寝ても覚めてもフィロソフィー

@muhainofujiwara

哲学が死んだ世界で哲学する意味はあるか

 最後の哲学者アール・アンラマンユはこう言った。

 『真実は各々方の中にある。我々の誰しもが、全ての答えを否定する術を持たない。』

 彼のこの言葉は哲学を終わらせてしまった。

どんな哲学も、キミの中ではそれが答えなんだね、の一言で片づけられてしまうのだ。

 哲学を発表することも、論争することも無意味と化したこの世界で、それでも哲学する意味はあるのだろうか。



 ふと窓から教室の外を見ると、ちょうどイチョウの葉が校門周辺のコンクリートを覆っていた。この、クズ部のメンツもやはり、進級したてならともかく、この時期まで一緒にいると悪ノリが横行するようにもなる。


 例えばほら、今トランプのカードを出した中村に対して『俺の番飛ばすんじゃねぇ!』と言いながら肩にパンチをする横川。俺は思わず当たる瞬間に目を閉じてしまった。

 クズ部というのは机を介して俺の対面に立っている八木が言い始めたのだったと思うけど、帰宅部の中でも生粋のクズを集めたからクズ部とのこと。まあ確かに帰宅部なら帰宅部でアルバイトをするなり、家でゲームに勤しんだりすればいいものを、こんな風にわざわざ教室に残ってトランプで遊んでいるのは妙な集合だと思う。実際にクズなのかと言われれば疑問は残るかな。

横川は運動ステータスは高めでガタイもよく、体育の授業で運動部のやつらと同様に爽やかな汗をかいていけるタイプだ。クズ部たる所以があるとすれば倫理観が欠如していることだろう。さっき中村の肩を殴ったけれど、高校生同士の絡みではなかなか目にすることのない光景である。しかしながら圧倒的な大将的風格があるために、一応クズ部の部長と呼んでもいいポジションだろう。

 八木はこのチームをチームだと断言したことからもわかる通り、仲間意識が高く、キャンプやパーティを企画する器用なタイプだ。クズ部たる要素があるとすればそれは、努力をしないことだろう。確固たる意志で努力を拒む。それが親に叱られようと、テストで0点を取ろうと、一般的な価値観なら頑張らなきゃと思う場面で努力を拒む男だ。だからこんな光景を見たことがある。夏休みの宿題をやってこなかったことを八木が咎められ、それに対し『俺がやってこなかったからといって誰かが困ったのか?先生よぉ』というどすのきいた悪魔のような声で言ったのだ。少々厨二病が入ってはいるものの、あそこまで肝が据わっている人間はクズ部と言うのに足るのかもしれない。ちなみにゲームの中では地道に育成するようなものは好きらしく、それは努力のような気もするが…まあいいでしょう。

 中村は単純なアニメオタクといった感じで、性格的に難はないものの、成績が学内で下から三番目というのがクズ部たる所以だろう。ちなみに元剣道部で、剣を振ってみたかったらしいが過酷さに耐えられずにクズ部入りとなった。

 大西はこの中で唯一の彼女持ち。しかし彼女のことを聞いても当たり障りのない情報しか出さず、プライベートも極力教えようとしない、そういうタイプの人間だ。それ故に、本当はやくざの息子とか組織の人間だとかって弄られるのがお約束になっている。だからあるときドイツの大学に進学するんだって言ったときは心底驚いた。

 さて、パパっちゃんは…。パパっちゃんの本名は忘れてしまったが、クズ部の中ではパパっちゃんと呼ばれている。その体はギリギリ相撲取りではない程度。体重三桁ということで、俺が二人分くらいの重量を抱えているらしい。パパっちゃんは弄られキャラというポジションで、それ故にクズ部のみんなに好かれているともとれるが、正直俺は見たくない時が何度もある。

「パパっちゃん出すの遅い!もっと痩せて!」

 と言ったのは横川。パパっちゃん弄りの筆頭である。

「あと三十キロはいけるよなぁ!?」

 と言って腹の肉を摘まむのは八木。こんな風ないじりが日常的に横行している。

俺はというと、自分がカードを出す速さとパパっちゃんがカードを出す速さがそこまで違うとも思えないので、パパっちゃんが攻められているとき自分が攻められた気持ちになる。

「北条、お前の番だよ」

 そんな風に考え事していたらうっかり自分の番を見逃していた。それにしても、俺に対して横川は優しい言葉を使うんだな…。


ゲームが終わったところで、パパっちゃんがソワソワしだす。

「ちょっとトイレ」

と言って競歩のような動きで教室を出た。余程我慢していたのだろう。

しかしこういったコミカルさがクズ部のメンツには丁度いいスパイスであり、彼らは次なる行動に出る。

「パパっちゃん勉強してんのかなぁ」

 と横川がパパっちゃんの机の中を漁る。そのまま教科書とノート机の上に並べた。

 横川はそのまま物理の教科書をペラペラ捲る。

「なんも書いてないじゃん!つまんな!」

 と大声を上げる。

「勉強してねぇかんな!」

 と、より大きな声を八木。そこで中笑いが起きる。

 別にどこが面白いというわけではないものの、やはり大声というのは笑いへの導きになりうる。

「あーあーあーあーーノートもろくなこと書いてねぇなぁ!」

 と続ける横川。ニヤけて声高らかに言うあたり、恐らくここからギャグに繋げられるアイテムを入手したかったのだろう。何もなく無難であることに苛立ちか焦りを感じている様子だ。このあたりから中村もパパっちゃんのノートを見始める。

「字汚い!」

 と、必死で笑えそうなものに仕立て上げようとしている。しかしこれは大西がスマートフォンの画面に目を落としながら小笑いする程度の笑いだった。

 俺はというと、少し離れた机に体重を預けながらしかるべきタイミングで『ハハハ』と笑っていた。もう半年以上このメンツと放課後を共にしているというのに、この違和は誰も感じていないのだろうか。それともわかっていて許諾されているのか。

 俺はクズ部に馴染んでいない。

 馴染むとは何であろうか。会話によく参加すること、メンバー内での役割があること、それとも気を使うか使わないかの問題なのか。

 一つずつ考察すると、まずは会話に参加することか。これは違うな。あんまり喋らないけど馴染む人間は多くいる。その人がいてくれるだけで場が和むってパターンもそうだ。パパっちゃんなんかもあまり喋る方じゃないが、彼は確実にクズ部に馴染んでいる。

 メンバー内での役割があるかどうか、これは所謂ボケとかツッコミとかを指しているわけだが、これは近いかもしれない。自然と発生した場合に限るが、メンバー内での立ち位置が決ってきた頃は馴染んでいると言える気がする。更に言えば俺が馴染んでいないのは役割が何も無いからかもしれない。ただ、大西と中村を見ていて何か役割を持っているとは断言し難いな。横川はリーダー。八木は補佐とメインボケ。パパっちゃんは弄られキャラという見方は自然だろう。しかし中村はツッコミではないし、その時々によって自由に立ち回っている。大西に関してもそうだ。さっきの場面でもスマホに注視しながら端で聞いていたわけだが、役割とは言い難い。

 気を使わない間柄を馴染んだというか、これも当たっていそうではある。気を使う関係から徐々に移行して気を使わなくなったとき、馴染んだ関係と言っても差支えが無いように思える。しかし仮に普段から誰にも気を使わない人間が居たらどうか。というかそういうヤツ居るだろう。いかなる場合に措いても自分スタイルのコミュニケーションをとれる無敵な人間。その人達をあらゆるグループに投下して、馴染みましたと言うのはあまりにも暴論である。

 ここで俺は閃いた。笑いだ。馴染んでいる状況を脳内で描いたら、みんなで笑っている姿が浮かんだ。何か笑える出来事が起きたとき、特にメンバー間でのみ通じるような出来事、その時の笑うタイミングが一致していれば馴染んでいるのではないか。

 俺の中で馴染むとは、同じタイミングで笑うことと仮に定義する。

 正確に検証してはいないが、笑える出来事が起きて、初めに笑った人から0コンマ四秒以内に笑っていれば馴染んでいると言えるのではないか。これが一秒ぐらいズレていたら明らかに浮いていると想像できた。それでいてタイミングを合わせようとしている分のラグこそ俺が馴染めていないことの証明。

 うん、納得だ。すごく腑に落ちた。


 俺が頭の中で自己解決したときに、『パチン!』という大きな音がした。気づいてなかっただけでその音は一定のリズムで鳴らされていた。



パパっちゃんが戻ってきたときに横川の喜々とした声がする。

「パパっちゃん!テスト範囲まとめといたわ!」

 俺は意味が分からず横川の方を見た。横川の手には化学の教科書。横川が教科書をヒラヒラ振る。

 なんと、教科書の真ん中らへんのページがホッチキスで厳重に留められているのだ。

「え?どういうこと?」

 と言って近づいてくる大西。化学の教科書の有様を確認した途端爆笑する。

「こっれすげえなー!」

 と笑う中村。

「横川天才だわー!」

 と嬉しそうにする八木。


「なになになに…?」

 と小声で言うパパっちゃん。教科書の状態を確認する。


「試験範囲まとめといたよ!」

 と横川がもう一度言ったことにより大爆笑が起きる。化学の試験範囲が五十七ページから七十九ページ。その範囲を袋とじみたいに留められているのだ。そして留めているホッチキスの針は端からコの字型に何十本も打たれている。

「えぇ…まじ?」

 とドン引きするパパっちゃん。ごもっとな反応だろう。悪戯でやるレベルじゃない。

 相反して呼吸が苦しそうなほどに笑う大西。手を叩いて笑う中村。

 俺は。俺はと言うと。俺も笑っていた。

 「ふっへへ」

 という笑わないつもりだったのに笑ってしまった表れ。

 人がいじめられているところを見ながら笑みを浮かべるのが俺だ。今からでは取り消しようのない事実を受け入れきれずにいる。周りよりは笑っていないんじゃないか。葛藤してるからマシなんじゃないか。反省してるから許されるんじゃないか。などと悲しいほどに言い訳ばかりが頭に浮かんだ。


「ちょっ……はぁ」

 と深い溜息を吐くパパっちゃん。

「パパっちゃん、感想は?」

 とマイクに見立てた手を口元に差し出す八木。喜々としている。

「お前らさぁ」

 とやるせない落胆の具合を見て八木はさらに笑う。八木の笑いが終わるころに、この一連のイベントは終わっているように思えた。この一瞬の笑いを取るために誰かが傷つけられなければいけないのだろうか。

偽善者ぶっても同罪なのだから、いっそのこと吹っ切れてしまいたい。例えばそうだな、一瞬の笑いの為にすべてを犠牲にすることが尊いとか、弄っても仲悪くならない関係こそが本物であるとか。

ふと窓を見ると部活を終えた生徒たちがみんなで下校する姿が見えた。笑いあいながら自転車を押して歩く姿に理想的な現実を見た。同時に虚しさがこみ上げる。

「貸して」

 俺はパパっちゃんの教科書を受け取り、ホッチキスの針を一本ずつ外していく。

「おいパパっちゃん!お前の仕事を北条にやらせんなよ!」

 と横川の追い打ちがかかる。

「やーりますよ」

 と、少しだけ笑った声でパパっちゃんが言った。少しでも笑顔が戻ったのは良かったと思う。

 一つの教科書を二人で開放していく作業が始まった。みんなはじっと見ている訳にもいかず、適当に雑談をしたりスマホを見てたり。時折無言の時間が訪れると、八木が耐えられなくなって一言発する。

「北条は優しいなー。こんなヤツを助けてやるなんて」

 誰かが反応するわけでもない。八木は笑いが取れるまで続ける。

「パパっちゃん勉強とかしたことないだろ!」

 これに対しては中村が少し笑った。

 俺が空気を重くしてしまったんだ。俺はこのグループに馴染んでいないんだ。そのことが悲しいのか、なんだか涙が出そうだった。

 閉じたとき鳴っていた『パチン』という音とは裏腹に、針を外した時に揺れる机の音ぐらいしかしない、何とも妙な空間と時間だった。



学校を出るころにはみんなさっきの重たい不穏な空気は無くなっていた。笑えるはずの空間に水を差したのは俺なんだな…と考えに耽る。またこうやって並んで歩いていると俺の反抗もどうせ流れていくのだ。全てが無意味なのかもしれない。

駅でバラバラになるときパパっちゃんが片手を挙げた。

「じゃ」

 パパっちゃんのこの一言には意味があったのかもしれない。パパっちゃんが極端に落ち込んでいたら無言で別れていたことだろう。

 その一言に救われた俺もまた、少しだけ前向きになって家路に向かう。




みんながうちの敷地を見たらどう思うだろう。

別に隠しているわけじゃないけど、金持ちの家って印象悪いよなぁ。

幼少のころ友達と一緒に下校してたらうちの家を指さされて、こんなデカい家に誰が住んでるんだろうねって言われたことがあって、恥ずかしさからかその場では家に帰らずにみんなの家まで見送ってから帰宅た。なんとなくみんなと違い過ぎることがみっともないと思っている節がある。

 重たくてゆっくりにしか動かない門を開けて、閉めるのも重たくて、そこから玄関までが更に遠い。今の時期はそれほど苦しくないが夏に汗だくで帰宅すると門からの距離に地獄を見る。

 そして家に着くと自然と背筋を伸ばしてしまう。この癖が治るのは親父が老人になって腰が曲がる頃だろうか。

「おかえりなさいませ」

 そう声を掛けてくれたのは、庭師の星野さんというおじさん。

「只今戻りました」

 俺もお辞儀する。

 星野さんはうちの屋敷で十五年も庭師をやってくれている。俺が二歳の時からいるって考えたらやっぱり凄いな。家政婦さんが屋敷に出入りすることはあるけども、大抵は俺が家に居ない時に仕事を済ませてくれているから会う機会はそれほどない。それに対して庭師は朝から夜まで居るのだから驚きだ。まず庭が広いとはいえ、そんなにやるべき仕事があることに驚く。

 だが一番はあの親父が十五年もの間一人の人に庭を任せていること。何かあればすぐに切りたくなる性分には違いないのに、それを潜り抜けてきた達人の星野さん。逆に星野さんはあの親父に対して反発したくなったりしないんだろうか。

 例えば星野さんの休日は水曜日と日曜日。これも十五年変わっていないらしい。特別に休んだ日もないらしい。だから星野さんは少なくとも十五年の間一泊二日以上の旅行には行ってないってことだ。人生が丸ごとこの家の庭師で収まる。絶対に口にはしないけれど、ちゃんと幸せなんだろうかと考えてしまう。


「今日は友達間の馴染んでいると馴染んでいないの境について考えていました」

「難しいことを考えられますね。流石ヒカル様は賢いから」

「星野さんは友達はいらっしゃいますか?」

「おりませんねぇ」

「では親戚の集まりでもいいんですけど、馴染んでる人と馴染んでない人の違いはどこにあると思いますか?」

「ふーん…そうですねぇ」

 斜め左下に首を傾けて考える星野さん。

「難しい質問ですね」

 そう言って星野さんは笑った。

「難しいですよねー」

 俺もはにかんでこの場を流した。俺は悪い人間だ。自分ルールの質問をして相手を見下そうとでもしていたのだろうか。意見は分かち合うものではない、自分で抱えるものだ。俺の考えなどは人様に伝えるべきではない。


「あ、ヒカル様」

 俺が家に向かおうかと半身傾けたところで星野さんが思い出したかのように言う。

「言葉かもしれません。馴染んでいる人同士では似たような言葉遣いをしていることがあります」


 嬉しかった。俺は口角が両端とも上に上がっていたに違いない。

 鋭い相手の意見をもらえるとこんなにも嬉しいものなのか!

「言葉ですね!非常に面白い観点だと思います。インターネットではネットスラングと言うのがあるんですけど、確かにそれが使えるか使えないかを仲間の仕分けに使っている人が居たりして――」

 俺はベラベラと自分の考えを話していた。ウキウキだった。

 この喜びがあるなら、意見を分かち合うことの意味はあるはずだ。さっきの自分の考えを否定してしまうことにはなるけど。ある場所、あるタイミングに措いて意見を分かち合う意義が存在する。

そして、同じように考えている人間が俺の他にも居るはずだ。

出会いてぇ…!人生のあれこれについて語り合える人。俺の人生に光が射した。これこそが俺の青春をかけてやるべきことなのかもしれない。そう思った。

「星野さんありがとう!」

 と言って浮足で家に帰った。



 玄関を開けて「ただいまー」と一応言っておく。リビングに向かう途中で母親とすれ違う。

「お父さん今日機嫌悪い」

 険しい表情で囁く母。俺はその一言で今日の家全体の雰囲気を把握した。

「あ、はーい」

 とりあえず力のない返事をした。理解はしたけど納得はしていない。父親の機嫌を伺いながら生活を送らなきゃいけないなんて理不尽にもほどがある。

 きっと今日の晩飯に姉は顔を出さない。俺も真似すりゃいいのかもしれんが、気を使って出席というのがいつものパターンだ。母親が不憫すぎるからな。

しかし母もよくこんな人と結婚したよな。あの隙を許さないオーラと、相手の弱みを見続ける性格に一生耐えると決めたんだろうか。それとも王道だが、結婚前は穏やかでいい人だったとかそんなのかね。どうしてもお金持ちと結婚したかったって説もあるだろうが、母がそういう人間には思えない。それは贔屓目に見ているのではなくて、例えば父親が新しい車を買ってきたときにも『あんまり乗らないくせにもったいない』とぼやいていたのだ。それはお金持ちと結婚した利点を拒否している気がする。逆なのかな…。父親が、金目当てじゃない女の人を初めて目の当たりにして惚れたというパターンか?いずれにせよ今から二十年近く前のことだし、時代も価値観も今とは違うのだろう。

俺は荷物を置いて、着替えようとした。が、うちの食卓は部屋着で参加というのは許されないので、制服のままの方が楽だということのに気づく。ジャケットだけ脱いで消臭スプレーをかけておいた。ちょっと一呼吸。あのピリピリした食卓へ向かうのだ。やはり母親がなぜあの父と結婚したのかがわからないな…。


皿とフォークが当たる『カツン』という音がする。父親はマナーに厳しいようでこういうところは豪快だ。案の定姉は居ない

「試験は、近いんだったな。勉強は?」

 当然俺に向かって言っているのだろう。

「勉強はそろそろ追い込みます」

 こう言っておけば明日から食事が各自になっても許されそうな予感。

「ヨウコは勉強もろくにしてなかったからなあ」

 ヨウコが姉の名前である。俺のヒカルという名前もあわせてピッカピカな名前がお好みだそうで。

「ヨウコは言葉で反抗するだけで努力をしてこなかった。身なりを綺麗に整えることぐらいか、あいつがやったのは。それは正しい。それは収まるところに収まる人間の生き方としては正しい。だが経営者の器ではない」

 俺の中の哲学が少し騒いだ。どんな努力をすれば経営者の器になれるのか…。まあこの男と議論を交わすことはしない。

 父はエベレスTVというテレビ局の社長だ。次期社長を子に譲ろうと考えている。

 姉は長女だから自分に権利があると主張している。俺の目から見たら姉は努力しているように見えた。大学も一流のところに入った、それも経営学部。社長になる意思を表しているのではなかろうか。

例えば彼氏もふらふらしてないきっちりとした人を選んでいる。歳が姉より十個上でキャリアも十分でマナーも心得ている人。車で姉を送ってくれた時に少しだけ話した。姉の素性を知っていて付き合ってるって感じの人だから、今思えばむしろ結婚して社長になるつもりなのかもしれないな。

とにかく、姉は社長の器になるべくして既に人生を設計している。だから父親に努力してないって思われるのは、父が女性を軽視している方に原因があるように思えた。


「お前は、わかっているな?」

 父の重い目線が刺さる。

「俺の方こそ器なんてありませんよ」

 それが俺の答えだ。前向きになんて返事したら人生が決ってしまうだろう。明日にでも経営に携われって言いそうだ。

 俺の人生が社長で決まってしまったとして、その場合俺の何が失われるのだろうか。俺が全力で拒否する理由は、やりたいことがあるからだと思うんだが、やりたいことがなんなのかわからない。社長を任されて人生決まってしまった方が楽ってことはあり得るのだろうか。


「お前には器がある。お前は俺に似ている」

 父はそう言った。

 この人と似ている部分があるなんて考えたくはなかった。



翌朝、教室にはクズ部のみんなが既に集まってた。そもそもクズ部のみんなはクズの名にそぐわないほど早く学校で集合している。俺が始業の三十分前だけど、横川は一時間以上前に来ているらしい。なんとなく他のメンツも早めの登校になっている。余程みんな集まるの好きなんだなと思う。『やっぱ俺らって最高の仲間だよな!』とか『お前らのこと好きだわ』とかそんな恥ずかしいセリフを言うヤツは居ないけど、行動が思考を証明している。

 

「まあでも今みんな狙ってるんだろうな」

 という八木の発言に対して乾いた笑いが起きている。

「何が何が何が?」

 という割り込み方で話に混ざろうとした。クズ部なので当然『おはよう』などとあいさつを交わすことはない。

「ほらさ、あのテニス部の田中さんいるじゃん。別れたらしいよ」

 今日の話題は珍しく女の子についてだった。クズ部でスキャンダルに詳しいやつがいることも意外だった。

「それでみんなが狙ってるって話ねぇ…」

 田中さんと言えば明るくて笑顔を振りまいている系女子なので人気が高いっちゃ高いだろう。しかし恐らくクズ部に情報が届くころには、運動部全体にこの情報は共有されていて、既に次の候補がいるぐらいのスピード感で恋愛をしていることだろう。今頃はテニス部の他の人と付き合っているのかもしれない。


「チャンスだぞ大西!」と八木。

「俺は彼女いるわ!」

 そうなのだ。大西だけは彼女がいるからこの話に加わりにくい部分もあるだろう。しかし彼女についての情報はほとんど教えてくれないなあ。自分に彼女が出来たら隠したくなるものなのだろうか。

「あの頭悪そうな感じのヤツは無理だわぁ」

 と横川。確かに横川は頭のいい子じゃないと自分と釣り合わないって思っているタイプだな。付き合うのに釣り合うとかを考えるんのはナンセンスかもしれないが、同じような価値観であると利点も多い。

「同じ偏差値の学校で頭いい悪いもあるかよ」

 八木がまともそうなこと言った。ただのツッコミじゃない。何か思想が裏付けされている発言だ。差し詰め好きな子がちょっと勉強ができないと言ったところだろうか。

「北条は女に興味ないもんな!」と横川。

「なんでそうなる!」

 とツッコミっぽい言い方をしてしまった。

「付き合えるもんなら付き合いたいさ俺だって…」

 そういう後ろ向きなスタンスだといつまで経ってもできないもんなのかね。いつかお見合いで結婚的なことがうちの家庭ではあり得る。まあそれならそれで受け入れるような気がするな。自分で恋愛して結婚するんだって勢いがあるわけじゃない。そもそも結婚しない可能性すらある。

 なんか一つ思うのは、あの親父は自分が世界をコントロールしている気持なのかもなのかもしれないが、結婚して子供を育てるみたいな常識にとらわれているし、学歴なんかも気にするタイプだし、案外世界に操られているんだな。それはさておき。


「田中が振ったのかね。それとも遠藤が振ったのかな」

 中村が当然の疑問を投げる。

「遠藤はベタ惚れって感じだったからなー。田中が振ったんじゃね?」と横川。

「原因は?」

 そう中村が言った瞬間沈黙が発生した。急に現実感が増したのだ。

 なぜ男女が付き合うのかは想像できる。好きな人と認められる間柄になりたいという気持ち。

 だがなぜ別れるのかというところには人間の悪い部分が隠れている気がする。お互いの未来を考えた末の結論ですって芸能人の誰かが言ったかもしれないが、少なくとも本心を五割も表していないだろう。田中と遠藤はなぜ…?


