二人が電動カートに乗るとすぐに車掌のような人が来たので、嶺子が四元を出して一人二元の切符を二枚買った。座って待っていると、しばらくしてカートは発車した。

 なにしろ人がうじゃうじゃ歩いている歩行者天国の中を、通行人をかき分けて進むのだから速度など出せない。ゆっくりゆっくりとカートは進む。

 八重子たちが歩いてきた方へと向かうので、八重子たちにとっては引き返す形となり、二人が泊まっているホテルを右に見てさらにカートは進んだ。


 そして十分ほどで、歩行者天国の反対側の終点に着いた、ここでみんな降りる。この後は普通に車道となって道は続きその両脇の歩道を歩くのだが、その歩道がまた溢れんばかりの人だ。


 「なんか中華街から山下公園さん行く道ば歩いとうみたいね」


 たしかにそうだった。見回すと、看板は漢字ばかりではなく、やたらと英文字が多いのも横浜と同じだ。そして巨大で派手な写真広告も多い。

 ホテルを出てからもう三十分も歩いただろうか、正面に鋭いとんがり屋根のあるビルが見えた。

 だが歩いていくうちにそのとんがり屋根は見えなくなった。左右はアンティックな高いビルとなったが、八重子は一階の道沿いに入っているショウウインドウの続く目新しい店ばかり見ていた。

 だが、八重子の目に不思議なものが飛び込んできたようだ。


 「あれは何ね?」


 八重子が指さす正面の遠くにひときわ高い塔があった。そのあたりはまるでランドマークタワーのようなビルがいくつも密集してそびえていたが、その中央にその高い塔がひときわ抜きんでてそびえている。

 その上部には丸い球がついていた。球の上にもまだ細く長くそびえている部分がある。周りのビルもかなりの高層ビルなのに、塔はその倍の高さはあった。もっとも、その塔に負けないくらいの高さの超高層ビルも見えた。


 今いるところの左側は入口の上に「和平飯店」と書かれた石造りの古くて高いビル、右は赤煉瓦ベースのビルで、道はその二つの建物の間を抜けると大通りにぶつかり、そこで終わりのようだった。

 信号を待って、二人は大通りの向こうに渡った。そこは前にもましてたくさんの人出があり、横たわる段差の上は大通りに沿って続く広場になっていた。


 「おばあちゃん、ちょっと振り向いてごらんなさい」


 嶺子が言うので、八重子は元来た道の方を振り向いた。


 「上」


 そう言われて見上げる八重子の目はそこでくぎ付けとなった。先ほど道の向こうから見えていた三角のとんがり屋根が、目の前のビルの上に乗っていた。そしてその左右には延々と、古い建物が並んでいた。やっとそれは八重子にとっても見覚えのある風景だった。


 「ここ、ここって」


 あとは絶句していた八重子の隣に、嶺子はにっこりと微笑んだ。

 慌てて八重子は向きを変え、あの球の乗る塔の方角に行った。だが、二人がいる広場はすぐにコンクリートの手すりのような低い壁で遮られた。八重子はその向こうを見た。思った通りにそこには大きな川があった。


