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翌日朝、相談所まで兄の竜之助は迎えに来てくれた。昨日、浦上駅前での別れ際にそう約束したのだ。
「よう帰ってきた。よう帰ってきた」
と、自分の子供が生き返ったような喜びで抱きしめていた。
さっそく、そろって今竜之助が住んでいる小屋へと向かった。竜之助が麦飯の粥を作ってくれた。野菜も少しある。水は山里国民学校の井戸が水が出るというので、そこへバケツを持ってもらいに行く毎日だという。食器は竜之助が軍隊から支給されたのを持ち帰った飯盒や椀、鍋があった。火は薪がそのへんにいくらでもあって不自由しない。
こうして、この小屋での生活が始まった。
食料は町まで時々買い出しに行かねばならないようだ。
これまでは竜之助が一人で行っていたそうだが、八重子は代わりに自分が行くと言った。相談所へ行くために出島町の電停で降りたとき、電車は西浜止まりだと聞いたが、その先に思案橋の方までヤミ市があると聞いていたのだ。
八重子は子供たちを竜之助に預け、空の大きなリュックと引揚援護局から支給された現金の一部をもって、浦上駅前から電車で西浜町に向かった。
この辺りは被害も少なかったようで無事だった建物も多く、町として機能していた。
「警察に捕まるな」
出かけ間際に竜之助が念を押した。ヤミ市はあくまで違法で、売っている者だけでなく買った者も見つかれば罰せられ、せっかく買った食料も没収されるという。だが、違法でもなんでもそれに手を出さねば生きていけない世の中だ。
そうして八重子は無事に、ジャガイモを多数とわずかな麦飯、野菜、魚などをリュックいっぱい買って帰ってきた。そんな八重子に竜之助は言った.
「ご苦労じゃったなあ」
「いいや、なあ、
ほかの野菜だと種を入手するのが大変だが、イモはそれ自体が種になる。
「どこに植えっとね」
「庭」
たしかにあの大きな家があった敷地に今は八畳一間の小屋が建っているだけだから、空いている土地もたくさんある。だがまずは、そこに散乱している瓦礫をかたづけなければならない。
それからは毎日、兄妹で力を合わせてそんな瓦礫をどかし、畑になるように土地を平らにして耕していった。信吉と嶺子は、その周りでいつもちょろちょろと遊んでいた。
「
「あ、
瓦礫の山は格好の遊び場だ。まだこの子供たちは、それがどんな悲惨な出来事の結果でできたものなのかわかっていない。
「けがしないでよ!」
八重子はそう叫びながらも、遠くに行きようもないのである程度放っていた。
そうして瓦礫をどかしていくうちに、時々焼けただれた白骨があちこちから出てきたりする。
そんなときは八重子は悲鳴を上げて、逃げ腰になる。
「そぎゃんもんでいちいち太か声ば出すな」
そのたびに兄に叱られる。すでにこのあたりが焼け野原となった後に、救いを求めて歩き回って力尽きてこの場所で倒れて亡くなった人たちのようだ。
そうして毎日が過ぎ、四月になった。
今年の復活祭は四月の二十一日と聞いていた。だが、それがあと何日なのか、今が何月何日なのか、そして何曜日なのか、知るすべもなく月日は過ぎて行った。
時々竜之助か八重子が食料買い出しに行ったときに、町で確認してくる。それからは柱に傷をつけて日付を刻み、かろうじて日付の見当をつけていた。ただ、確実にぽかぽかとしてきており、春はもう到来したようだった。
朝はおそらく同じ時刻だろう、天主堂の鐘が鳴る。あの残骸の脇に材木の三又に吊るされた鐘が打ち鳴らされている。ちゃんとあのそばで生活して、毎朝鐘を鳴らしてくれる信者さんがいるらしい。
その鐘の音とともに起きて兄妹は子供たちとともに座り、朝の祈りをするのが日課だった。祈りから一日が始まる。
そんなある日、いつものように庭で作業をしていると、珍しく前の道を通りかかった人がいた。
「竜之助君」
その声の方を見ると、髪が伸びて鼻髭を蓄えてはいるが、まぎれもなくあの永田先生の姿があった。
「あれ? 永田
「ええ、明日学会で大村に行かねばいけんけん、今日はここに泊まろうかと」
そしてすぐに、竜之助の隣にいた八重子をも見た。
「あれ、もしかして上海に行っちょった八重子君かね?」
「おひさしぶりです」
「無事で帰ってきたか。よかったよかった」
永田は相好を崩した。八重子は聞いた。
「こちらに泊まるっとですか?」
「ええ、あそこに」
永田が指さしたのは、かつて永田の家があったところのはす向かいの、昔は畑だったところだ。そこに八重子たちの小屋より少し小さな掘立小屋があった。今まで知らなかったが、そこが永田が仮に建てた住居らしい。
「ちょっとうちさん上がっていきよらんね」
竜之助がそういうので永田もこちらへ来ることになり、作業は中断して子供たちを呼ぶと、八重子もともに中に入った。
「いやあ、互いに無事でよかった」
実は完全に無事ではないのだが、竜之助の小屋の中で三人はとりあえずは再会を喜んだ。
八重子が永田に聞いた。
「明日、大村へ行きなさるとですか」
「ああ。今長崎医大は大村の元海軍病院を間借りして、仮にそこに移転しちょう。そこで学会と講義もああけん、明日大村さん行くだ」
「やはり助教授ですけん、忙しかとですね」
竜之助の言葉に、永田は少してれたように笑った。
「実は今年になってから、お蔭様で教授に昇格させていただいたに。博士号ももらった。ありがたかこつばい」
「ああ、それはおめでとうございます。これからは永田
永田は照れたように笑った。八重子が聞いた。
「大学病院は今どこに?」
「病院は今、五島町近くの新興善国民学校の校舎ば借りちょう」
「そぎゃんですか」
医科大学も病院も建物自体は損傷しながらも崩れずに建っていたが、やはり大学や病院として機能するのは難しいのだろう。
永田は兄妹をさっと見た。
「二人とも、原爆の時はちょうど長崎におらんかったというのも天主様のみ摂理だがね」
「
竜之助が本当に感心したようにうなずきながら言った。
「マリア様のご加護だに。私はちょうど大学病院のラジウム室におって、講義の教材の準備をしちょうたけど、突然ピカーッと閃光が窓から飛び込んできたと思った瞬間、ものすごい衝撃と爆風ですべてのものが吹き飛んで、私も飛ばされて、最初は何が起こったかわからんかった。めちゃくちゃになった室内に倒れ、頭からはようけん血が流れとった」
それから聞く話は、実に地獄絵だった。ともにいた多くの助手や研究員も崩れた机や棚の下敷きになり、全身血で真っ赤で、ガラスで動脈を切ったものも多数。なにしろ電気が消えたので室内は真っ暗だったという。
それから患者さんの救出に当たろうとしたけれどとにかく建物内は瓦礫が散乱していて身動きも取れず、脱出した学生や看護婦はみんな裏山へと逃げていき、そのうち大学全体に火の手が上がって、もはや室内にいるのは危険だったという。
「家に帰れたのは二日後だったけど家は跡形もなくて、そこで
「それは世話ばおかけ申した。ほんに、この通りたい」
竜之助が頭を下げる。
「どうぞ、お顔を上げてこしない」
永田は慌てて言った。
「
永田の目に、涙が浮かんでいた。
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