鏡の中で待つものは……

藍沢真啓

第1話

 テーブルに置かれたスマホが微かに振動するのを、賑わう声の中でもはっきりと感じ、わずかに肩がビクリと揺らぐ。

 すぐにでも反応を返さないと、また何を言われるか……。


「あら、どうかした? 日菜子ひなこさん」


 右手から声が聞こえ、視線をそちらに動かすと、今日の集まりの主催者である乃亜という長くまっすぐな髪を片側に流し、モデルをしてそうな美貌の容姿に似合う切れ長の双眸が、どこか愉悦を含んでそうな光をたたえ、じっと見つめてくる。


「お話の途中ごめんなさい……。そろそろ家に帰ってこいって……」


 本当は周りに席を立つ理由を納得させる言い訳でしかないけど。


「そうなの、残念ね。でも、また集まりましょう? ……今度は貴女の杞憂が少しでも軽くなってるといいわ、ね」


 せっかくの楽しい時間に水を差してごめんなさい、と頭をさげていると、乃亜の気遣う、しかし最後の囁きはどこか楽しげな色をして、わたしを送り出してくれた。

 他の参加者も口々に、途中退席するわたしに優しい声をかけてくれ、本心を言えば後ろ髪を引かれる気分。だけど、一秒でも早く外に出なくてはいけない焦りで、再度低頭すると、急ぎ足で店を後にした。

 昼過ぎに集まった会だったけど、夏だというのに外は地平線に赤を横たえさせ、ゆっくりと沈んでいる。もうじき完全に夜の色に塗り替えられるだろう。かなりの時間話に興じていた事になる。

 わたしには楽しい時間などないと、再び手の中にあるスマホが苛立つ相手の感情のように細かく振動していた。



 店から数メートル離れた路上で、わたしは震える指先をフリックとタップを繰り返して延々と呼び出し続けるSNS画面を開くと、恐怖で息が止まる。


「……ひっ」


 可愛らしいポップの中には怨嗟の言葉が続いている。あれからまだ時間にしては数分も経っていないのに、スワイプしないと一番最初の言葉までたどり着かないほど、怒りの滲む言葉が並んでいた。

 罵詈雑言、ほかにもわたしの人格を否定するものもたくさん……。

 じわりと目尻に涙が浮かんだけど、これ以上反応を遅くしたら、さらに心が辛くなると思い出し、文字を打つよりも早いと通話ボタンをタップした。


「おっせーんだよ!!」

「っ! ご、ごめんなさい!」


 通話状態になった途端、ハウリングした怒鳴り声が耳に飛び込んでくる。きっと大声が出迎えると想像していたから、わざとスマホと耳の距離を開けといて良かった。

 多少びっくりして息を飲んだものの、すぐさま謝罪を告げると、今わたしの自宅

の側まで来てるから顔を出せとの話をねちっこい厭味を混じえて告げてきた。


「え……。今わたし孝ちゃんの家の近くに……」

「はあ? なんでお前家にいないんだよ!」


 自分の思う場所にわたしがいないのを、イラつく声で話す孝ちゃん――わたしの彼氏である坂本孝介に、今日は人と会うという旨を先週時点で話していたと説明すると、


「そんな話知るかよ!! 今からすぐにこっちに来い、いいな!!」


 グズグズしてたら殴るぞ、と最後に叫び、孝ちゃんとの通話はぷつりと途切れた。


「……ふう」


 嵐のような会話が終わると、わたしは小さく吐息を零す。安堵と諦念の入り混じった吐息。

 時間限定だけど恐怖から開放された安心と、ちゃんと話して何度も確認したにもかかわらず、自分の都合のいい部分だけしか憶えていない彼氏の傲慢さを諦めた部分とが、小さなため息となって零れ落ちた。


「最初はあんな人じゃなかったんだけどな……」






 大学に入ってすぐに受けた講義の時。周りに知ってる人がおらず、一人ポツンと座っていたら、「ここ空いてる?」と爽やかな笑顔と共に声をかけてきたのが、孝ちゃんとの出会いだった。

 それから何度も顔を合わせるようになり、最初は緊張しかなかった隣の彼の存在が当たり前になり、そして次第に心地よくなった頃、必死にノートにペンを走らせるわたしの耳に「ねえ、俺の彼女になってよ」と甘さを含んだ告白を受けたわたしは、真っ赤な顔でコクコクと頷いてOKしたのである。