 「黄浦江ワンプーこう……」


 もう一度振り返って三角屋根の乗るビルを見る。


 「キャセイホテルだ。その隣は、赤煉瓦のパレスホテル……」


 六十年余りの歳月を飛び越えた記憶が、今ようやく八重子の中によみがえりつつあった。


 「そうだ、こっちだ」


 八重子はさっさと川に沿って続く広場を歩きだした。そっちが北だということを、もう八重子はしっかりわかっているようだ。

 これまでは嶺子について歩いてきた八重子だったが、やっとここでもう嶺子が慌てて追うくらいに一人で勝手に歩きだした。


 時々振り返って外灘バンド沿いに並ぶ摩天楼を見上げる。そこには六十年前と変わらないスカイラインがあった。


 「本当に上海なんね」


 やっと八重子はつぶやいた。あまりにちょろちょろ歩くので、嶺子は八重子の襟首をぱっとつかんだ。


 「こら、放さんね」


 「だって、おばあちゃん、ちょろちょろとどっか行っちゃう」


 嶺子は笑っていた。


 「ほら、あったあった」


 八重子が目指したのは、前方に現れた公園だった。


 「これ、パブリック・ガーデンだよ」


 公園の入り口から八重子は入っていくので、嶺子もついて行った。


 「少し疲れた。休もう」


 疲れたとはいうが三十分以上歩きっぱなしで、とても八十三歳とは思えない健脚だった。むしろ嶺子の方がダウン気味だ。


 二人は花壇の見える公園に座った。ここでも周りは人でいっぱいだ。


 「この公園でしょ、昔『犬と中国人は入るべからず』って看板があったの」


 嶺子の言葉に、八重子は声を上げて笑った。


 「みんなそう信じとるな。それ、作り話だよ。そんなもの私がいた時は見たこともなか。そんな看板出ていたこともないってまことさん、あんたのパパも言いよった」


 「おばあちゃんがパパと知り合ったのも上海だものね」


 「あの人はパパで私はおばあちゃんか」


 そう言って八重子は笑っていた。

 嶺子の息子や娘が八重子のことを「横浜のおばあちゃん」と呼ぶので、いつしか嶺子もママではなくおばあちゃんと呼ぶようになっていた。


 「少し歩こう」


 八重子はまだまだ元気だ。いや、急に生き生きと元気になった。そのまま、黄浦江が見えるところまで行った。振り返ると昔のままの古いビルの列が見渡せた。ずっと遠くの時計台のあるビルまでも、昔のままだ。


 「すると、さっきずっと歩いてきたのは南京路かい?」


 「そうみたい」


 「あそこはすっかり変わってしまったね。でも、キャセイホテルとかその並びの建物は変わっとらん」


 先ほどいた外灘がいつもものすごい人で埋め尽くされていたのは変わらない。だけど昔はそこを埋め尽くしていたのは港で働く苦力クーリーたちだった。今はレジャーを楽しむ観光客で埋め尽くされている。


 そして何よりも、黄浦江の対岸を八重子は見た。


 「あの塔、何ね?」


 先ほども聞かれたのだが、嶺子は答えそびれていた。


 「ああ、あれはね、東方明珠テレビ塔」


 「高いね。マリンタワー二十個分くらいある」


 「それは大げさでしょ」


 嶺子は笑った。


 「それに高層ビルがたくさんね。ニューヨークかと思った」


 「ニューヨーク、行ったことないくせに。って、私もないけど」


 「でも、写真とかでは見たことある。それと同じだ。黄浦ワンプー江の向こうは浦東プートンだろ? 昔はなんもなかった」


 黄浦江の上も昔とは違う。どこを見てもジャンクの帆の船などないし、軍艦も停泊していない。

 そのまま、八重子は蘇州川の河口の方へ向かって歩いた。するとまた視界に、見慣れないものが飛び込んできた。公園の先端。蘇州川の黄浦江への注ぎ口に公園が三角に突き出ていたところに、何やら鋭角三角錐のようなモニュメントがあった。


 「なんだかいろいろできとるね」


 そこから蘇州川沿いに大通りに向かった。もう八重子は目が眩むほどのなつかしさに打ちのめされているようだった。

 紛れもなく記憶の中にはっきりとある蘇州川沿いに見る白い壁に赤い屋根の洋館、その向こうのアスターハウス、そしてガーデンブリッジ越しに見えるブロードウェイマンション……八重子は大きく息をついていた。そして立ち止まって、しばらく食い入るようにその景色に見入っていた。