「田中は最近後輩と一緒に家に帰ってた」

 八木が鋭い一言を言った。

「なんでお前そんなに詳しいんだよ!好きなの?」と横川。

「ちゃうちゃうちゃう!俺はこんなゴミら興味ねぇから!」

 反論するが興味がないならこんな話にはならんよなあと思いつつ、違う男の説が濃厚なら少し考え込んでしまうな。学生のときの恋愛なんてお遊びなのかもしれないが、自分がより幸せになるためには誰かを不幸にしなければならないのだろうか?少なくともベタ惚れだった遠藤は今地獄のどん底にいることが想像できる。遠藤が悪いことして気持ちが離れていってって流れも考慮できるから一概には言えないか。しかし恋愛となんだろうって考えてしまうな。

 好きという気持ちが出来事に対して浮き沈みの激しい感情だから危ないのだ。例えば芸能人のことをまた話してしまうと、応援される恋愛の形はなかなか想像できない。ファンが不幸になってしまうからだ。全員がプラスに感情を持っていけるパターンはどんな感じかといえば、年老いてからの結婚や、芸能界引退して数年後の結婚だろうか。田中は芸能人ではないけれど、容姿が整った人には特有の苦しみがあるんだなと感じた。



「誰か真田アカリ好きなヤツいる?」

 突然中村が言った。

「真田アカリ?」と八木。

「あぁ~あの人ね、何?好きなの?」

と横川が中村に向かって言う。

「好きっていうかあんなヤツ好きなのいんのかなーって思っただけだけど」

「いや思いっきり好きなやつじゃん!」

と大爆笑の八木。そしてそのまま中村と肩を組み。

「お兄さん応援しているからね」

 と重厚感のある良い声で言った。

「上履きポエムを選ぶとはなー。逆にセンスあるわ!」

 横川がそう言った。上履きポエムという名前で聞いたのは初めてだが、真田アカリを表現していることは疑いようがない。

 真田アカリとは、あのイケてる女子グループに所属しているメンツの一人。織田ハルナ、長浜ミライ、下村ヒロコ、海老原カナ、そして真田アカリで構成されている。何組と呼ぶのかは知らないが…(そもそも友達の集合に名前がついてる方が珍しい)。恐らく長浜がリーダー格なのだろう。

 真田アカリが上履きポエムで通じてしまうのは、その名の通り、真田アカリが履いている上履きには直筆のポエムが書いてある。黒の油性マジックペンの太い方で、右足の方には『自許か自責を選べ』と、左足には『ここが山の頂』と書いてある。

 進級して初日から、あれを見たものは皆ざわざわしていた。可愛いハートマークとか球磨のマスコットキャラクターなら納得できるだろうが、あれはメッセージ性が強すぎて近寄りがたすぎる。でも多分進級前の一年生のころから書いていたんだろうから一定の人には受け入れられているのだろうか。長浜(リーダー格)が初日から真田と話していた記憶がある。俺も何を見ていたんだろうな。そこまで詳しいとストーカー呼ばわりされてしまう。


「いつ告白すんの?」と横川。

「はええよ!」

 と中村。この反応は告白する予定自体はあるということだろうか。

「真田のグループと何か遊びでも企画する?」

 でた、企画が得意な八木。しかし親密度を上げようってのはありなのかもしれない。

「やってくれるなら…頼むわ」

「ん」

 八木のこれは了解したって意味なんだろうか。中村のドキドキ恋愛大作戦が始まるのだろうか。そしてこういう時八木は徹底的に仲間を助ける。チームなんだなって思う。

「真田アカリぐらいなら余裕っしょ!」

 と、まあまあ失礼なことを言う横川。

 真田アカリが中村と並んで歩いて会話をしているところが想像できなかった。

 そもそも真田アカリはどんな会話をするのだろうか。ポエムぐらいしかヒントが無い。まさか日常会話もポエムで返事するんじゃなかろうか。例えば『今日の寒さは山の頂…』『アイスクリームの一口目は山の頂…』。山の頂好き過ぎか!と自分にツッコミを入れる。中村がアニメの話するだろうからそれに対しての返答を考えてみよう。まずは中村が『今期のアニメは好きな声優出まくってて追うの大変なんだよね』と言う、それに対しての返答は『山の…』じゃねえよな『追うのが大変と言いつつ、それが幸せなのでしょう?人は夢中に生きてあっさりと滅びるのが美しいのよ…』こんな感じだろうか。それに対する中村の返事は…わからんな。全く噛み合ってない気がする。

 俺だったらどう返すか。『何十年も冷静にならないで死ねたら幸せなのかもしれないなー。もう俺たちは悟ってしまったんだけど』こんな感じかな。それに対して真田はなんて言ってくれるのだろう…。

 やばいな、気になってしまった。俺も真田のこと好きなのか!?

 いやまだ判断するのは早い。

 俺は真田のことはほとんど知らないのだ。

 初めて上履きのポエムを見たときは驚いたが、今こうして改めて考えてみると真田が変人と思われてでも貫きたい自分があるんだよなきっと。

『自許』とはなにか。自らを許すか自分を責めるか決めろってことだよなきっと。自分に甘くするか厳しくするかを決めろってことかも知れない。『山の頂』は孤高の存在。真田自身が孤立してでも自分を貫いたことと関係しているかもしれない。

真田と話がしてみたい。

 ひょっとしたら俺が求めている相手なのかもしれない。

 やべぇ…俺の中の哲学が騒いでいる…!


 そうなると中村のことが気がかりだなぁ。中村が真田を好きなら俺は接触しない方がいい気もする。こういうのは先に宣言したら勝ちなんだな。勉強になったぜ。


「バスケでいい?」

 八木が発する。

「いいけど」

 と中村。運動神経にはそれほど自信はないだろうが…。

「バスケ部が休みの水曜日にあのコート借りようか」

 流石企画の達人だな。遊びの発想が柔軟だ。

 バスケは五人。中村、八木、横川、大西は決定だろう。俺かパパっちゃんが抜けることになるだろうか。ここは先手を打ちたい。

「俺今週水曜日は予定あるわ」

 中村が気持ちよく遊べるように俺ができること。

 後悔しそうな予感もあったが、どうにでもなれだ。俺の哲学は正しいと判断したんだから。


 そういえば、今日はパパっちゃん一言もしゃべらなかったな…。




水曜のバスケは無事に開催したらしい。中村は真田と話ができたのかを聞いたところ『いやーまあ少しね』とのこと。恋愛でうまくいく方法というのは、地道に積み上げていくことなのだろうか。しかしパパっちゃんとか、女の子と遊んでる姿が想像できないな。ちゃんと遊びが成り立ってたんだろうか。

そういえば八木が女子グループのみんなと話をつけているところは見てないな。それはつまり八木は女子たちの連絡先を知っているのだろう。恐らくWboardというアプリでやり取りしていることだろう。長浜と連絡とれば、あとはうまい事連絡を回してくれる印象。アプリで連絡とっているってことは、実は裏で既にメッセージグループが作られているのかもしれん。その中で真田が何か発言しているのかもしれん。何を言っているんだろう。俺も入れてもらおうかな…。いやいやいや、何のためにバスケ行かなかったんだ俺は。ちゃんと中村がやり易いようにしなきゃ。

まあ居なかった俺がとやかく突っ込むと妬みみたいに思われるだろうから、これ以上はやめておこう。



この時間からは就活の授業。多くの生徒は大学か短大に進学予定だとは思うが、その先々の就職活動をどうやって進めるかを教えてくれるというものだ。『そもそも教師は就活してねえくせにな』と横川が言ってたことを思い出す。横川のその発想力の高さに感心した覚えがある。自分が経験してないことを教えるというのは確かに妙な気もする。生徒の誰かが担うのと何が違うのだろうか。たぶん教えるためのマニュアルがあってそれを読み聞かせているんだろう。それをするのに相応しいのは、威厳がある人間。そう考えれば教師で間違ってはいないか。

さて、今日の就活授業は履歴書の作成。

顔写真貼って、名前書いて、住所書いてのアレだ。俺はアルバイトもしたことないから入学願書以来の面倒な作業だなって思った。

最初の説明で、字が汚くても丁寧に書いたことは伝わるぞってお決まりの言葉を聞き、シャーペンで下書きをする。

開幕手が震える。丁寧に字を書くという作業の不慣れさからか全身に余計な力が入る。自分が会社作るときはデジタル文章アリって書こうと心に誓った。

名前は書けた。住所も書けた。経歴は正式名称書くんだってことで、うちの学校の正式名称が『田園調布ミライ・キボウ高等学校』というリズムの悪い名前だと知った。


さて本番はここからか。

自己PRの欄。

簡単に言うと自分のいいところを書け、ということだろうか。

これって罠だよな。シンプルに『私は頭がいい』『私は努力できる』『私は友達に頼りにされている』と書いて採用されるようには思えない。

「言っとくけど、これ掲示板に全員のやつ貼るから。真面目にやっといた方がいいぞー」

「それって個人情報やばくないっすか?」

と横川。流石、そういうところツッコむキャラとして確立されてるな。

「住所と経歴は伏せるから大丈夫です」

「自己PRも個人情報入ってると思うけどな」

 と小声で呟く横川。勝てない口論だと踏んだか、呟きで締めた。


 しかしこれではっきりしたな。ここで自分を持ち上げすぎると同学年にナルシストと思われるわけだ。先生からの評価が欲しければ少しはアピールした方がいいのかもしれんが、そうでないなら謙虚に出た方が救われる可能性は高い。

 覚悟を決めたところでシャーペンと握り、いざっ、と思ったが頭の中に一文字も浮かばない。

 『私は』というところまでなんとか丁寧な文字で書いた。そこでまたストップした。

 俺はなんなんだ?俺という人間はどんな存在なんだ。グループのリーダー的存在なわけでもない。部活もやっていない。アルバイトもやっていない。今まで頑張ってきたこともない。苦労したこともない。得意科目もない。褒められた経験もない。

 なにもない。

 平均的にそこそこ。それを上手いこと文章にできるだろうか。

 『私は特出した才能はありませんが与えられた役割をしっかりとこなしてきました。自分に求められていることで足りないことは補うように努力してきました。そのおかげでサッカーの授業ではよくアシストしています。これからは頼りにされるように頑張りたいです。将来は』というところでストップした。

 全部だめだな!

 なんだよ将来は、って!自己PRで将来の夢語るやつがあるか!しかも将来の夢が自分の中に存在しないことも気づいた。与えられた役割をしっかりこなしてきたってなんだよ。何の根拠もないし偉そうだし。自分に求められたことで足りない部分は補ってきたってなんだよ。そんな経験一回もないぞ。何かを求められたなんて父親に勉強するように言われてやってるぐらいだ。唯一まともなのがサッカーでアシストしていることぐらいか。でもインパクト弱いな。それでいて、これからは頼りにされたいっていう謎の着地。

 

俺って何者でもないんだな…。

自分を表す言葉を一度も使ってこなかった末路だ。


 まともだって思ったサッカーのアシストについてだって、じゃあ北条ヒカルは授業でサッカーのアシストをする人間なんだねって言われればそうではない。

 他の人と違う部分。それはなにか。

 周りに流されずに生きていることはひとつ特徴と言えるかもしれない。普通という概念にとらわれなかったことだ。なんとなく部活に入るとか、なんとなく相手に同意するとか、なんとなくニュース番組を見てるとかそういうことがない。何をしたいのかって意思をもって行動していると思う。

 あ、でもこれもダメだ。俺は親父が頭のいい学校に入るように言ったからこの学校に来たんだ。それに、飯はてきとうでいいとか、遊ぼうって誘われたから遊ぶとか、流されている部分はいくらでもある。

 俺は空っぽだ。途方に暮れた。履歴書の右隅を見つめて動けなくなっていた。

 なにか、なにかなにかなにかなにかないか。俺を表す言葉。俺は何をしてきた?俺は何に拘ってきた?俺は何を好んでいた?


 哲学。

 いつだって俺の血が騒ぐのは哲学だ。

 このまえ俺の未来に光が射した時も哲学を見ていた。


 であるならば、履歴書にどう書くか。

 哲学を知っているかと言われれば完全ではないだろう。その状態で哲学を伝えなければならない。具体的にどんなとき哲学を考えるかを書く必要がある。星野さんとの会話をそのまま載せてみるか。

 『友達と打ち解けたと言うにはどんな条件を満たす必要があるか。私の中では、笑うタイミングが一致することだと考えます。意図せずに同じタイミングで笑うならば、みんなと同じ感覚を共有できていることの証明になるでしょう。私は日常の些細なことを熟考することが好きです。同じ質問を別の人に聞くと、今度は言葉遣いが似ていることと答えます。そうやってそれぞれの答えを交わし合うことが私の喜びです。』という文章になった。

 自己PRになっているかというと怪しいところだな。いやーこれが貼りだされてクズ部の連中に見られるのは嫌だな…。

 逆に、北条って面白いやつだなって言われて、今まで話したこともないようなヤツと話すきっかけになるかもしれん。それが真田アサミなのかもしれない。そう思うとワクワクしてきた…!

 周りのやつらが何を書いてるのか気になるな。それこそがお互いの答えを交わし合うことなのかもしれない。


 後日、みんなの履歴書が廊下の掲示板に張り出されてた。ご丁寧に点数まで表示して、優秀な上位十名が表彰されている。掲示板の上にデカく『今年は豊作』という謎のキャッチコピーが添えられていた。履歴書に対して豊作って、誰が喜んでるんだよ。

 俺の履歴書は……五十二点。嘘だろ…。俺は最後答えを見つけて書き切ったぞ?他のヤツらなんか絶対偽物の言葉を連ねているだろうに。

 先生のコメントを見ると『もっと丁寧に字を書こう!』『自己PRは自分の長所を売り込むもの!』『相手にとって自分を雇うメリットは何か考えよう!』とある。なんでこんなテンション高いんだ。

 まあ言われていることは真っ当だし、五十二点でもいいか。別にこれが内申点に影響するわけでもないし。しかし短い期間で全員分の採点したのか、先生達は。実は楽しんでたりするのかな。普段の授業では個性のでる回答なんて書かれないし、生徒一人一人の内面を見ることができるこのテストは先生にとっても面白みがあるのかもしれない。

 ついでにクズ部の連中の履歴書見てみるか。

 大西は七十点、すごいな。『私は農業についての研究をしています』だって。知らなかった。大西は本当に自分のこと話さないよな。

 中村は六十五点。『アニメが好きで、それについての知識は負けない。何か一つのことに熱中して知識を深めていく能力は他の分野でも生かせるはず』とのこと。なるほどねぇ。嘘を書かずにそれなりの期待感を持たせる上手い文章。

 パパっちゃんの履歴書は五十三点。これが結構深刻で『父親が塾講師で、あんな風にはなりたくない。自分には才能がないので生きてる意味ありますか?』といった内容。心の闇が深い気がする。然るべき病院とかに行くべきではないのだろうか。まあこの文章だけで判断するのは違うな。単なる呟きみたいなものかもしれない。

 横川は八十点。意外に高いんだな。『営業職に就くために心理学を勉強している。営業と心理学無関係に思えるかもしれないが、相手に受け入れてもらいやすいテクニック等、心理学から応用できる技術はたくさんある』なるほどなるほど。確かに横川の知識は広い。あれは笑いを取るために集めた知識だとばっかり思っていたが、営業職に就くためだったとはな。……いや一周回って履歴書に嘘をついているかもしれん。そもそもこの改まった言い方が普段の横川らしくないわけだし。それっぽいことを言うのも横川らしいやり方の一つだ。それでも先生を騙せたとしたらそれは本物と呼んでもいいのかもしれない。

八木はというと自己PRの部分は空欄にしていた。授業などに真面目に向き合うものかという意向が伺える。八木らしいっちゃらしいな。先生の手の上で転がされる感覚に嫌気がさしたのだろう。その結果の三十八点。


ではでは最高得点の人はどんなヤツなのかというと、織田ハルナという女の子だ。織田さんは長浜グループ所属、つまりは真田アカリと同じグループ。あの子たちは華やかなだけでなく、頭脳も秀才ぞろいなのかもしれない。

最高得点九十五点の履歴書がどんなものなのか、気になって俺は休み時間残り少ない中掲示板に張り付いていた。字は当然のごとく丁寧で大きさが均一である。では自己PRは?

『私は幼いとき病気を患っていました。膠原病という病気です。原因が特定しづらく治療が難しい病気です。私は長く生きられないかもしれないと告げられていたそうです。私の両親は諦めずにあらゆる病院を探してくれました。そして遂に膠原病の治療実績がある病院を見つけてくれました。私がいま生きているのは両親と医師の先生のお陰です。私は医者になると決めました。誰よりも強い気持ちで目標に向かっていると自信を持って言えます。』

これは間違いなく百点だと感じた。

それと同時に自分の人生のちっぽけさを痛感してしまった。

これと同じ体験をすればいいというわけでもないし、本当に苦しいことだっただろうと同情もする。しかし、人生には大きい人生と小さい人生があるんじゃないかと思った。小さい出来事しか起こらない人生には強い気持ちは得られず五十二点を与えられ、大きい壁を乗り越える人生には九十五点が与えられるのではないか。

俺は今持っている条件だけで九十五点を演出できるのか?横川のテクニックで加点は狙える。でも人生の点数があるとして、そこは見えていないだけで優劣が存在しているのではないか?そんな錯覚に陥った。馬鹿馬鹿しい。大きな人生と小さな人生があってたまるか。そんなことがあるとすれば人間は平等ではなくなってしまう。

この価値観は公言してはならない。墓までもっていこう。

俺は履歴書を書くという行為で己の人生の空っぽさ見つめ、他人と履歴書を比較することによって己の人生の小ささを見つめた。


 真田アカリが気になった。真田アカリがどんな履歴書を書いているのか気になってしまった。

 俺と同じ点数らへんを探しそこから上の順位に目を運ぶ。なかなか見つからない。

 首をかなり上に傾けた。一番上の段、織田ハルナの隣。真田アカリは八十九点。二位の履歴書だった。見たいような、見たら幻想が砕かれてしまうのではないかという不安にも襲われ、名前の字をじっと見てた。普通に綺麗って文字だった。

 さて、あと二分で授業が始まるってところまで来て、勢いに任せて真田アカリの自己PRを見た。

 『私は中学生のとき人を見下していました。この人は何点、あの人は何点。発言と行動から人の内面を評価していました。自分に点数を付けることだけは無意識に避けていました。当然私には友達がいませんでした。原因は不完全な自分を許せなかったからです。そのせいで時々自分を殴りたくなる衝動に駆られるのです。中学校を卒業して自分には何も残っていないことに気が付きました。とても後悔しました。同時に不完全な自分を認めることができました。そこで気が付かなかったら私は毎日自分を殴りたくなっていたのだと思います。』

 唖然とした。すごく好きだと思った。

 これは履歴書のようでいて小説みたいな読み味がある。

 俺はひとまず教室に戻って席に着いた。窓の外を眺めるようにして真田アカリの席の方向を見た。あんな凄い履歴書を書いた人がこんなに近くにいる。あり得ないすごいことだ。真田アカリに俺の履歴書を見られると思うと恥ずかしくてならない。俺の履歴書なんて見ないだろうけど。

 感想を伝えたい。真田に凄かったって、感動したって伝えたい。感動を言語化しようと頭を巡らせてみるがうまくいかない。言葉にすると陳腐になるし、話すときを想像すると二人の空気感が邪魔するのだ。

 逆に言えば真田アカリは言葉で俺を圧倒した。そこも凄い。相手の状態がわからないなか、感動させるために全ての人に伝わる言葉を選ぶんだ。それと、激しいテンションの人を落ち着かせ、落ちたテンションの人を動かす始まりの言葉。

 チャイムが鳴って周りのみんなが数学の教科書を机に出す。それを見ていけないいけないと慌てて教科書を取り出す。数学がどうとかどうでもいいほどに頭の中が支配されている。


 もしもあの文章に自分を殴るって表現を使わなかったらどうなるか。前述している後悔という言葉がそのまま流用されていただろう。人を見下していた流れから後悔と出てきたときに確かに心が動いた。でも後悔だと具体性がない問題がある。読者がイメージできない時点で他人の出来事になってしまう。だから自分を殴るって言葉にしたんだ。そこまでが計算なのか?

 他人を見下していたことと自分の不完全性を許せないことの関りも面白い。単純にいけば他人を評価している自分の小ささに気づくって段取りな筈だ。そこを自分を許せていないから他人を評価していたって因果関係にしているのは一歩先の哲学にたどり着いていると思う。要するに、相手は自分の写し鏡であるって哲学と許せないから点数に縋ってしまうという哲学のミックスした物言いなんだと思う。人に点数を付けることは浅はかだよっていう答えでもおかしくはないが、自分を許すことで解決するという提示は見事なものだ。


 おれはこんな風になりたい。これが幻想の真田だとしたら俺は幻想を目指して生きるのかもしれない。それぐらい、今まで会ってきたどの人とも違う、俺の理想の生き方だ。


 もしこの考えで生きているなら、真田は既に点数を付けて競う世界からは離れていることになるのだろうか。学生である限り評価からは逃れられない。それでも優劣つけない考え方を貫けるのだろうか。この二位という結果はどう受けとめているのだろうか。

 例えばいい高校に進学すると思ってここに来たのだろうか。大学を選ぶときに何を基準にするのだろうか。点数を付けないのは人間の内面に対してだけ?

 くそっ。話してみてぇ…。

 俺の質問に対して、いったいどんな返答をしてくれるんだ。

 俺の中の世界が数日前と明らかに違う。やはり光と呼ぶのにふさわしい。俺の哲学を育て、燃やしてくれる存在。


 授業は頭に入らず家に帰ってから教科書を見ながら復習をしていた。無駄な時間使っちまったな。授業中は授業に集中した方が効率がいい。しかし、何のための効率なのか。いい大学に行き、親父の目指す道を俺も行くのか。いい大学に行かなかった場合の俺の人生はどこへ向かうのか。今まで考えてこなかった可能性が顔を出す。

 だが今の俺が出す答えは浅いような気もする。世界が開けたからこそ今の俺の思考は不安定だ。土台をこれから作り上げる果てない作業が待っている。



 朝。昨日は疲れたな、と思いながら登校する。頭がごちゃごちゃしながらも絶えず動いていた昨日とは打って変わって、今日は無心でスタートした。逆に、ここの家の飼っているインコがこっちを見ているとか、コンビニに流れる曲が妙に耳に残ったり、着こんでる人と薄着の人が混在しているなとか、そういう何気ないことが頭に入ってきた。

教室に入ると八木が喜々と俺を呼んだ。

「北条!やばいって!今日なんだって!」

「何が今日?」

 いつもの情報不足な説明から、お決まりの聞き返し。

「中村、今日告白するって!」

 電撃が走った。告白の相手は疑う余地もない。

「早くないか!?」

 俺は咄嗟に言ってしまった。これは別に止めようとしたのではない。断じて。

「俺がバスケセッティングしてやったからだべ?」

 と中村に向かって言う八木。

「まあな」

と笑う中村。もうある程度覚悟が決っていそうだな。すげぇや。俺は人生の中で誰かに告白とかできるんだろうか。非日常を自分から作り上げて、恥ずかしながらも、怖いながらも、好きと言い切ることができるのだろうか。ましてや相手がそれを受け入れる奇跡なんて拝むことができるのだろうか。

「今日のいつ?」恐る恐る聞く。

「放課後庭園で」

 庭園というのは学校の真ん中にある校庭とは別の庭である。たしか建築法のなんやかんやで建物をそこに建てられないから仕方なく庭園にしたとかって説明を受けたような。まあとにかく庭園にはベンチがあってそこで話をするんだろう。周りに花壇があったりして雰囲気作りはばっちりだ。

 一体呼び出すまでにどんなやりとりがあったのだろうか。

『伝えたいことがあるんだけど、明日放課後に庭園のベンチに来てくれない?』

『わかりました。放課後庭園に向かいます。』

 なんか俺の中の真田像はだいぶ事務的だな…。だが中村のWboardでのメッセージはほぼ合ってるだろ。もしかしたら顔文字使ってるかもしれないが、相手が真田だと臆して打てる勇気が出るかわからない。

 そうか、俺の中では真田に対する憧れと同時に恐れがある。俺がどんな人間なのかが伝わってしまうのが怖い。相手は人を評価しないとは言っているものの、感想を持たれることが怖いんだと気付く。いつか自然に話せる時が来るのかなぁ。それとも中村の彼女になって話すことなくなっちゃうのかな。

中村を応援したい気持ちはある。

中村が真田と付き合っても両方と仲良くなる道があれば探したい。

結果中村に嫉妬することにはなるだろう。

そうなっときは幻想の真田を追うのだろうか。いや、そんなに簡単に割り切れるものではない。俺が見ている未来ヴィジョンは、毎日苦しそうにして頭を抱える俺だ。嫉妬で狂いそうになってわけわからなくなって勉強に集中するとか、学校を退学するとか変な方向に舵を切っている俺だ。光と闇は表裏一体とはこのこと。どちらにせよ俺の哲学が進むことには違いないが、できれば前向きな方向であってくれ…!