 人生初めての恋人の存在は、わたしの警戒にフィルターをかけてしまったらしい。

 二つ年上の孝ちゃんが、なぜ基礎講座に出向いてたのかとか、時折無表情でじっとわたしを見ていたりとか、孝ちゃんの友人に紹介されたことがないのだとか、冷静になってみれば小さな疑問はいくつもあったはずなのに、恋にうかれたわたしが、孝ちゃんの本心に気づいた時には、もう泥沼に雁字搦めに囚われて逃げ出せなくなっていた。

 端緒はほんの些細なことだったと思う。ただ、忙しくて彼がくれたSNSのメッセージにすぐ反応できなかったのが起因だったはずだ。

 気づいてすぐにメッセージを返したら、いつもは顔文字やスタンプで彩られた彼からの返事は「すぐに家に来い」と、命令文一言で。

 慌てて孝ちゃんが一人で住むマンションのドアを開いた刹那、甘い抱擁でもなく、熱い口づけでもなく、痛い衝撃が頬を襲っていた。

 あ、と声を出すよりも前に、長身の孝ちゃんが殴った勢いを小柄なわたしの体は受け止め切れる訳もなく、なすすべもなく傾いだ体は側にあったシューズボックスに叩きつけられた。


『……こう、ちゃ……』


 殴打された時に歯で切ったのか、口の中がしょっぱい鉄の味で満たされながらも、今起こってる出来事が信じられなくて、呆然とわたしを見下ろしてる孝ちゃんの名を呼ぶ。しかし、彼はわたしの言葉に応えることなく、無言でわたしの髪を鷲掴みにすると、ずるずるとわたしを引きずってリビングへと向かっていったのだった。

 そこからは地獄としか言いようのない、いや、地獄よりもさらに辛い出来事の始まりだった。

 殴られ、蹴られ、踏みつけられ、血が滲むほど噛まれ、顔と見える場所以外皮膚の色が変わってしまったわたしが意識をなくしそうになると、孝ちゃんはうっとりと恍惚した眼差しでわたしの頬を撫で、


『かわいそうに、日菜子。俺に傷つけられて……こんなに酷い目に。だけどお前を愛してるんだ。お前が俺を裏切らないと誓うなら、もう二度とお前を傷つけないと約束する。だから言ってくれ日菜子。俺を愛してるから裏切らない、って』


 愛してる、と甘い囁きとともに抱擁とキスをくれて、いたわるような愛撫で空が白むまで愛を注いでくれた孝ちゃんを、わたしは許して裏切らないと誓ったのだった。

 まだここで警察に飛び込むなりの判断に至れば、現在までこんなに苦しむことはなかったし、心も体もボロボロにもならなかった。

 その前に両親に相談をしていたのなら、また違った選択があったかもしれない。チャンスだって何度もあったなずなのに……。

 でも、わたしは孝ちゃんが与える暴力と愛撫の極端を行き来するうちに、そういった判断が崩壊してしまったのだと思う。それに、今頃両親に言ったとしても、外では人あたりの良い態度の孝ちゃんが、早々に両親を篭絡し、信用を得てしまってる状況では、わたしの妄言として片付けられ、孝ちゃんのしつけと称した暴力が増えるだけだろう。


 結局周囲の人たちから「あんなに素敵な恋人が暴力なんて振るうわけないじゃない」と口を揃えて言い、わたしの伸ばした救いを求める手は空気を掴んだだけだった。

 日毎わたしという存在はゴミ屑よろしく握りつぶされて、それから大事なものを扱うように愛されるを繰り返し、繰り返し、わたしはとうとう壊れてしまった。




 邂逅に思考を沈めながらも、全身は孝ちゃんからの叱責を少しでも軽くなるようにと祈りながら猛ダッシュで向かっている。

 せっかく女性同士の集まりだからと、少し背伸びして履いた十センチピンヒールのパンプスは走るのに邪魔で、途中で脱いでバトンよろしく両手に握り、湿度の高くぬるい空気は、着ていたシフォンのワンピースをあっという間に汗で肌に貼り付き、ゆるく毛先を巻いた髪も汗で濡れて顔にべったりとくっついてしまっていた。

 それでも痛いのは嫌だから、必死に足を動かして孝ちゃんが待つ自宅近くの公園へと到着したのは、先ほどの電話から一時間経過した頃だった。


「遅いんだよ」

「ご……ぃ、いた……っ」


 普通なら電車に乗って十五分の距離を、人の力の限界までを振り絞って現れたわたしに、仕事帰りなのかスーツ姿の孝ちゃんは、苦々しげに吐き捨てると、ボロボロになったストッキングに包まれた剥き出しの足を踵で踏みつけてきたのだ。