 「あれ、ブロードウェイマンションさね。あんな小さかったかな」


 おそらく八重子の記憶の中のブロードウェイマンションは古武士然と胡坐あぐらをかいてどっしりと座り、他を見おろして天にそびえていたという感じだろう。

 今のブロードウェイマンションは周りにある同じくらいの高さのガラス張りの現代的なビルに囲まれ、その中で小さく縮こまっている。

 ちょっと右に目をやると、かつて日本国領事館があったあたりに高層ビルがいくつか建っていて、ブロードウェイマンションをはるかに見下ろしている。


 ただ、ガーデンブリッジだけは昔のままだ。

 八重子はガーデンブリッジの方まで歩き、渡ろうとした。


 「おばあちゃん、おばあちゃん」


 そんな八重子を、嶺子は慌てて呼び止めた。


 「もう遅いから、明日にしよう。今日はここまで」


 「そうか」


 八重子は残念そうだった。二人の脇を、ミニスカートの髪の長い若い女の子が二人、通り過ぎていった。


 「今のは日本人かい?」


 八重子が聞くので、嶺子は首を振った。


 「中国語話してたよ」


 「そうかい。昔は着ているもので日本人か中国人かすぐわかったのに、今の上海の若い人は横浜の若者と着てるものも全く同じなんだね」


 八重子がそんなことを感心して言う間にちょうどタクシーが通りかかったので、嶺子がそのタクシーを止めた。


 翌日、ホテルで朝食をとった。昨夜の夕食はやはりホテルの「老上海レストラン」で、結構おいしいものを食べた。

 それから身支度をして、ホテルの前からタクシーに乗った。


 行き先はガーデンブリッジだ。昨日の続きである。ガーデンブリッジのパブリック・ガーデン側の渡り口には歩道に大きく「外白渡橋」と書かれた看板があった。

 その橋の右側の歩道を、八重子と嶺子は渡った。ガーデンブリッジの真ん中の一番高くなっているところに来た。

 不思議なことに蘇州川の、このガーデンブリッジの一つ上流のすぐそばに、並行してもう一つの新しい橋が架かっている。車はそちらを通らされているようだ。

 そして黄浦江側を見ると、対岸の浦東の高層ビル群とひときわ高いテレビ塔がよく見えた。外灘のあたりから見た時はよくわからなかったが、テレビ塔は大きな球の下の方にももう一つ球があり、この球が展望台となっているようだ。まるで串刺しの団子のようだった。

 橋を渡りきると、すぐ右が塀越しにあの対岸から見えていた白い壁でオレンジ色の屋根の洋館だ。屋根の上にはとんがった塔のような部分があってそこにどこかの国の国旗がはためいていた。対岸からは木造だと思っていたが、近くで見ると石造りだった。


 「これ、どこかの国の領事館か何か?」


 嶺子が聞くと、八重子はじっとその国旗を見ていた。


 「さあ」


 八重子は遠い昔の記憶を掘り出そうとしている。


 「確かに昔もあったよ、これ」


 でも、すぐには思い出せないようだ。


 「領事館……」


 その言葉がきっかけで、八重子ははっとした顔をした。


 「ソ連の領事館……だったかも」


 「そうよ、たしかにあの旗、今のロシアの旗。去年行ったもの」


 たしかに嶺子は前の年、着物学院のショーでロシアのサンクト・ペテルブルグを訪問していたのだ。

 そして正面は、右は古い戦前のビル、左はブロードウェイマンションに挟まれて道は伸びていた。右のビルは古いフランス映画かなんかに出てきそうな白煉瓦造りの建物だった。ただ、残念なことに、その向こうには背の高い近代的高層ビルがそびえていて、アンティックな景観を壊している。


 「これ、アスターハウス」


 八重子が説明する。


 「ホテル?」


 「そう」


 「今でもホテルよ。ガイドブックに載ってた。浦江飯店って書いてあった」


 その左側のブロードウェイマンションも入口の上に「上海大廈」という看板が出ている。八重子は自分の記憶の中のそれと比べて小さいといっていたが、やはり真下に来ると見上げるくらい高かった。


 八重子は道を左に折れて、そのブロードウェイマンションの正面の方へと向かった。そのまま蘇州川沿いにブロードウェイマンションの前を通り過ぎると、最初の角で立ち止まった。


 「この道、ここで川にぶつかっていたのに、今は橋が架かってるんねえ」


 先ほどガーデンブリッジの上から見た、並行してかかっている橋のたもとがここだ。八重子の話では、この橋は以前にはなかったという。


 「ここで呉淞路は終わりだったんよ。まさかそのまま延びて橋が架かって蘇州川を渡っているなんて」


 その橋の上は、ひっきりなしに車が走っていた。


 「それに、電車の線路がない」


 「え? 市電が走ってたの?」


 「ああ」


 「そっか。横浜だってもう三十年も前に市電は廃止されたし、東京の都電も荒川線以外はみんななくなったじゃない。市電はあっちこっちで消えてるから、ここも廃止されたのね」


 「でも長崎は、まだあった」


 たしかに、長崎の路面電車は廃止される気配は全くない。


 八重子はそのまま、橋とは反対の北の方へ、ブロードウェイマンションの側面を通って歩いて行った。道の反対側の左手は、ブロードウェイマンションと同じくらいの高さのガラス張りの現代的ビルだ。