中村、お前はすごいよ。俺は告白なんてできねぇ。俺はそのあと普通に話せなくなることが恐怖でならない。それを乗り越える勇気と、その先に必ず希望があると信じての行動なんだよな…。やはり全力で応援しよう!世界を変える勇気に祝杯を。


そして時は刻一刻と迫る。授業の時間が以上に長く感じた。しかし迫ってくると一瞬で時間が過ぎているように思えた。別に俺が告白するわけじゃないんだが…。

校内の登り階段の三階と四階の間でに窓が付いていて、その窓越しに中村と真田を見ているクズ部一同。

ちょうど今中村がベンチに座って待っている。緊張が伝わって俺の手がビシャビシャになる。中村は時々空を見上げたり、周りを見回したり、スマホを確認したりと一般的な街行動を続けた。

そして真田がやってくる。歩く時の姿勢が崩れないせいか、真田のスカートは一切なびかない。まずはベンチの前に立って何やら話している。

こちら側からは声が聞こえない。何かを話しているとしか言えないが、真田はあまり笑っていないようだ。中村は『とりあえず座りなよ』的なことを言ったのだと思う。ベンチで隣同士となった。

中村は『まあわかんじゃん?ここに呼んだってことはさぁ』といった重くない言葉を使って恐らく返事を待つ状況にしているのだろう。この流れは決めていたのだろうか。

真田は数回小さく頷いて、小さく口を開く。

 中村は口元に手を当てて空の方を見上げる。これはまさか…。

 今度中村は下を向きながら何かを話した。それに対して真田は少し長めに返答をした。

 やがて真田は立ち上がり頭を下げ、ベンチを後にした。

 クズ部のグループに中村からのメッセージが届く。

「撃沈しました!」

 我々が暗くならないような配慮を感じる深い言葉だった。俺は心中穏やかではなく、ただざわざわと胸の中で何かが音を鳴らしていた。今は誰とも話せないしまともに歩くことすらできない。


「プランKだな!」

 と言葉を放ったのは八木で、それのお陰で少し現実に帰ってこれた。

「なんだよプランKって」

 と大西がツッコむ。もしかしたら本来は中村がツッコんでたかもしれないタイミングだ。

「プランKは、プランKだよ!なあ!わかるだろ?」

「なんも考えてないんかーい」と大西。

 と軽く掛け合いをやっている。全員でまた日常を取り戻そうとしている動きだ。パパっちゃんは何にも気にしてなさそうだが、俺と横川はいつも通りとはいかなかった。


庭園のベンチで花壇を見つめている中村に、後ろから八木が声をかける。

「このあとカラオケなんすけど、どすか?」

 いつも通りの威勢のいい声だった。いつも以上かもしれない。ちょっとした友情ストーリーにうるっときてしまう。

「あっ、いいねぇ」

 と笑って見せる中村。

「プランKってカラオケのKかよ…」と小声で言う大西。

 俺は中村に『お疲れ様』とかって言葉を掛けたかった。だが、今の中村の内情に適しているのかはわからない。八木と大西のように、俺たちは変わらないというスタンスを貫くのが正しいような気もする。とにかく今の俺は無闇に話すべきではないのだろう。

 

 兎にも角にもカラオケにたどり着く。

 初っ端中村がテンション上げるようなアニソンを歌った。それは全員知っている歌だったので合唱みたいになった。俺も合わせて歌っていたが、頭の中では振られたショックが残っていた。部屋の中の音が遠くに聞こえてきて、違う声がハッキリと聞こえる。『ごめんなさい。あなたとは付き合えない』そういうことなのだ。真田アカリの口から、真田アカリの声でそう告げられたということなのだ。事実だけ受け止めるなら、ただ付き合うことだけができないだけで、友達になることも、楽しく会話することも制限されていない。しかし真田には断った原因があるはずだ。断る理由があるのかないのか、告白をするまで不透明だったその部分が明らかになってしまう。告白とは恐ろしいものだ。

 曲が終わる頃に俺はオエオエ泣いていた。そのせいで大爆笑が起きてた。

「なに泣いてんだよ!」と八木。

 俺で笑いになってくれるなら全然いい。場が和んで、いつものみんなに戻ってくれるなら。

中村は今戦っているはずだ。俺に何ができる?本当はパワーを与えたい。前に進んでほしい。でも泣くことしかできないなんてな、俺は学ばなきゃいけないことがたくさんあるんだな。

次の曲は誰も入れておらず、無音の時間が訪れた。

「真田、なんか言ってた?」

 横川が聞く。制服を着崩してソファーに思いっきり体を預けている横川。

「まあ、なんか交わらない世界にいるって」

「フっ、ポエムじゃん!」

 絶妙なタイミングで笑いが起きた。なるほど、真田と言えば上履きポエムだからこれはうまいギャグだ。

「まーなんか違う世界いる感じだよなー」

 珍しく横川はフォローに入った。それも真田を落とすことなく、全員を救済しようとするルートだ。

「パパっちゃん謝って?」

 なぜか横川はパパっちゃんに攻撃を始める。

「え?なにが?」

と慌てるパパっちゃん。

「ちょっといいから謝って」

「いや意味わからん」

「一応謝っといて。一応でいいから」

「一応謝るってどういう状況だよ!」

「じゃあこうしよう。俺も謝るから。俺も謝るから謝って」

 と漫才を始める横川。パパっちゃんは巻き込まれながらもちゃんとしたリアクションを取っている。

「じゃあ…。なんか…すいません」

 パパっちゃんが半笑いで首を前に倒すところを見て笑いが起きた。これが横川なりのいつものクズ部なんだろう。パパっちゃんが可哀そうではあるが…。


 こうして中村告白大作戦は幕を閉じた。中村は自分なりの決着がつくまでもう少しかかるかもしれないが、きっとまた前を向ける。そんな気がした。



 今日の授業科目は英語、化学、数学Ⅱ、英語、物理、就活となっている。一日の中に英語が二回登場することから地獄の水曜日と呼ばれている。英語の先生はお上品な方で『本日二度お会いできて先生はとっても嬉しいです』と笑顔で言ってみせる。学校の時間割ってなんであんなにバランス悪いんだろうな。音楽と体育が一緒の月曜日はスタートダッシュが狂ってしまうし、現代文、漢文、古文が同席している金曜日など、なんとかできなかったのだろうかと思うこともあり。実際には講師の先生が何曜日に来るって決っている都合上無理矢理詰めてるような事情があるのだろう。

 しかし今日はこれで最後の科目まで辿り着いた。前回は履歴書を書くテーマだったが今回はどうだろう。


 先生が来て教団の椅子に座った。一番前の席の体育会系が『なんで俺の履歴書が六十点なんですかー?』って話していた。先生も『なんだったっけ。赤ペンでちゃんとなんか書いてただろ?』と返事する。そこでチャイムが鳴った。

「きりーつ。礼!よろしくお願いします」

 

 ざわざわと各自着席する中先生は話始める。

「履歴書ね、掲示板にも書いたけどみんな一生懸命書いてくれたので今年は豊作ってでかでかと書いちゃいました。それでね、自己PRを書くために自分をもっと研究しなくちゃいけないかもと思ったわけ。自分分析がしっかりできてない人が多かったから」

 一生懸命書いたの中に八木は含まれていないだろうが、やはり先生の中で前回の授業は満足な内容だったのだろう。続いて自己分析か。順序逆な気がするけど、これもまた哲学が進みそうな内容だ。

「自分分析はいろんな方法がありますが、今回はディスカッションというのをやります」

 そう言って黒板にディスカッションと書く。

「意味は討論です。お題はー」

 とさらに書き足す。

「健康、愛、夢、精神、金を自分が大切にしている順番に並び替える。です」

 早速頭がフル回転した。あまりにも難しい。道徳の授業ならどれも一番とかって答えは許されるであろう。しかし、今回はそうではない。そこが面白い。自分は何を軸に生きているんだってことを明らかにするわけだ。


 クラス全体を五分割してそれぞれのグループで話し合いをするそうだ。席の端から先生が『一、二、三、四、五、一、二』と番号を付けていく。俺は二番だった。真っ先に真田アカリが何番になるのかを数えた。……二番だ!!

 席をくっつけて移動するまでの間、プリントを貰ってみんなに配る間、心臓が激しく脈打っていた。遂に来た。最高のお題で真田アカリと対面する時が!



 まずはプリントに自分の優先順位を書く工程。シンキングタイムは十五分。

 失ったらどうなるかという視点で見ていくことにする。

最初は健康。健康を失ったら行動できなくなる。この場合健康がないのを植物状態と考えたらわかりやすい。健康が最下位になることは考えにくいな。

愛を失った場合。全ての他人に傷つけられ、自分を責め続けている状態と思えばいいか。単純に言えば不幸な状態。恐らく最も生きている意味がない状態だろう。愛がなくても金や健康や夢は最悪手に入るかもしれないが、虚しくなってしまうだろう。

夢を失った場合、目的無く生きることになる。医者になってみんなを救うか、子供を立派に育てたいとか、そういう気持ちを失った場合。日々をループして生きているだけとなる。極限まで言えば0歳と百歳で同じ生き方をすることになる。これは苦痛でならないだろう。

精神が失われた場合、これはどういうことだろう。自分のアイデンティティが無く、心の成長が無く、感情がないようなことだろうか。これを失っても体は動くし、目的に向かって生きることはできる。もしかしたらこれが最下位なのかもしれない。

金はわかりやすいな。失ったら生きていけない。自給自足がどこまで通用するかはわからないが、高確率で死ぬだろう。子供であるうちはお金が無くても楽しんで生きていける気もするからこれも優先度は低めかな。


今度は逆に溢れるほど持っていた場合のメリットを考えよう。

健康を溢れるほど持っていた場合、一日にたくさんの作業ができる。気持ちのいい睡眠や気持ちのいい起床ができる。人生をかけるほどのメリットはないが、幸せに直結しそうなものに思える。

愛を溢れるほど持っている状態はなんだろう。友人と家族が仲良く接してくれる状態だろうか。この状態もなかなか幸せそうだな。

夢を溢れるほど持っている、そして叶えている状態。これを達成したいと思って、そこにたどり着く。それを何百個と人生の中で行える。確かにこれはいい。だが俺の中で達成したいことってよくわかっていなくて、故に優先順位が低くなりそうだ。俺は今まで夢を持たずに生きてきて、それでもそれなりに生きてこれてしまっている。

精神が凄まじく熟達している状態。何にも動じず、自分の中から幸せを生み出せて、他人と接するときは正しい行いができる。これは憧れるな。賢者みたいな状態。

金を溢れるほど持っていた場合、メリットは色んなものに変換できることだろう。金は食べ物であり、水であり、電気であり、火であり、車や家へと変身する。愛が買えるとまではいかないが、優しさくらいは買えるだろう。金を持ち過ぎた人間はきっと金を使うだろう。そうすれば世界を豊かにしているとも言える。やはり大きな力だ。


もう一つ考えておきたいのが、それ以外を失ったときの状態。

健康以外の愛と夢と精神と金を失ったとき。健康な体であれば金を稼ぐことはできる。だから命を繋ぐことはできるだろう。だが、生きている意味と楽しみと必要とされている感覚がない、そういうことなのかな。その場合の健康の価値はあるのだろうか。

愛以外がない場合。周りの人に助けてもらいながら生きているが、今にも死にそうで、生きている理由もない。この場合の愛は重たくないだろうか。

夢以外が無い場合。夢を叶えたが、全財産と人望を失った。体もボロボロになった。この時の夢は虚しくないだろうか。

精神以外がない場合。選択肢の中で最も早く死ぬことだろう。来世に期待するしかない。

金以外を全て持っていない場合。自分が生きるために金を使って醜く生きるのだろうか。

さて、情報は出そろったな。

俺が決めたのは精神、金、健康、夢、愛の順番。改めて思うのは、どれも捨てがたいってことだが、この順番に大事にしていれば俺の人生はあってると思う。理由については議論で明かして見せよう。


真田は俺よりも先に書き終えていた。そして自分のプリントを眺めていた。思いにふけっていることだろう。流石に真田の顔をまじまじ見ることはできないので表情は読めないが、プリントの文字を見ると消しゴムで消した跡が一切なかった。驚いた。単純に優先順位を書くだけでなく、理由を文章で書く欄が存在する。そこまでも消した跡がない。この題目を既に考えたことがあるんだろうか。迷わずに書けるほど意志が固く決まっているのだろうか。それとも頭の中で高速で結論を出して、高速で整理して文章化できるというのだろうか。恐るべし真田アカリ…。

十五分というのも絶妙で、やはりほとんどの人が理由までは書ききれていなかった。当然のことだろう。こんなことを一度でも考えたことのある人が何人いるやら。

先生が議論の進め方を言う。一人一人が自分の選択理由を順で言っていって、反論があれば手を挙げてから発言する。まあ仲良く無難に時間内に授業を終えたい人がほとんどだろうから、わざわざ反論する人はいないだろう。それに授業時間はあと二十五分しかない。


真田アサミが手を挙げて『はい』と言った。

「私最初に発言していいですか?」

 クラス全体が静まり返る。確かに難しい話題に空気を切って発言されると圧倒されてしまう。

『すご』『やる気じゃん』と周りがざわつく。

「どうぞどうぞ」

とグループの女の子が言う。

 『ありがとうございます。では…』と真田は言った。俺は息を止めた。

「私は異性愛者なので愛を一番上にしました。好きな男性からのあ――」

 と言ったところでクラス内でドッと笑いが起きた。

「異性愛者って普通じゃん!」これを言ったのは野球部の人。

「ビビった同性愛者って言ったのかと思ったら異性愛者ね」これはバスケ部の人が言った。

 その後も笑いは十秒ほど続いた。グループ内のみんなも笑っている。

 それは違う。自分は同性愛者だと前提条件を言っておくのは賢い判断だ。違う人がいることを入配慮する余裕と、勘違いのない話の進め方をしようとした結果だ。誰もわかっちゃいない。

 やめろ。こんなことで真田の発言をかき消されたくない。流れを止めたくない。ここから真田が消極的になったらどうしてくれるんだ…。

 真田は言葉を失って固まっていたようだ。収まるまでもう十秒を必要とした。

「続きをお願いします」

 そう言って俺は流れを取り戻そうと必死だった。そんな進行役的なのを買って出たいわけではないが、今はこれしかないと思い切った。

「そうします」

真田は冷静だった。

「私が選んだ順番は愛、夢、健康、お金、精神です。私の場合は男性が恋愛対象なので好きな男性に愛された状態であれば他のすべてが要らないかもしれないと、そう思いました。同様に夢があれば他に何もいらないか、健康があれば他に何もいらないか、お金は、精神は?と自分に問いかけることで優先順位を決めました」

「夢ってどんなことですか?」おれは咄嗟に聞いていた。

 真田はキョトンとしていた。

「…反論は挙手してから…」申し訳なさそうに言う真田。

「ああごめんなさい。…はい」と手を軽く上げる。

「はいどうぞ」

「夢って何ですか?」同じ質問をする。

「夢を語ることは致しません」

 と目を瞑ってきっぱり断る真田。どうせ言わないならわざわざ言わせなおさなくてもいいじゃないか。

「じゃあ愛を本能的な欲求と考えて、夢を理性的な欲求と考えた場合でも順番は変わりませんか?」

「その場合は」

 と一瞬考える真田。

「ええ。順番は変わらないでしょうね」と答える。

 もう挙手についてはツッコまないのか。

 しかし、真田ほどに賢い人間なら本能的な欲求よりも理性的な欲求を優先すると思ってたが…。自分には本能があるってことを受け入れてる、ある意味ではさらに先を行っているのか。

「例えば愛があって健康が無い場合、命が短いかもしれないじゃないですか。愛されてる時間が、たとえ短くても順位は変わらないんですか?」

 健康は時間を生む力でもある。

「ええ、そうですね。人生で幸せな時間が一瞬だった場合についても、それを求めます。もし本当に自分が病弱で、愛している人に愛される時間が一瞬だとしたら、この時間を少しでも長くって思うでしょうね。それでもそんな素敵な時間が一瞬でもあったってことが人生の宝物になることは間違いないと、思います。だから順位は変わりません。」

 やっぱりちゃんと結論出してるじゃないか…!素晴らしすぎる。

「俺は愛を五番目にしたんですよ。どう思います?」

 これで真田と俺の議論状態にもっていけるのではないか。

「どうって……」

 真田は困った顔を見せた。

「失礼な言い方かもしれませんが、心から人を愛したことがないのかなって思ってしまいました」

 真田は心から人を愛したことがあるのか……!?

「ただ、それが良いとか悪いとかではないと思いますよ。自分の経験したことは想像しやすいという結果の表れでしかありません。気分を害してしまったならすみません」と真田は続けた。

「いや、概ね当たってます。確かに俺は人を心から愛したことなんてない」

尻すぼみな言い方になってしまった。なんの宣言をしているんだ俺は。こんなのは議論でも何でもない。

「愛を大切に思うかどうかは人それぞれですので、みんなが違う価値観で、みんな正解なんだと思いますよ」

 やめてくれ。それじゃダメなんだ…。戦わせてくれ。俺はあんたと戦いたくてこの時を待ってたんだ…!

 みんな違うけどそれぞれの中に正解があるなんてのは大大大前提としてわかっている。だがそれを口にしてしまったら俺の中の哲学が止まってしまう気がするんだ。

 一呼吸。鼻から吸って口から吐く。本に書いてあったリラックス法だ。さてここから。

 真田アカリ…。あんたを今から論破する。

「条件付きの幸せなんじゃないのか?それは」

 グループのみんなが首をかしげる。真田だけは、ほう、という顔をしてくれた。

「愛されてるから幸せなんだって言うのは、誰かにしてもらった結果の幸せなんじゃないのか?本当に立派なのは自分から人を幸せにすること。だから愛を最下位にしたんだ」

「なるほどね。でも自分から愛を与えることもまた尊いこと。だから愛はやはり一番だと思います」

 これも正論だ。ちゃんと自分が施すことを想像できてる立派な人じゃぁないですか。これでは崩せない。次の一手だ。

「精神をなんだと捉えていますか?」俺の一番上。

「精神は、目に見えない世界のことだと考えました」

 なるほどね。その定義だと宗教、心理、価値観の総称っててところか。

「俺は精神を、心の成長だと考えました。人生の捉え方とか、思いやる心とか、あと哲学とか。それって自分だけの領域で誰にも邪魔されないと思ったんだよ。だから最強なんじゃないかって。例えば自分の中で幸せを生み出せたりしたらすごくないか?」

 すると真田が手を挙げていた。

「ど、どうぞ」

「はい、考え方も人の影響を受けると思います。例えば親に叱られた経験が、その後の思考に影響してきますよね?」

「ありがとう。あ、ありがとうっつっちゃった」

本音が出ちゃった…。だって質問されて嬉しかったんだよ!

「えっと、その場合でも、自分の考え方に加えるかどうかの選択権は自分にあると思ってる。もちろん幼少期はその判断が難しいから親の言葉とかを参考に生きていくのが一般的だけど、他の人の意見を聞いて、違う世界を見て、自分で判断する自由自体は奪われないと思う」

 真田は小さく頷いていた。今俺は、真田に干渉している。真田の中に入っている。涙が出そうだ…。

 さらに真田は手を挙げる。そしてゆっくりと言う。

「先ほど私にしてくれた質問を返します。精神を育てる時間が短かったとしても順番を変えることはないですか?」

 真田は俺が順番を変えないと確信をもって質問をした。俺の目を見ている。俺も全霊をもって答えたい。

「今回の議題に直面した時、すごく死ぬことについて想像した。もしお金が一銭もなかったら、もし愛がなかったら、もし健康じゃなかったら。そうやって最悪の場合を想定するとその先に死ぬことが見えた。死んだら何もかも終わりなんだなって」

 死ぬこと。人生において何を大事にするかを問うときに、死ぬことを想像してしまうのだ。

「例えばここに死にかけの老人がいる。その人は病に侵されて体を動かせないとする。その人はお金がなくて治療を受けられないとする。その人は目標がなくて生き抜く力がないとする。その人は心を病んでくるしんでいたとする。その人は家族もいなくて助けてくれる人もいないとする。その人に何か一言だけ声を掛けるとしたら俺はなんていうだろうなって考えたんだ」

 ここで何かを与えても結局は死に直面する。人間はたった一つの要素で生き抜くことはできない。それならば。

「生まれ変わってきっと幸せになれるよって。俺は言うと思う」

 その老人に向かって、死んだら何もかもが終わりだなんて言える人が居るだろうか。真実は分からないけど、魂がまたこの世界に戻ってくると、次の人生では今より良くなるんだと信じたい。それが精神を一番にした理由だ。



 真田はシャーペンをもって五番目に書いてある精神を二重線で消した。そして愛の上に精神と書く。

「負けたわ」

 真田は清々し笑みを浮かべる。消し跡一つないプリントに二重線を引いてくれた。


 哲学に勝ち負けはない。みんな違ってみんな正解が原則だ。だがそれでも戦わせてみたくなる。きっと真田もその欠片を味わってくれたんじゃないか。最高の相手と最高の戦いを体験できたことに感謝する。確かにこの一瞬は人生の宝物だ。


一応他の人達も自分の意見を語り、各々が人生と向き合ったことだろう。チャイムが鳴り、慌てて席を戻す。休憩時間に突入しながら、『全員立ってるけど起立!礼!』とかってやって幕を閉じる。

 俺は席について次の移動教室で使う教科書を引っ張り出すと肩をトントンと叩かれる。

 真田だった。

「やっぱりでも、あなたのその発言は愛だと思う」と言った。

 俺は声が何も出なかったけどすごくにっこりしてたと思う。そして真田はそそくさと自分の席に戻る。時間があれば更なる議論ができていたのかもしれない。この時間をもっと長くとはよく言ったものだ。



 感動冷めやらぬうちに帰宅した。頭の中は真田との議論が再放送されていた。そしてああ言えばよかった、こういう展開もあり得たなどとやりとりしているうちに無意識に家まで辿り着いてた。欲を言えばもっと長い道を歩きたい。歩きながら考え事を続けたいって思いもあった。夜風に浸りながら一つの考えに集中する。これが至高の時間だ。

 もっとこうしたいっていうのはあったかもしれないが、あの議論全体の満足度は非常に高い。そもそも議論できただけでもすごく嬉しかったし、ちゃんとしたやりとりができた。相手に興味を抱かせた。そして真田は『負けたわ』って言った。あれは決して負かしてやったということにはならないと思う。真田が、信頼の証として負けたという言葉を使ったんだと思う。そこも嬉しい。

 このままこの思い出を抱えて生きていれば俺の哲学は成長するのだろうか。心の深いところでもっと話がしたいって思っているが…。

中村のこともある。俺は大人しくしておいた方がよさそうだ。ひと月ぐらいだろうか。


部屋のベッドに腰を預けた。教科書の入った重いバッグから解放され、一番リラックスできる瞬間。

スマホをつけたら大西からWboardのメッセージが来ていた。中身は見ないでおいて夜飯のあとに返事しよう。

今日このあとの時間何しよう。とりあえず勉強はするけど、そのあとどうやって時間を潰そうか。これといった趣味がないからテレビとか見て、録画してるやつを見て、それから日記をつけて終わる。テレビは親父のエベレスTVは大目に見ているかもしれない。でもテレビをみてると、どっかのタイミングで時間を無駄にしてるって気持ちになって止める。だからといってテレビを見なかったとして俺は有効活用しただろうか。俺は時間を何に使うべきなんだ。もしかして俺と周りの人は大きく差が出ているのかもしれない。こうしている間にも人生と哲学を進めているヤツがいる。そう思うと焦りは当然ある、だが俺は何をすればいい。

ヒントは哲学なんだろうけど、哲学を進めるための行動とはなにか。日記はあるけどそれが自分の生み出したものとは言い難い。とりあえず哲学を世の中に発表すると考えている。ブログで思いの丈を語るもよし。歌にするもよし。漫画にするもよし。何かしらの活動をしたい。そうだ、やるとしたら今なんだ。


下のリビングで夜ご飯を食べながらずっと考えてた。

俺が人生をかけてやるべきことは何だろうって。

でも見つからない。

十七年間意識してこなかった代償なのかもしれない。他のヤツはどうやって見つけたんだ。テレビの子役。スポーツ選手。天才画家。飛び級の神童。将棋のプロ。

みんなどうやって生きてきたんだよ…。なぜそこにたどり着けた。

俺はまだ終わっちゃいない。けど産まれてからのスタートダッシュは遅れているんだろう。人よりも優れている部分は何だ。三歳からスポーツを始めてオリンピック選手になるのが十八歳なら、そこにたどり着くまでに十五年ということになる。俺が目指すのは三十二歳で成功する道のり。そこまでは分かった。

結局答えは出ずに食事を終えてしまった。でもこれについては毎日一回は考えることにしよう。部屋のベッドに戻ってスマホをなんとなく見たら大西からのメッセージに気が付いた。

『北条の連絡先教えてほしいって人がいるんだけど教えていい?』という内容だった。

これはなんだろう…。どう答えるべきか。

例えば『誰から?』って反射で打ちそうになる。しかしこれでは相手がだれかによって断ることになってしまう。もちろん詐欺師に連絡先を教えるのは御免だが、大西のフィルターを一度通っている時点でそれはない。つまり『誰から?』と返した場合は大西を信頼していないことになりかねない。

次に『なんの用事かによるかなあ』これに関しては冗談っぽい返答になる。ただこれも同じで結論をはぐらかして時間稼ぎしているにすぎない。

だったら男らしく『いいぜ』って返す方が絶対いい。

「いいぜ」

「なんで何も聞かずにいいって言えるんだよ笑」と大西。

 深読みし過ぎたか…。

「織田ハルナって子が北条の連絡先を教えてくれって。北条と友達になりたいからだそうだ」

 織田ハルナは履歴書一位であること、長浜グループの一人であることは知っている。これってつまり八木が開催したバスケットボール会で全員が連絡先を交換したんだろう。しかし俺が居なかった。だから大西に聞いた。しかしなぜ大西なのか。主催の八木じゃないのか。八木には話したくない感じなのかもな、と勝手な想像をしてしまう。

「とりあえずオッケーってことな」

 と言って大西のメッセージが途絶える。この間に織田ハルナさんと連絡しているのだろう。大西は彼女いるのにな。女の子と秘密のやりとりはいいのだろうか。それは考え過ぎか。

 織田ハルナさんは俺と友達になりたいのか。俺の履歴書見たのかなあ。俺の中の哲学に共感したってことだろうか。共感とは限らないか、興味があるなのかも。これは喜んでいいと思う。俺は誰かに何かを伝えている。超抽象的な表現になってしまうが、人に影響を与えるなんてそうそうできるものではない。


 『織田ハルナさんから友達リクエストが届いています』Wboardの通知が来た。さて、俺の哲学が動き出す。この先に知らない世界があって、俺の考え方を変えるような刺激があるに違いない。どうなるかわからない。だからこそのワクワク、これを俺は待っていたんだ!