 革靴の踵が柔らかな肌にギリギリとめり込み、激痛が襲う。痛みを逃すために叫びたいけど、そんなことをしようものなら苛烈な仕置きがさらにわたしを傷つけるだろう。

 唇を血が滲むほど固く噛み締め、痛みに耐えていると、不意に苦痛が止まる。


「ああ、痛かっただろう日菜子。でも、日菜子が俺の言うことを聞かないのが悪いって分かってるだろう?」

「……うん。孝ちゃんごめんなさい」


 反省しているようにくしゃりと顔を歪め謝罪をすれば、きっと孝ちゃんの気分はおさまると、染み付いた体がプログラムのように言葉を告げる。


「分かってくれたらいいんだ、日菜子。俺も素直で可愛い日菜子を愛してるよ」


 違うよ、孝ちゃん。愚直で従順な女が好きなんでしょ?

 本音が漏れそうになったが、弱々しい笑みを孝ちゃんに向け、連絡をするまで逢っていた人たちから聞いた話を切り出した。


「へえ、あのドリームランドにそんな場所があるのか」


 ドリームランドとは、わたしたちが住む街の外れにある、今は営業していない遊園地のことだ。過去にその存在を知ったわたしは、色んなサイトを巡っては情報を集めていた。中でも一番興味を惹かれたのは、ミラーハウスの噂。

 ありきたりな内容だったけども、わたしは強く内容に惹かれていた。と、同時に頭に強い痛みも伴ったけど。

 そうして、わたしと同じようにドリームランドに惹かれた者たちが、乃亜という女性を中心にして、今日集まったのだ。


「ねえ、孝ちゃん。これからそのミラーハウスに行ってみない?」

「は? 別に俺は興味ないし……」


 わたしは知っていた。あれだけ傍若無人にわたしを痛めつけるくせに、オカルティックな事が苦手なのだと。


(でも、それじゃ困るんだけど……)


 何度か誘いをかけるものの、拒絶の意を示す孝ちゃんの首にスルリと自分の腕を絡めると耳元に唇を寄せて、甘ったるい声でそっと囁く。


「そのミラーハウスで、わたしを、好きにしてもいいよ……?」


 自ら密室で彼に従順になると告げると、あれだけ渋っていた孝ちゃんは、


「俺は興味ないけど、日菜子がどうしてもって言うなら、仕方ないけど連れて行ってやるよ」


 と、あっさり承諾したのだった。




 最初、孝ちゃんは自身の車で行くと言うのだが、それだと帰りは疲れてるだろうし、運転は危ないだろうから、電車で行って朝まで一緒に過ごそうと告げると、孝ちゃんは何を想像したのか、ゴクリと喉を上下させ快諾してくれた。


「孝ちゃんは先に行って待っててくれる? わたし汗だらけだし、一度帰って着替えたいんだけど……」


 実際、汗に濡れて乾く様子もないシフォン生地が肌にまとわりついて気持ちが悪い。陽が落ちた外では分からないが、駅などの明るい場所だと下着まで透けているのが分かるかもしれない。そんな格好で歩けるほど、わたしは豪胆ではない。


