第9章 長崎、祈り

 相談所では、同じ汽車に乗ってきたと思われる人々がすでにかなりいた。八重子は職員に、自分の家の住所を告げた。


 「あああ」


 職員はすぐに、同情の顔つきを見せた。


 「浦上の上野町ねえ、そこはピカドンが落ちたとこから三、四百メートルしか離れとらんですたい」


 「ピカドン?」


 「原子爆弾のことですたい。ピカドンが落ちたんは、刑務所の南辺りですけん」


 刑務所といえば、八重子の家からすぐそばだ。

 とりあえず、今日はここに泊まって明日見に行くことになった。


 翌日も雨だった。だが、そんなに激しくはない。気温も昨日よりは幾分暖かい。

 子供たちと荷物は、相談所で預かってくれることになった。また、傘も貸してくれて、お金も百円札一枚を十円札九枚と五円札、一円札に両替してくれた。


 八重子は傘をさして、まずはまた電車に乗った。電車は浦上駅前までで、そこから先はまだ復旧していないとのことだった。

 仕方なく、浦上駅前で八重子は降りた。


 駅の向こう側には三菱の製鋼所があったが、昨日汽車の窓から見た三菱重工の兵器工場と同様に建物は鉄骨だけを残して破壊されており、その鉄骨も折れ曲がってつぶされているという感じだ。三菱重工は走る汽車の窓から遠目でだったが、この製鋼所は目の当たりにその廃墟が迫ってきており、恐ろしさは数倍だった。煙突だけが数本立っていたが、折れ曲がっている煙突もあった。


 とりあえず八重子はそれとは反対側の、浦上の町があった方へ歩き出した。

 そして見覚えのある建物が、また瓦礫が広がる廃墟の中に立っているのが見えた。かなり崩れてはいるがある程度原形をとどめているのは、八重子がほんの数カ月だけだが通った看護学校がある大学病院の建物だった。


 とりあえずは瓦礫の中の、人が通るというだけで何となく道のようになっているところを歩いてその病院まで行ってみた。

 だが、建物があるだけで病院としては機能していないようだった。まったく人の気配もない。周りの民家などはすべてなくなっており、どこまでが町だったかどこからが畑だったかもわからない。町中にもたくさん生えていた木々も幹の下の方だけを残して、あとは焼けただれていた。

 一面の瓦礫が広がる原子野の向こうの山も緑の木々はなくなって、灰色の山になっていた。まさしく断片的に入ってきた情報の、今後七十五年は草木も生えないという話が本当だったらしい。ただ、振り返ると遠くにそびえて見える稲佐山は今でも緑の山だったことが、唯一の心の救いだった。

 そして今ここから見えるものといえば、刑務所の崩れ残った壁のほかは、すぐ近くに汽車からも見た天主堂の崩れた残骸だけだ。本当ならば大学病院のあたりから天主堂は家の影で見えなかったのだが、今はまるですぐ隣にあるかのように見える。天主堂まで行けば、自分の家までの方角もわかる。


 八重子は焼け跡の中に細々と続くたった一本の、人がやっと一人通れるくらいの道を急いだ。

 町全体がこんな焼け野原になってしまって、人が生き残っているはずもない……そう思った八重子は、これからいったいどうやって生きていけばいいのか……そしてこんなところに愛する子供たちを連れてきてしまったが、いったいどうやって二人の子供を育てていけばいいのか……八重子は絶望感に打ちひしがれながら歩いていた。


 すると、天主堂だった残骸が近づくにつれ、ごくたまにではあるがリヤカーを引く人々とすれ違うこともあった。

 そしてよく見ると、焼け跡の中に横穴があって、そこで人が暮らしているようだ。おそらく防空壕だったところだろう。八重子は上海でも防空壕に避難したこともあるので、すぐにそれと分かった。

 さらには遠目では一面の瓦礫の海にしか見えないが、近くで見るともうあちこちにバラック小屋が建っているのを知った。

 こんな場所でも人は命を保ち、そして生活している。八重子は目頭が熱くなり、絶望感を抱いていた自分が恥ずかしくなった。


 天主堂の丘に着いた。聖堂は正面のファサードの下の部分がかろうじて残っており、左右の双塔は先端は鐘とともに崩壊していた。向かって左の方は根元くらいだが、向かって右は少し高さまで塔の柱は残っていた。

 奥の祭壇の方の柱も少し残っていたが、それ以外はすべてが崩れていた。

 八重子は、坂を上って天主堂の入り口のところまで行った。扉は閉まっているが、この扉を開けて入ったところでそこは聖堂ではなく、ただの瓦礫の山なのだ。

 八重子は涙を止めることもできず、扉の前にひざまずいて手を合わせた。


 「マリア様、帰ってきました。無事に帰ることができて、感謝します」


 上海で集中営に入ってからは教会に行ってもミサに与ることもできず、ご聖体拝領も告解もできなかった。だから、長崎に帰ったら天主堂でのミサに早く与りたいと、それだけを願ってきた八重子だったのだ。

 今は涙に詰まって、天主堂の残骸に向かってただ手を合わせるだけだった。

 変わり果てた故郷の姿に、今の自分は何もすることはできない。どれほどたくさんの命がこの町で奪われたことか……その霊魂のためにただ祈るしかできなかった。


 そのあと、崩れた天主堂の周りをまわってみた。向かって右には塔の先端のドームがかなり遠くのところに落下して転がっているのが見えた。だが、聖堂に向かって左側には、塔の上のドームの中にあったと思われる鐘が三本の太い材木を三又に組み合わせたその中に釣り上げられていた。近くで見ると、結構大きな鐘なのだ。

