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 歩けば二時間以上はかかる距離だというが、トラックだと四十分くらいで農村地帯から再び集落に入っていった。

 租界時代はここも日本人街で、本来農村だったところを新しく切り開いて街が作られたそうだ。確かに家は真新しい。建てられてからまだ三、四年くらいしか経ていないはずだ。

 五本の道が交差するのでその名のついた五条ヶ辻で、松井通りは終わりだった。交差点の真ん中はちょっとした円形の広場となっていた。

 トラックはそこから少し東に行ってから左に曲がって北へ進み。落ち着いた感じの静かな街並みを抜けて門の中に入っていった。

 そこはかなり広い広場で、その北側に巨大な建物が威容を誇っていた。それが上海特別市の市政府の庁舎だった。

 もう六年以上上海に住んでいるのに、八重子がこの市政府を見たのは初めてだった。

 正面には幅の広い長い石段があって、その上が入口だ。一応コンクリートの近代建築ではあるが、石段の上には高覧のついた回廊があり、赤い円柱で支えられているような装飾がある。石段の上は二階、そして軒下に当たるところにも窓が並んでいてもう一階あるので三階建てだが、その一階一階がかなりの高さである。

 そして建物の上はまた巨大な、寺院や城のような緑色の入母屋造りの瓦屋根で、それが天高くそびえていた。だから普通のビルの六階建てくらいの高さはありそうだ。

 そのメインの建物の左右にも、やはり大きな緑色の瓦の乗った突き出た部分があった。

 その庁舎の前で、トラックから降ろされた。

 まだ雨は降っているが、ずぶぬれのまま八重子たちはその広場に並べられた。ほかのトラックから降りた人たちも併せて、相当な数になった。

 そのまま、二時間以上歩いてこちらへ向かっている人たちを待たせられた。

 やがて今回同じ船に乗る人たちもだいたいそろったようで、八重子たちが並ぶ列は市政府前の広場に何列かになった。その周りを、銃剣を持った国民党軍の兵士が取り囲んでいる。また、米兵の姿もあった。


 「これから、荷物の検査をします」


 日本語がわかる兵士が、大声で叫んでいた。

 日本人たちは並んだまま、国民党兵士が二、三人で回ってきて順番にすべての人の荷物を調べていく。リュックの中身もすべて出されて調べられるのだ。せっかくの衣類も、雨でびしょびしょである。

 八重子の番が近づくにつれて、極度に緊張してきた。嶺子は先程から器用に、ぼろ布のお手玉を操りながら遊んでいる。

 やがて兵士が近づいてくると、八重子は嶺子の手のお手玉を見た。


 「そんな汚いもので遊んでないで、ほら、捨てなさい」


 わざと周りにも聞こえるような声だ。嶺子は素直にそのお手玉を、近くの草むらに放り投げた。

 いよいよ八重子の番だった。案の定魔法瓶は中を開けてのぞかれた。だが、さすがにねじで締めてある部分までは開けられなかった。こうしてほんの数枚だが、思い出の写真は持ち出せそうだ。

 次に体中調べられた。男の人にべたべた全身を触られるのは不快極まりなかったが、文句など言える状況ではない。だが特に何ら規定に触れるものは持っていない八重子だったので、検査は割とすんなりと済んだ。

 兵士たちが向こうの方の人の検査にと離れていくと、八重子は嶺子に耳打ちした。


 「さっきのお手玉、拾っていいよ」


 嶺子はすぐに草むらから先ほど投げたお手玉を拾った。またしばらく遊んでいたが、自分でそれを八重子のリュックに入れた。

 総て嶺子には、事前に言い含めておいた行動である。そのお手玉の中こそ、信との思い出の宝石や貴金属だったのだ。見つかっていたら、当然没収だったはずだ。

 ここに着いてから検査が始まるまで二時間、そして検査が終わるまで三時間、地面は雨でぐしゃっぐしゃにぬかるんでいるため座ることもできず、ずっと立ちっぱなしだった。信吉と嶺子は、リュックの上に座らせた。


 朝家を出たのにもう昼過ぎだったが、いつになったら船に乗れるのか見当もつかない。

 八重子の周りにいた人達も最初は文句を言っていたが、そのうち疲れと寒さから皆文句を言う元気もなくなってきたようだった。

 やがて、ようやく出発の合図があった。このまま東に向かって進むようだ。引揚船は蘇州川べりからはしけに乗って黄浦江上に停泊している船に乗るか、あるいは匯山嗎頭ワイザンまとうからと聞いていたのだが、この八重子たちが乗る便はどうも違うらしい。

 近くにいた男性がこのあたりの地理に詳しいようで、まっすぐ東に行けば蛇行している黄浦江にぶつかり、そこに虬江碼頭きゅうこんまとうという港があるそうだ。おそらくはそこから乗船ではないかとのことだった。


 またもや女性と子供はトラックで運ばれることになった。その他は徒歩だ。歩いても一時間かからないという。トラックなら十五分程度で着くとのことだ。

 たしかに、また大揺れのトラックで走ること十五分くらいで、黄浦江が見えてきた。そして確かに港はあって、船が停泊している。

 蘇州川河口付近からの乗船なら、ブロードウェイマンションやガーデンブリッジ、そして外灘バンドに立ち並ぶ高層建築群のスカイラインを最後の見納めとして目に焼き付けて行こうと八重子は思っていたが、どうもそれはかなわないようだ。