「それじゃあ、向こうの駅で落ち合おう。……ちゃんと来いよ」


 一瞬、反対されるかなと思ったが、彼の事情を鑑みてみれば、間を置かずそんな言葉が返ってきたのである。

 さっさと駅へと歩きだした孝ちゃんを見送り、その姿が完全に暗闇に消えると、わたしは踵を返して自宅へと向かった。


「ただいまー」

「おかえり、日菜子。今日は楽しかった?」


 リビングに入ると、丁度父親の晩酌をお盆に載せた母が出迎えてくれる。


「うん。ところでお父さんは?」

「今お風呂に……」

「おい、出たぞ。って、日菜子帰ったのか」


 母の説明を遮るように、肩からタオルをかけたパジャマ姿の父が姿を現す。一瞬、ぎょっとした顔を浮かべたのは、気のせいだろうか。


「ただいま、お父さん。あ、お母さん、わたしこれからお風呂使ってもいい? あと、今日は疲れたから早く寝ちゃうね」


 いいわよ、と母はソファに座った父にお盆のものを渡しながら、首肯してくれた。お言葉に甘えて先にお風呂をいただこう。

 リビングと廊下を繋ぐドアの枠に手をかけると、木製の枠のいたるところに傷ついた部分があるのに気づく。中には何か重いものでもぶつけたのか、へこんでいる所もある。

 この家は新築で購入したと聞いてたから、引越しの時にやらかしたのかな、と予想してみるけど、それにしてはまだ傷はそこまでの経年を経てないように見える。

 わたしは首を傾げつつも、不快感のが勝ってお風呂場へと直行したのだった。




 本当はもっとゆっくりと疲れを取りたかったけど、あまり待たせては孝ちゃんの逆鱗に触れる恐れがある。ざっくりとシャワーを浴びて、彼好みのふわりとしたフレアーミニスカートと、袖口が広がったカットソーに着替えると、腫れてあざになった足を治療して、リビングにいるであろう両親に気づかれないように静かに家を出た。

 リビングから微かに「日菜子が……」と言ってるように聞こえたのは空耳だろうか。


 厚底のサンダルで駆けながら駅に到着すると、運良く快速の電車が着ていたので飛び乗る。週末の夜のせいか車内はわずかに化粧とアルコールの臭いが混じっていて気分が悪い。

 見回して一人分の空席を見つけると、そこに腰を下ろして息をつく。


「きっと暑いだろうなぁ……」


 この暑い中、人気のなく薄暗い駅の改札で待つ男の姿を想像し、ずっと疼く足の痛みがわずかに軽減したのを感じた。


「うふふ」


 カタンゴトンと電車に揺られていると、街の光と連動するように人も減っていき、遊園地のある駅につく頃には、乗車しているのはわたし一人だけとなっていた。

 これは都合がいい。

 わたしは行儀悪く気だるさの残る足を投げ出し、座席の背もたれに背中を預ける。はたから見たら酔っ払いのようだが、他に誰かが居るわけでもないし、少しでも体力を温存したかった。


「疲れた……」


 ふ、と言葉が漏れ落ちる。

 こんな事ではいけないと分かっている。でも、逃げたらどうなるか知っているから、行動に移せないのだ。

 まるで蟻地獄のようだと称したのは誰だったか。

 飴と鞭をたくみに使いこなし、わたしを雁字搦めに縛り付ける孝ちゃん。好きだったし、愛してもいた。

 でも、それももうじき……。


 ――○○駅ー。○○駅ー。


 アナウンスが唐突に聞こえると、よっこいしょと勢いをつけて座席を立ち上がる。

 電車はゆっくりとほの暗い駅のホームへと滑り込み、乗降口の扉が開くとむわりと蒸し暑い空気がわたしを包む。かすかに潮の香りがして、どこか懐かしささえ憶えながら、改札で待っているであろう孝ちゃんへと、駆け足で向かったのだった。


