③ いまにわかるさ、エンヘドゥアンナ

 強大な台風がウトナピシュテム町に直撃していた。地球は、ごおごおという擬音語をはじめて聴いた。この暴風雨のまえでは和傘も意味をなさない。容赦なく降りそそぐ滝のような雨と、不安をさらに駆り立てる雷が止むことはない。雨が、髪を濡らし、衣服を濡らし、肌着も湿って、身体を濡らし、心を濡らした。街灯の灯りが、弱々しくともっていて、余計心細くなる。雨を浴びたいとかっこつけたはいいもののそんな悠長なことを言っていられるレベルではなく、地球□は凍える寒さと、この先どうなるのだろうという不安で震えが止まらなかった。△帝も地球□も一言も発することなく、寂しい街灯が照らす道を、ただ歩いていく。雨も風ももはや感じなくなってきた。不安と恐怖が精神を蝕んでいく。宇宙戦争ほどのことが起きているわけでもないのに、気圧で耳が痛いわけでもないのに、夜の静けさと、暗さがいっそう地球□を心細くさせた。――いったいわたしたちはどうなってしまうのだろう。――△帝□にはとうてい言えないが、ここだけの話、地球□はすこし泣きそうになった。もし一人だったら、泣いていたにちがいない。涙を流さなかったのはひとえに△帝に見られたくなかった、ただその一心である。ずっと下を向いて歩いている△帝もきっと同じようなものだろう。心の拠り所の見当たらない極限の状況下で、二人□はお互いを拠り所にするしか道がないことを知った。

「おい無事か」

「へっちゃらよ、あんたは?」

「正直、指の感覚がなくなってきた。鼻水もとまらない」

「ったくどうしようもないわね。『隕石は流れ星』よ」

「今度はなんだ?」

「強烈な隕石におもえるようなツライ瞬間でも、あとで振り返ってみたら綺麗な思い出におもえるものよ、まるで流れ星のようにね。だからいまは耐えるの」

「はは。とんでもなくどデカイ隕石だ」

 恥ずかしいから言葉には出さないだけで二人□は心のなかでお互いを支えあって歩いた。

 どのくらい経ったろうか。しばらくすると風が止んで、そして雨も止んだ。止まない雨はないとはよく言ったもので、あれだけ荒れ狂った豪雨もぴたりと息をひそめた。葉から雫がおちる音がする。世界が目を瞑ったかのような真っ暗闇のなか、二人□は海辺の道を歩いていた。雨風は止んだが、いまだ不安は拭われない。台風のときとは打って変わって、辺りを静けさが包んでいる。とっくに服は乾いていた。さざ波の音が聞こえてきた。潮の匂いが嗅覚に届く。不安と寂しさに心が満たされていたが、ふと顔を上げるとそこには漆黒の宇宙に忽然と輝く太陽のように、これでもかと光を放って、夜空に満月が輝いていた。その光で、海面に光の道ができていた。言葉を失う絶景だった。この月のまえではあらゆる心の汚れが浄化されるようだった。それほどまでに美しい。しばらく二人□は月を眺めて、また歩きだした。

 地球□はとつぜん草むらに大の字で寝そべった。

「なにしてんのよ」とおどろく△帝。

「おまえもやってみろよ」

 そう言われるがまま、△帝は横になった。「もう、服が濡れちゃったじゃない」

 地球□が言う。「見てみろ」

 △帝は息をのんだ。満天の星空が広がっていた。台風が過ぎ去ったあとで、雲一つない透き通る夜空であった。そのおかげで大自然のプラネタリウムになっていた。まるで星たちが祭りをしているようにも見えた。舞踏会で踊っているようにも見えた。大家族で食卓を囲んでいるようにも見えた。壮大な無限のドラマが展開されていた。

「カビみたい」と△帝が言う。

「もっとましな感想はないのかよ」

 文句なしの大絶景だった。星の一つ一つが群れをなし、夜空を舞台にして大移動を繰り広げている。宇宙はきれいだ。いつの日かこの宇宙を生命で満たしてみせる。新たな宇宙をつくってみせる。

 いま、ドビュッシーの『月の光』をかけるよ。

「なんだそれは」

 クラシックさ。音色がとても美しいんだ。

 曲がかかった。ピアノの第一音だけで、ドビュッシーの織りなす究極の美の世界が宇宙を包んだ。まるで人知れず静かに涙を流しているような音色だった。それでいて、まるでそっと肌に触れるような音色だった。あらゆるしがらみがほどけていく。歩き疲れた疲労もなにもかも洗い流されていく。大地の奥底にまで浸透するピアノのメロディは、地球の心臓の鼓動であった。

「わたしの心臓の鼓動はドビュッシーの『月の光』なのか?」

 そういう設定だ。どくんどくんじゃなくて、ぽろんぽろんぽんっていうメロディなんだ。どうだ? いい曲だろ?