 恐る恐る織田ハルナのリクエストを開く。承認するか拒否するかの二択だ。様子を見るは存在しない。承認を押して、何の文章を打とうか悩んでる隙に織田さんからメッセージが来た。

「こんばんは!」

 ピコンとメッセージが表示されたあと、今度はこんばんはに対しての返答を考える。『リクエストありがとうございます!』じゃお店の自動返信みたいだしなあ。するとピコンピコンと続けてメッセージが届く。

「大西くんから聞いてると思うけどお友達になりたくて連絡しました!」「今日の討論真田っちと激しく戦ってたね!」「北条くんは普段からああいうこと考えているのかな?」「今度どこか遊びに行かない?」「もっと北条くんの話聞きたいな」

 

 あまりのスピード感についていけないこの間一分とかそんなもんだぞ…。でもこのままでは既読無視してると思われちゃうからなんかは返さないとと思ってとりあえず『こんばんは』だけは送った。そのあとじっくり考えながら次のような文章を送る。

「大西から聞いて驚きました。

 友達を新しく作るのって勇気がいると思うけど

 そこをちゃんと行動に起こせる立派な人だなと思いました。

 

 討論は静かにやればよかったんですが、ついつい自分の考えたこと言いきりたくて

 大きな声で話してたかもしれません。

 お察しの通り普段からあんなことばかり考えています。

 この考えすぎる性分を何かの役に立てたらと思ってます。

 

 さて本題ですが、遊びに行くことは賛成です。

 友達になれると思った感覚の本質を探りながら仲を深めることは有意義だと思います。

 現状俺のどんな話が聞きたいとかありますか?」

 といった感じ。読み返すとあまりにも固いのがわかる。『思います』って何回言うんだよ、小学校の作文じゃあるまいし。とりあえず敬語になってしまうのもどうにかしたい…。そうこう考えているうちに次の返答が。

「勇気とか立派とかありがとー!」「頭よさそうだったよ(目玉の絵文字)」「どこ行こうか?カフェとかでゆっくり話せたらいいな!」

 またも怒涛の返信ラッシュ。悩まずに打てる、その行動力は圧倒的に俺を凌駕している。俺に足りないのはこういうところだ。これは訓練だと思って俺も返信を急ぐ。

「ありがとう。頭よさそうだって言ってくれて。」「カフェなら緑の丘駅の近くのところがあるね。」「それとも学校から少し離れたところがいい?」

 こうやって感覚で文字を打つのは初めてかもしれない。メッセージといえど会話だ。会話にはリズムや空気感が存在する。それを意識しながら打ってみる。

 しかし、織田さんの返信は止まった。恐らく返答を考えている。

 なぜなら『俺のどんな話を聞きたいか』については答えていない。

 そうかフィーリングなんだ。彼女が大事にしているものは感覚であり、思考ではない。なんとなく話が聞きたいけど、それが何なのかまでは追及しない。それが行動力に繫がり、彼女の良さでもある。

 だから俺のあの質問は軽率だった。

 しかしこうなってしまったら返事を待つしかないだろう。追い打ちメッセージなんてもっての外。

この時間を使って俺は勉強を始めた。今日授業で書いたノートを、別の紙に丸々写していく作業。こうすることで授業全体の流れを思い出し、定着する。それが終わったら参考書の問題を解こうかな。復習は今日の場合五科目。ひとつ二十五分で計算すると二時間強となる。その合間に織田さんからの返信が来るだろう。それを加味すると全体の決着がつくのに十時半。風呂に入って寝る準備したら十一時半。完璧だ…。俺の今日のスケジュールは決まった。


一科目の復習が終わったところで織田さんからのメッセージが届いた。

「話したいことは北条くんの好きなことでいいよ!」「カフェは学校から離れてた方がいいかな…」「いつにする?」

 とのこと。俺の好きなことを話してくれという言葉。すごく考えた結果だと一目でわかった。俺は部活もやってないし、アルバイトもやってない。俺という人間を表す言葉は、少なくとも他人の口からは発せられない。かといって、実はあんまりよくわかってない、思ったより興味ないかもと言うこともしなかった。ちょうど中間の折衷。ありがとう悩んでくれて…。俺は一人頷き目を瞑った。

「じゃあ小鳥居駅のカフェにしようか」「今週の土曜は空いてる?」

 と企画を先に進める返答をした。八木あたりはこの辺上手いんだろうな。

「空いてる!十八日ね!楽しみ!」

 またすぐに返事が来た。これで一区切りだろう。何とか乗り越えたぞ…。感覚で文字を打つことも、スピード感のある会話をすることも、慣れない中よく頑張った俺。そして織田さんもなれない会話に頑張ってくれた。

 俺の哲学の中に『真逆の人間は出会うべきである』という言葉が存在する。自分と違う考え方、生き方をしてきたものは大きな刺激となる。そして新しい世界を知って、視野が広がっていく。これはお互いにとってメリットだと思う。もちろんずっと一緒だといつかぶつかってしまうのかもしれないが、かといって一瞬の出会いでは意味が無い。価値観に触れるまでの間は進めたいところだ。この出会いはそれに匹敵すると思った。



「北条くんってさ、雰囲気いいよね」

 一区切りと思っていた矢先、突然織田からメッセージが届いて驚いた。そしてここに来てもやはり雰囲気(フィーリング)なんだなとちょっと面白くなった。

 なんだか嬉しい言葉。これに対する返答も感覚でするべきだろう。

「ありがとう。雰囲気って、オーラかなんか出てる?」

 ちょっと威圧的に聞こえるかな。まあ頭にありがとうつけてるから大丈夫か。



「北条くん彼女とか居ないよね?」


 あ。


 これは告白の流れを引いてしまった。


「オーラは出てないよ笑」と織田さん。

 和やかな空気作ってくれてありがたいが、ががががががこれはもう後に引けない。

 彼女は居ない。それを言った瞬間どうなるのか。『ふーんそうなんだ』って感じで終わってくれるのか。『じゃあさ』とその先の言葉を言うのか。

 でも実際どうなんだ?付き合ってくれるのか。今までに彼女居たことないし、これはチャンスなのでは…?そもそも付き合うってこと自体、姉の彼氏を見てしか知らない。ああやってきっちり自立した者同士の付き合いは他のカップルとは違う気がする。相手の領域に踏み込まない丁度いい距離感で接している気がする。学生の恋愛はわかんないけど、思いっきりぶつかって、思いっきり傷ついて、一緒に成長しあった二人が結婚する。そういうものなのかもしれない。『真逆の人間は出会うべきである』いったいどこまでだ!?出会いはした。どこまでの関係になるべきなんだ…?

 勉強を忘れ熟考タイムに入る。考えた。付き合ったらどこにデート行こうかまで考えた。正直浮かれていた。まだ告白されてないくせに勝手に勝利していた。俺の哲学はどこいったんだ…。

 落ち着け。俺が答えるべき質問は『彼女がいるか』それに対しての返答をすればいい。

「彼女は居ないよ」

 なんとなく抱きしめるような文章になってしまった。自分でも何言ってるかわからない。

「じゃあ付き合わない?」


!!

 人生最大のクエスチョンが現れた。

 今時Wboardで告白するもんなのか。抱きしめる文章で書いてしまった俺には責任があるんだろうか。いやこの思考は本題を逃れるための言い訳思考だ。本題に立ち向かわなければ…。

 付き合うってなんだってところから始まる。

 一緒に手を繋ぎながら下校して彼女の最寄り駅でまたねと手を振ること。

 遊園地にデートに行って観覧車の中でキスすること。

 恋愛の映画見に行って帰り道『北条くんは病気になったりしたらやだよ』と言われること。

 今日うちの両親帰ってこないんだって言われてお泊りすること(テレビの見過ぎ)。


 それをこの人とするのだろうか。実感は湧かない。当たり前だ。俺は織田ハルナという人間を知らない。知りながら付き合っていくことになるんだろうか。知った後に付き合うのと、付き合いながら徐々に知っていくことの差は何だ。すれ違いの起こりやすさとかだろうか。

 もしも織田さん流の感覚で答えを出すのだとしたら、ノーということになりそうだ。でもそれは織田さんを拒否する意味ではなく、自分の人生が変わろうとしている不安から、恐怖から、SOSの号令が鳴っているにすぎない。それは本能ではあるが本心ではない。ではイエスと言うのか。その先には織田さんを不幸にするかもしれないという最大の不安もある。友達と違って相手を一人に定める行為には重みが伴う。じゃあノーと言えば織田さんは不幸にならないかと言われれば当然そんなことはなく、むしろこの瞬間から不幸にしてしまう。中村の告白のときを思い出す。断る理由が不安であること、わからないことだときちんと伝えれば傷つけずに済むのだろうか。いや、そのあと普通に仲良くしている姿は想像できない。だとしたら、だとしたら。もう俺の答えはこれに決まってしまう。

「まずは友達から始めませんか?」


 ハッキリ言って今回の俺が出した答えは不正解だ。

 悔しいね。


 なんかよくわからないけど大西に報告しときたくて『織田さんに告白されて、友達から始めることになった』とメッセージを送った。こういう時に話したくなるあたり、織田さんが大西を頼った理由なのかもしれない。そして大西に彼女がいる理由でもあるのかな。

 大西は『そうか、頑張れよ』って応援なのかわからない文を返してくれた。



「友達からとか中学生かよ!」

 当然のように八木に馬鹿にされる。というかクズ部全員に馬鹿にされてる。

 ただまあ、みんな純粋に笑ってるってことは恋敵的な思いを抱いてるヤツは居なさそうだな。よかったよかった。

 クズ部のやつらに報告するのクソ恥ずかしかったわ…。トランプで大富豪してる最中『実は昨日さ、織田さんに告られて…』って発言した。その途中まで確か中村がアニメイベントの抽選外れて、『知らね』って冷たくあしらわれてたところだったか。そんな冷たい空気に爆弾を放り込むわけだから緊張するわ。八木が『んで?』って言って『とりあえず友達から始めてくださいって言った』という流れからの現在である。

 大西だけ『大事なのはこっからだろ』って言ってて強者の余裕を感じた。

 もしも俺が逆の立場だったらどう思うかなって考えてみた。クズ部の誰かに彼女ができた。心から喜べるだろうか。正直羨ましいって気持ちはあるだろう。みんなそれなりに祝福してくれるのホントありがたいな。大人な感性を持っている。

「あ~あ~もう北条は俺らと遊んでくれないってよ」

 八木は冗談交じりにそう言うが。実際時間の使い方は変わるかもしれない。もしこっからクズ部と疎遠になってしまったら、俺は薄情なやつだ。

「バイクの免許とか取らんの?」

 と横川が言う。

「なんでバイク?」と返す俺。

「ドライブデートするじゃん」

 横川はそういうのが理想のカップル像なのか。俺はバイクで彼女を遠くに連れて行くなんて想像つかないな。ってか彼女じゃないし。

 でもこうやって意識しだす。友達と言っても男友達とは意味が変わってくる。


「北条と織田の恋愛運見ようぜ」

 八木がスマホで調べだす。占いなんて何の意味もないのに…。

「北条下の名前なんだっけ?」

「ヒカルだけど勝手に調べるな!」

「はいはい北条ヒカルと織田ハルナね」

 八木のやつ、織田さんの下の名前は知ってるくせに俺の名前は知らなかった。


 占いで相性が良かったからなんだ。占いで相性が悪かったら別れるのか?自分の人生を自分で切り開かなくちゃ意味が無い。俺の十年前のあの出来事。あれを学びに変えるには、そう思うしかない。

 いつまで引きずってんだろうな。もう忘れよう。


「はい~相性悪い~」

 と八木が声を上げる。はいはいわかりましたよ。これもまた嫉妬の気持ちがきっとある。今はどんなに攻撃されても文句は言えない。責任が伴ったんだ。これでまた哲学が進む。

 緊張が解けたからかトイレに行きたくなって『ちょっトイレ行ってくるわ』と足早に教室を出た。俺が居なくなったらまた更にみんなの感情は揺さぶられるだろう。

 あいつは調子に乗ってる。あいつだけいい思いをしている。そう思うヤツもいるだろう。学生の恋はロクなものではないかもしれない。全員が幸せになる恋は存在しないかもしれない。コンピューターで操作して全員に適切な相手を割り当てちゃえばいいのに。

 

 トイレから戻ってきたとき、廊下の履歴書が目に入った。吸い込まれるようにゆっくり近づいてしまった。真田の履歴書を見上げるためだ。真田の隣に織田さん。なんだかいけないことしている気持ちになった。付き合っているわけではない。でも、真田の履歴書を見るのはもうやめにしとこう。



 学校にいるとき織田さんと話したり目を合わせたりすることはなかった。お互いに自分の所属するグループがある。そこから抜け出して会いに行くなんて現実的ではない。目を合わせるのもそうだ。友達同士で目くばせなんかするものか。友達という括りで同等に扱うのだとしたら、例えば俺と八木が目を合わせるってことだろ?オエエエエ。

 友達である以上過剰な干渉はしない。俺が決めたわけではないが、自然とそういうお決まりになった。

 ただ家に帰ると『今日の体育全然勝てなかったんだけどー』ってWboadで来る。『どんなチーム?』『わたしと、ミライと、ヒロコ、カナとアカリ』。思いっきり長浜チームのみんなじゃん。もっと言えば女子の集合体の中では最強クラス。

「そんな最強なメンバーで負けるのは意外だわ」

「そう

 ミライ体調悪かったからってのもあるけどね」

 失礼な話だが、女子の体調悪いって言葉聞くと、月に五日間くらい血が出るやつだと思ってしまう。けど七割間違ってない気がする。


「土曜日さ、やっぱりタピオカソフト食べに行きたいんだけど」

 織田さんはなにやらやりたいことを見つけてくれたらしい。そういうのは非常にありがたい。俺が発案したとして、昔の小説家の記念館とか。多分楽しんでくれないだろう。楽しむふりはしてくれるだろうが。


 ってか土曜日ってもう明後日じゃん!

 水曜日の夜に友達になってあっという間に一日が過ぎて、明日は金曜日。それを終えたら朝から出かける準備してるのか。実感が追いついてない。実感ない方がさらっとこなせるかな…。緊張のし過ぎで夜寝れないとかそんなのも嫌だし。

 一先ず出来事を全てこなす。その後でたくさん振り返る。そういう作戦でいこう。その方が哲学進められそうだ。



 さて、土曜の朝。いつもより姿見を見る回数は多かっただろうか。パンツが中途半端にダボっとしてるとシルエットがダサいんだなとか、ポケットに財布入ってるのって見たらわかるもんだなって気づかないことにも気づいてしまった。ワンサイズ小さいパンツを買うのは今度になるか、今日お願いしたら付き合ってくれるかな。

 目的のタピオカソフトが売ってる屋台で待ってた。約束の三十分前に着いてしまった。朝十時だというのに馬鹿みたいに並んでる。右も左も知らない景色で、おまけに知らない人種がたくさんいる。ピンクのツインテールにトゲトゲがついてる狂気の衣装。ターバン巻いてるのは…その国の本物の人か。とにかく三十分間暇することはなさそうだ。


織田ハルナは履歴書に医者になりたいって書いていた。そこらへんが今日の話題になり得るか。医者を目指す人ってどんな感じだろう。少なくとも勉強は人の三倍できるんだろうな。人を救いたいってどんな気持ちなんだろう。

苦しんでる人を助けたい気持ちはわかるかもしれない。でも自分からその役目を背負うって考えは立派だと思う。自分に何かができるだなんて俺は到達していない。でも本当は救う人が一人でも多くこの世界にいた方がいいんだ。世界中みんなが救う力を持っていた方がいい。だから俺も覚悟を決めなきゃいけないんだよな、本当は。


「あと五分で着く!」

 とメッセージが届いた。

「先にタピオカソフトの店に並んでる」と返す。

 ありがとうのスタンプが返ってきた。俺もスタンプなにか使った方がいいのかな…。


 これは特別な時間なんだろうか。ぼやーっと世界が遠のいた。俺の人生に存在しえなかった女の子を待つ時間。周りがガヤガヤしていて、より非日常感が増す。何をすればいいのか正解がわからず、ただ前の人に続いて並んでいるしかない。俺はこんなに無力だったんだなと気づく。

「お待たせありがとー」

 と織田の声がした。正面の方向からやってきたようだ。

「おぉ、よくわかったね、俺だって」

「身長高いからわかるよ」

 そういうもんなのか。

「それにしても結構並ぶんだなー。圧倒されちゃったよ」

 周りがザワザワしてるからやや大きめの声でしゃべることになる。

「このまえテレビで紹介されててー。それ見てみんな来ちゃってるんだよ最悪」

「そうなのか…」

 俺もテレビっ子だから何とも言えないわ…。

「SNSでバズったら集まって私が折角見つけたとこ荒らすからマジでムカつく」

「……。」

俺は何も言えなかった。気の利いた一言を後から考えてようやく思いついたのが『店の店長さんは喜んでるよ』。別に言っても言わなくてもいいセリフだ。

この並びの数だけ幸せがある。同時にこの並びの数だけ不幸がある。みんなタピオカソフトを楽しみで来ているのに、その思いは楽しい以外のものに変換されてしまったりするんだ。おいしいものを作った、それをお客に売った、評判がよかった、テレビで紹介された、人が集まった、一見するとプラスしかないように思えるが必ずマイナスの面を探すことができる。俺は今までその作業をしてこなかったんだろうな。


織田さんは欠伸する。

「今日眠い…」

 朝早く集合にしたのよくなかったかな。

織田さんは友達に接するように俺と接している。そこは凄い。おかげで俺の緊張感は少し和らいだ。ここなら思いっきり失敗できる。

やっとの思いでタピオカソフトを手に入れた。大通りに出る方向へ歩きながら食べてみる。自分で稼いだお金ではないが、一応奢れた。これもデートの醍醐味だよな。

コーンのソフトクリームの中にタピオカが入ってる。量も結構な量で、俺はタピオカの粒が全部で十一個だと数えていた。


「なんかいつもと味ちがーう」織田さんはそう言った。

「むしろ味の違いわかるの凄いね」

「なんか甘すぎなんだよね。前のときとバイトの店員が違ったからだよ絶対」

 絶対と自信持って言えるの凄いな。俺ならその代わりに多分って言っちゃう。とりあえずタピオカソフトは織田さんにとって失敗だったのだろう。

 俺は当初考えてたような、手を繋ぐのかな、みたいなことはすっかり忘れた。この異世界感を存分に味わうのだ。俺はこの子をコントロールすることはできない。



タピオカソフトを食べ終わり、何か次のイベントアイデアを出さなきゃという時間。なんとなくの勢いで大通りに出たから、とりあえずぐるっと周りを見てみた。服屋をここで提案してみるか…いや、目的のものがあるかわからないし。もともとカフェの予定だったんだからそれにしちゃってもいいか。

ここで行動を織田さんに任せるのは、タピオカソフトと合わせて二連続で委ねたことになる。少しは男も考えてよね!という状況になりかねない。

「次はカフェにでも行く?」

 これでこの場の正解には違いないだろう。

「あーあたしアマジュクタワー登りたい」

 織田さんはそう言った。俺に拘りはないし織田さんがしたいことするのが一番だろう。それでも一度提案したという事実が大切なのだ。

 アマジュクタワーはここ天宿の名物観光所。全部で百階まで登れるんだっけかな。どっかのタワーと勘違いしてるかも。天宿らしくあそこでファッションショーが催されたりもする。

 でも織田さんは並ぶのあんだけうんざりしてたのに人混みに飛び込むのは大丈夫なのだろうかと心配になってしまう。


「タピオカソフトが食べきれちゃうから手荷物無いのどう?私の計画完璧じゃない?」

 食べ終わった後の織田さんが両手を広げて言ってきた。なんだかちゃんと楽しんでる感じがあって嬉しかった。

「確かに!ツアーコンダクターだ!」

 こういうのが得意な人が着く職業なのかもしれない。あれプラン作ってる人は別にいるのかもしれないけど…。というか織田さんは医者になるんだった。

「そうなのー。計算済みよ」

「それってネットで調べて当日の状況が予想できるってこと?」

「ネットも調べるけど、雑誌とか観光本とかたまに買ってる」

 驚いた。本気でやってる人だ!俺なんかの拙いプランでなくて本当に良かったって思っちゃう。観光が好きなら、アマジュクタワーに昇りたいって考えになるのは自然か。

俺の遊びレパートリーと言えばクズ部のやつらと麻雀かカタンか人狼かモノポリーか、とにかく悲しいほどに引きこもってばかりだ。

でもさ。もし付き合ったら毎回何して遊ぶんだろう?週に一回出かけるとして、天宿、銀座、渋谷、高円寺そうやって渡り歩くのだろうか。なんか息苦しい気持ちになった。せめて困ったら落ち着くいつもの場所的なのがあった方がいい。なんとなく追い詰められる想像ができてしまった。旅行好きはそんなことすらも乗り越えてるのかもしれないが。


そうこう考えているうちにアマジュクタワーに着いた。真下に着くとそのデカさに圧倒される。自分って小さいんだな。入口まで二分ぐらいの長いエスカレーターに乗る。


「ああゆうのムカつくよねー」

 と言って織田さんが三つ前に乗ってる男性を指さした。

「どれのこと?」

「空気読まずにエスカレーターの真ん中に立ってる人。迷惑なの気づいてないのかな」

「あぁ…さすがにこの長いエスカレーターで右側歩こうと思う人は居ないと思うけど」

「でもあういう人は普通のとこでも絶対やってる。あと荷物を隣において妨害してる人とか」

 言うまでもないがエスカレータでの正しい乗り方は真ん中に立って手すりに掴まることだ。ただし正解とエチケットとマナーの混在による選択は非常に難しい。これは哲学である。もし織田さんがあらゆる選択肢を見ながら仮の結論としてエチケットを選んなら俺は喜んで議論を続けたと思う。哲学を進める上では選択肢を一つに絞ってはいけない。これも持論だがね。


 織田さんは自分の彼氏候補がエチケット守れない人間じゃなくて安心したのだろうか。俺はどこかで織田さんの許せない領域に引っかかってる気がする。


 タワーの中は身動き取れないほどに人が密集してた。

 展望台に行く列がエレベーター待ち十五分となっている。エレベーターが四台もあるからそれがここまで渋滞してるのは凄さがわかってもらえるだろう。

 俺は『諦める?』とも『並ぶ?』とも言えない。とにかく織田さんの意思に委ねよう。

「ここ並ぶとき三十分とからしいからラッキーだったね」と織田さん。

 意外な反応だった!まあでもそうと決まったら並んで上に昇ればいいんだから悩まなくて済む。こうやってマイナスの情報を与え続けて、それよりマシって考えから幸福を受け続ける方法はないか、などと考えてしまった。


「じゃあ俺チケット買ってくるからここで待ってて」

 そう言ってチケットの売り場に並ぶ。こっちも並ぶのか。こっちは三分程度で、向こうには間に合いそうだ。…なんか一人の時間ってホッとするんだな…。


 展望台のエリアまで行くと人は密集していなかった。選ばれし人達のみが生き残った感じか。無料エリアと違って一人二千円出して昇る覚悟を決めたわけだし。

「本当に高い!」

 織田さんはまだ余裕があるような言い方だった。

「み、見れんわ…」

 目の前がクラクラする。ジェットコースターでこれから落ちるよって感覚が永遠に続いてる状況に近い。これってさ吊り橋効果とかあるのかな。男女が不安を煽るような状況下に措かれたとき恋に落ちやすいっていうアレ。吊り橋効果でも好きになってしまったら幸せなのだろうか。でも長続きしなければ意味ないんだよな。

「意外にこういうのダメなんだー」

「確かに俺はいつも冷静を装ってっるかもしれない。それは本当の恐怖を知らないからなんだな」

「どゆこと?」

「いや何でもない…」

 反省しなければ。俺のフィールドで話そうとしてしまった。

「あ!アマちゃんと写真撮れるってー!」

 織田さんは駆け足で写真スポットに向かう。キャストさんがにっこりしてる。

 アマちゃんは海女さんみたいな風貌だが、額のところに金色で『天』という感じがくっついている。直江兼続の『愛』みたいだ。

「お撮りしましょうか?」

「お願いします!」

 俺も隣に立って等身大アマちゃんの着ぐるみとスリーショットとなった。いまいち着ぐるみに抱きついたりできなくてアマちゃんの手をちょっと摘まむだけとなった。

 俺は『どうも』って照れくさそうにすぐにはけた。

 織田さんはすぐにSNSに上げてたようだった。俺が犯罪と顔化したらその写真が使われたりするのかなって余計なこと考えた。

「アマちゃんのファンがいいねしてくれたりするんだろうか」

「というか今日のデートの様子教えてってミライとかに言われてるし」

 なんか注目のなってるじゃん!俺の行動が評価されてる気がしてならない!