「孝ちゃん、待った?」


 駅の入口で背中を向けて立っている孝ちゃんへ声をかける。すると、慌てて振り返った彼は手にしていたスマホを操作して、スーツのポケットへとしまいこんでいた。


「ずいぶん早かったな……」

「うん、早く来いって孝ちゃんが言ってたから」

「ああ、そうだったな」


 孝ちゃんは「行くか」と言って、わたしより先に前を歩く。


「……」


 ねえ、孝ちゃん。今ちいさくだけど舌打ちしたよね。あと、わたし聞こえちゃったよ。切る寸前、かすかに女の人の声が「孝介」って呼んでたのを。


「……」


 ちくり、と胸に針が刺さったような痛みが走る。

 わたしはわずかに浮かんだ痛みを振り切り、孝ちゃんの後を追いかけた。




 周囲に街灯がないせいか、ドリームランドは漆黒の影でわたしたちを迎えてくれた。

 門は錆び付き、かつてはカラフルな文字が踊っていたはずの看板はところどころが色が剥げ、なんというか不気味の一言だ。


「なんつーか、気味悪いところだな」


 ポツリと呟く孝ちゃんの顔色は、なんとなくだけど悪い。いつもは虚勢張ってるけど、本当は苦手だもんね。


「でも、孝ちゃんは強いから平気でしょ?」

「ま、まあな」


 腕に自分の腕を絡ませ、にっこり笑って話すと、孝ちゃんは少しどもりながら強気の口調で返した。


 二人並んで廃れた遊園地内を歩く。

 あんなに入るのも簡単だったのに、他に人がいる気配がない。もしかしたら人が居るかも知れないけど、広大だから気づかないだけかも。


「そういや、さっき言ってたミラーハウスってどこにあるんだよ」


 怯えてる様子を隠して、孝ちゃんが尋ねてくる。


「たしか、園の一番奥だった筈」

「……マジかよ」

「怖いなら、やっぱりやめておく?」

「だ、誰が怖いって言ったんだよ! お前、ここに来てから随分態度でかくなったよな」


 普段なら、ここですかさずわたしを殴ってるだろう。それをしないのは怖いって言ってるのと同意味だと、本人は気づいてないらしい。

 それでも引き返そうとしないのは、これから起きる出来事に、期待を馳せているせいもあるのだろう。


(馬鹿な男……)


 心の中で蔑み、わたしは孝ちゃんの手を引いて、遊園地最奥にあるミラーハウスへと導いたのだった。


 かつて一度だけ来たことのある場所は、意外と迷うことなく着く事ができた。

 六角形柱に傘のような屋根がついた建物。人がひとり通れるほどの入口にはミラーハウスへようこそ、とかろうじて読める文字が並んでいる。

 中に入ってみると、墨を流したように真っ暗で、わたしと孝ちゃんはお互いのスマホを明かり頼りに奥へと進んだ。

 地面がコンクリートだからか、孝ちゃんの革靴の音が反響して耳にうるさい。

 カツコツ、と脳に響く。うるさい。ああ、もう鬱陶しい。

 耳を塞ぎたいのに、片手にはスマホを持ってるせいで半分しか音が塞げない。


「うるさいなぁ」


 嘆息まじりにそう呟いた途端、イラつく原因だった靴音がふつりと止んだ。


「なんか言ったか?」

「え? わたし何か言った?」


 コテンと首を倒して質問を返してみると、孝ちゃんは「だったらいい」と言葉を吐いて先を歩いた。

 外から見た時は小さな建物だったのに、グネグネと設置された鏡のせいか、自分がとてつもなく広い場所に迷い込んだ気分になる。

 色んな角度のわたしが映る鏡は、長い間廃墟だったにも拘らずヒビも割れもなく、磨かれたばかりのように綺麗だ。

 わたしは時折孝ちゃんに送れないよう、早足で進みながらも周囲に巡る鏡に映る自分を探す。

 鏡の中のわたしは、感情という色もない顔ばかりで見つめ返している。が、ふとその中に別の表情が目の端をよぎった。

 たったひとつ、今にも殺したいと言わんばかりにギラつく双眸をわたしに向け、歯を食いしばってる姿は、同じ自分とは思えないほど醜悪だ。


(わたし、ってあんなに醜い顔もするのか……)


 思いもよらぬ発見とはこのことだろう。そして、その憎悪に満ちた自分を見つけたおかげで、目的の場所を思い出し、


「孝ちゃん、ここで……しよ?」


 孝ちゃんのスーツの袖を引っ張り、可愛い声を作っておねだりしたのだった。


 はあはあ、と粗い呼吸と互いの唾液を絡ませる水音が響く。

 孝ちゃんはいつも以上に興奮しているようだ。きっと鏡に映る姿が大勢の人に囲まれているようで、嗜虐心が高ぶっているのかもしれない。

 カットソーの上から胸を強く鷲掴みされ、思わず痛みに眉をしかめる。孝ちゃんは痛いほどの愛撫をすれば、わたしが喜ぶと勘違いしているのか、いつもアザの上に指のアザが混在していた。


(そんなので気持ちいいと思えるのは、マゾヒストだけだと思うんだけど)


