第3話 『12月25日』

 ガチャン!

 額に激痛が走る。彼女の顔が消え、街のイルミネーションも消え去り、視界が真っ暗闇に包まれる。僕はゆっくりと目を開けた。

「夢か……」

 ひとつ長いため息をつく。額に落下してきた目覚まし時計に手を伸ばし、定位置へ戻す。どうやら耳鳴りの正体はこの目覚まし時計だったようだ。戻し終わった手をジンジンする額の上にそっと置く。カーテンの隙間から朝日が六畳一間を照らしている。目が覚めたばかりだというのに疲労感が襲ってくる。きっと悪夢を見たせいだ。二度寝しようともう一度目をつむる。瞼の裏に目覚まし時計の短針が指していた数字が浮かぶ。

 八時。

 今日はクリスマス。違う。その前に重大イベントがある。定期試験最終日だ。

 まずい。完全に遅刻だ。急いで洗面所に向かい顔を洗う。鏡に映る額の小さな傷跡にそっと触れる。胸がチクリと痛みすぐにタオルで視界を覆った。水を一杯飲み、着替えを済ませて家を出た。

「さむっ」

 先日買い替えた自転車にまたがり全速力で講義室へ向かう。向かい風が前髪を脱がし、額をはだけさせる。十二月の冷たい空気が額の古傷をさらりと撫でた。

 試験開始十分前に講義室前に到着した。気持ちを引き締めるため深呼吸し講義室に入る。講義室にはすでに人がたくさんいて、僕は急いで席についた。問題用紙が配布され、定期試験最終日が始まる。

 悪戦苦闘しながらも五日間にかけて行われた定期試験を終えた。いや、無事に、というのは間違いだ。肉体的には無傷で無事に違いないのだが、精神的には大きな傷跡を残す定期試験となった。

 十五時。

 アパートの駐輪場に自転車をとめる。ポストから茶色い封筒が顔をのぞかせている。届人には母さんの名前が書かれてあった。ポストのロックを外そうとしたときだった。ポケットの中のスマホが振動する。発信元を確認すると母さんだった。僕は着信を無視し、振動し続けるスマホをそのままポケットに仕舞った。

「いちいち電話してくるなよ……」

 思わず僕の口から小言が漏れる。ハッと顔を上げ周囲を見渡す。遠くの空き地でおじいちゃんが膝を九十度に曲げ青空を見上げている。丸々と太った猫がその姿をまじまじと見つめている。彼ら以外には誰も見当たらなかった。誰にも聞かれていなかったようなのでひとまず安心した。

 玄関のドアを開け、電気をつける。母さんからの封筒を開けると中にはお菓子と一枚のメモが入っていた。

『元気にしていますか? 試験期間だったよね? ささやかなクリスマスプレゼントを贈ります。荷物届いたら電話ください』

 僕はお菓子を冷蔵庫に入れ、メモはぐちゃぐちゃに握りつぶしてゴミ箱に捨てた。

 十七時。

 そろそろバイトの時間だ。リュックに水筒と着替えを入れ職場へと向かう。

 和食料理店と書かれた入り口から店内に入り、更衣室で着替えを済ませる。水筒と一枚の紙を持って洗い場へと向かう。

「おはようございます」

 僕はすでに出勤していた上司の島田さんに挨拶をした。

「おはようございます」

 島田さんの挨拶はいつも素っ気ない。その原因を作っているのはほかならぬ僕自身にある。

「反省文書いてきた?」

「はい……」

 声を潜めて僕は言った。

「はやくちょうだい」

 僕は恐る恐る手を伸ばして島田さんに反省文を渡した。

「すみません……」

 僕は先週グラスを割ってしまった。その事後報告として反省文なるものがある。決して自慢できることではないが、月に一度、僕は必ず皿やらグラスやらを割ってしまう。注意力散漫と言ってしまえばそれまでなのだが、決して好きで割っているわけではない。割るたびに島田さんの口からは大きなため息が漏れる。そして、またかという顔で僕を一瞥する。パリンという破裂音は洗い場に殺伐とした空気を生む。その空気感を思い出すだけでも僕は息が詰まりそうになる。

 バイトが始まる前から、洗い場にはすでに険悪な雰囲気が漂っている。僕はのどがからからになり、水分補給をしようと頭上にある水筒置き場に手を伸ばす。しかしその手は空を切るばかりだ。どうやら水筒を忘れてきたらしい。始業まであと数分ある。僕は視線を下に伏せ、急いで更衣室へと向かった。

「おはよー」

 後ろから三多さんの声がする。声のする方を振り向く。和装に身を包んだ若い女性が立っている。和食店ということもあり接客する女性ある。はみな和装で着物の色は月ごとに変わる。今月は線薄い緑色だ。僕の視線の先にいるその人は凛とした顔立ちをしている。一見クールに見えるが、笑ったときに顔をのぞかせる八重歯がそのクールさを一蹴する。というより実際、あんまりクールではない。