 八重子はもう一度、正面に戻った。するとそこには、先ほどは誰もいなかったのに今は人がいた。ぼろぼろの軍服と軍帽をかぶった細身の男だ。


 「八重子!」


 男は、八重子を見て叫んだ。


 「八重子ね? 上海に行っとった八重子ね?」


 「あんちゃん!」


 八重子は竜之助のそばに走りよると、六年ぶりの再会に兄妹はしっかりと抱き合った。


 「よう帰ってきた、よう帰ってきた」


 「あんちゃんも、無事だったんね」


 「ああ、俺は兵隊にとられとって、一ヶ月前に帰ってきたばっかりだったけん」


 「そうね。よか、よか」


 八重子はまた涙でぐしゃぐしゃになった。


 「子供は?」


 「引揚者相談所に預けてきたとよ」


 「そうか」


 竜之助に促されて、八重子はかつて信徒会館があったあたりに行った。なんとそこには新しい材木で新しい建物が作られ始めていた。まだ、下の床下部分が作られているに過ぎなかったが、隣にはもう材木が積まれていた。


 「新しか御聖堂おみどうば造りよっとたいよ。まだ今月に信者さんたちで作り始めたばかりだばってん、降誕祭までにはぜひと思うとる」


 「ええ、そうなんだ」


 「とりあえずの仮の御聖堂おみどうやさね、今日は雨のせいで作業は休みたい。気になって見に来てみたら、わいがおったと」


 「今はどこに」


 「前にいたとこに小屋ば建てとっと。今から行こう」


 八重子はうなずいて、竜之助とともに歩きだした。


 天主堂に隣接していた常清女学校は、赤煉瓦の二階建ての講堂のみがかろうじて残っている唯一の建物で、そのほかの校舎も修道院もすべて何もなくなっていた。その講堂も屋根はなくなり、外壁だけが崩れ残っているという感じだ。

 本当なら家が立ち並ぶ中を歩いていたはずなので、何もないとこうも周りの景色が違うものかと思う。


 今二人が歩いている先には、本来なら見えなかったかつての山里尋常小学校、今は山里国民学校となっているはずだが、そのコンクリート造りの校舎が割としっかりとした感じで廃墟の中にくっきりと見えた。だが、それとて本来の姿ではなく、満身創痍の校舎となっていた。 

 やがて坂を上りきったところにある一軒のバラック小屋に、竜之助は入っていった。


 「ここが家たい」


 「え?」


 八重子は辺りを見回した。今自分がいるところがかつての我が家のあった場所だといわれても、どうにもその感覚がなかった。もしあそこで竜之助に会わなければ、この場所に行きつけたかどうかもわからない。

 そこにあったのは、どう見ても素人が何とかありあわせの材木を積み上げたとしか思えないような掘っ立て小屋だ。広さにしてほんの八畳くらいの板張りの部屋が一間ひとまだけ。屋根はトタンだけで、当然屋根裏などというものはない。

 

 「この小屋、あんちゃんひとりでつくったんね?」


 「いいや。わい一人じゃとても無理たい。教会の信者さんたちも互いに手伝い合うて、それぞれの小屋を建てたんさね」


 八畳の部屋は当然家具など何もなく、がらんとしていた。


 「あんちゃん、あの」


 八重子が言い出しにくそうに言うのを聴き、竜之助はもう八重子が何を聴こうとしているのか察したようだ。


 「竹子も子供たちも、みんなピカドンにやられた」


 竜之助は一ついため息をついた。あれだけ大勢の家族に囲まれて暮らしていた兄が、たった一人きりになってしまっていたのだ。


 「貞子姉ちゃんは?」


 「まだなあんも知らせもなか。『満州』からの引揚はまだ時間がかかるごたる」


 『満州』でも大連などに居留していた人たちはわからないが、新京など内陸だと時間がかかるだろう。『満州』からの引揚は葫芦島ころとうというところからだそうだが、そこへ行くまでもかなり大変らしい。


 「あのう、永田先生しぇんしぇえは?」


 「ああ、あの先生しぇんしぇえはご無事たい」


 だが、八重子はこの小屋の隣、永田先生の家があったところには小屋は建っていなかったのを思い出した。


 「先生しぇんしぇえは医大で被爆しよらしたばってん、危機は免れらしたさね。ばってん今は三ツ山のゆかりさんのお母さんの実家で暮らしよらすごたる」


 「やはり爆弾のせいで?」


 「それもあるごたるばってん、もともとお体の丈夫な人じゃなかよったけんさあ」


 「じゃあ、ゆかりさんもそちらで?」


 「いや、ゆかりさんはここにおらしたんごたる。じゃけん」


 竜之助は静かに首を横に振った。八重子は自分の口に手を当てた。


 「お子さん方は三ツ山に疎開しよったけん、無事じゃったさね」


 「せめてものことね」


 それから兄妹は互いのこれまでの境遇とか話して時が過ぎた。八重子は上海でのこと、竜之助は戦地でのことなど話しているうちに、時計がないので正確にはわからないがもうかなりの時間がたったように思われた。


 「そろそろ帰らんと、暗くなる」


 そして、八重子は立ち上がりながら言った。 


 「あんちゃん、私もここに住んでよかね? 子供たちも」


 竜之助は笑った。


 「なんば言いよっとね。ここはわいのうちじゃなかね。はよ子供たちば連れてこんね」


 「うん。ばってん、もう遅か。今日は一度帰って、明日連れて来る。雨も降りよるし」


 「そぎゃんね。なら、電車まで送ろう」


 道は原子野の中を坂道となって下り、まっすぐ行くと刑務所の崩れた塀の脇を通ってかつての電車通りに出る。今は電車の線路も破壊されたままで、以前のような車の通る道でもなくなっていた。

 その道に沿って電車が動いている浦上駅前まで、ほんの二十分くらいだった。

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