② あったかいね、銭湯

 地球はデボン宅に居候させてもらうことになった。やっと休める。なんだかやけに疲れたので、この街でひと段落することにした。デボンにお願いされたから――もうしょうがないな――彼の家の描写をする。グーテンキョートの中心街から少し離れた山のなかにそれはあった。朱い鳥居が千本も並んでトンネルのようになっている階段を一番上まで登っていくと、そこにある。自然と溶けこんだ木造建築で、ほかの家と同じように景観を邪魔しない配慮がされていた。近くには川が流れているようで、縁側で森の木漏れ日を浴びていると、水の音が聴こえてくる。鹿や猿、猪が辺りを歩いている。

 デボンの家には囲炉裏があり、壁には古代魚ダンクルオステウスの絵が飾られている。

 季節は夏になった。森は緑になった。風鈴の音が心地よい。ししおどしのからんという音も疲れを癒してくれる。蝉が鳴いていた。地球は、ここまで旅を共にしてきた桜色の服では暑くなってきたので、もっと薄手で風通しの良い緑色の服を着ることにし、一日を縁側で日向ぼっこするか、街へ繰り出してぶらぶら歩くかのどちらかに費やした。


 ――――地球はのこった水をぐいっと飲み干して、店を出た。もう夕方で、見上げると、砂漠の砂紋を思わせるオレンジの雲。エンヘドゥアンナの横顔が蘇る。レオナルド・ダ・ヴィンチの絵でよく見るような薄くくすんだ水色と、ピンクが混じり合った綿菓子のようなスウィートな空。そこに巨大な朝刊が映し出されていた。グーテンキョートのヒトビトは、わざわざ地上新聞を見にいったりはしない。こっちはもっと技術が進み、空に新聞を記すことができるようになっている。〈天空新聞〉だ。

《三三〇人夫夫、幸せな家庭生活に迫る!》

《月の急接近。衝突の恐れあり。陰謀か》

 見出しにはこうあった。

《バールバラ地区、酸素断絶。生存者確認されず》

 物騒な夕刊だ。街のヒトたちも新聞を見上げて、口々に意見を述べていた。「またひとつ見せしめにされたな」「ポッドキューの同志か」「刃向かうからだ。敵うわけねえ」

 それにしても大きな文字で見やすいのだが、ずっと空を見上げていると首が痛くなってくる。そこが難点だ。


 グーテンキョートに来てから一週間が経った。この頃になると、もはや地球は街に繰り出そうとはせず、一日中、縁側に座っていた。オルドビスとデボンが心配そうに声をかけるが、機械的な返事しか返ってこない。

「王さまはいったいどうしたってんだ」デボンが降参したようにいった。

「わからないのか、恋だよ」とオルドビス。

「えっ。あの王さまが? お相手は?」

「直接お尋ねしようではないか」

 切った爪みたいな月が空に貼り付いている。あたりは真っ暗で、コオロギの声が森に響く。光った蛍がたくさんあたりを飛んでいて、地球はエンヘドゥアンナと見上げたウトナピシュテムの星空を思い出す。縁側できなこ餅を食べながら、地球はそれを眺めていた。背中から地球を呼ぶ声がした。振り向くとオルドビスとデボンがやけにニヤニヤしながらやってきた。

「綺麗ですな蛍」

「え、あ、ああ」

「なにか考えごとですか?」オルドビスが訊いた。

「……なんだか苦しいんだ」

「それはきっと……恋ですね」

「なっ! 恋! このわたしが、か? そんなわけないだろ!」地球は手をぶんぶん振って否定した。

「顔が真っ赤でっせ、王さま」デボンがからかう。

「誰なんですか、誰なんですか」

「ちっ違うといっているだろう! 恋なんて動物みたいな感情を、このわたしが抱くとでもいうのか! ふんっ、だいたい、どんなにロマンチックに彩ったところで恋など所詮は種の保存。わたしは種の保存などする必要がないじゃないか。ありえない。だんじてありえない!」