「わるくないな」

「物語のセンスはないくせに、選曲のセンスはあるようねえ」

 そりゃどうも。それにしてもいい景色だね。

「ああ」

 闇を照らす月、空の巨大キャンバスにまき散らされた無数の星々、この空間を最高傑作に仕立て上げるクラシック音楽、地球□はこのときのことを忘れることはないだろうと思った。

 ぬれた草むらで寝るわけにもいかないので再びさまよっていると二人□はベンチを見つけた。「ここで夜を明かそう」

「ほんとに冗談じゃないわよ」と△帝が悪態をついた。「あたし布団でしか寝たことないのに」△帝は蔑むような目でベンチを見下ろした。「こんな真っ暗なところで寝ている間に襲われたりでもしたらどうすんのよ」

「交互に寝よう。先に寝な。わたしが見張っておく」地球は□を下ろし、ベンチのそばに腰かけた。

「あんたねえ、あたしが寝てる間になにかしたらただじゃおかないからねえ」と△帝。

「興味ねえよおまえには。はやく寝ろよ」と地球。

「ふん」△帝はベンチに横になった。「さむいわね」

 あたりは静かだった。あらゆる生命が眠っているように思えた。なんだか今日はとてつもなく疲れた。こんなにも不安にかられた日はなかった。オルドビスの家が恋しい。あたたかい布団が懐かしい。どれだけ恵まれていたのかを知った。いったいどれだけのニンゲンがこうして不安にかられながら眠りにつくのだろうか。いったいどれだけのニンゲンが家をもてず、こうして外で夜を明かすのだろうか。それをおもうとなかなか寝つけなかった。こうして一人が寝ている間はもう一人が見張りをするシステムで夜を明かした。

 明かない夜はないとはよくいったものだ。不安と寂しさに震えた絶望的な夜にも朝がやってくるのだ。朝日が、地球と△帝を照らした。陽の光が神の微笑みにおもえた。駅からかなり遠くまで歩いたので駅に戻らなければならないが、空が赤い時間帯のいま、まだ龍は寝ているだろう。

 辺りを散策することにした。夜のときは暗くてなにも見えなかったが、周りは三六〇度、山で囲まれており、やはりそばに海があって、陽光がサーフィンをしていた。あけてみれば良いところであった。空気も澄んでいて、鳥の声がする。カモメかなにかが飛んでいた。しばらく歩くと、

「あら、見て」なにかを指差す△帝。見ると、ひらけたところにたった一本だけ巨木が立っている。「大きいわあ」下から見上げて△帝が感嘆の声をあげた。

 荒野にたった一人で佇む預言者のようなオーラを放つその一本松は地球□をつよく惹きつけた。この木から学ぶことがあるようにおもった。

「自分の足で立つ姿ってこんなにも素敵なのねえ」

「感動だ」地球□の心の声が漏れた。「心が震えた」

「ええ」と△帝。

 どんな荒波にも負けない不屈の精神を木から学んだ。朝から清々しい気分だ。しばらく木を見上げていた。ずっと見ているわけにもいかないのでその場をあとにし、少し離れたところに移動したもののやはり木を眺めた。世界が止まったようだった。昨晩、あれほどまでに地球たち□を苦しめた風は、いまや清らかなそよ風となって世界に微笑みを与えている。一本松の背中から朝日が昇ってきた。なんという光景だろう! なんという感動だろう! 夜の絶望も相まって感動は最高潮に達した。なにも言えず、ただ呆然と木を眺めた。空の赤が徐々に青と溶け込んでいくさまを眺めた。

「名前をつけるよ」

「いきなりなによ」

「おまえの名前をわたしがつけるって言ってんの」

「ふん」△帝はこちらと顔を合わせようとしない。「期待できないわね」

「じつは見張りをしていたときに考えてたんだ」地球□は一日のスタートを飾ったあの一本松を見ながら言った。

「エンヘドゥアンナ」

「え」

「今日からおまえはエンヘドゥアンナだ」

「ど」明らかに動揺している。エンヘドゥアンナの顔にも朝が訪れたように見えた。「どういう意味よ」

「いつかわかるさ」

 さあ、新しい一日が始まる。

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