 そして帰りのエレベーターで織田さんが『高い割に何もなかったね』って言った。



 時刻は十五時。タピオカソフトはお腹を満たす量だったが流石に空腹を感じる。しかし夜ご飯は普通十八時くらいだろうか。織田さんはどう考えているのか…。そもそも夕飯までデートしているつもりなのかもわからない。一言『夜ご飯どうする?』って聞けばいいんだが、採点されてると思うとここは自分で考えて察しておかなければいけない気がする。

「まだ早いけど夜食べようと思ってる店があるから、もう行っちゃおうか」

 織田さんがそう言った。俺の思考を読んで先回りして言ってくれたんだろうか。だとしたら女の子の察する能力って本当にすごいんだな。男の察し悪いことがよく話題にあがるが、このレベルの直感が常に働いてる結果なのかもしれない。

「全部任せっきりでごめん」

 それが俺の返答だった。『ありがとう』ではなかった。それは自分の不甲斐なさを表す言葉だ。デートってこんなに難しいものなのか。哲学では何も解決しない世界。

織田さんが来たかった店は『ティラミス』という名の魚料理屋だった。暗い中に青や緑のライトアップがされたオシャレな空間でもあり、部屋の中心に大きな水槽があり、魚が泳いでいる。水族館とディナーを両方味わえる変わったお店だ。よくこんなところ知ってるよな、と感心してしまう。これも本で調べたら出てくるんだろうか。


「すごいおしゃれな店だね。こんなところがあるなんて知らなかった」

「雰囲気いいよねー。安くておいしくてオシャレなところって言ったらやっぱここが一番かな」

 ここが一番っていうためには二番も三番も知っていなければいけない。

「すごいな、天宿マスターじゃん」

 これは褒め言葉なんだけどちゃんと受け取ってくれるだろうか。

「すごくないよ!ここは元カレに連れてきてもらっただけだし」

 …元カレっすか。

ただ単純に恋仲になるのも奇跡的なことだと思うが、その奇跡を手放すことができるのも凄いことだ。別れるってどういう理由があって起こるんだろう。友達で言うところの絶交だとは思うけど、別に喧嘩したぐらいではそうそう起こらない。奇跡を手放して次の奇跡を手に入れる。そういうサイクルが出来上がっているのだとしたら、この人は俺よりも人生レベルが高いのかもしれない。

「元カレ十歳上だったからさ、お金持ってていろんなところ連れてってくれたんだよね。でもこの店に連れてくるときはあんまり今お金持ってないのかなって感じだった。はっはは」

 織田さんは笑いながらそう言った。そういう感覚が普通なんだろうか。

 よく女子の言う『お金持ちと結婚したい』はシンデレラになりたいと近い感覚で言ってると思っていた。けどそうじゃなくて、お金持ってる人と付き合っている安心感が欲しいのかもしれない。もっと言えばお金がない人と一緒にいる不安が耐えられないのかもしれない。

「すごいな。十歳上の人とどうやって出会うの?」

「普通にネットだよ。彼医療系だったの。私も医学に進むし気が合うかなーって」

 ますます分からなくなってきた。

「元カレのこととかって聞いてもいいの?」

「全然いいよ。隠してるわけじゃないし」

 ここで俺は水を飲む。

「ほら、長浜のグループのみんなもそのこと知ってるわけ?」

「あー。付き合ってたの中学の時だからミライとか詳しくは話してない。昔付き合ってた人がいるくらいには言ったけど」

 まさかの中学時代だった。

「じゃあ親には話したの?」

「遅く帰って来た時に問い詰められて言っちゃったんだよね。すごい怒られた。意味わかんなくない?」

「付き合ってることが悪いとなると意味わからないな」

「なんでいちいち親に邪魔されなきゃいけないのホント」

「そのあとは隠れてこっそり会ってたの?」

「その後すぐ別れちゃったんだよね」

 急展開だった。

「それってあれか。親に言われたことも一理あるって思ったの?」

 こんなところまで聞いていいんだろうか。

「親は今でもウザいんだけど、彼の悪いところもあるなって気づき始めて、もういいかなって」

 すげぇな…。十歳下の子に、もういいかなって思われるの死にたくなるぞ絶対。

 しかし恋は盲目。親に言われて視野が広くなってしまったわけか。どちらが幸せなんだろうか。いろんな可能性を見ている状態と、一つに絞り切った状態。


「どこでもういいかなって、どこがそう思ったの?」

 動揺し過ぎて変な日本語で質問してしまった。

「えー。このお店とかも結局十回くらい連れてこられたし。ケチなのかなってところと、話してる声が大きいとか」

 マジでわからん。そんなことで終わるものなのか。そういう条件を全て掻い潜って、やがて織田さんと結婚する相手ってどんな人なんだろう。医者か。医者なら落ち着いててお金持ってそうだな。

 今の時代は全員が結婚するわけでもないし、上位何パーセントの界隈では高レベル同士のマッチングが成り立っているのだろう。

しかしこれは…本格的に結婚以外の幸せを探さなくては…。


 ここで料理が並ぶ。俺はサーモンのクリームスパゲッティ。織田さんはマグロステーキ。

「それで最悪だったのがー、彼が会社の人と飲んでて酔っ払ったらしくて、今から来いって電話来たの。行くわけなくない!?私中学生だよ?それで朝五時くらいに、記憶飛んでわからないけど公園で寝てたらしいってWbaordで連絡来てー。知るかボケ!ってなった」

 笑って話せるってことは織田さんにとっても思い出になってるのだろう。なるほど色々あるんだなー。

 それでも織田さんは恋愛をしたがる。そしてターゲットは俺になっている。俺が条件を満たしているとは到底思えないが、まだ俺のことを知らないから勘違いしていることだろう。あのとき付き合うって即答しなかったのは間違いではなかった。胸を撫でおろす。

「織田さんってさ、この前の就活の授業で一番上なににしたの?」

「就活の授業なんだっけ?」

「人生で大切にしているもの五個を並び替えるやつ」

「あーあれね。愛だよ」

「愛なんだ…」

「だって愛って全部じゃん」

 それは哲学なのだろうか。確かに愛の定義は難しく、考えようによっては大きな範囲を包摂しているのかもしれない。

「一番下は何にしたの?」

「忘れた。あの授業って成績関係ないから別に無くてもよくない?」

 成績の方が目に見えて人生の役に立っているのかもしれない。そして織田さんには迷いがない。医者になるから、医大に行くから、勉強頑張る。そこまではっきりしている人に哲学は不要か。

 しばらく食べることに集中した。次の話題を考えている。

「普段は塾とかで忙しくしているの?」

「平日は部活あって塾行って忙しいかなー。でもそんなに忙しくないよ」

 どっちやねんとツッコミたい…!でも本人はギャグのつもりで言ってるわけではなさそうだ。

「ほら、リフレッシュに何してるのかなって。俺だとテレビとか見てついつい時間使っちゃうんだよね」

「あー『ジャンズ』が出てるテレビは全部見てる」

「ジャンズってあの、アイドルグループの?」

「そうそうちゃんと毎日拝まなきゃいけないから」

「それが癒しなんだ」

「最高じゃない?私たちに輝きをくれるの。みんないい子たちでさー」

「な、なるほど」

 中村と感覚似てるな。

「でもねーほら事件あったじゃん?」

「ジャンズの事件って、何だっけストーカーのやつ?」

「そうそう。メンバーがストーカー被害にあって、今鬱っぽい感じで活動休止なんだよね。あれは運営がクソ!全然管理行き届いてないし、テレビで自宅公開とかやっちゃったからね。マジ運営死んでくれないかな」

「そんなことが…」

 一筋縄ではいかないものだなあ。好きな人から笑顔を受け取った。そこで終わればいいものを、さらに欲しがるのが人間というもの。


「うちのバイト先がクソでさー」

「えっ、バイトもしてるの?」

「土日だけね。それでクソなんだよ聞いて聞いて—」

「はいはい」

「うちアイスクリーム屋なんだけど、最近三十の太ったおっさんが新人バイトで入ってきてー。マジで脂!ふつうそんな人雇う?可愛いアイス売ってるんだよ?」

「まあなんか、人手不足とか色々重なったんでしょうね…」

「そのおっさんに仕事教えるの私だよ?私に決めさせてくんないかなー」

「そうやってバイトリーダーができあがるのか」

 俺の中では笑えるポイントだった。

「バイトで思い出したけどさー、朝私眠かったじゃん?あれねー新聞配達の人がポストにボーンって入れるから、私それで一回目が覚めて!三時か四時くらいだよ?有り得なくない?」

「なるほど…」

「しかもさー―――」

 


 そうやって会話を続けた先になんとなく帰れそうな隙を見つけて、そろそろ出ようかと言えた。織田さんも結構話してくれたからその分疲れたことだろう。

 帰りの線は違ったのでとりあえず織田さんを見送った。


 はあ…。夜空がいつもよりもきれいに見える。一人の時間ってこんなに素晴らしいんだ。気分的にはちょっと寄り道して帰りたいぐらい。でも疲れを癒すためにもう帰ろう。

 哲学は進んだ。今まで通りの道を歩いていたら絶対に出会えない価値観に出会い、俺の哲学に影響を与えてくれた。

 電車の中で寝てしまいそうなほど体に力が入らない。頭の中では自分の部屋、そしてベッド、そこに寝転んでいる俺が浮かばれるばかり。ふと織田さんから何かメッセージが来ているかもしれないと思った瞬間意識がハッキリとして、その是非を確認しないようにスマホを触りそうになるのを何度も止めた。



家について自分のベッドで寝るまでの記憶がない。今日が日曜日でよかった。そして織田さんはアイスクリーム屋のバイトに行っているのだろうか。恐ろしい活動力だ。

スマホを見た瞬間焦りを感じた。Wboardに織田さんからのメッセージが来ていた。しかも『メッセージ 九時間前』という文字を見て妙に焦った。ただの深読みにすぎないのだけど、相手を九時間待たせているような気がしてしまって胸が痛くなる。お願いだから俺の返信なんて一分だって待っていないでくれ。この九時間の間は自由に過ごしていて、お風呂入ったり家族と話して、ゴロゴロしてそのまま気にせず寝ててくれ、そう思ってしまう。


『今日はありがとう(笑った顔文字)

 ミライたちもデート写真にいいね押してくれた!

 タピオカソフトホント味違って残念

 またリベンジしよ~』

 という内容のメッセージだった。至って普通で安心した。まあ最悪『今日のお前サイテーだったよ。明日から口きかないから。』って内容の可能性もあるわけだから。それくらいには自信がなかった。

 自分の呼吸が聞こえる。緊張している証拠だ。無難なメッセージには無難な返答をプレゼントしよう。

『昨日は帰ってすぐに寝ちゃった。返事遅れてごめんね。

 こちらこそ楽しかったです。

 タピオカソフト再チャレンジするときはいつでも呼んでね!』

 ふう…。た・の・し・か・っ・た、って打つときに指が震えた。自分の意思に反した動きをすると人間は脳が麻痺するのか。でもこれは自分に必要な試練だと思っている。このまま自分を殺して、その先にある哲学を拾って帰るんだ。だから自分はこれでいい。そう思うと涙腺が赤らむのを感じた。



 翌朝。俺はあまりツッコまれたくないデートのことをあれこれ質問攻めに。

「はい北条くんダメ~。これは嫌われてますねぇ」

 と八木に言われる。それならそれで構わないんだ。嫌われることよりも恐ろしいのは鎖で縛られることなんだと言いたい。言いたいが、今の俺は何を言っても調子に乗っていることになる。

「デートプランまかせっきりはないわ~」

そう言ってる八木なら、確かにデートプランを組み立てることは容易いんだろうな、とは思う。

「まあ初心者にしてはよくやったよ」

 とドヤ顔で言ってくる横川。お前は女の子とデートとかしたことないだろ。…ないよな?よく知らんけど。

「いやーホントむずいんだな。俺には向いてないわ」

 と笑って見せた。それでみんな安心するんだろ?

「むずくてもやらなきゃいけねんだわな。男なら。じゃないと結婚できない。ほら俺、異性愛者なので」

 笑いが起きた。そのセリフは真田のモノマネか。

「パパっちゃん好きなグラビアアイドルとかいる?」と横川。

「急になんだよ!」

 今日も調子のいいツッコミだな。

「パパっちゃんのそういう話聞いたことないからさ」

「一応…伊藤もえとか」

「なんで?」

「は!?なんでとかある?」

「異性愛者だからだべ?」

「は?こいつどうなってんの」

 というやりとりまでいって笑いになった。俺は『なんだその無理やり』って小声で言った。パパっちゃん伊藤もえ好きなのか、意外だな。普段そんな話しないけどみんな女の子が好きなんだやっぱり。最近は恋愛系の話題ばっかりで調子狂っちまうよ。


「横川結婚とか考えるんだな」

 ついつい聞いてしまった。横川も女の人の噂聞いたことないし、あんまり興味ないのかと思ってたから。

「まー俺もね、最終的には結婚して落ち着くと思うんだわ。まだ遊んでたいけど」

 パパっちゃんの机の上に尻をつけて、明後日の方を向いて言う横川。

 色々とわかんないな。遊ぶことと結婚することが両立できないのかな。この場合の遊ぶって女遊びのことか?だとしたら横川って結構モテモテだったりするのだろうか…。確かにクズ部のリーダーで存在感も強いし、高身長だし強そうだし、モテる要素は詰まっている。もうひとつわからないのが、結婚をする幸せをイメージできていることだ。俺ら高校男子は結婚を幸せだなんて思ったりしない。敢えて言うなら好きな人と一緒になる場合に限って結婚を意識するだろう。つまり横川そういうことなのか?この話の流れはやっぱり恋愛なのか。


 教室のドアが開いて入ってきたのは真田アカリだ。珍しい。まだ始まる二十五分前だぞ。

 俺のデートの話の最中じゃなくて良かったとなんとなく思ってしまった。聞かれたからなんだよって話ではあるが。

 あろうことか横川が真田に近づく。

 まさか、真田と横川がいい感じとかじゃねぇよな…。

「真田さん異性愛者なんでしょ?中村ダメだったの?」

 と横川が言った。

 流石に中村の顔は見れんかった。ギャグになるかならないかのギリギリに挑戦しすぎだろ横川。しかも相手に真田を選んだ時点で博打としても不利だ。真田がこの手の笑いを好むとは思えない。


「えーその話題大丈夫?」

 と言ってニヤっと真田が笑った。

意外の意外の超意外!

 そんな反応するのか!

 空気は凍りつかなかった。多分中村へのダメージも最小限だったと思う。この場合『理由は本人に伝えました』とか『もう終わったことです』とかでは中村のダメージが大きかったに違いない。ダメージ五十パーセントカットぐらいはしている返しだ。


「いや異性愛者っていうから男大好きなんだと思っちまったよ」と横川。

「異性愛者ですって言って笑われたの凄く恥ずかしかったけど、ちゃんとネタにされるとありがたさを感じるものね」

「マジ?じゃあこれ公認ってことでいい?」

「ネタにされて嬉しいって意味ではないわ」

「じゃあ私は同性愛者なので、ならいい?」

「クズ部のみんなとの関係がギクシャクする未来が見えるわね」

 と更に笑う真田。ボケてツッコんでという会話の形式が成り立っている。バスケのとき横川と真田さんは結構話したのかな。あと関係ないけど、クズ部をクズ部と認識してるんだな。


 しかしあれだな。なぜだか今日の横川はテンションがいつもより高いな。



 授業が終わって教科書をバッグに詰め入れているとき、視界の前をスカートが塞いだ。長浜ミライだった。

「北条、ちょっと来てくれる?」

「……あ、はい」

 えー、私何か悪いことしましたか……という焦りの汗が出てきた。

 名前呼ばれたの初めてかもしれない。北条って苗字呼びなんだな。くんとか、さんとか使わないことで立場の上を行かれてる気がした。

 のこのこと呼び出されたのはトイレの前だった。体育館裏でボコボコにされるってことはなさそうだ。

 改めて見ても長浜さんは威厳のある風貌だった。厚い化粧とくるくる巻かれた髪は早起きして気合を入れた後に登校している証拠だ。低身長で短いスカート。スカートが短ければ短いほどカーストの上位なのかもしれない。などと余計なことを考えていた。


 長浜さんは口を開く。

「うちの下村とそっちの横川が付き合うことになったから」

「マジで!?」

「気づいてなかったの?」

「いやーやっぱりそうじゃーん。どおりで横川のテンション高いと思ったんだよー」

 ああなんか、もう滅茶苦茶だよ。今まで付き合うとかそういう話は他所の、運動部だけのイベントだと思ってた。でもそうではない。結局男女が接触すれば恋愛は起こるんだ。運動部にカップルが多いのは、たまたま男女接触が多いからなんだという新たな発見がある。んなこと言ってる場合じゃない。

「なんでそんな不機嫌な顔なわけ?下村のこと好きだったとか?」

「いや、そうじゃなくて、恋愛って何だろうなって考えちゃって…いやこれはどうでもいいことなんだけど」

 哲学は無闇にぶつけるものじゃない。

「とにかくこれで、これからはグループ同士の関わり合いになると思うから。よろしく」

「よろしくって、それが言いたかったこと?」

「そう」

 それが呼び出した理由なのか。なんか優しい人なんだな。

「あ、あと」

 長浜さんは続ける。

「ハルナのこと、ちゃんとしてね」


 そうだよな。織田さんのことがある。胸が痛いぜ…。

 『ちゃんとしてね』って言葉に内包された複数の意味を汲み取れてしまう。

 『付き合うなら幸せにしてあげて』『付き合わないならはっきりと伝えて』『でも突き放したり傷つけたりしないで』わかるよ。そう言いたいんだろ。おまけにグループ同士の交流が増えたら俺はいよいよ逃げられない。

 恋愛って善人を悪人してしまう可能性があるなって思う。別に俺が善人だとは言わないが、例えば好きな人が別の女の子と話してるだけでも傷ついちゃうわけだし、自分のものにならなかったことがショックなわけだし、絶対にそういうことは起こってしまう。恋愛の道を通ってこなかった今までの俺は人生イージーモードだったのかもしれない。好きになることも悪くないし、好き同士になることも悪くないし、好き同士になれなかったとしても悪くない。悪くない結果が誰かを傷つけることになるならどうすればいい。

 俺は長浜さんに『恋愛しておいて傷つかないのは無理じゃないか』って言いそうになって言わなかった。我慢できてえらいぞ北条ヒカル…。その代わりに出た言葉がこれだ。

「わかってる。ちゃんとする」


 今度は全身が震えた。



 都内、中の上クラスのファミレス。クズ部と長浜グループの合同パーティもどき。

 今回も八木の企画と見せかけて長浜さんが企画した。こうやって女の子と何回か会うイベントがあるとリア充になった気分だな。

 ソファー側に女子五人が並んで座った。椅子側にクズ部五人。あれそういえば。

「パパっちゃんは?」と八木に向かって聞いた。

「パパっちゃんは置いてきた。こっから先はヤツには務まらん」

「なんでだよ…」

 可哀そうなパパっちゃん…。ここに居たらきっと面白い空気にしてくれただろうに。


真田アカリが俺とは真反対のの位置にいる。真田の正面は大西、色々安心する配置だった。


「とりあえずピザかなー」

 とタブレットを操作する長浜さん。イベント慣れしてるんだろうな。こういう時率先してやれるの本当にすごいわ。

「ピザとポテトと唐揚げで、ドリンクバーでとりあえずいい?」

「うんうんありがとー」と織田さんが言う。

「じゃあドリンクバーいこーハルナ」

 ってな感じで長浜さんと織田さんを筆頭にドリンクを取りに行く。俺も遅れて立ち上がろうとしたら残ってるの真田さんだけだと気付いた。荷物見るなり全員が離れるのはまずいという判断か、もしくは急いでも待つだけだし通路を塞いでしまうことを配慮したか。とにかく真田さんを一人残すのは気が引けて俺は座りなおした。

「気にしなくていいのに」

「こういうイベントに来るんすね」

「あなたが居なかったバスケにも参加したわ」

「ああバスケ…。それって楽しいものなの?」

「難しい質問するのね」

「楽しくないってことじゃないか」

「でも学びがある」

「学び…」

 かなり近い価値観を持っているんじゃないのかと少し嬉しくなった。

「学びをさあ、何に使おうとしてるの?」

 そこが気になった。自分から率先して学ぶってことは、学んで満足ってことは少ないと思う。生活の知識は生活に、勉強はテストに活かすものだ。人間性の知識は何に活かすものなのか。


「ごめんアカリー、残らせちゃって。ドリンクもう空くと思う。うん行っといで」

 長浜さんが戻ってきて話は断ち切られた。まあ何かを期待してたわけじゃないからいいんだけど。

 しかし今度は長浜さんと二人きりになってしまった。誰か帰ってこい…。

「な、長浜さんって彼氏いたりするの?」

 よりにもよって一番微妙な話題を選んでしまった。

「居ないけどなんで?」

「いや…みんなの恋愛を応援してるから、自分は既に足りてるのかと…」

「まあ彼氏いるときもあるよ」

「なるほど…」

 面白い回答だな。『彼氏いるときもある』それって作ろうと思えば作れるって感じかな。そう考えればみんなを応援する余裕については理解できる。だがその裏に『恋愛は永遠の出来事ではない』という意味が含まれてるような気がする。


続々とみんながドリンク片手に戻ってきた。そこで長浜さんが違う会話に持っていかれたので俺も飲み物を取りに行く。

 こうやって消化不良の会話が溜まって、だからまた集まろうって気持ちになるのかもしれないな。下向きながら歩いてたら、織田さんがすれ違いざま微笑んでくれた。俺はちゃんと返せただろうか。

 俺がテーブルに戻ってきたときに、下村さんが質問攻めに。

「なんて告白されたのー?」質問してるのは織田さん。

「やめろやめろ!」と返すのは横川。

「告白って言うかー。俺たち付き合わない?みたいな?」

「えーそこはちゃんとしてほしくない?」

 と織田さんが下村さんに言う。俺に対して何かを言おうとしてるとも取れる。

「逆に重くなくてよかったかも…」

 そうやって肯定するのは、下村さんが横川を好きである証拠かもしれない。

「デートどこ行くの?」

「まだ公園とか」自信なさげな下村さん。

「私この前天宿行ってきたけどー、すごくよかったよ」

 追い詰めるような織田さんの横行。この前の天宿デートをよかったって言ってくれるのはありがたいが。

「俺が免許取れたら山に連れていく予定」

 横川が庇うように言った。免許?まだ十八歳じゃないからバイクの免許かな。

「へー免許ってお金かかりそう…」と織田さん。

「だからバイトも始めた。免許もそうだし二人乗れるバイクも買うしな」

「すごーい!えー!めっちゃいいじゃんドライブ!ドライブデート!めっちゃいい彼氏!」

 何度も同じ言葉を言うほどに感動した様子の織田さん。でも横川が努力するって姿はそうそう見れるものではない。下村さんに尽くしたいと思える程好きなんだろうな。相思相愛で素晴らしいじゃないの。


「横川もつまんねー人間になっちまったなー。破天荒さの欠片もねぇ!」

 八木が切り込む。確かに横川らしくなくなったとは思う。それ以上に置いて行かれたという気持ちなんだろう。

「昔の横川はドリンクバーで炭酸水を飲むような奴じゃなかった!カッコつけやがって」

 全員が一致して笑いが起きた。中村が『確かに!確かに!』と言っていた。

「最近ちょっとハマってるだけ」

 と照れた様子の横川。まあこれも含めていつものクズ部って感じがする。クズ部の笑いが長浜さんグループに通用したのは意外だった。


「ヒロコのことお願いね、横川くん」

 織田さんのその言葉でまとまった。女子の結束というのはやはり固いものなのだなと思う。クズ部の奴等からは永遠に出てこない言葉だ。

 なんとなく中村が羨ましそうな目で下村さんと横川を見ている気がする。友情と恋愛の錯誤が起きているのだろう。俺もなんだか調子狂っちゃうような、そういう不慣れな雰囲気が漂っていた。


 ポテトとかピザが運ばれて一瞬会話が止まる。次に目蓋を切る一言はこれだ。


「ハルナもだよ?あんたも北条くんとどうなのよ」

 下村さんに言われてたじろぐ織田さん。その飛び火は俺にとってきつ過ぎる…。

「普通ご本人を前にして聞きますかね…」

俺はそう言った。あまりにも弱気な発言。

「だって北条くんってさ、絶対告白とかしなさそうだもん!」

 それも本人を前にして言いますかー…。まあ間違ってはなさそうだけども。横川はその点凄いことを成し遂げたんだよな。

「女はね、幸せにしてもらう方が絶対いいから!」

 下村さんはそう続けた。女の人は自分からではなく、男側から告白を受け、プロポーズを受け、養ってもらいった方がいいという意味だろうか。もしそうだとしたら既に織田さんがリードしていることになる。下村さんはそこを気にしているのだろうか。俺は理想の男とは程遠い。

 しかしこの場に居ずらいというか、気まずいというか、帰りたくなってきた。織田さんはどう思っているんだろうと目線を送ると、やはり困った表情をしていた。

 目線に気づいたのだろうか、次は織田さんが反論する。

「北条くんデートのとき、先に着いて並んでてくれたし…」

 なんとも救われる言葉だった。いいところを見つけようとしてくれてる感じがむず痒くもあるが、味方サイドであることがハッキリ伝わった。

「デートプラン全部ハルナが考えたっていうのがねー。信じらんないんだけど」

 追い打ちの下村さん。しかしすべて事実だ。この事実が咎められる事柄ならば俺の敗北となる。

「次のデートとか決まってるの?」と下村さん。

「最近はまた塾と部活とバイトで忙しいから、次やるとしたらテスト期間の土日かなー」と織田さん。

「ハルナのマジで大丈夫?休みの日ないいじゃん」と心配そうな下村さん。

「大丈夫大丈夫!バイト週一にしようかなーって思ってるから」

 織田さんは本当にスケジュール詰め込み過ぎだと思う。部活帰りに塾。休日二日ともバイトじゃ体が耐えられないぞ。その上友好関係を疎かにしないところが、見上げたものだ。


「織田さんってそんなハードなんだ」

 別角度から切り込んだのは八木。ありがたいことだ。これで俺が攻められる流れは変わった。

「ハードっていうかあんまり暇したくないんだよね」と笑う織田さん。

「クズ部の奴等なんか休日の過ごし方やべぇよ?なあ中村」

「休日なにしてっかなぁ…。アニメ見てるか漫画読んでるか」と中村。

「大西は?」

「ゲーム」

「な?」

 と変顔しながら八木が言うと笑いが起きる。

「俺はバイト始めたから!俺はバイト始めたから!」と横川。

 各々言いたいことはあると思うが、人間としての格差を感じてしまうな。俺の休日は録画してるテレビ番組消化してるだけだし。

「そっちのみんなは?休日何してるの?」

 八木が女子たちに問う。妙に場回しが上手い。

「あたしは土日どっちかは絶対誰かと出かける。何も買うものなくても化粧品とか見に行っちゃう」と長浜さん。

 八木が次の人を指をさす。

「私?私もだらだらしちゃうかなー。お母さんが出かけるって言うか、お姉ちゃんが出かけるのに付いてくのがほとんど」

 さっきから全く発言してない海老原カナさんが準備してなかった感で慌てて答える。八木なりの気遣いだろうか。

「真田さんは?」

 八木が聞く。

 ゴクリ…。

「たまに料理するくらい、かな」

 絶対に本心じゃないことを言ったと思う。目線が下めだったし。プライベートは詮索されたくないってことだろうけども。

「何作ったりするの?」

 なんだよ八木も真田さんが気になってるのか?こっからは掘り下げても面白いの出てこないぞ、多分。

「別に、唐揚げとか」

「アカリあれがあるじゃん!一番の趣味」

 切り込んできたのは下村さん。

「休日にしていることには当てはまらないと思っただけ」

 なんだろう。

「アカリは小説書いてるんだよ?すごくない?」


「小説…」

 思わず声が漏れてしまった。すごく納得いった。真田アカリは小説を書いている。どんな小説なんだろう。いつ書いているんだろう。気になったが、俺が真田さんに興味津々なことは隠さなくてはならない。

「へー小説書くんだ―すごいなー」と八木。

 そんなリアクションでいいのか!?小説書くってそんな簡単な話じゃないと思うぞ。


「え、みんな読んだことあるの?」

 中村が言った。ナイス中村。なんなら読ませてもらえる流れに持っていきたい。


 しかし誰も首を縦に振らなかった

「読んだことは…ないかな。入っちゃいけない領域かなと思って」と下村さん。

 そうなんだろうか。趣味で小説書いてる人の友達が読んじゃいけないってことあるのかな。だとしたらその小説は何のために書かれているんだろうか。


「それって俺らも読めるの?」と中村。

「私から押し付ける気はないけど、興味があったら掲載されてるWEBページを教えることはできるわね」


 俺は薄々感づいていた。

 みんな他人に興味がないことを。

 小説を読むという大きな労力を割くほどまでは仲良くないんだと。

 確かに、一時間か二時間かわからいけど、文字を読み進めるのは大変なことかもしれない。プロが書いたわけでもない稚拙な文かもしれない。自分の興味のない題材かもしれない。その壁を乗り越えて労力を割くことができたら…。

 ダメだ気になってしまう。真田さんの連絡先を手に入れてこっそり教えてもらうのは浮気になってしまうのだろうか。悩んでる時点で気持ちは浮ついているんだろうな。


 そのあとのファミレスでの会話は一切身が入らなかった。内容もあまり覚えていない。



次の日もクズ部・長浜グループ合同イベントが成された。テスト期間ということもあり、織田さんもバイトを入れていなかったようだ。そこら辺は八木が上手いこと調節したんだろうな。

