホに手を伸ばす。虹彩認証でロックを解除し、ニュースアプリを開く。

「全国のみなさーん! おはよーございます!  今日は十二月一日! 最低気温は五度を下回るそうです! 洋服をたくさん着込んで外出されることをおすすめします!」

 中年の男性キャスターはハツラツとした笑顔を顔面にべた張りし、小さい画面の中からこちらに語りかける。僕のスマホを持つ手はもうかじかんでいる。寒い。寒すぎる。スマホを手に持ったまま、布団の中で背中を丸める。外界の冷気との接触を一切遮断する。ああ、温かい。天国みたいだ。昨日の悪夢が蘇る。地獄のような悪夢だった。数日続けて悪夢を見るなんて何か悪いことの予兆だろうか。男性キャスターは相も変わらず元気に話している。僕の視線がスマホの画面左上に移った。もう一度画面中央の男性キャスターに戻る。もう一度左上に向かう。日付が十二月一日となっている。僕の思考が一時停止する。

 僕は、布団から勢いよく飛び出て机の上のカレンダーを見た。一日の終わりに毎日欠かさずつけているバツ印が十一月三十日でとまっている。昨日は十二月二十五日だったはず。二十五日にバツ印をつけた記憶はあいまいだが、十二月二十四日にバツ印をつけたことは覚えている。これまでつけてきたバツの中でも類のないほど左右対称なバツで、僕は大変感動したからだ。時計も見てみる。やはり十二月一日と表示されている。なんとか島のなんとか像のように僕の身体が固まった。脳は固まっていないようだったのでフル回転させて必死に考えてみる。どうなっている? 日付が戻っている? あの悪夢のせいか? 皿を割ってしまったせいか? 母さんに電話をかけなかったことか? それともこれも夢か? どっかの誰かが二度あることは三度あるということわざを実体験として僕に伝えたいのか? 疑問ばかりは次々に思う意浮かび上がるのに肝心の答えが見つからない。

 電話帳の友だちの欄に一つだけ載っている電話番号を押す。満留朔太と名前が表示される。呼び出し音が十回鳴って繋がった。

「人生初のモーニングコールはブロンドヘアー、ブルーアイ、ナイスバディの美女にしてもらうのが夢だったんだけど」

「ハーイワタシキャサリンヨ」

 普段の僕はこんな発言なんか絶対にしない。今朝はおかしいのだ、僕も時間も。

「あ、すんません。俺の知り合いに男声で話すような美女はいません。間違い電話ですかね? 切りますね。それじゃあ」

 朔太が呆れているのが手に取るようにわかる。

「ちょっと待った。……今日って何日?」

「あ?」

「真面目な質問」

 僕はスマホ越しの朔太に向けて真剣な表情で言った。

「へいへい。んっとー、十二月一日だな。てかスマホ見りゃわかんだろ」

 朔太の声はドスがきいている。寝起きなのだろう。僕は今更ながら申し訳ない気持ちになった。

「あ、えっと、実はスマホの調子が悪くてさ」

「そりゃどんまい。切るぜ」

「んー、ありがとう」

「ほいじゃ」

 プー。プー。プー。耳に当てているスピーカーから無機質な音が流れる。

 今日は十二月一日。しかし十二月二五日の夜までの記憶は間違いなくある。頭痛がしてからどうやって家まで帰りついたのかは曖昧だが。表紙に株式投資と書かれたノートを開く。十一月三十日で記録がとまっている。十二月一日は確か、僕のお気に入り株のモルグループが大きな値上がりを見せた日だ。もし今日が本当に十二月一日というのなら、今日は数万円の儲けが出る日だ。嬉しくはあるが、同時に怖くもある。