「いつにもまして饒舌ですなあ王さま」

「まあまあ陛下、落ち着いてください。恥ずかしがることはありません。恋は素晴らしいことです。ほら、みてください」

 オルドビスは闇を飛び交う蛍を指差した。

「蛍の光は求愛の光なんです。綺麗でしょう」

 たしかに綺麗だった。

 静寂。

 地球はじっと蛍を見ていた。空気が重くなったところで、気分転換にデボンが温泉にいきやしょうという。なんだそれはと地球が訊くと、みんなではいる風呂でっせと返ってくる。わたしはいいというと、いきましょうと譲らない。オルドビスまで行こう行こうと主張してきて、しまいには二人して地球の腕をひっぱってくる。地球はしぶしぶ二人についていった。

 ひさびさの街だ。龍井茶の香りが漂う夜の街は灯籠で照らされ、まるで赤い蛍のようだった。ニンゲンたちは手に提灯をもって歩いている。ぼーっとしていると提灯の灯りにのって、ふわっと異世界へ飛んでいってしまいそうなくらい幻想的な空間だった。もし、この光景のジグゾーパズルがあったなら、どんなに難しくとも完成させて部屋に飾りたくなるほどの風情があった。夜風が心地よい。見上げると月が雲にかげっていて、それがまた幻想的であった。

「ここでっせ」

 そこは〈圖爹邕區巢ステュクス温泉〉という温泉宿だった。なかから湯気が立ち上っていて、檜の匂いが外まで届いた。

「泊まるのか」

 二人に訊ねると、

「いえ、日帰り湯です」という。

 三人はのれんをくぐった。

 温泉宿のなかはところどころ提灯がかけられていて明るかった。三人は受付で入湯料を払い、脱衣所で着物を脱いで、いざ風呂へ。

 その日は混浴の日で、性別にかかわらずさまざまな人類種が、湯で温まっていた。地球はかけ湯を浴び、浴場へ足を踏み入れる。

「足元すべりやすいので気をつけてくだせえ」デボンがいう。

「ん、ありがとう、ムーチョス・グラシアス」

 地球は浴場内を見渡した。湯気がたちこめていて、よくみえないが、それなりに広い空間のようだ。手前にシャワーが配置されていて、そこで裸のニンゲンたちが身体を洗っている。湯に浸かるまえに、シャワーで汗や汚れを流せということだろう。

 地球は慎重に進んで、いくつか配置されているシャワーの一つを選んだ。蛇口をひねって水を出す。風呂椅子をさっと洗い、そこに座った。まだ水が冷たい。手で温度を確認していると徐々に温かくなってきた。ようやくシャワーで全身にお湯をかける。

 両隣にオルドビスとデボンが腰かけた。二人も蛇口をひねって水を出す。なにやらまるい容れ物をまえに置いて、そこにお湯をためている。

「それはなに」

「風呂桶です」石鹸の泡をまとわせたタオルで背中を洗いながらオルドビスがいった。

「そんなんどこにあった?」

「あそこに置いてありますよ」

 浴場のなかは湯気が雲のように充満していて、ニンゲンたちの姿が蜃気楼のように目に映る。からあんという風呂桶の音が反響した。

「王さま、シャンプーとってくだせえ」とデボン。

「はいよ」

 地球がシャンプーのボトルを渡すと、デボンは手のひらに数滴たらして野生的な彼の髪をかき混ぜた。

 手のひらが積乱雲になるまでシャンプーを出し続けた地球は、「こんなこと家じゃできない。贅沢だ」と感動しながら髪に竜巻を起こした。わしゃわしゃ髪を混ぜていると、頭が羊みたいになった。鏡に映る自分の姿をみて、吹き出してしまった。

「デボン、オルドビス、みてくれ!」

 二人は羊になった地球をみて、大声で笑った。オルドビスがシャワーをかけてきた。泡が流れていく。

「羊の毛刈りみたいでっせ!」デボンもシャワーを吹きつけてきた。

 身体の汚れを落としたので、ようやく三人は湯船に浸かる。

 足先を湯につけてみたが、「あつっ」地球はちょっとはいれる気がしない。デボンはあついあつい言いながらなんとか湯のなかを進んでいた。相変わらずオルドビスは平然とした顔で、肩まで浸かっている。地球もあついあつい言いながら肩まではいった。