まあでも、テスト期間に遊びに出かけるなんて、誰かは親に嘘をついてここにたどり着いているのかもしれない。

「みんな帰ったらちゃんと勉強するんだぞー」

 そう言って八木は笑う。少なくとも八木は勉強なんかしないだろう。しかしこうでもしないとみんなが集まれなかったのも事実だろうな。

 昨日と同じメンツが全員集合してる。あぁ…パパっちゃん…。

「チームどうしようか、適当に決めていい?」八木がそう言った。

「ああまあいいんじゃね」と横川。

「お前と下村さんは同じチームでいいよ」

「別にどっちでもいいけどな」

「俺と中村と…真田さんと大西と織田さんと…で五人か」

 八木チームが八木、中村、大西、織田さん、真田さんとなった。横川チームが横川、下村さん、長浜さん、海老原さん、俺。チーム戦力を平等にした感じだろうか。長浜さんは女子の中では断トツ運動できるし、横川も動ける。こっちの方が有利そうに見えるが、足手まといは俺か。


 八木がボールとか点数表とかをどこからともなく運んできた。こういうところが流石だよな。段取りがきちんとしてる。

 試合はバカスカ点数が入るので普通に十対十とかになってしまう。こういう野良試合はキーパーが一番難しいのかもしれない。そもそもキーパーとか言っておいて前線出ちゃうし。まああそんなことどうでもいいんだろうな。テキトーに楽しむことが大事だ。横川がゴールキックで思いっきり蹴り上げて場外にボールが飛んでったり、大西がヘディングしたらオウンゴールになっちゃったりでわちゃわちゃしていた。

 織田さんがボールをドリブルしてるとき、立ちはだかる横川に対し八木が。

「お前、姫がボールをお運びだぞ!譲れっ!」

 と急にラグビーの体当たりみたいなことをして横川を止めた。

織田さんがゴール前で止まってからシュートをする(実質PKみたいなもの)。そして俺はキーパーとしてボールをはじいた。

「もう一回!もう一回!」

 と八木が言う。

ボールを真ん中に置いて織田さんがシュートを決める。

 『イェーイ!』と喜んでハイタッチをする八木と織田さん。織田さんのあんな満面の笑みは見てなかったな。

 

 八木が『十分休憩しよう』と息を切らして言った。十分がちょうどいい休憩時間だという感覚がわかっているのだろう。運動部でもない俺たちに、適切な休憩時間が判断できてしまうものだろうか。俺はベンチに向かう。よくよく考えればベンチは人数分あるわけじゃないから女子に譲ったりするのが正解だったかもしれない。そういうところを見られているような気がした。普段だったら絶対意識しないのに、このグループでの立ち回りは正解とか不正解が存在しているように思えた。情けない。

 ベンチに腰掛けたとき、同タイミングで真田さんが隣に座った。

 真田アカリ…。

 動きやすい私服を選んできたんだろうな。じゃないや。なにか会話しなきゃ。

「今日の俺は見せ場がないや」

 よりにもよって自分のことから話し始めてしまった。しかも空気を重たくしそうなやつ。

「遊びに見せ場とか考えるんだ」

 二言目にはもう哲学だよ。やはり俺の見込んだ哲学モンスター。

「遊びにも出来、不出来があると思ってる。みんなと盛り上がれたかーとか、成長することがあったか―とかさ、誰かを笑わせたとか」

「芸人にでもなるつもり?」

と真田さんは笑った。今日は一人笑わせたな。そして俺も少し元気が出た。

「…ディスカッション以来だな。まともに話すの」

「昨日も会ったでしょうに」

「昨日はほとんど話さなかったから」

「ご飯のときは借りてきた猫みたいだったわね。多分あなたは話すのが好きな人だとは思うから、ちょっと意外だった」

「俺が毎日討論してるイメージになってるじゃん。哲学は、関係ない人にぶつけちゃいけないんだぜ」

「私は関係ある人だったと…」

「……まぁ。話せる人だとは思った。上履きがほら、素敵なデザインしてるし」

「あーそうね」

 上履きについては深く探っちゃいけないのだろうか。ここで答えを聞いてもいいが、休憩時間はあと何分だ…?途中で打ち切られたら、後々居ても立ってもいられなくなっちまうしなー。

「あなたは」

真田さんが口を開く。

「素敵な履歴書を書いてたわね」


 心臓を射抜かれた気分だった。

 廊下の同じ場所に立って、俺と真田さんはお互いの履歴書を見上げていたんだ。ディスカッションよりも前に。

あの履歴書のどこが素敵なんだろう?哲学についてこうやって考えている、そういう内容だったと思う。たったの五十二点の履歴書が真田アカリには引っかかっていた。その事実だけで救われる。

「俺が上履きを素敵だと言ったのはごめん、半分ふざけてた。でも履歴書が素敵っていうのは本気の意味なの?もしかして」

 冷静になると恥ずかしいこと聞いてしまっていた。

「茶化す意味も含まれているわ。この人、生きにくそうだな―とか。誰からも評価されないで一生終わっていってしまうのかなとか」

 真田さんは寂しげな眼をしていた。真田さんは何を見て言っているんだろう。

「酷いな。俺もいつかは誰かに認められるかもしれないし――」

「そうね。そうね。だから茶化しただけよ」

 そんな風には微塵も思えない。

 そして真田さんは前を向き直す。

「価値観が違い過ぎるのよ」

 そう言い放った。


一体全体どういう意味なんだ?

俺の価値観がマイナー過ぎて評価されないってことだろう。でもそれで、あんな寂しい表情をするのだろうか。そしてそれが俺の履歴書を素敵だと言った理由になるのだろうか。


八木が近づいて俺に言う。

「そろそろやろうぜ、試合」

「ああ」

 真田さんもそれを聞いてすくっと立ち上がった。

 また試合に戻ってしまうのか。


 男女合同フットサルは無難に幕を閉じたように思えた。俺も帰ったら勉強しようという気持ちが強くなっていったので、メリハリという単語の意味を理解しそうになった。

 汗をかいて、疲れに打ちひしがれながら冬になろうとしてる冷たい風を感じることが心地よかった。



そしてテストも全科目が終了した。テスト期間中は早く家に帰れるのがちょっと有り難かったのだが、それも終わってしまった。クズ部のみんながテストの出来についてどうこう会話することはないが、意外にも『織田さんはあの問題うまく解けたんだろうか』という思考が浮かんだ。医大目指すとなると俺よりも頭はいいだろうし、俺が心配するのは変なことか。しかし数回の交流を経て、少なくとも友達という認識にはなったということだ。

なんだか晴れやかな気持ちになって、帰宅したのも十二時半、それからご飯を食べて、久しぶりに昼寝をした。起きたのは十六時だった。テストのあとに勉強しようという気持ちがおきなくってふと散歩に出た。そこから帰ってきたのが十八時。

織田さんからWboardにメッセージが来ていた。


「大事な話があるんだけど」



 放課後の校内庭園。中村が真田さんに告白した場所、時間も同じくらいだったか。夕陽がまぶしい。

 織田さんと一緒にベンチまで歩く。

「ここ座ろっか」

 こんなときでさえリードしようとする織田さん。俺もベンチに腰掛ける。

「大事な話って言ってたね」

「うん。大事な話」

 言いづらそうな織田さんを見て大体は把握した。しかし詳細は分からない。

「私が告白みたいなのしたのってテスト前だったよね」

 告白みたいなのって言い方。

「みんながバスケしたあとぐらいだったか」

「そうだった、そうだった。あのとき大西くんに頼んで北条くんの連絡先教えてもらったの。北条くんと友達になりたかったから」

「ああ。そういう風に聞いてた」

「で、今二週間くらいたつのかな?色々さ。遊んでみたりして」

 別にこの先の言葉を相手に言わせなくてもわかってる。俺から切り出してあげた方が優しいのかな…。

「お互いのことがわかってきたね」

 これが俺の出したパスだ。

「そう!お互いの相性とかもね」

 織田さんは俺のパスを受け取ったように思えた。後は簡単なことだ。

「やっぱり、ね?ちょっと違うところあるじゃん?私たち」

「確かに。俺はのんびりしてるけど織田さんはきびきびしてる」

 と笑って見せた。なんにしても笑顔は大事だ。

「そうなのかも。それと私、ちょうど他に好きな人できちゃったりしたタイミングで」

 織田さんはまだ笑っていない。

「そうなのか。それもまたいいことじゃないか」

「驚かないの?」

「相手は八木?」

「うん」

「見てたらわかるよ」

「ごめんね」

「いや、謝るのはよくない。何も悪いことしてないんだからさ!」

 もう少し強めに笑って見せた。

「うん、ありがとう」

「俺も八木を見習うところは多い。もっと勉強ですな!」

「八木くんが話し終わったら北条くんと電話したいって」

「オッケー。あとで電話するわ」

「うん。じゃあ、それだけ。またね」

 と立ち上がる織田さん。小さく手を振ってくれる。俺は顔を見上げながら笑顔で返した。

「勉強とか頑張ってね」

 こんなのが最後の言葉だ。



織田さんが遠くへ行くのを見届ける。それからスマホを取り出す。八木に電話だ。

結構長い間コールが鳴った。織田さんが八木に連絡するまで待った方が良心的だったか。

八木が電話に出た。

「おう」

 という八木の声と窓を開けるガラガラという音がした。多分ベランダに出たんだろう。

「おう」と返す。

「ハルナちゃんから聞いたか」

「ああ。さっきな」

「まだ付き合ってなかったからいいよな?」

「もちろん。しかしなかなかやるな」

「どうだか」

 八木は返答に困ってそう言った。

「悪い意味じゃねぇよ。多分八木のちゃんとしてるところと、引っ張ってくれるところが評価されたんだと思う」

 評価。俺が手に入れられないもの。

「だからさ、俺が思うに、女の子ってリードされたいんじゃないのかな。織田さんは何でもできちゃう人だけど、引っ張ってもらえて八木に惚れたのかもしれん」

「どうだか」

「まあ戯言だよ。それより、もう正式に付き合ってるの?」

「お前との電話が終わったら付き合おうって言ってる」

「じゃあ永遠に電話切らなかったら付き合えないな!」

「電話代いくらになると思ってんだ!」

「へっ。冗談だよ」

 こんな風に笑いあえたからよかった。恋愛が絡んでも仲悪くならない。そういう事例がこの世界に一つでも存在するということ。


 人には相性があるのかもしれない。

 八木なら織田さんを幸せにできると思う。

 そして八木も一層ちゃんとするだろうし、もしかしたら勉強頑張るとか言い出すかもしれない。横川も下村さんと付き合って変化したし。

 相性とは共通点が多いことなのか、それとも補完し合える凹凸の組合せなのだろうか?

 俺が思うに、八木と織田さんが目指していた『ちゃんとする』という共通点、これは周波数の一致だと思う。勉強ができるかできないかみたいな要素は外側のものだ。この部分は一致していなくても相性には影響がない。


 人間の本質的な種類の違いを俺は周波数と呼ぶことにしよう。

 自分は何を目指して生きていくか。それこそが人間の周波数を決める。

 社会的により上の立場を目指す、より多くの娯楽を体験することを目指す、人とのコミュニケーションを突き詰める、誰もやったことのない偉業を成し遂げる、平穏に穏やかに生きていくことを目指す、誰かの遺志を受け継いで生きる、自分の遺伝子の繁栄を目指す。ざっとこんなところだろうか。

 しかし俺もそうだが、一つの目標に猛進しているとは考えに難い。日によってブレるし、曖昧なまま複数所持しているのが基本。だとおしたら目標をいくつ設定しているか、その組み合わせは何か、ということも周波数を決定づけるものになるだろう。

 

そして、周波数の合う人同士が親友になり、夫婦になるのかもしれない。

 これでまた一つ哲学が進んだ。



ベンチに座ったまま俺は考えを巡らせていた。

正面から声がする。

「北条くん」

 声を聞いて顔を上げた、真田アカリがそこにいた。

「あなたがフラれるところを盗み聞きしてたの」

「……」俺は唖然とする。

「今の気持ちを聞かせてくれないかしら?」

「今の気持ち?」

「えぇ。あなたを取材したいの」

 真田さんは微笑む。この人の底が見えなくて恐れを感じた。



 真田アカリは取材したいと言った。

「取材って、どうやるの?」

 状況がさっぱりだ。織田さんに振られて、八木が織田さんと付き合って、それを真田さんが聞いてて、取材を申し込まれる。

 そもそも取材って言い方がなんなんだ?会話じゃなくて質問じゃなくて、まるで自分の行いに誇りを持っているような言い方。

「取材って言っても私の質問に答えてくれたらそれでいいの」

「ああ、まあじゃあ別に…」

 歯切れの悪い返事をしてしまった。

 真田さんが俺の隣に座る。

「なーに質問しようかなー」

「今考えるのかよ!」

 ついつい突っ込んでしまった。質問をあらかじめ考えてるから取材なのかと思ったから。

「私の極意は、事前に用意しないことだから」

「でもさっき今の気持ちを聞かせてって言ってたじゃん。それが質問なんじゃないの?」

「いい質問ですねぇ」

 と真田さんはウキウキで返した。

「なんで俺が質問してるんだ…」とぼそり呟く。

「答えは簡単です。その質問をしたら北条くんは嘘を言うからです」

「嘘?嘘なんかつかないよ。別に隠したりすることはないし」

「嘘をつくのではなく嘘を言ってしまう、が近いニュアンスかもしれない。大雑把な質問に対して人間は、それに近しい誰かの言葉を言ってしまうものよ。借り物の言葉を」

 およそ納得がいった。

 確かに今の心境を聞かれたら俺は『二人が幸せになってくれればいい』みたいな言葉を送っていただろう。それは俺の心境の中でも一番外側の気持ちだ。

「やっぱりあんた、賢いな」

「あら、絶対にあなたは負けてないでしょ」

 なんだその返事…。怖すぎる。なんで即答できるんだよ。俺の何を知っているんだ。

「俺は…負けたくないとは思ってる」

 ライバル視していることは認めよう。

「討論のとき、目をギラギラさせていたものね」

 真田さんから見たらそんな印象なのかよ。

「脳みそ思いっきり使って会話する機会なんてそうそうないから…」

「なるほどね。それは本心に近そう」

 なぜ会話を評価するんだ。むず痒い気持ちになる。

「じゃあ最初の質問。ハルナとのデートの時、会話の内容覚えてる?」

 すでに本質に気づいていそうな質問だな…。

「覚えてるよ。タピオカソフトの味とか、織田さんのアルバイトのこととか、織田さんの好きなアイドルグループの話とか」

「北条くんは自分の話をしたの?」

 こいつすげえな。

「してない。なんでわかるんだ?」

 感心し過ぎて思わず笑っちまったよ。

「そこまでは予想できるから。じゃあ、北条くんがなんで自分の話をしなかったのか説明できる?」

「待って、ちょっと考える」

 そこに関しては盲点だった。織田さんと俺は周波数が違う。俺はそう結論を出したけど、そこに至る何段階かを飛ばしていたのかもしれない。

 デート序盤で俺は学ぶことに徹しようと思った。それは織田さんに愛想をつかしたから?自分を出して失敗するのが怖かったから?デートに不慣れなのを隠すため?

 どれも正解な気がするが、友達である織田さんのことを悪く言うのは止めておこう。

「自分の話をしても織田さんは興味がないって予想できたから」

「はいはいはい、なるほどー。それはハルナがつまんなそうに聞いてる顔?それとも無理矢理興味を持ってるように繕う顔?」

「その二択なら興味あるように繕う顔だなー。多分、織田さんも自分の話をしたから、俺の話も聞くのがマナーだって思いそう」

「はいはいはいはい」

 この『はいはいはい』の相槌が歯切れ良すぎてついつい喋ってしまうな…。

「自分が聞いた分、相手が自分の話を聞くのが義務だとは思わないのということ?平等ではないと」

「そう言われるとわかんない。俺の哲学としては平等であるべきだと思う」

「つまりはハルナが相手だから言わなかった理由もあるってことかしら?」

「あるかもしれないが、それを言える状態じゃなかった。あの時の俺は身分が低かった」

「それが答えね」

「あっなるほど!」

 俺が自分のことを話さなかったのは身分が下だと思っていたからだ。そこにひねくれや、諦め、距離を感じる気持ちが含まれているのか。

「なにこれ誘導尋問…?」

 俺は一層怖くなったよ。

「今回はたまたま北条くんが見つけただけ。普段はこう上手くはいかない」

「これも仮の本心かもしれないしな」

「鋭いわね」

「本当の本心じゃなくていいのかよ?」

「その人の仮の本心を繋いで全体のマッピングをするのが取材よ」

「最終的にはそれが小説になると?」

「ならないことも結構あるのよ。書きたいものと一致しないとき」

「へー意外。取材慣れしてるから、取材をもとに話を書いてるのかと思った」

「いろんな人のことを知るのは、創作全般において無駄にはならないでしょうからね。数打っておいて損はない。まあ私の話はいいのよ」

 と、話を区切る。

 でもちょっとあれだな。真田さんも自分のことを話したからこれで平等な会話に近づいた気もする。

「身分が低いと思ったのは、デートプランとかリードすることが出来なかったからであってる?」

「なぜわかる…」

「ハルナはプラン立てたりするの得意だし、あなたとのデート前にいろいろ考えてるって話をしてたの」

「盤外戦術じゃん」

「別に当てたからどうこうって話じゃないでしょうに」

「当てたとき嬉しそうな顔してましたけどね」

「してないと思います」真田さんは恥ずかしそうに。

「あぁ、まあいいんですけど」


「ハルナとあなたの間に身分の差があるのはわかった。では八木くんとあなたに身分の差はあるの?自分はダメで八木くんがいいのには納得いってる?」

「すげえこと聞きますね」

「ごめんなさい。無理にとは言わないわ」

「いや別に大丈夫。八木も織田さんもリードするってことに関しては俺より上を言ってると思うよ。だから質問に返すとしたら、八木と俺には身分の差がある」

「身分が同じ人同士が恋人になるべきってこと?」

「そう」

 それが周波数理論だから。

「意外」

「意外ですか?」

「北条くんはフィーリングで恋人は決まるって言いそうだから」

「フィーリングと身分が近い意味かもしれない」

「そこら辺は答え出してるのね」

「そういうこと」

「じゃあ、区分けをされているからとびきりかわいい女の子と付き合えなくても、それでいいと?」

「可愛いとは一言も言ってないぞ」

「でも実際かわいいでしょ?」

「まあ」

 真田さんが一瞬嫌な顔をしたような。気のせいかもしれない。

「区分けが一緒ならかわいくなくても付き合うかもしれないの?」

「あーそれはね。区分けが一致してたら可愛く思えるみたいな…」

「そんなことあるのかしら?区分けって、同じ区に人がたくさんいるわけでしょう?」

「そうそう。その認識で合ってる。でも、俺の区にはほとんど誰も居ないんじゃないかって気もしてる」

「あっ、そういうことか」

 真田さんも納得している様子。


「でも、言ったら悪いけど北条くんって無趣味なわけでしょ?恋人とか欲しくならないの?」

「なんで俺が趣味が無いことまでバレてんだ?」

「ハルナがそう言ってたから」

「まあ否定はできないから仕方ない。ただ恋愛については、ステージにずっと立ててないと、やる気を失うんだよな」

 いつの間にか、ステージの上に俺は居なくて。ステージの下でカップルやら夫婦やらを見上げてきた。他人事のように。

そして今回の織田さんとの一件は『一度だけステージあがってみる?』って言われて上らせてもらったようなものだ。結果、俺には相応しくないと感じてしまった。

おまけに自分の周波数帯に誰も居ないことを知り、隔離された場所から眺める人間界は……別格だよ。俺は悪魔になった気分だ。

「それって、何のために生きてるの?」

 痛いところを突かれた。

 このままだと俺は親父の言うように後を継ぐことになる。

 何のために生きているのかを俺はすぐにでも見つけたい。

「恋愛や家庭ではないことは確かなんだ。俺は俺の哲学を何かに活かすと思ってる…」

 あまりの自信ない答えに情けなくなってくる。

「へーそうなんだ」

 真田さんは言う。何に対しての反応なんだろう。もはや俺の回答に興味が無くなったのかもしれない。

「そっちこそ、小説が趣味なんだろ?趣味があったら恋愛に執着することは無くなるのか?」

 真田さんはちょっと黙る。そして口を開く。

「恋愛できてないから小説なんか書いてるのかなーって、思うときもあるよ」

 俺は腕を組んで真田さんの方を横目に見た。

 『私は異性愛者なので』の一件で愛についてよく考えていることは知ってる。きっと恋愛とは何かを自分に問い続けているんだ。だけど本当は誰かと一緒に見つけるものだと考えている。

 しかし恋愛とはホント、相手が居て初めて成り立つものだから難しい。努力でどうこうできる範囲は限られてるし、経験を積むためにもステージに上がらなければならない。

この人も、自分で自分を幸せにできなければならない。そうでなければ人間はあまりにも脆いではないか。

「小説が売れたら、恋愛してなかった自分に感謝する日も来るだろ」

 それが俺の思いやりだった。正しい言葉だったかどうかはわからん。

「そんなんじゃ嫌」

 それは真田さんの確固たる意志だった。

「小説も恋愛も、幸せ全部を手に入れた方が最高に決まってるでしょ」

 既に答え出してるなら、敢えて俺が言うことなんてなかったな…。

「俺と真田さんでは出す答えが違と思うんだよ。それもやっぱり人生の充実度が違うからかもしれない」

「どういうこと?」

「真田さんはすべてを手に入れる兆しはあるんだろ?俺は、何もやってこなかったし、何も見えてない」

「私は、あなたと似ていると思うけどね」

「……。」

 それも真実だ。俺は真田さん以上に人生を語れる人間を知らない。

 俺に足りないのは行動と経験であって、周波数は同じだったりするのだろうか。

「早く追いつきてぇなあ」

 という独り言を呟いていた。

 この会話って、織田さんに一方的にフラれた俺の取材だったハズなんだが、気が付けば真田さんへの憧れの気持ちが募っていた。でも、同じ高校生に人生先行ってるやつがいるってのは恵まれた環境かもしれない。まずは追いつく。その後追い越す。このライバル心は俺の哲学を燃やすのに必要な燃料だ。ありがてぇ、ありがてぇ…。俺はやはりこの人に刺激を受けながら哲学を育てる道であってるんだ!


 沈黙が五秒ほど続いた後、真田さんが『取材からずいぶん離れてしまったわね』と言った。俺が『あぁ、そろそろ帰ろうか』って言って駅まで一緒に歩く。

 下校中に他の生徒を見かけない珍しい時間帯で、本屋が店を閉めるところだったり、マンションの蛍光灯が付いたり、風情を感じる瞬間だった。


「小説って読ませてくれないの?」

「あーそれね」と真田さんは返答に困っているように見えた。

「小説は誰かに読んでもらいたいってわけでもないのか?」

「両方よ。一生私だけの宝物って気持ちもあるし、私の自慢の子を見てっていう親バカみたいな気持ちもあるの」

 俺が履歴書を書いたとき、その両方の気持ちも持ってなかった。自分の宝って言うほどの強い思いはもちろん、人に見せられる自信も。

 この人は小説に本気なんだ。

 十七年の人生で何を見てきたんだ?


 赤信号を前に歩みを止める。

「きっと私は一生、そんな気持ちと戦ってるんだと思う」

「読んで欲しくない方の理由は汚したくないから?」

「それもあるわね。でも一番の理由は私自身が承認欲求のために小説を書いてるって思いたくないから」

「なるほどなぁ…!‥‥すごい難しいやつじゃんそれ!」

 哲学の範囲だとは思うが、すぐには答えが出なかった。

「そうなの。常に認められたいって欲望と同居してるのよ、私」

「でもそこまで自分のことわかってるのってもう、既にすごいじゃん」

「あなたもね」

 真田さんが持ち上げてくれたとしても、俺はまだ辿り着いてないと思う。

 そして俺は承認欲求から解放されるための哲学を考えた。

「うーん」

信号が青になり、歩みを進める。

 もしもあのまま信号で止まっていたら駅まで辿り着かない。止まっていたら食べることも学ぶこともできない。人生は進まなければいけないと思う。

「承認欲求についてはさ、そんなに簡単に答え出ないと思うけど、誰かに小説を読ませてみてそっから経験して成長して…その先に見つかるかもしれないじゃん」

 哲学はぶつけて成長させるつもりでいる。これは真田さんにとっては違う解法かもしれないが、俺なりの答えは伝えてみてもいいと思った。

「まあ北条くんは私と同じくらいのサイズだし、ぶつかってみてもちょうどいいかもね」

と声色が少し明るくなった真田さん。

 サイズというのが体の大きさでないことはわかってる。俺にはもったいない言葉だ。


「でも恥ずかしいから…帰ってから読んでね。URL後で送るから」


 こうして真田アカリの連絡先を手に入れた。


 帰宅して十九時。真田さんからのメッセージが届いていた。読む前に夕食を食べていたわけだが、俺は姉と母の会話に一言も参加していなかった。小説が気になりすぎて。

 ご飯食べ終わってスマホを開こうとしたが、俺はより万全の状態にしておきたくて風呂に入った。そのあとようやくベッドの上に寝そべる。

 いざ、尋常に。とりあえず真田さんになんか打っといた方がいいか。

「読みます」

「どうぞ」と返ってきた。



 タイトルは『王家の三男』。歴史ものだろうか?

 第一章の更新日が二年前の十二月。中学三年生のときから書き始めているってことか。そしてその頃真田さんは人を見下していたと自負している。

 章は現在までに七章まで書かれている。だいたい三か月に一回更新ペースで、この時受験だよなーとか、ここは夏休みだからなーっていうのが見て取れる。


『王家には三人の息子と一人の娘がいた。王子らは王家に伝わる魔法を磨くために旅に出る決まりとなっていた。』というのが書きだし。いわゆる魔法のファンタジーというのが意外過ぎた。真田さんは非現実を信用しないタイプだと思っていた。

 タイトルの通り主人公は王子の中の三番目。最も期待されていない魔法使いだった。


真田さんは主人公を男にした。例えば俺が小説を書くのに主人公を女の子にするのは難しいと思う。実在のモデルが居るのだろうか?