 僕は、頭の中がもやもやしたまま大学へと向かった。朔太は席についてコーヒーを片手にくつろいでいる。

「おはよ」

「おう。朝電なんかしてくんなよな。俺はお前の彼女じゃねーんだぞ」

「ごめんごめん。岩原先生は?」

「まだ来てない」

「なあ朔太、岩原先生って他大学の学生とデキてるって噂知ってる?」 

 僕は自然な感じを意識して朔太に聞いた。

「え⁉ それ俺が今日お前に言うの楽しみにしてたやつ! なんで知ってんの⁉」

 朔太の目が眩しいほどに輝いている。僕は唖然とした表情でその顔を眺めていた。

「いや、まあ……誰かが言ってたような……なかったような……」

「へえー。なんか意外だな。お前、そういうの全然興味ないって思ってた。お前も多少なりは人間に興味あるんだな」

「まあ……多少はね……」

 僕がいつにも増して覇気のない声で返すので、朔太は訝しがる目つきでこちらを見ていた。

「そ、そういえばさ、市川南が結婚するのっていつだっけ?」

「市川南? ああ、あの女優ね。俺あんまり芸能界詳しくないからなー。あの人結婚しそうな感じしないけどな。結婚するって言ってた?」

「言ってなかったっけ? じゃあ人違いだったかも……」

 僕は急いで訂正する。市川南は僕が一番好きな女優だ。容姿が好きというだけではない。彼女は中学生の頃に壮絶ないじめを受けていた。それにも関わらず懸命に努力し、いじめを乗り越えて自分の夢に向かっていった。その姿に心打たれたからだ。そんな彼女が恥ずかしそうにテレビで結婚発表をしていたのを見て、僕は絶対に幸せになって欲しいと思ったのを確かに覚えている。その発表は十二月の中旬だったはずだ。  

 九時。

 株式市場が開く時間だ。取引が始まるやいなやモルグループの株価は+四〇〇をマークした。その後もじりじりと値を上げている。スマホを握る手に自然と力がこもる。

 やはり僕は、過去に戻っているのだろうか。


 バイト先では、いつものように島田さんの鋭い視線が僕を串刺しにする。凍った背筋を三多さんの笑顔がほぐしてくれる。

「三多さん。僕、今月何枚お皿割りました?」

「んー、十枚?」

「真剣に答えてください」

「え、もしかして島田さんに隠してるすでに天に召されたお皿さんがいるとか?」

 三多さんは腰に手をあてやや前傾姿勢をとり、僕の顔を下から覗き込んだ。

「どうしてそんなに笑顔なんですか」

「笑ってなんかないよ、気のせいだよ気のせい」

 てへっ、と三多さんは自分の頭を手で小突いた。絶対に僕をからかっている。

「まだ割ってないでしょ。だって今月始まったばかりじゃん」

 三多さんは、洗い場にかけられたカレンダーを指さして言った。

「ですよね」

「今月は皿、割らないといいね。遠藤君が皿割るから島田さん血圧あがってそろそろぶったおれるかもよ」

 そう言って三多さんは、僕にグッドポーズを送ってきた。僕はこの度のタイムスリップの件で頭の中がいっぱいで、三多さんの笑えない冗談に返す言葉が出てこなかった。僕はただ彼女のグッドポーズを眺めていた。何も言い返さない僕に、三多さんはきっと物足りなさを感じているだろう。

 どうやら僕は過去に戻っているらしい。


 タイムスリップ―。

 いったいどこの誰がこんなことをしでかしてくれたんだろう。一か月弱とはいえもう一度同じ時間を繰り返さなければならなくなった。そしてなにより定期試験をもう一度受けなくてはいけなくなった。極めて甚だしく面倒なことをしでかしてくれた誰かに僕は憤慨していた。僕に恨みをもったやつの犯行に違いない。そいつが僕を過去に戻してどんなことをしでかしてくるのかは皆目見当もつかない。時間が巻き戻る前とは違う選択をし、そのせいで自分の身に予期せぬ災いがふりかかるような事態だけはなんとしても避けたい。細心の注意を払って目立つ行動だけは避けることにしよう。とにかく冷静に、毅然とした態度で日常に挑むことを誓った。

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