 船は大きい船ではあったが、八重子が上海に来るときに乗ってきた長崎丸に比べたら遥かに小ぶりだった。

 船体は濃い灰色で、背の高いマストが四本くらい立っているが横棒ヤードはなく、ただの棒が立っているという感じだ。

 これだけ大きなマストがあるということは帆船なのだろうけれど、横棒ヤードがなければ帆ははれまい。ただ、大きな煙突もあるので、今回は燃料で走るようだ。

 引揚者たちは黙々と列をなして重たい足取りで船へのタラップを上る。だが、これだけの人数だから、船のそばについても実際に乗船まではまだかなりの時間を並ばなければならなかった。


 乗るときも、国民党兵士の最後の顔チェックがあった。

 やっと乗って甲板から船室へ下ろうとしたが、もぅ船室は満員とのことだった。仕方なく操舵室の下の部分の甲板に、壁を背に倒れこむように座った。ここなら何とか雨もしのげる。だが、外であることは変わりがない。

 やっとの足を伸ばして座った八重子は両脇に二人の子供を抱きかかえ、力強く抱きしめた。

 もう足の感覚がない。それよりも全身が冷え切って震えが止まらない。何枚も重ね着をして着こんでいるので、かろうじて助かったという感じだ。リュックの中から毛布を出すにも、どうせびしょびしょに濡れているはずだ。

 八重子は着ていたコートの中に子供たちを入れ、互いの体温でほんのわずかだが温め合うしかなかった。八重子が座った周りには、もうどんどん人が着て座り、甲板は硬いロープで仕切られた通路以外は人で埋め尽くされた。

 隣は年配の男性とその妻らしき人だった。


 「お国はどちら?」


 その奥さんの方から聞かれた。


 「長崎です」


 本当は力尽き果てていてあまりしゃべりたくないのだが、愛想悪くするわけにもいかない。明日日本に着くまでともに時間を過ごす仲だ。

 八重子は今、自分が帰るところは長崎だと、それしか頭になかった。まことの故郷の高松に帰るのが木下家の嫁としては筋かもしれないが、この状況で見ず知らずの土地に行く気にはなれなかった。いずれ信の両親にもあいさつしに行かねばならないと思うが、とにかく今は長崎だ。


 「長崎といえば新型爆弾ですよね。心配ですね」


 「はい」


 力なく八重子はうなずいた。今八重子が、一番気にしていることだ。だが、どんなに気にしても、情報は全く入ってこない。ただ、新型爆弾というのは実は原子爆弾なのだということだけは、どこかで耳にした。


 「この船は、どこに行くのでしょうか?」


 八重子は聞いてみた。九州のどこかには着くらしい。だが、それしか知らない。


 「長崎は進駐軍が指定した引揚港には入っていないから、ほかの港でしょうな」


 夫の方が、やはり力なく言った。誰もが疲労困憊こんぱいしているのだ。


 「近ければ佐世保、でも博多か門司か下関、あるいは鹿児島という可能性もある」


 「鹿児島なんて……」


 八重子はため息をついた。


 「この船、どこの船なんですか?」


 「さあ。引揚船は一応全部アメリカの船ということになっているけれど、日本の船を一時アメリカに船籍を移して使うこともあるみたいだ。名前はSCAJAP54号というそうだけど、実は日本の船らしいね。あちこちに書いてある文字が日本語だ」


 そう言われてみればそんな気もする。


 「でもこんな大時代の帆船なんて。しかもこの小柄な船体は、どうも練習船のようだね」


 やはりこの船は帆船なのらしい。だが、先ほど煙突があるのを見て動力もあると思った通りに、今はそのたった一つの煙突から煙が出はじめている。


 「そうなると、かつての連絡船のように明日着くかわからないな。どこに着くのかにもよるけど」


 「まだ機雷も残っているのでしょう?」


 男の妻が言う。機雷とは水雷で、水面に浮かぶ地雷のようなものだ。


 「おい、これから船旅ってときに、そんな縁起でもない怖いこと言うなよ」


 男が自分の妻をたしなめた。

 だが、今年になってから引揚船が一隻沈没したことは、上海にいた人ならだれでも知っている。三隻の日華連絡船が沈没したときは新聞にも載らず、事実を知っている人には箝口令が敷かれた。戦時中だったからやむを得ないかもしれないが、引揚船の沈没は仮に極秘にしようとしたとしても、その船に乗っていて救助された人が上海に逆戻りしてきたのだからいやでも知れ渡ってしまっていた。


 とにかく今は何も考えるのはよそう。マリア様にお祈りして、そしてとにかくこの二人の子供をお守りいただこう。八重子がそう思っていた時に、やっと出航の合図の汽笛が長く鳴り響いた。

 船上と地上で互いに手を振り合ってテープが投げられての出航などという光景は、全くなかった。

 もう空は薄暗くなり始めていた。

 船べりに近い人たちは立って、離れていく陸地を見ている。だが、八重子はもう立てない。それでも首だけ伸ばして、雨の中の黄昏の中の陸地を見た。

 もしここでガーデンブリッジやブロードウェイマンションなどが見えていたら、思い出が走馬灯のように脳内をめぐって号泣していたかもしれない。だが、今は上海の中でもそう見慣れていない陸地から離れていく。それでもやはり、涙を止めることはできなかった。


 周りの人々もそれぞれの思いでこの時を過ごしているのだろう。やはり泣いている人も多い。だが、疲労でその力さえないという感じの人もまた多い。


 ――さらば上海…と感傷にふけっている人、――やっと日本に帰れる…とため息をついている人、皆それぞれだろう。もう何も思考することもできないという人もいるに違いない。そんなさまざまな思いの人々が、同じ船に乗っている。


 また、汽笛が鳴った。今度は短く響いた。

 この船に乗っているすべての人のすべての思いを込めて、汽笛は鳴った。

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