物語の一章は世界設定の説明がほとんどだった。

魔法を扱えるのはユーリアン王家と、オスト王家と、アイリカ王家の一族のみ。三つの王族は魔法を代々受け継ぐとともに、王家意外に魔法の秘密が渡らないように厳重に管理していた。

 主人公はユーリアン王国の出生。そしてユーリアン王国は火、雷、水、この三つの『大地の魔法』を管理している。

オスト王国は孤立した島なので、文化の発展、情報の発展が遅い国だった。その代わり神に対する信仰が深く、光、癒し、恵み、この三つの『聖なる魔法』を管理している。

アイリカ王国は魔物の住む国で、呪い、毒、血、この三つの『悪魔の魔法』を管理している。

 主人公のリュカは三種の魔法から、最も戦闘に向いていない水の魔法を受け継いだ。最初は川の流れを早くしたり遅くしたりする程度の魔法だったが、やがて何もないところから水を生み出すことが出来た。

 しかし、兄たちは火で木を燃やし、雷を落とすことができるので、リュカをバカにした。

 リュカは秘密裏に修行をし、水を凍らせて刃を創ることに成功した。


 途中王子が『魅せてやろう!氷刃の雨(アイスブリザート・スコール)!』というセリフを言いながら氷の魔法で敵を攻撃するシーンがあるのだが、まあ顔が真っ赤になる…。本当に真田さんが書いたのか。


 二章ではリュカが修行の旅に出ること、仲のいい妹を連れていくことがおおよそのあらすじ。この修行というのは、各地の神様に祈りをささげることらしい。

途中、食料が尽きて飢えそうになっても、水だけは生成できるというシーンがあった。

 道すがら町に着くと王家であるリュカは神のように扱われたりもした。

 そして最後リュカは神が祭られているところで祈る。


 三章と四章でオスト王国へ向かうことになる。船の旅は困難を極めた。水の魔法使いならではの突破方法でなんとか辿り着く。そしてオスト王国の王子と会い、魔法に着いて語り合う。

 オスト王国の王子はリュカに光の魔法を教えるから、代わりに水の魔法を教えてほしいと提案した。リュカはそれを受け入れる。癒しの魔法で人々を救いたいという気持ちがあるからだ。


 五章は闇の魔法を管理しているアイリカ王国への旅。王国のに近づくと飢えた民たちに出会うことになる。飢えだけではなく、町では盗みや殺人も起きているらしい。更には、魔物だと思っていたアイリア王国の生き物が元々人間であったという事実を知る。リュカは酷く悲しんだ。魔法で救える者を救ったが、根本的な解決にはならない。思考の末リュカは、すべての人間が魔法使いになることが世界の為になると考えた。正しい知識と豊かな環境で人は救われると思ったらしい。


 五章の中でリュカが妹に言うセリフで『国に戻ったら結婚しよう。お前との子供が欲しい。』というのがあった。

 こ、こ、こ、これは真田さんの何かしらの欲求が形になっているセリフな気がする…。考え過ぎだろうか。これも男側が書くのとは違った意味になると思う。


 さて六章は、旅を終えたリュカがユーリアン王国に戻ってくる話。王国は変わり果てた様子で、国王である父が殺されていた。長男が手に掛けたのだ。そして修行の最終目的を知ることとなる。

 魔法の力を極め、兄弟同士で殺し合い、三種の魔法を全て掌握したものが次の国王になると。

 長男は父を殺した後行方を眩ませていた。次男はリュカに一騎打ちを申し込む。

 結果リュカが勝った。しかし殺すことはせず、みんなで国を支えたいとリュカは言った。しかし翌日に長男によって次男は暗殺される。


 七章でリュカと長男の対決。リュカは王家に仕えている兵たちに魔法を教えた。一人では長男に勝てないが、みんなで国の危機を救うという考え方だ。

 しかし、長男は悪魔の力をも会得し、リュカたちは全く歯が立たなかった。

 そしてリュカは魔法を外に教えたことを咎められ磔の刑にされる。

 リュカは兄に『死ぬ前に妹との結婚式を行いたい』と伝える。それが受け入れられた。


 ということで恐らく八章があるとすれば妹との結婚式があるのだろう。



 さて、一先ず読み終わるまでに一週間。そしてもう一巡読み返してプラス三日。

感想…。感想…。

 やはり最初の方の文は幾分か読みにくかったかな。それが段々プロに近い文体になっていった気がする。

 あとは、面白くなってきたのは船を渡ってオスト王国に着いたあたりからかな。それまでは出来事も淡白な感じで…。


 いかんな…。

 こんな上から目線な感想は…。


 いい点と悪い点を箇条書きにして伝えるか?

いい点

 ・主人公のキャラがいい

 ・長編をうまく構成している

 ・魔法はすべての人が使えるべきという哲学が面白い

 ・呪いの魔法で人が魔物になってしまったところが感慨深い

 ・後半は展開が目まぐるしくて面白い


悪い点

 ・前半のスロースタート感

 ・キャラの顔とか格好が想像し難い

 ・壮大な世界観なのに出来事の規模が小さい

 ・複雑な名前ばかりで読みにくい


いいか悪いかわからない点

 ・妹と結婚したいという思い

 ・カッコいいカタカナの技名

 ・主人公が弱い


 とりあえずこんなところか。

 一応参考までに映画のレビューサイトとかで、感想ってどうやってみんな書いてるのか見てみよう。サイトにアクセスして適当な映画の感想を見る。


二十代 男性

『原作未読です。好きな女優が出ているので見ましたが、内容もよかったです。』


四十代 女性

『映画館でみんな泣いてたけど個人的にはハ?って感じです。予算が無かったんだと思います。』


三十代 男性

『冒頭に女の子の泣き顔から始まるのは素晴らしいと思いました。どうしたんだろう?という疑問があるだけでグッと心掴まされます。ただし主人公が探偵になるきっかけの部分がやや薄弱ですので、もっとゆっくりじっくり描いてもよいのかと思います。もしくはきっかけとなった母親探しを最後にオチつけるか。アクションシーンに力を入れていると監督が言っている通り、主人公が複雑な地形を飛んで駆け回る姿が爽快でした。そして音楽は有名な………』


 なるほどなるほど。

 同じ映画でもみんな違う感想を抱くものだな。

 それと、どんな感想を話すかによってその人の知識量や感性がわかってしまう部分もある。迂闊に軽い感想は言えない。最後の人みたいに長い感想は熱量を感じる…気がする。

 

 もう一つ考えなければいけないのが、感想を言われてどう感じるか。

 感想って貰ったら絶対嬉しいものだと思ってた。勘違いしていた。世の中には棘のような感想が存在する。そして俺の言おうと思った感想はどうだろうか?

 いい点と悪い点を言ってそのあと、俺と真田さんが仲良くなっている絵は浮かばない。

 俺が感想を言い、真田さんの成長するならそれでもいいと考えるか。


 答えが出ないままに翌朝を迎えた。



 昼休みに廊下の向こうから真田さんが歩いてきた。ちょっと距離のある位置から『あのさ!』と声を掛けてしまう。そういえばもう、貼り出されてた履歴書は回収されてしまったんだな。

「あの、感想…言いたいんだけど」

 真田さんはちょっと困ったような顔をした。

「なんだか気を使わせてしまってるみたいね」

「一応感想言えるように二周読んだから」

「一週間に二回も読んでくれたの?それは、とても嬉しいです」

 逆に感想を言われてしまった。しかしそのあと『でも…』と続ける真田さん。

「感想を言うのは読んだ人の義務ではないわ」

 これはやんわり断られているんだろうか…。それ以上何も言えず『そうか』ってたじろいでしまった。

「とにかくありがとうね」

 真田さんが最後にそう言ってくれなかったら俺はショックを引きずっていたに違いない。

 しかし感想を言わせてもらえないとは思わなかったな…。どうしたものか。



 感想言うことを義務だと思っている…。

 真田さんは俺にそう言った。つまりは自然体ではないと。

 確かに俺は単純に真田さんの小説を読みたかった。感想を言いたくて読んだわけじゃない。

 そうだなぁ……。

 俺が感想を言いたかったのは味気ないからなんだと思う。

 小説読んだよ、そうなんだ、で終わってしまったら寂しい。

 そうかそうか、分かってきた。つまり俺の本願はもっと親交を深めることだ。


 そうとわかって、さてどうする。このままだと会話がもう終わっちゃってるわけだし。

 『真田さーん!仲良くなりたいんだけど!』って言って近づくのは論外。

 今思えば、取材だって話しかけてくれた時間というのは貴重だったんだなぁ…。



 今日の授業が終わり、クズ部のみんなと雑談をした。

 別にそこまで気にしてないけど、八木とも普通に話せてる。流石に八木も彼女のことを口にすることは少ないけれど、仲良くやってそうでよかった。

 クズ部の中で変化があるとすれば、横川が下村さんの部活終わりを待って一緒に帰ることだ。それは大体十九時前。

 だから必然的にクズ部のこのなんとも言えない集まり時間は十九時まで延びることとなった。

 当然八木もついでに織田さんを迎えに行く。

 そうやって少しずつ変わってきている。


 クズ部が解散した後、テニスコートの近くを通ったら、ベンチで本を読んでいる真田さんを見つけた。見つけてしまった…。

 真田さんはテニスコートと部活等が見える少し高い丘のベンチで座っていた。ドラマの撮影でもしてるのかっていうくらい雲と町とマッチした佇まいだった。

 今日廊下で話しかけたのも合わせて、強引に会話しようとするのって一日に二回だと多いな…。

 ちょっと頭を悩ませる。

 頭の中になんとなく『圧縮された時間』という言葉が浮かんだ。恐らく意味としては、この出来事を先延ばしにしても経験が水増しして薄くなっていくだけだと。

俺が生きなければいけないのは圧縮された人生なんじゃないだろうか。

 早く経験して、たくさん経験して、もっと前に進みたい。

「いょーし」

 とにやける。気合を入れた。

 テクテク階段を上って近づくと、真田さんは俺に気が付いた様子だった。気が付いたけど、本に集中するふりをしたように受け取れた。

 この状態の人に話しかけるのなんか、ナンパしてるみたいで緊張するな。


「ここだと本に集中できたりするんすか?」

 俺は照れ顔で言ってたと思う。

「そんなわけないでしょ。こんな人通りもあって色んな声が聞こえる場所で」

「そうっすか…」

 この敬語とも言えない言葉遣いで気まずさを感じさせてしまった。

「座ったら?」

 と、ベンチを半分開けてくれた真田さん。俺は色んな意味で救われてしまった。


「さっきはさ、核心突いたこと言ってたな。感想言うのが義務だと思ってるって」

「私が死ぬほど悩んでることだからね」

「あぁ、なるほどねって思ったわ。死ぬほど悩んでるっていうのも嘘じゃないと思う。そんな創った人にしかわからない苦悩があって、その領域で戦ってる」

「巻き込んでしまってごめんなさいね。戦に。でもこれで、なんで私が小説を読ませたがらないのかわかったでしょう?」

「理由は二つ分かった。ひとつは相手に気を使わせること、もう一つは自分が自分のために小説を書いてるって思いたいからだったよな」

「そういうこと」

「例えば俺が作り手だったらどう?俺も小説書く人間だったら感想をもらって成長につなげたいとかって思う?」

「思わないかなー。私はあなたのように、ぶつけて磨いて成長するってタイプじゃないのよ。成長するなら自分のタイミングで、自然な形で、内側から成長するのが望ましいと思ってる」

 これもまた、何順も考えた末の結論なんだろうな。

「俺と真田さんは同じくらいのサイズだからぶつかってみてもいいって言ったじゃん?あれの結果は何か得られたの?」

「まだすべての結果は出てないかな。わかったのは北条くんと私は本当に同じサイズなんだってことぐらい」

「それって絶対嘘だと思うわ。真田さんの方がずっと先に言ってると思う」

「そうかしら?同じようなことを気に掛けるセンサーがあって、同じくらいの許容量で、同じような方向性を目指している…。まぁこれは私の思い込みが大きいんだけどね」

少し笑う真田さん。

 この人は感覚的に周波数理論がわかってると思う。

「思い込みになるのはわかる。別に誰も真実だけで話してるわけじゃないし」

「自分が話すことも真実かわからないしねー。もう少し心と頭が同期してくれたらって思う」

「俺はそこまで行ってないわ。まず頭の中だけの問題で、気遣いとか誤魔化しとか嫉妬、を、取り除いた言葉を言えるようにってところ」

「多分結論は同じところに行くわよ?」

 と少しだけ俺の方を向いて笑った。


 一息つく。テニスコート眺めながら。

 一年生は玉拾って籠に入れる。

 吹奏楽部は同じところ何度も練習している。


「部活ってなんであんなに頑張れるんだろうな…」

「それについては私も思うところがあるわね。一応成長を実感することが理由としてあげられるけども、身を粉にして頑張れる理由かはわからない」

 真田さんはちゃんと答えてくれた。

「でもさ、俺らの方が少数派なんだぜ?」

「私はついこの前までバレー部だったけどね」

「え!そうなの!?」

「バレー部に入ってたのは、世間体とかそんな感じよ?」

「…でも辞めたのか」

「辞めたね」

「なぜ?」

「自分の人生を色々考えてたの」

「色々っすか…」

 言いたくないこともあるんだろう。

「仲のいい子がいてね、その子に一度だけ小説を読んでもらったことがあるの」

「誰?」

「チカって、確か七組だったかな」

「上の名前は?」

「守屋」

「守屋チカ…」

 俺は多分話したことない人だ。でもそこに真田アカリを紐解く手がかりがあると思った。

 真田さんは校舎の時計を十秒ぐらい見ながら『そろそろ帰るわね』って言って立ち上がる。

 ちょっと急ぎ気味で、前みたいに駅まで一緒に変えるって雰囲気でもなくなんとなく気を使って俺はゆっくり歩いて帰った。



 翌日の昼休み。二年七組の教室。

 『守屋さんって今いる?』と入り口近くの女の子に聞いて、『あそこの席だよ』って教えてもらった。

 守屋さんはおしとやかな印象を受ける人だった。昼休みだから昼ご飯を友達と食べるべく、机をくっつけているところ。


「はいはいはい、私が守屋です」

「あ、どうも。昼休み中にごめんなさい。北条と申します」

 守屋さんは嫌がらずに明るく話してくれた。

「なんの用事でござんしょか」

 という独特な話し方は、場を和ませる効果を感じる。

「実は、ちょっと知りたいことがありまして、真田アカリさんのことなんだけど」

「アカリのこと…?」

 不可解そうな表情をした守屋さん。そりゃそうだろう、なんで本人に直接聞かないんだって話だし。

「真田さんがバレー部を辞めた理由」

「あー…ね…。うーん」

 と腕を組んで考え出す守屋さん。

「なんでそんなこと知りたいの?好きなの?」

「いやいやいや!これは、自由研究みたいなものです…」

 この人の本質を突く感じは、真田さんと仲良かったっていうことの証明でもある。

「恋愛なら応援するよー!」

 と笑う。しかし表情は困り顔に。

「でもね、わからないんだ―。アカリが何で辞めたのか。辞めてからぱったり話さなくなっちゃったし」

「部活の人達と仲良くなかった?とか」

「仲良くなくも悪くなくもないって感じだったかな。でもアカリは仲良く振る舞ってくれてたのかもしれないって今なら思うよ」

「ホント言うと守屋さんと喧嘩したんじゃないかって思ってました」

「あの子大人だから喧嘩なんてしないよ」

「小説を読んだっていうのは本当ですか?」

「うん。あなたも?」

 この瞬間に守屋さんと俺が共通の世界を見ていると実感した。

「小説読ませてって私が言ってね、そのあと感想を伝えたの。アカリは貴重な読者からの意見ありがとうって言ってたけど、表ではね?」

 と言って一瞬唇を震わせる。

「でもあのあと、アカリが泣いてるところ見ちゃったんだ。ぐしゅぐしゅって鼻をすする音が聞こえて、どこからって思ったら校庭の隅っこでアカリ泣いてたの」

「感想をもらって泣いた、んですか…」

「そう…。あんなに熱意持って打ち込んでる人いないと思うよ?だからアカリが辞めた理由は小説に専念したかったからだと思う」

 この条件なら確かにその線が濃厚だ。

 俺は守屋さんに最後『時間とって教えてくれてありがとう』と伝えた。

 守屋さんも考えるタイプの人なんだろうな。

 今日俺が出会うまでに、ちゃんと考えてちゃんと結論を出していた。



 その日の放課後も真田さんがベンチにいた。

 しかし、なにやら部活動やってる男と話をしている様子。真田さんは本を開いたまんま膝の上に置いているからそんなに長く話すつもりはないんだろう。

 男がコートに戻るまでの二分間は柱の陰に隠れていた。これでようやく話しかけに行ける。

 昨日と違って真田さんから声を掛けてくれた。

「あら、今日も来たのね」

「さっき、サッカー部の人に声かけられてたじゃん」

 俺は顔を合わせずに言った。

「あー、なんか彼氏いるの?ってね。聞かれたりしたわ」

「なんて答えたの?」

「居ないから居ないって普通に言ったけど」

「そしたら告白とかされちゃうんじゃないのかね」

 俺は何の心配をしているのか。

「そういうのって返答に困るわね。そうかもって言えば自惚れで、そんなことないよって言ったら嫌味になりそう」

「別に、自分が本当に思ったことを言えばいいよ」

「今のが本当に思ったことよ」

「なるほどね」

「こんなところで毎日座ってれば、誰かしらに声かけられるのもおかしくないけど」

「なんで毎日ここにいるの」

「さあ。推理してみたら?」

 真田さんが俺の方を向く。悪戯な微笑み。

「外で読みたい本がある……のは違うだろうな。別に没入してる感じでもなかったし。あるとすれば、みんなの部活動が終わるまで待ってる」

 真田さんが目を少し見開いた。これは正解かもしれん。

「つまり答えは、バレー部の部活終わりに話しかけたい人がいるんじゃないのか?」

 真田さんは一瞬目を細めた。

「ハズレ。正解は部活辞めたことまだ親に言ってないからでした」

「普通にしんどいやつじゃんそれ!」

 と、ついついツッコんでしまった。

 親に何かを隠してるって苦しいんだよなぁ。

「チカに会ってきたの?」

「な、な、なぜそう思う…!」

 逆に推理されてるじゃん。

「だってそんな言い方するんだもの」

 つくづく女の人の直感には驚かされる。

「……話してきたよ。なんというか、すごくいい子だった」

「ほんとうにその通りよね」

 真田さんは俯いて苦笑い。

 俺はもう一歩真田さんの内面に踏み込むことをする。

「だから口を利かなくなったっていうのが信じられない」

 こんなことを聞いたら嫌われてしまうのだろうか。

 いや違う。圧縮人生だ。俺はすべてを先取りする。この次なんて無いのかも知れないから。

「私が自分の書いた小説に対して親バカなのって、言ったの覚えてる?」

「覚えてるよ」

「チカに小説の感想をもらったときね、ここが悪かったねって言葉を言ってたの。その時、私の中で自分の小説を全肯定したいと思う本心を見つけたの」

「守屋さんの意見が的を射てなかったとか?」

「いいえ。的を射ていたわ。それでもね、私の子供が産まれ出たことを無条件で肯定すべきだと思ったのよ」

「本当に自分の子供…ってことか」

「私はこの子さえいればいいの」

 共感はできなかった。

 自分の子供がどんなものなのかも、自分の創った作品を我が子と思えるかどうかも。

 でもこれが、真田アカリの突き詰めた哲学なんだと思う。

「それは縁を切らなければいけないほどなのか?」

「そうね。そこは私自身に問題があってね、チカのことを思い出すたびに否定された言葉が一緒に浮かんでくるの。それがね、何十回、何百回と繰り返す度に、いつか私は自分の作品を嫌いになるって思ったのよ」

「それがつまり…作品を選ぶか、友達を選ぶかってことになると」

「そういうこと」

「母親的な考えだな。父親なら子供を大きく成長させようとするのかもしれない」

「成長させるとしても、他の誰かのお陰なんてごめんだわ。私の手で成長させたいの」

 

俺は真田さんの哲学を否定しない。

 それでも守屋さんと真田さんがお互い納得できる方法はないのかと考えてしまう。

「この話ってさ、他の誰かにしたことないでしょ?」

「そうね」

「多分ちゃんと伝えれば守屋さんもわかってくれるんじゃないかな?別に仲直りしてくれってことじゃないんだけど、理由がわかればモヤモヤしないで生きていける…かもしれない」

「チカはモヤモヤしてそうだった?」

「俺から見るとモヤモヤしてそうだった。というより真田さんのこと色々考えてた」

「そう…」と悲しそうな表情の真田さん。

 守屋さんは会えないときも相手のことを思ってた。

 きっと真田さんも同じだと思う。

「これは俺の哲学だけど、本音に一番近い言葉を伝えたら悪いことにはならないと思う」

「それはどういう意味かしら」

「普段すれ違いが起こることって、必ず『言ってない』部分に原因があると思う。例えば『遊びのときに、お金を節約したい』とか『ドラマの話で盛り上がってるときに、自分の好きなドラマみんなも見てほしい』とか『初めて声を掛ける人に、仲良くなりたいから話しかけてるんだ』とか」

 うっかり本音を言ったような気もする。

「そういう恥ずかしくて言えないこととか、難しくて言葉にしにくいこととか、自分自身が認識できてない心の領域とかを言語化して伝えられれば人間関係の問題は解決すると思ってる」

「なるほどね。納得できないのは、本心で相手のことを悪くいうのは人間関係を良くするのかってことかしら」

「あー。それについては別の哲学を持ち出しちゃうけど。“良い”ってことは気軽に使ってよくて、“悪いよ”ってことはすごく慎重に伝えなければいけないと思う」

「それには同意ね」

「まあだから俺の言ってない部分を伝えるとしたら、守屋さんと真田さんは仲直りしてほしい。できれば親友に戻ってほしい。それができないなら親友だった証として全てを伝えてほしい。そんなところかな」

「ついでに北条くんの哲学が正しいのかを見てみたい、を言ってないんじゃない?」

「よくわかりますねぇ…」

「要領は掴んだわ」

 この俺の理論が正しいかはわからない。

 誰かとそんなに親しい仲になったことがない。

 いつか真田さんと検証することがあればなぁ。


「でもね、北条くん。私は私のやり方でチカと仲直りしてみるわ」



 そう言って真田さんは部活動の終わりに守屋さんに会いに行った。

 俺は柱の裏で二人の様子を伺っている。

 真田さんが自転車置き場にいる守屋さんを引き留めた。

「チカあのさ」

「アカリ…?」

「バレー…最近調子どう?」

「大会近いからみんな必死だよ。それよりこんな時間までどうしたの?」

「私、親にまだ辞めたこと言ってなくてさ」

「そーいうのって長引くほど辛いやつじゃん」

「ほんとね」と笑う真田さん。

「アカリが居たらレギュラーだったかもしんないのにさー」

「私バレーそんな好きじゃなかったみたいだし」

「好きな人がレギュラーやった方がいいってこと?」

 頷く真田さん。

「それが辞めた理由?」

「違うわ」

「じゃあどうして?」

「本当にそれを知りたければここで話す。けど、チカが本当に本当のことを知りたいのかどうかを教えてほしい。私が伝えたいから言うってだけではだめだから」

 守屋さんは戸惑う。

 この場で答えを出すことの難しさを実感しているに違いない。

「…知りたくないよ」と笑う守屋さん。

「そう」

「私が感想を言ったことへの感想が返ってくるんでしょう?」

「お見通しね」

「なんかわかった気もする…。でも言いに来てくれてありがとう」

「ずっと遠ざけててごめんなさい」

「いいよ。私はバレーに打ち込むし、アカリは小説に打ち込むんでしょ?」

「そうだね」

「ずっと一緒にいた場合とはきっと違う人生が待ってるんだろうね」

「なにそれ?あなたはバレーボールの選手にでもなるの?」

「そうかもしれないし、単純に、私は他の人と仲良くなったりするんだよ?」

「そうね。私も他の人と仲良くなったり、恋愛したりするかもしれない」

 真田さんは寂しげな微笑みを浮かべていた。

「めっちゃ人生だなー」

 と守屋さんが言った。

 これで真田さんと守屋さんの確執は解かれた、のだろう。

 しかし二人がまた仲良しに戻ることはなかった。

 それは真田さんの作品に対して言った言葉がずっと引っかかっているから。

 人は無意識下で人を評価している。

 自分が相手に評価されているって気づいたときに、仲良しにはなれず、自分が相手を評価してしまった時点で笑いあうことが二度とできない。

 だとしたら評価の無い人間になりたいな…。

 俺がこれから築く人間関係は、評価の無い間柄であってほしい。

 尊敬と親和だけの関係こそが理想だ。

 評価は一度でも下してしまったら元には戻れない。それくらいの重みがあるんだと感じた。

 守屋さんと真田さんの一件を見届けて、なんとなく流れで真田さんと一緒に歩いて帰っていた。

 俺は気まずさから口数が減っていた。沈黙が長引くほど気まずさも増すってことくらいは分かっているが。

「友達と恋人って何が違うだろうか」

 と適当な話題を振ってみる。

「真っ先に浮かぶのは、友達は百人いてもいいけど恋人は一人に絞らなくてはダメなことかしら」

「できれば恋人たくさんほしいとかって思ってます…?」

「いや多ければいいってことはないでしょう」

「あー、友達も多ければいいってわけじゃないか」

「何人かとそこそこの頻度で遊んでたらいいんじゃない?友達は」

「親友とかだと更に頻度高いかもだが」

「私、親友は要らない派なのよね。恋人だったら毎日一緒に居たいだろうけど」

「そこは…(女の子って感じっすね…)」



 坂道を下っていって昔ながらの駄菓子屋を見つける。普段と駅までのルートが違うからなぁ。

「あ、駄菓子屋なんてここにあるんだー!」

「風情があるわよね」

「なんか店の中狭そうだな」

「それは体が大きくなったからでしょう?」

「あっちの店、肉のコロッケ売ってる!結構寄り道し放題じゃん」

「帰宅部って毎日寄り道してるものかと思ったけど」

「いーや意外とそうでもないよ。直帰してる」

「真面目なサラリーマンみたいね」




 そんな話をしていると車のクラクションが後ろから聞こえる。

 一瞬、気づかずに道の中央歩いていたのかと思ったがそうでもなかった。

 真田さんが振り返ったあと嫌そうな顔をした。でもすぐに真顔になる。知ってる人?