「おはようございます」

 接客担当の女性は全部で五人いて、三多さんはその中で一番若い。僕と歳が近いこともあってか何かと僕のことを気にかけてくれる。

「その沈んだ顔から察するに、さっそく島田さんに怒られた?」

 挨拶早々、三多さんは鋭い観察眼を披露した。

「はい……まあ、悪いのは僕ですからね」

「遠藤くん、気をしっかり持ちなよ。君の皿洗いのときの顔はまるで死人のようだからね」

 ヘアバンドを口にくわえて長い髪を頭の上でまとめながら、上目遣いで彼女は言った。

「本当ですか?」

 僕は聞き返す。三多さんがコクンと頷く。口にくわえたヘアバンドが揺れる。

「お皿に生気でも奪われてるんですかね」

「かもしれないね。今日は割らないように気をつけなよ。なんたって今日はクリスマスだからね。割れた皿と反省文なんてクリスマスプレゼントにしては悲しすぎる」

「確かに……」

 僕は、皿を割ってしまい島田さんに反省文を叩きつけられている光景を思い浮かべる。とてもリアルな情景が浮かび上がり怖くなったので、頭を振ってその光景を払い去る。三多さんはとっくに髪を結び終わり、洗い場とホールを隔てる扉へと向かっていた。僕は三多さんの後姿を見ながら大切なことを思い出した。超特急で更衣室のロッカーから水筒を取り出し、洗い場へと戻った。

 クリスマスということもあり店内はより一層の賑わいを見せている。洗い場まで客の笑い声が聞こえてくることはまれだ。洗い場から店内の様子を窺っている三多さんの手には花束がある。三多さんの話によると客の中に一組の老夫婦がいるらしい。その夫が妻にサプライズで花束を贈りたいから、デザートを運んでくるときに一緒に持ってきてくれと三多さんに頼んだらしい。

「こういうのってなんかいいよね?」

「そうですね。いいと思います」

 僕は、間髪入れず三多さんの手にある花束に目もくれずに、淡々と皿を洗いながら答えた。三多さんが僕をまじまじと見ている視線を感じる。

「え……」

「はい?」

 皿にこびりついたソースを懸命にスポンジでこすり落としながら返事をする。それにしても今日のソースは手ごわい。クリスマス特性ソースでも使っているのだろうか。いい迷惑だ。

「絶対思ってないでしょ」

「じゃあ三多さんは他に何か思いますか? 夫が妻へ花束を贈る、ただそれだけのことじゃないですか。本心で贈っているのかもわからない。実はあの夫は町内会の婦人Aと恋仲にあり、それを悟られぬよう妻に贈り物をする。まるでその花束で自分の罪を隠すかのように」

 僕は皿にこびりついたソースと格闘している。

「君って……」

「もう一説ありますよ。あの花束は婦人Aに渡すはずだった。しかし今朝待ち合わせの場所に婦人Aは現れず連絡もとれなくなった。朝までは若き頃のあの日のようにめらめらと燃え上がっていた恋心も今は徐々に徐々に冷めていく。片手にある花束も心なしか枯れているような気がする。家に帰ると、長年連れ添った妻が出迎えてくれる。夫は夢が覚めたことを悟る。途端に妻への罪悪感がこみあげてくる。片手には花束がある。罪滅ぼしになるかもしれないと夫は妻へそれを贈る。三多さんはどっちだと思います?」

 ソースとの数秒にわたる戦いの末、僕は勝利を収めた。彼女の顔を見る。彼女は苦笑いしていた。

「君って……ひねくれてる……」

「どうせ僕はひねくれものですよ」

 三多さんが目を細めて僕を見た。すぐに笑顔に変わる。

「それじゃあ私は二人のサンタクロースになりに行ってこようかな、このいわくつきの花束と一緒に」

 三多さんは警察官の敬礼ポーズをとっている。

「いってらっしゃいです。あ、そうだ。ポインセチアは色で花言葉が違うそうですよ。赤なら『私の心は燃えている』、白なら『あなたの祝福を祈る』だそうです」

 さっきトイレに行ったとき休憩室のテーブルに花束が置かれていた。なんとなく調べてみてなんとなく覚えていたので、なんとなく前から知っているような口ぶりで僕は話した。

「ということは、この花束は心優しい旦那さんが大事な奥さんの幸せを願うってことだね」

 三多さんはなぜか嬉しそうに話している。

「店に来る前に赤い方から白い方に急いで変えてきたのかもしれませんよ」

「このひねくれもの」

 三多さんの口角があがっている。彼女の八重歯がちらりと見えた。

 二十二時。

「お疲れさまでした」

 僕は島田さんに一礼して更衣室へと向かう。着替えを終えて店の入り口へ向かうと、三多さんと鉢合わせした。

「おつかれー」

 三多さんは、出入り口の横におかれた水槽を眺めながら言った。

「おつかれさまです」

 水槽の中では、大きな鯛がゆうゆうと泳いでいる。この鯛はいずれ店長の華麗な包丁さばきにより解体され、ここへ来た人間の胃の中へと直行する。これがこの鯛の末路。きっとこの鯛はこれからもずっと餌をもらいながら生けていけると思っているのだろう。だが、突然終わりがくるのだ。そう、何の前触れもなく終わりはくるのだ。