 胸の形が変わるほど喰いこむ指が痛くて、わたしは孝ちゃんの胸板に手を置くと、思い切り突き飛ばした。


「っ、つう……。なにしやがる! 日菜子!」


 背中をしたたかに打ち付けたせいか息を詰めた後、孝ちゃんは尻餅をついたまま怒鳴ってくる。


「……痛いのよ。というか、あんな下手な愛撫で女が喜ぶって勘違いしてるの?」

「……な!」


 わたしは皺だらけになったカットソーの裾を直しながら、男に向かって笑いかけた。案の定、煽られた男は怒りで顔を真っ赤にして今にも爆発しそうだ。


「ねえ、孝ちゃん。わたしね、今の孝ちゃんが大嫌いなの」

「はあ? お前、なにふざけた事ぬかしてんだよ!」


 怒りに震えながら立ち上がった男は、冷ややかに微笑うわたしに、振り上げた拳を向けようとする。


「……え?」


 男が振りかぶった拳は、バリンと音をたてて鏡の中に吸い込まれる。わたしだと思ったのは、鏡に映るわたしの幻なのだから。


「残念。それはわたしじゃないよ」


 クスクス笑いを漏らし、わたしは男の背後に回ると、ドンと男の広い背中を押す。すると、男の体は驚きと怯えに変わったまま、男が作った鏡の穴に吸い込まれていった。


「やめろ! やめてくれええええええ……!」


 声ごと男の姿も闇に消えていく。

 わたしはふう、と息をつくと、今もわたしを射貫かんばかりの視線を向ける『わたし』へと顔を向ける。


「あなたは、あの男と仲良くすれば? まあ、自分勝手な者同士、仲良くできるかは分からないけどね」


 そう告げ、出口へと足を踏み出すと、コツリとつま先に何か硬いものが当たった感触を感じる。自分のスマホを動かし音の正体を探ると、足元に男のものだったスマホが転がっていた。

 わたしはソレを拾うと、今しがた男が吸い込まれた穴へと放る。


「それは新しい孝ちゃん・・・・・・・には必要ないから、あなたに返すね」


 もう二度と会うことのないだろう、過去の恋人に告げた。




 これだけの鏡に囲まれながらも、結局迷うこともなく入口まで出たわたしに、


「日菜子」


 と、まるで愛おしいものを呼ぶ声が聞こえ、わたしはそちらへと首を動かす。そこには、スーツ姿で、うるさい象徴だった磨かれた革靴を履いた、わたしの愛しい恋人の坂本孝介がわたしに微笑み立っていた。


「孝ちゃん!」

「日菜子」


 孝ちゃんの胸に飛び込むと、彼はこれまで一度だってした事のない、柔らかくわたしを抱きしめ、少し乱れた髪を梳いてくれる。


「愛してるよ、日菜子。俺にはお前だけしかいない」


 ちゅ、と啄むようにキスをし、孝ちゃんはわたしに愛を囁く。


「わたしも孝ちゃんだけを愛してる。もう他には目を向けないでね」

「もちろん。俺は日菜子しか愛してないからね」


 これまで欲して得る事のなかった愛の囁きに、わたしは笑みを深くして彼の唇に応える。


 ――ドリームランドのミラーハウスでは、

時々人が別の人になるという噂がある。


 それは噂ではなく、本当のこと。


 なぜなら、かつての日菜子がここで別の人格と入れ替わった経験があるのだから。

 本当の日菜子は中学時代から家で暴れるようになり、度重なる暴力に疲れ果てた両親は、ドリームランドに潜むシャッガイという神の使いが心を入れ替えてくれるという噂を聞き、幼い日菜子を薬で眠らせ、このミラーハウスへと連れてきたのだ。

 途中目を覚ました日菜子は当然暴れ、自らが作った鏡の隙間に消えたのを確認した両親は、入口に立つわたしの従順な様子を見て、涙ながらに抱きしめてくれた。

 それ以降、わたしは日菜子として生きている。

 だが、幸運な誤算だったのは、従順になったがために、ろくでもない男が寄ってくれるようになった事だった。

 定期的に鏡の住人たちに『生贄』を用意しては、人格――正確には精神交換して別の人間になっているのだが、おかげでシャッガイたちからも褒められているから、そう悪いことばかりではない。


「帰ろう、日菜子」

「うん。あ、そうだ」

「なに?」

「孝ちゃん、すぐにでも引越ししたほうがいいかもよ。あの人、わたしの他にも女の人いっぱいいて、しょっちゅう家にも呼んでたらしいから」


 新しい孝ちゃんは、わたしからの忠告に顔をしかめて考え込んだ様子を見せたあと、


「それじゃあ、明日は休みだし、一緒に不動産屋を回ろうか。ご両親から許しがもらえたら、一緒に住めるくらいの部屋にしよう」


 ふわりと微笑み、わたしの手を握り締めた。








「シャンたちも残酷なのか、可愛いところがあるというか。まあ、どちらにしても元の彼らにとっては地獄よりも辛いしかないかしらね」


 遠くに消えていく二つの幸せそうなカップルを眺め、真紅の唇を笑みに歪めた黒髪の女は、そう呟き暗闇に溶けていった――。

 

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鏡の中で待つものは…… 藍沢真啓 @bloody-cage

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