「部活帰りか?」

 車の中の男の人は言う。

「そうでもない」

 と真田さんが答える。お父さんだろうか。

「乗っていく?」

「ありがと」

「お兄さんも」

 まさかの指名が入った…。

「あ、ありがとうございます…」

 と言って車に入れてもらった。


車中では真田さんは喋らなくなっていた。




「駅まででいいかい?」

「あ、はい。ありがとうございます」


「お名前はなんと?」

 真田さん父に聞かれた。

「あ、ヒカルと言います」

 語頭に『あ、』ってつけちゃうの委縮してるのがまるわかりだな。

 真田さん父はこの歳の人にしては珍しい肩ぐらいまでのロングヘアーだった。ミラー越しに顔が映ると気まずいので話してるとき以外は下を向くことにした。

「ヒカルくんはアカリの友達?」

「そう…ですね」

「アカリに友達がいるとは思わなかった。こいつ変でしょう?」

「いや、そんなことないと思いますけど…」

「上履きに落書きして先生に注意されてたらしいんだけど、新しいのに履き替えてなかったらしいし」

 うわ~~~。

 親が子の前でこんなこと話すの辛すぎる…。

 けど真田さんを擁護したい。

「僕はいいと思ってます、あの上履き」

 真田さん父はため息を吐く。

「まあアカリの友達になるだけのことはあるな」

 一貫して真田さんは外の景色を見ている。会話は聞いてるんだろうけど。

「それでもね、ヒカルくん。キミは将来的に真っ当な人間になるよ。常識から外れた人間を許せなくなる」

「そう…なりますかね…」

「なるとも。僕はね、職業柄よく人の顔を見るんだが、キミはそういうタイプの顔をしている。人の性格は人相に現れるってのは本当だと思うね」

 そう言われて喜ぶものがあるものか。

 俺と真田さんは違う世界を生きるって言われてるんだろ。

「将来何の仕事に就くかは決めてるのかい?」

「いえ、まだ…特には」

「キミの感じを見ていると、銀行員、不動産、そういう大きな数字を動かす職に就きそうだ」

「もし、そうなったらあなたの言ってることが証明されて、それで嬉しいんですか?」

 すると真田さんが『ふっ』と笑った。表情は見ていないけど。

 真田さん父のイラっとした様子がうかがえた。これ以上は止めておこう。


「ここでいいだろ?」

 と駅のロータリーで車を止めた。

「ありがとうございました」

 貴重な体験だったな。あのぐらいの年齢の人が持つ哲学を聞けるのはそう無いことだ。

 あそこまで自分哲学がきっちり定まっているのは、本人の言う通りそれが仕事に直結しているからだろう。



 車中。

 車が再び動き出す。

 真田アカリは言った。

「あの人の苗字、北条って言うのよ?」

 真田父の顔が青ざめる。

「なぜそれを早く言わない!」


 駅の改札を通ったところで『ちょっと!』という大声を聞いた。真田さん父の声だった。

「さっきは申し訳なかった。北条さんの息子さんだとは知らずに…つい失礼なことを」

 父か。

 父の仕事の関係者なのだろう。この地域に住んでる北条という名字だけで伝わってしまう恐ろしさ。

 さっきまでの威圧的な表情とは一変して、焦りが見える。そんなに恐ろしい人なのだろうか、うちの父は。

「ああ…別に、父になにか言ったりとかそんなことはしませんよ」

なんだか妙な気持ちになった。

 この束縛から抜け出したいな、という感情だけははっきり読み取れた。



 自宅につく直前、父が家の扉を開けるところが見えた。

一緒のタイミングで帰るのが憚られた。ちょっと立ち尽くして『そろそろいいかな』『もう三分くらい経ったかな』とかってそわそわしてから家の扉を開けた。

「ああ、ちょうど帰ってきたのね」

 と母に言われる。

 廊下の先で父がネクタイを外してるのが見えて『もう少し遅らせた方が良かった』と思う。

 ここで立ち止まっているわけにもいかず、廊下を超える。小さく『ただいま』と呟く。

「おい、週末パーティがある」

父にそう言われた。

 普通だったら何かしらの返事をするところだろうけど何の言葉も出なかった。父とそれほど身長は変わらないのに、俺は父を見上げて固まっている。結果的にガン飛ばしているみたいになっている。

「お前も出ろ」

 週末のパーティというのはテレビ局のお偉いさんたちとお酒を片手に話す場だ。ホテルの一エリアを貸し切って芸能人もニュースキャスターもアスリートも参加している。ステージでは歌手が歌い、芸人の漫才が見れる。あんな閉じた空間で行うのはもったいないくらいだ。

 パーティに俺が出る意味があるとすれば、次期社長候補として顔見せすることだろう。

 そうであるならばハッキリ言っておきたい。

「俺は跡を継げるような器じゃない」

「俺と同じように動かせばいい。ヨウコは自分のやり方を出そうとするから向かん」

 自分のコピーをこの世に残してまでまだ世界を動かしたいと考えるのは、大きな野望だなと思う。

 そこへ行くと俺なんかは自分の意思のない丁度いい人形なのかもしれない。そんなことを考えてしまった。

 親父の言動、振る舞い、そんなのが俺に沁みつく日は来るのだろうか。

 今のまま目的無く生きてたらそうなってしまう…かもしれない。



◎パーティが開かれる。

・真田の父に会いに行く北条。

・芸能人やアーティストが集まっていることに驚く北条。

・その偉そうな人たちが北条の息子だと知るとペコペコしだす。

・父親から、好きなやつをお前にくれてやると言われる。


 週末。当日。

 スーツ姿で会場に入る。当然知り合いがいるわけでもなく、会場にいても居場所が無い。

 周りの人は『お久しぶりですね』というような会話に花を咲かせている様子だ。ステージの端らへんで父が会話している姿も見えた。母はまだ来ていない様子。姉は彼氏と一緒に誰かと話している。

 アウェイだ…。トイレにでも逃げ込みたい気持ち。


「大変お待たせいたしました。これより、エベレスTV八十四周年記念祭を開始いたします」


 会が始まった。シャンパンが配られ乾杯が成される。俺は未成年ですと伝えるとジンジャエールに変えてもらった。

 周りを見るとみんな誰かしらとの会話を楽しんでいる。

 俺だけが一人…。恨むぞ親父…こんなに恥ずかしい場面もそうそうない。

 幸いステージの真ん中でアーティストの歌が始まってくれた。一組目は十五年前に一世を風靡した歌手。ここにいる年齢層に合わせるとそうなるか。二組目は俺も好きだったラップ&ロックのグループだ…!

 こんな感じでステージを楽しむ分には周りとの別離を感じることはなかった。


 が、後ろから声を掛けられてしまう。

「誰かのお子さんかい?タダでライブが見れてよかったねぇ」

 べろんべろんに酔った金髪のおじさんにそう言われた。やっぱり業界人は年をとっても髪の毛金色にしたりするんだなぁ。

「はっはは、はい」

 と、苦笑いと返事をあわせたような言葉しか出なかった。

「キミにとっては珍しいことかもしれないケド、俺たちはもう毎年味わってるからイチイチ注目しなくなったなぁ」

「そうですか…」

「ステージ見ないでみんなと情報共有できるようになったら一人前だよ」

「そうなんですね…」

 こんな凄いステージが注目されてないことの方が驚きだ。見なくなったら一人前なんてそんなことあるんだろうか。

 

「そのまえに酒飲めるようになれよ」

 と言い残して金髪のおじさんは去っていった。

 それでも俺はステージを見る。この演者さんたちが誰にも見られないで披露するなんて耐えられない。


 しかし『しばしのご歓談を』と司会が言い残して空き時間ができてしまった。またも孤独の時間。

 証明が明るくなり自分が浮き彫りにされたような感覚を覚える。

 すると後ろから声を掛けられる。

「おい」

 親父だった。

「挨拶回りだ。来い」

「はい…」

 当然そういうのもやらされるものだと思っていたが…しんどいな。

 連れていかれる間、無言で歩き続ける父。『緊張してるか?』とか『今から会うのは―』って話でもしてくれたらいいのに。


 最初に挨拶したのはジャンズ事務所の社長だった。

 すげぇ。織田さんが聞いたら驚くだろうな。別に社長には興味ないだろうけど。

「息子です。顔見せだけでもと思って連れてきました」

「はじめまして、ヒカルと申します」

「美形じゃん!うちの事務所来る?なんつって!」

 と茶化す社長だった。

「うちの子たち男色も多いから狙われるかもね」

「あははは…」

 そこから父が仕事の話をし始めて、俺はしばらくの間口角を挙げながら聞いていた。


「また、うちの番組に出演していただけたら」

 父がそう言ってなんとなく終わりそうな雰囲気で、頭を下げるタイミングで俺も頭を下げた。


 次のお偉いさんのところトコトコ歩く。

 次、その次、その次。

 挨拶を繰り返して誰が誰か分からなくなってきた。

 ただ父が、相手によって下手に出たり、偉そうに対応したりとコロコロ変えてるのが気になった。

 それは俺にも言えることだ。

 俺と親父の共通点を見つけて恐ろしくなってしまった。


「さっきのところの事務所ならお前に好きな女持ち帰らせてやるぞ」

「なんだよそれ…」

「お前も社長になるなら女を毎晩抱くぐらいのことはしろ」

 たしかにさっきのところの社長はヘコヘコしていた。エベレスTVが出演させてあげている方なんだろう。

 どこまでも汚れた世界だ。

 どこまでも…。

 こんな世界に浸っていたら俺の哲学は死んでしまう。

 

 俺はようやく冷静になってこの会場を見渡した。

 若い女の人が何人かいる。肩を露出させた鮮やかな赤いドレス。膨らんだ胸。体のラインがハッキリと浮き出ていて、もしも触れることがあれば地肌に触れたのと相違ないことだろう。この女の人と一夜を伴にできるかもしれないってこと。

 この世界に浸ることで味わえるかもしれないのか。

 もしかしたら俺の哲学なんて価値のないものかもしれないのに、固執する意味はあるのだろうか。

 一層のこと全て諦めてしまったら、俺の人生に女の人との繫がりができる。毎晩、毎晩、すぐそこに。手の届くところに満たすものがある。揉みしだく胸があって、俺を受け入れる穴があって…。

 真田さんとはこのままうまくいかないかもしれない。どうせ俺は汚れた人間なんだ。

 きっと俺のこの汚れた部分を彼女は受け入れてくれない。

 だったら諦めて汚れ切った方がマシじゃないのか?

「やりたい女はいないのか?」

「…考えときます」

 先延ばしにした答えは一年後に出るのだろうか。永遠に悩んで一生進まないのかもしれない。


 

 挨拶が終わったあと、司会から会の終わりが告げられた。

 終わったと言っても立ち話をしている人達は残っている。俺だったらこんな会が終わったら即行帰りたいけど。


 父に『この後内々だけの二次会だ。お前も来い』と言われ場所を変える。

 見たことない、学校の机全部くっつけたみたいな長さの机に、三十人くらいが座れるようになっている。

 仕事でより密にかかわる人たちだろうか。それぞれが子供を連れて隣に座らせてるケースが多い。

「まだ揃ってないのか?」と父が言う。

「あと、柏木さんと真田さん親子のところが」

 真田さん?

 なんとなくあの真田さんだと直感した。この前のやり取りから親父と真田さんのお父さんが関係ありそうだったし。

「もう少し待つか。開始早々に金の話をするつもりだ」

「恐らくすぐに来ますよ」

 そう言ってる五十歳ぐらいに見える男性。

 俺の名前が書かれた席がある。当然親父の隣。

 逆サイドは母、その更に隣が姉だ。こんな会があったとはな。

 とりあえず席に座って待つことにした。親父は誰かと話をしているようだ。さっきの金髪のおじさんだ。

「いやぁ!息子さん立派ですね!」

「まだまだだが、いずれここの長になるからそろそろ顔を出させようと」

「将来有望じゃないですかぁ」

 と頭を垂れていた。酒飲めるようになってから来いとはなんだったのか。


「遅れてすみません!長話が好きな方が多くて…」

 と言って男性が一人入ってきた。

 やはり真田さんのお父さんだ!ということは…。


 成人式で見るような和装に包まれた真田さんが静かに入ってくる。

 どうしようどうしよう…。話しかけたいけど、俺はもうまっすぐ真田さんのことを見れない。


 父が手を叩く。パンという音が室内に響く。

「始めよう」

 再びそれぞれのグラスにお酒が注がれる。

 料理は肉料理がいきなり出てきた。

 真田さん、少し離れた斜め前にいる。俺の行動も全部見られてしまうんだ…緊張するな。


「もう二次会なのでね、手短に、乾杯」

 そういって全員が近場の人とグラスを合わせる。真田さん、目だけでも合わせてくれないかな、と視線を送ってみたりする。気持ちわりぃ。


 父は先の宣言通りお金の話をし始めた。税金で無駄に取られてしまう数億を何かの投資に使いたいと言った類の話だ。

 そこに真田さん父が具体的な金額の話をした。なるほど、真田さん父は税理士だったのか。

「社長の好きな船でも買ったらいいんじゃないですかぁ」

 と金髪の人が言う。

「いいや、投資じゃなきゃダメだ。それも必ず回収できるもの」

「高騰しそうな土地ならありますよ?」

 会話を聞いていると、弁護士、政治家、不動産業の人、広告会社の人が居るみたいだ。そういう総会的な集まりだったんだな。

 分かる情報はそれなりに頷けるが、わからない話が続くと欠伸が出そうになる。


 気づいたら一時間が経とうとしていた。

 話も中だるみしてきて、途中喫煙に休憩を挿む人もいる。

 話題は次へ。役員候補の話となった。

「時間もあれなんで次の話進めてもいいか?ちょっとアレもって来い」

 秘書らしき人に伝える父。こういう横暴な言い方は好きじゃないな。

「こちらです」

 履歴書によく似た写真と名前と実績とかが載ってる髪が机に置かれた。置かれたのは四十後半ぐらいの女の人の席の前だ。

「先生、これが役員候補なんですがねぇ。弾くやつはいますか?」

 父が先生というほどの人…恐らく占い師かそう言った類の人だろう。

「これダメ」

 と紙を遠くにほっぽたりしている。

「松田か」

 父がその紙を眺める。

「人をコントロールできないで苦労するタイプだよ」

 合ってるのかわからないが、こういうのを占い師に決めてもらっていたのか。

 そう言えばこの占い師は子供を連れてないな。こういう人って生涯独り身になりやすいんだろうか。

「ふうむ。逆に引っ張っていけるようなヤツは居ますか?」

「これなら、金と人が集まる」

「橋本か、悪くないな。役員に昇格しよう」

 こんな風に決定がなされるのを見ると恐れを感じる。

 人の人生を操っている恐怖に。


「占いでわかるんだったらドラックやっちゃったアイドルとかも先にわかってたんかね」

 眼鏡の男性がぼやく。

「そういえば花組どうします?一人抜けても起用するんですか?」

「使わない。代わりのアイドルいくらでもいるだろ」

「花組は高円寺の地下アイドル出身だからなぁ…」

 いろいろとおぞましさを感じた。

「社長、もう一つよろしいでしょうか?魔女と巨神兵の磯崎先生をエベレスTVで独占取材する件についてなのですが」

「もう話は通ったのか?」

「いえ…それが出版社側から見積もりの倍額なら受けると言われまして…」

「いつまでも力持っていると勘違いしやがって…。独占の話は無しだ。その代わり、作者にエベレスTVの番組が好きでファンなんですと言わせろ。それで視聴者イメージはよくなるはずだ」


 父は視聴者イメージと言った。

 顔の見えない視聴者の声が気になっているのだ。

 地位と富を手に入れても恐れているものがあるんだ。こんな、人を人と思っていない暴君にも市民の声が聞こえている。

問題発言や偽装情報でクレームが殺到したとき、父が家で当たり散らす姿を何度も見た。

 なにがそんなに怖いんだろうか?

たとえテレビ局にクレームの電話が来たとしても自分が電話を取るわけじゃない。どうせ責任も他の社員に擦り付けてるに決まっている。

 それでも怖いのだろう、人と敵対してしまうことが。敵意が怖いのだろう。

 親父は強い人間なんかじゃない。

 そこに俺が親父を超えられる要素はある。



 会議開始から二時間が経とうとした頃、真田さんが席を立って扉から出て行った。

 トイレにでも行ったのだろうか。二時間も経てばそらトイレに行きたくもなるよな…。飲み物も飲んでるわけだし。


 俺も休憩挿もうと思ったが、今このタイミングで出て行くと真田さんを追っかけたみたいになるから一分待つか。

 真田さんがメッセージで『テラスで待ってるわ』とか言ってくれたりしねぇかな…。


 一分より短い時間後、会議は進行していて、音を立てないようにゆっくり席を立ち、トイレへ向かった。扉を抜けて左右を見渡すとスタッフの人が『化粧室はあちらの右にございます』と教えてくれた。

 用を足して手を洗う。女の人のトイレの方が長いんだよな。俺が遅れて行った分丁度鉢合わせたりしないだろうかと考える。

 少し急ぎ気味でトイレを出た。そのまま周りを見ながら探索してみる。

「ほんとに広いホテルだな…」

 本当だったら数千人が一度に集まる場所なのかもしれない。そしてこの広い廊下全面にふわふわのカーペットが敷かれていて、手入れの大変さとお金のかかり具合を想像した。


 歩いて行って突き当り、右をみると非常階段。左を見ると…。

 真田さんがいた。

 ベランダに出て夜風に当たっていた。月が彼女を照らし、空間を虜にしていた。


 俺はゆっくり近づく。

 なんて声を掛けたらいいか。この場にふさわしいロマンチックな言葉なんて出やしない。


「真田さん」

 真田さんは振り向く。驚くことなく、笑顔で振り向いてくれた。


「ドレスなんて、着るんだね。に、に、似合うね」

 直視しては言えなかった。

「不思議なところで出会うものね」

 本当にその通りだ。学校じゃないところで会うだけでも不思議なのに、こんな非日常なパーティで会うなんて。

「お互い素性がばれちゃった感じだね」

「あなたのお父さんが本当にこのテレビ局の社長なのね。あなたは社長の子供って感じには見えなかったけども」

「親父は俺のことを次の社長にしようとしてる。俺はそんなの出来そうもないけど」

「あそこに居る幹部をまとめて、大きなお金を動かす、とても規模の大きい仕事だと思うわ」

「立派だと思う?」

「立派というのは違うわね。立派というのは人間性の話でしょ?」

「まあ、そうだな」

「あなたのお父さんは怖い人ね」

「ああ…まともに話したことないや。最近は少し反抗してるかもしれない。言いなりに生きてたらいずれあれと同じような人間になってそうだから」

「でももし、あんな風に身の回りの人を操る力を持っていたとしたらどうする?なにかやりたいことはあるの?」

「どうだろ、権力あったら自分のこと肯定してくれる人だけ回りに置いて、それで偉くなった気持ちに浸れたりすんのかな」

「もっとあるでしょう。女とか」

「女?いや、俺は恋愛の良さは味わったことないし」

「まああなたは遊び人にならないと思けど」

「…そういや真田さんのお父さんも固い人だったな」

「そうね」

「子供って言うのは親の反対を生きていくのかもしれない」

「もし、あなたと私が結婚するなら、駆け落ちしなくちゃいけないね」

「えっ?」

「嘘、冗談よ」

「なんの冗談だよ」

「でもあなたと将来結婚する人はあのお父さんに認められるの大変そうね」

「そう思うと一生結婚できないかもね」

「私たちの時代には結婚以外のカップルの生き方があるかもしれないし」

「いずれにせよ親父の反対を押し切ることになりそうだが…」

「あの社長は私みたいに論破できるかわからないわよ?」

「真田さんは議論するの楽しんでくれるタイプじゃん。そういう人としか議論なんて意味ないよ」

「そうね。打ち負かされるの気持ちよかったわ」

「気持ちいってどういう感情だよ…」

「私の脳の一部を北条くんに侵されるってことよ。これから幸せとかについて考えるとき、あなたのことを一緒に思い出すの」

「それって…」

「だから議論は心を許した相手としかできないわ」

「俺が、真田さんと議論したいと思ったのは履歴書を見てから」

「私があなたを許したのはもっと前よ。あなた周りの人と全然違う感性で生きてるんだもの」

「それを言うなら真田さんの上履きのポエム。あの尖った生き様は俺には思いつかなかった。今からでも真似したいぐらいだけど、真似したらバレバレじゃん?」

「そうね、あれは私だけの唯一無二」

「頂上っていうのが唯一無二の自分ってことなのか?ほら『ここが山の頂』って左足に書いてあるのが」

「ふふっ残念ハズレ。山の頂って言ってるのはね、山の上にある大きな池を想像してほしいの。そこに私がいてね、川の流れに沿って人生を生きて行けばあるべき場所にたどり着く。そういう意味よ」

「そうなのか。人生に選択肢がいくつもあって、自分で掴み取るんだって、そういう人だと思ってた。だから意外だ」

「自分にとってふさわしい選択は、常に気分が軽いものよ。無理矢理もがいて苦しんで掴もうとする人生は自分を不幸にすると思うの」

「小説を書くこともそういうこと?」

「そう。小説を書くことは気持ちが軽やかで、楽しいことで好きなこと。そういうものの集合体が私の人生なの」

「絶対いいじゃん…!そういう生き方」

「そうでしょ?」

「俺は、まだ力入った生き方してるかもしれない」

「それはそれでいいのよ。あなたの生き方で」

「自許か自責を選べっていうのはどういうことなの?」

「人生で嫌なことがあっても他人に理由を求めないでってこと。自分を癒すのも自分を咎めるも私。他人のせいにしたり、他人に縋ってしまった時点で歯車は崩れるの」

「親も友達も言い訳にしない。真田さんらしい考えだな…眩しいよ」

 俺の人生は哲学でできている。

 俺の哲学をここまで刺激してくれる真田さんに出会えたことに感謝したい。


「俺は哲学を追求していく。真田さんは小説を書く。その先にどんなことが待っているか楽しみだな」

「そうね」

 と真田さんは笑った。

 パーティのあれやこれは全てどうでもいい。

 親父の拘りや跡継ぎもどうでもいい。

 今ここで人生が進んだんだ。

 これこそが生きるということなんだ。

 




 その日を境にモヤモヤが一つなくなった。

 自室。俺は今、カメラを前にして自分の意見を述べる。

 その様子は配信され全世界の誰でも見ることができる。かといって誰一人としても見ないかもしれない。

 誰が見るかではなく、自分の考えをここに残しておきたいと思ったのだ。


「あ、あ、初めまして。北条ヒカルと申します。本名です。なにか芸名つけようかとも思ったんですけど、自分の名前でもおんなじだなと思ってそのままにしてます。自分の名前を使って発言するからには、責任が自分にかかってくるんだなってこともわかってます。今から僕が言うことは反対意見も出てくることだと思うので。それでー、僕の配信したいことは哲学についてです。哲学はよくわからない人も多いと思いますし、定義はこれだっていうのはあまりありません。辞書を開けば『哲学・根本原理を追求する学問』って書いてあります。世界の始まりや神の存在や宇宙の存在を追求するってことです。ですが、僕が言いたいのは人生哲学に分類されるものです。なぜ人生があるのか人間はどう生きるべきか、愛とは何か、優しさとは何か、夢とは何か、幸せとはなにか。そういった問を広義の言葉ではなく、ぼやかさないで表現することだと思っています。なので回答としては『誰かがある状況下で何かをすることが幸せである』といった表現になることを理想とします。ここで出てきた幸せという定義は幸せのひとかけらにすぎません。本来であればこれに無数の定義を合わせることでようやく本質の輪郭が浮かび上がるのです。だから世界中の人が私と同じように哲学の答えを出そうとしてくれればもっと言葉が完成に近づくものだと思います。哲学が何の役に立つって考える人もいると思いますけど、哲学を進めていくことの利点は二つあると思ってます。ひとつは楽しいからっていうので、例えばスポーツを見るときってルールがわかってるから楽しいじゃないですか。人生も大体の知識を持ってるとただ生きてるだけじゃなくて味わうことができるんですよ。感じるってことが。そういう感覚で哲学を身に着けると自分の人生をきちんと楽しめると思います。もう一つの利点が、不幸を減らすことです。哲学を知らないで生きていくと自分だけが多くの幸せを独占するかに注力することになりがちです。例えば人のことを叱っている間自分が偉い人間になれたような気がして心地よかったりするものです。人間ってそういう生き物なんだってことがわかっていれば自分の快楽のために人を叱ることは避けられるかもしれません。人を傷つけないためには自分のことを理解して、ある程度俯瞰して生きることが有効です。最終的には人類全員が哲学を身に着けることで世界中の幸福度が上がると私は信じています。こう言うと、なんでお前なんかに指示されなくちゃいけないんだって思う人がいると思います。怪しい宗教みたいだって。それが私の想定している反対意見です。なので絶対私が正しいとは思ってないですし、もっと違う哲学で私の考えを否定してもいいのです。私がやりたいのは多くの人が楽しみながら哲学に触れることです。これからそういう配信をしていけたらと思っています」



 配信を終える。視聴者ゼロ人。

 虚空へ消えたこのメッセージは俺の人生を変えることになるだろうか。その先に誰かの人生を豊かにする日は来るだろうか。


 俺は動画の説明文にこう書いている。


 最後の哲学者アール・アンラマンユはこう言った。

 『真実は各々方の中にある。我々の誰しもが、全ての答えを否定する術を持たない。』

 彼のこの言葉は哲学を終わらせてしまった。

どんな哲学も、キミの中ではそれが答えなんだね、の一言で片づけられてしまうのだ。

 哲学を発表することも、論争することも無意味と化したこの世界で、それでも哲学する意味はあるのだろうか。



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寝ても覚めてもフィロソフィー @muhainofujiwara

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