「今日はお皿割らなかった?」

 そんな僕の悲観的な妄想をよそに、三多さんはとても現実的で僕の耳が痛くなるような質問を投げかけた。

「割らなかったですよ。ていうか『今日は』って、いつも割ってるみたいな言い方……」

 そこまで言って僕の思考は一時停止した。割ってる。いつも割ってる。月一で割ってた。

「あ」

「ごめんごめん」

 僕が言い直そうと口を開いたのと同時に三多さんは言った。

「いえ……」

「帰ろっか」

「はい……」

 僕が言い直すことはなく三多さんに別れの挨拶をして帰路についた。

 二十二時を過ぎても依然として街は光に包まれている。家族連れの姿は少なくなり、その数を埋め合わせるように若い男女の数が増えていた。

 行きつけのCDショップに入る。クリスマスだからか夜遅いからか店内の人数は少ない。新作と大きく書かれたポスターを横目に試聴コーナーへと向かった。どうやら一足遅かったようだ。すでに黄色いマフラーを首に巻いた若い女性が小刻みに体を揺らしながら試聴コーナーを占拠していた。僕がゆっくりと彼女の後ろを通り過ぎようとした時、彼女の小さな鼻歌が聞こえてきた。聞いたことのあるメロディだった。とても有名な曲のような気がする。だが肝心のサビのところで彼女の音が跳ねるので、かの名曲かどうか確信は持てない。彼女が早く立ち去るのを願いながら試聴コーナー付近で待機することにした。僕の目の前の陳列棚には髪の毛ほどの興味もないヘビメタのCDがずらりと並んでいる。CDジャケットを適当に漁っていると数分後には彼女の姿は消えていた。

 僕は急いで試聴コーナーに移動した。彼女が聞いていたであろうCDがレコーダーの中に残っていた。CDジャケットには僕が思っていたかの名曲のタイトルが刻まれていた。名曲ではあるが聞いたのは僕が小さいときの一度きりで、歌詞を最後まで聞いたことがなかったので、なんとなく再生ボタンを押してみた。

 朗らかでのびやかな女性の声が僕の心を一瞬にして掴んだ。次の瞬間には久しく感じていなかった、体が奮え上がる感覚を覚えた。心臓から脳、手先、足先に向かって一気に血が駆け巡る感覚。曲が終わるまでの四分二十秒。まるでこの世には存在しない世界に迷い込んだような気がした。その世界はぬくもりで溢れていた。あの子もこんな気持ちでこの曲を聴いていたのだろうか。それとも彼女自身がこの音楽のようにぬくもりに溢れているのだろうか。

 ほとぼりも冷め切らぬままCDショップを出た。街の通りは幾分か落ち着きを取り戻していた。街灯が等間隔に並んだ一本道を僕は速足で歩いた。

 しばらく歩いていると数メートル先の交差点に、見覚えのある黄色いマフラーを首に巻いた女の子が立っているのが見えた。今しがたCDショップで見かけた鼻歌の女の子だ。彼女が巻いている黄色いマフラーを前にどこかで見たような気がするがどうしても思い出せない。

 信号が青に変わり彼女が横断歩道を渡り始める。彼女とは少し距離があるが、僕は速足なのでこのままのスピードで歩くと簡単に彼女を追い越してしまう。だが人気のない夜道で背後から女性に近づくなんて男としてあるまじき行為だと思う。僕は視線を地面におろしカタツムリのようにゆっくりと歩を進めた。

 スマホを見ると時刻は二十三時三十分と表示されていた。もうすぐクリスマスも終わる。僕の目に横断歩道の白線が映った。まだ赤には変わっていないはずだ。確認のために顔をあげた。そのときだった。

 大きなクラクションの音と鈍い音が同時に聖夜の闇に鳴り響いた。僕が渡ろうとしていた白線を大きなトラックがまたがっている。目の前にいた黄色いマフラーの彼女は数メートル先で横たわっている。彼女はピクリとも動かない。

「キャー!」

「大丈夫ですか!」

 スーツ姿の男女が大声を張り上げている。

 事態の把握はおおよそできている。僕も彼女の元に近寄ってできることをしなければ。しかし僕の身体は硬直しきっていて完全に僕の制御下から外れてしまっている。おまけに胃がムカムカし始めた。お腹の中から何かが込み上げてきてすでにのど元まで来ている。視界がぐらつき始めた。頭が割れるように痛い。

「ううっ」

 手で頭を押さえる。痛みは一方的に増すばかりだ。

 数秒後、僕の意識は完全に途切れた。

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