 八重子は自由に歩かせてもらっており、嶺子がついていく形だ。

 歩道の上の街灯の柱に道路名を書いた青い標識があり、白抜き文字でまぎれもなく「呉淞路」と書かれていた。それを見て八重子は目を細め、そして少しため息をついたようだった。

 今歩いているのは昔の呉淞路と同じ名前だけれども、似ても似つかない別の道という感じだ。左右の歩道の上と道の中央分離帯の上は、ずっとプラタナスの街路樹が続いていた。


 ブロードウェイマンションを過ぎるともう、そこは東京や横浜と何ら変わらない現代の都会なのである。道の行く手には高層ビル群がまた林立している。

 ただ、車道に車は多いけれど人通りはそれほどなかった。観光客はあまりここには来ないようだ。


 大きな交差点を渡って、さらに八重子はまっすぐ進む。そして次の大きな交差点の手前で、八重子の足がすくんだ。


 「あった」


 たしかに、彼女はそうつぶやいた。道の右側、交差点の手前の茶色い建物に、八重子の目はくぎ付けだ。


 「これが工部局! あんたのパパと住んでいた。ここ住んでいたんよ」


 八重子は涙声になっていた。嶺子もそれを見上げてみる。たしかに、周りの現代のビルに囲まれて、これだけがぽつんと時代に取り残されたような古いビルなのだ。


 「よく残ってた。これだけ、本当によく残ってた」


 たしかに奇跡かもしれない。


 「でも、小さくなって。昔はこの辺じゃブロードウェイマンションの次に高いビルで、ひょんと伸びて回りを見おろしてたんよ。今は周りのビルから見下ろされとる」


 その隣には確かにガラス張りの超高層ビルが建っている。まだ建築中のようだがそれでもかなりの高さで、四十階くらいありそうだ。


 「ここ、三角市場の場所」


 八重子のいう三角市場というものの跡地に、この超高層ビルは建てられているようだ。


 「教会!」


 八重子はそうつぶやくと、工部局のビルと超高層ビルとの間の道をどんどん歩いて行った。ここは細い道で、両脇は古い民家の落ち着いた町だった。八重子は曲がり角があるたびにその左の方を覗いて行った。

 そのうち、また大通りにぶつかった。


 「違う。行き過ぎた」


 一度引き返し、最初の四つ角で、今度は向きが反対なので右手になるがそちらを覗いた。


 「この道だなあ。これが南尋路?」


 ぶつぶつつぶやきながら、八重子は首をかしげている。


 「この標識は『南…』、次の字、読めない」


 嶺子が指さしたそこには、「南※路」とあった。「※」の読めない字は、さんずいにカタカナのヨの下に寸という字だが、さんずいがなければ「尋」という字に似ている。今の中国の簡体字なのかもしれない。


 「この道か。でも、教会の御聖堂おみどうの屋根も塔も見えん。このあたりからはどこからでも見えるくらい大きな教会だった」


 そう言って八重子はその南尋路と思しき道に入っていった。

 左側はかなり大きな学校のようだ。校舎は真新しい。


 「あ、教会、あるじゃない」


 嶺子が指さしたのは、その学校の向かい側になる、この道の右側だった。


 「違う。あんな小さな建物じゃない」


 八重子はそう言いながらも寄ってみると、たしかに入口の上に「天主堂」と書かれている。いかにも教会風のファサードで、その上には十字架が立っていた。

 でも、たしかに小さい。二階建ての家くらいだ。門も庭もなく、ファザードの下の入り口は道路に直接に面している。その向こう隣は白い現代のビルで、そこそこ高かった。

 場所的には確かにここなのだ。だが、八重子の知っている教会は跡形もなく、代わりにこんな小ぢんまりとした御聖堂おみどうがあるだけになっていた。

 入口の扉を押してみたが、鍵がかかっていた。脇の、高いビルとの間に黒い鉄の柵のような門扉がある入り口があるが、そこを入って人を呼んで聞いてみたところで言葉が通じないだろうし、やめた。

 八重子は肩を落とし、ため息をついていたが、やがて教会の入り口の扉に向かって十字を切って手を組み、少し祈っていた。嶺子も同じようにした。

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