「はあああ」三人は魂が抜けたような声を出した。湯が皮膚をとおして体内にはいり、朝の砂浜を優しくさする穏やかな波のように染みわたった。オルドビスは足をほぐし、デボンは肩をもんでいる。

「露天風呂いきやしょう」

 そういってデボンが湯からあがり、なにやら浴場内の端にある奥の扉のほうへ向かっていった。ああそうだなと言い、オルドビスもそのあとについていく。え、なになにと地球もあとを追った。デボンが扉をあけると、凍えるような寒さにおそわれた。そこは外だったのだ。

「さっむ! ここなに!」地球がいうとオルドビスが笑った。

「はっはっは! 露天風呂です。いわば外にある風呂ですよ、ほら」

 灯籠の明かりに照らされた暗闇をみると、灰色の岩が向こうのほうまで円形に並べられていて、大きな円のなかに湯があった。湯気が火山の噴火のように立ち昇り、闇夜に吸い込まれていた。

 夜風が正面から吹きつけて、はやく湯にはいれと急かす。三人は露天風呂につかって、奥のほうまで移動した。

「はあああ」また魂が抜けた。噴火のような湯気が風にのって、湯の上を漂っている。戦場を突撃する戦士たちのように湯気が隊を成してこちらに向かってきた。

「気持ちいいなあ」デボンが心の底から声を出した。地球も同感だった。外界にさらされている顔は本来寒いはずなのに、身体があたたかいので、なんだか余計、全身があたたかいような気がしてくる。いつのまにか雲は綺麗さっぱりなくなって、星が蛍のように光っていた。

 会話は文学の話になった。「ニンゲン界には文学っていうおもしろいものがあるんですよ」足を湯につけた状態で、岩に腰掛けながらオルドビスがいった。「粘土板とか壁画とか地上絵とか音楽とか、文学には色々あるんです。拙者は粘土板が好きでして」

「最近なにかおもしろいの読んだか?」デボンが訊いた。よく見ると奥に猿が浸かっている。

「最近読んだ粘土板で一番おもしろかったのは、『やめたいよう』かなあ」オルドビスがしみじみと言った。

「どんな話だ?」デボンも岩に腰掛けた。

「擬人化された太陽が主人公の物語で、仕事をやめた太陽が地球へバカンスに来るんだよ」

「へえ! 太陽! それにわたしが舞台か! なんか親近感あるな」地球は興味がわいた。デボンも興味をそそられたようだ。

 今度はオルドビスが「なにかおもしろいの読みました?」と尋ねた。

 地球は粘土板を読んだことがないので「いや」と言ったが、すぐに思い出したように言った。「壁画なら観た。オオサカーのなかで。全然集中できなかったけど。恋人を探しに山を登る話だったはず」

「『アラタ・サピエンス』だ! あれはおもしろいっすよ」デボンが力強く反応した。

 オルドビスも頷いている。「いま一番話題の壁画じゃないすかね。主題歌もスノーボールアースですし」

「音楽?」地球はオルドビスに尋ねた。

「ええ、知らないヒトはいないレジェンド級のアーティストグループですよ。なかでも『絶滅』って曲がもう最高で」

「いやいやそこは『ディキカ・ベイビー』だろ!」とデボン。

「『ディキカ・ベイビー』もいいよなあ」そう言って二人はディキカ・ベイベーと歌いはじめた。

 彼らの口から発せられる作品名はどれも知らないものだったが、地球は興味津々だった。二人は地球を疎外したりせず、丁寧に説明してくれた。そのおかげである。

「そうかわたしも聴いてみたいな。それに『アラタ・サピエンス』もいつかちゃんと観ないとだな」

「それなら今度、壁画館に行きませんか!」とオルドビス。

「おお! ぜひぜひ! 早速いこう! 明日いこう! いやこのあといこう!」と地球。

「もう壁画館閉まってますぜい王さま」

「ははは」

「ご、ごめん、つい」

 三人の笑いは湯のなかに溶け込んだ。見上げると月が、湯気によって蜃気楼でゆらいでいた。

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