1 // 神崎アサヒ:標的を見据えるも……
“月観”第2支社は、第2階層中央区に位置する、緑溢れる知性と優しさの庭だ。鈍い暖色――茶色の建造物群が立ち並び、同時に自然公園のように随所に植物が植えられ、それらの建造物群は全市民にオープンにされている。図書館、保管庫、博物館、“月観”への直接的な問い合わせ窓口―――そして、民事裁判所。
この新東京で唯一生き残った旧時代的な法治。それを直轄しているのが、“月観”第2支社。
そしてその優しさと公的性溢れる施設の更に中心、第2支社長の居城、権力の割にこじんまりとしたオフィス――落ち着いた色合いのそこには、柔和な印象の男が座っていた。
西洋の血が混じった金色の髪に、灰色の瞳。眼鏡を掛けて、物事も態度も柔らかい男、第2支社長――来島マサキ。
彼は来客に問う。
「……つまり、僕に“月観”を、輝久を裏切って欲しいと、そう言っているのかな?」
柔和な瞳に冷静さと知性が宿っている。来島マサキはただ優しいだけの男ではない。元々弁護士であり、そこでの経営手腕を買われて“月観”に吸収され、“アマテラス”を絶対の法にした上で同時に民事に関してのみ残し完全に法と言う概念がこの箱庭から失われる事を阻止した男だ。弁護よりも政治的手腕の方が長けている男――。
それを前に、来客は応えた。
「ええ。端的に言えば、そうなります」
小脇に真っ赤なコートとシルクハットを置いた男だ。普段のようにふざける気配すら見せず、道化を脱げばもう切れ者のマフィアのような、白いスーツの男。
神崎アサヒは、自身の――そしてその妹にとっても間違いなく恩人であるマサキに言う。
「タツマさんをボクが殺した。それは知っているでしょう?」
「まあね。……君はそういう仕事で、ここはそういう世界だ」
「タツマさんは“月観”を裏切っていた。ボクの名前を使ってレイカくんを動かし、“妖精”をテロリストに明け渡そうとした。加室タツマ自身はそれほどでもなかったが、加室と言う共同体はまだそれなりの力と“月観”に匹敵する技術力を持っていた。第1階層から見事“妖精”を野に放つ事には成功した。加室タツマがそれをしようとした動機は?」
「“ハンド・メイド・エデン”が気に食わなかったんだろう。僕としても、気分としては同じだ」
「“ハンド・メイド・エデン”もそうですが、レイヤードに関しても、です。それを“月観”の上層部が独占している事が、タツマは気に食わなかった。――それら全ての情報を奪い取れるだけの技術や能力が加室にはあったという事です」
「それで?」
「道雁寺輝久のレイヤードの内容を、タツマさんは知っていた。そして、それをボクは最後に聞き出した」
「それは凄いね。それで、聞きたいのは?」
「……道雁寺輝久はどこにいるんですか?」
柔和な瞳を、鋭く睨み返し――冷徹さの孕んだ声で、アサヒは言う。
そんな若者――少年の頃、両親の敵とマサキを頼ってきた、あの頃に近い生き急いだ目をしている亡き旧友の息子を前に、マサキは一つ息を吐いた。
それから椅子から立ち上がると、コーヒーメーカーに歩み寄り、黒く濁った液体を注ぐと、アサヒの前に置き、言う。
「ミルクや砂糖は、好きにとってくれ。セルフサービスでね。確か、甘いものが好きだったよね、アサヒくんは。サヤちゃんは、あんまり得意じゃなかったみたいだけど……」
「今、甘いモノは欲しくありません。欲しいのは別です」
言い放ったアサヒをよそに、マサキはまたコーヒーを注ぎ、それを手に、椅子に深く座り込み……そして、一口啜ってから言う。
「知らない、と言ったら」
「そんなはずはない。貴方は実質的な“月観”の統括者だ。自分の欲望しか考えていない道雁寺輝久と違って、貴方が“月観”を、社会を維持している」
「……なら、応えられない、と言ったら?おそらく、今君がこうして生き急いでいるのと同じ理由で」
黙り込んだアサヒを横目に、マサキは続ける。
「僕は“アマテラス”自体には賛成だった。“アマテラス”による法治自体にはね。あの頃は良かった。輝久も確かに合理的で過ちのない正義を志していた。けれど、それが歪んでしまった。妻を失い、息子もまた失ったに等しい状況になり……痛ましい事だ」
マサキは、カップの中身、深淵の色をした液体を覗き込む。
「“アマテラス”のアップデート。いや、“アマテラス”によるアップデートには、反対だった。強制的に自分の理想とする世界を新東京の全住民に押し付けるなんて、僕は嫌だった。まして、その過程でアップデートを阻止できる可能性のある人間を殺害するだなんてね。僕への裏切りに等しい。だから僕は、君が輝久に牙を剥くのを静観した。因果応報だ、世界は案外そうやってシンプルに動いている。それらが全て同時に重なり合うから、複雑に見えるだけだ」
マサキは、カップを置いた。それから視線をアサヒに向ける。
「その頃と僕のスタンスは変わらないよ。君の単純な復讐には理解を示そう。だが、かといって手を貸したりはしない。僕はね、これで結構家族が可愛い。仕事仕事で碌に構ってやれていないけどね。だからと言って愛していない訳でもなければ、大切でない訳でもない」
口を開かないアサヒを眺めながら、アサヒは優しい声音で言う。
「僕は君を息子のように思っているよ。けれど、もう巣立ったとも思っている。君は君の思想があって、君の力で生きていけるとね。実際、輝久を殺し損ねた後の君のスタンスは僕と同じだった。守る者の為に最効率で合理的に行動を重ねて行く。僕よりも君の方が手段を選んではいないね。それを、僕は責める気はない。ただ、今、今日、訪れた君を見て、僕は不思議には思う。……なぜ、今更、そう焦っているんだい?」
「……ッ、」
アサヒの顔に、僅かに苛立ちが浮かんだ。叱られているかのような、苛立ち。余裕のない表情が。それを眺め……マサキは言う。
「……これだけは言わせてほしい。僕は中立だ。誰が勝とうと関心がない、と言う訳じゃない。誰が勝った所で、その後、実務は僕が受け持とう。妻に、娘に明るい社会を。表層的に社会を統治する存在がどう変わったとしても、僕のその根底は変わらない。だからね、アサヒくん。僕はシステムみたいなモノだ。僕は誰も裏切らない。君の事も、輝久の事も。ただ、今君は直情的に動いている事を自覚した方が良い。予測されやすい行動をとっている、と言う事を」
宥めるような口調で、叱りつけるようにマサキは言って、それからコーヒーカップをまた手に取った。
「君の質問に答えようか。道雁寺輝久は、このすぐ下の階にいるよ。君を待っている。話があるそうだ」
それを聞いた瞬間、アサヒの表情は、露骨に歪んだ。苛立ちだ。輝久に対して、あるいは、予想しやすい行動をとってしまっている自分に対して。
それからアサヒは、横に置いてあったシルクハットに手を伸ばす。
「……そうですか。わかりました。では、」
そう言って、シルクハットをかぶった直後――アサヒの姿が、まるで手品のように、忽然と消え去った。
後に残ったのは、まったく手のついていないコーヒーカップただ一つ。
「……難儀だね」
呟いたマサキの視線の先で、ひとりでに扉が開き、姿の認識できない何者かが、その部屋を出て行った――。
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