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 秋も深まって天気も冬の様相を帯びてくると、いよいよ日本への帰国という話が現実味を帯びてきた。

 日本僑民自治会からは日本への帰国の調査と同時に、帰国船乗船申込書の配布があった。それには、いつごろ帰りたいか、家族構成はどうなているか、故郷はどこかなどを書き込むようになっていた。いつごろと聞かれても、八重子はとにかく一日も早く帰りたいとしか言いようがなかった。


 だが、その申込書を出したからといって、すぐに帰国できるわけでもなさそうだった。

 いよいよ集中営の邦人の帰国が開始されたのは、十二月に入ってからだった。もちろん、そんな第一陣に八重子が入れるはずもない。第一陣は、今この集中営にいる十万以上の邦人の中のわずか二千人だ。


 ただ、帰国が始まったのに際して中国国民党軍第三方面隊司令の湯将軍から「日本僑民の帰国に告ぐ書」というものが出されたと、八重子や同宿している美代子姉妹、さらにその向こうの部屋の家族に対して戸主の小暮から話があった。

 それによると、「日本人の皆さんを安全に帰国させる段取りをした中国に対し恩恵を感じるよりも、皆さんには過去の中国侵略の過ちを認め、徹底的に反省していただきたい。皆さんを帰国させるのは、諸君が世界平和の建設、民主精神発揚に向かって邁進することを望むからである」と、そうあった。

 八重子は、小暮に聞いてみた。


 「かつて日本は欧米の中国侵略から中国を解放して、ともに大東亜建設を目指すと宣伝していましたよね。でもその日本こそが中国を侵略していたのですか?」


 「どうやら、そういうことだったようです」


 小暮は穏やかに言った。八重子は頭が混乱してしまった。たしかに、日本が手を結んで大東亜建設をしようとしていた南京国民政府は、あの八月のたった一日で消滅してしまったのである。

 八重子は一気に気が重くなった。


 それから、どんどん帰国の船は出ているようだったが、一向に八重子のところに乗船の案内は来なかった。


 本当なら、待降節を迎えていたころだ。だが、一度だけ小暮夫妻とともに、八重子は教会に行ってみた。教会はかろうじて集中営の中だ。

 だが、なんと御聖堂は椅子がかたづけられ、床にはむしろが敷かれて、多くの家族が詰め込まれた共同生活の収容所となっていた。司祭館だけは何とか聖職者たちの居住区として保たれており、御聖櫃もこちらに移されているという。ただし、とてもミサができる状況ではないとのことだった。


 教会の近くにはホテルが集中している一角があったが、ホテルもみんな満室だった。ただし、そこに住んでいるのはホテルに客として宿泊しているのではなく、収容所となったホテルに収容されている内陸からの引揚者たち家族だった。


 十二月といえば毎年盛大な行事が行われていた八日の大詔奉戴日は、もう今年は何の行事もなく人々の間で話題にさえならなかった。

 あの虹口公園での三万人の「海ゆかば」の斉唱から、わずか一年しかたっていないのが不思議だった。なんだか遠い昔のように感じられる。


 「改造日報」で論じられるいろいろな啓蒙教育の記事はたいてい男性向けと思われ、八重子の関心をあまり引かなかった。

 だがそのころ、日僑管理処の主催で女性対象の座談会も開かれたようだが、その内容として漏れ聞いた「女性の戦争責任」「民主国家の育成」「男女平等」「女性の参政権」などという言葉は八重子の頭の上を飛んでいった。

 それよりもとにかく二人の子供の命を守りつつ、無事に日本に連れて帰る方が八重子には先決だった。


 年の暮れ、降誕祭クリスマス前夜イブには、夜間の外出はできないので八重子は階下の小暮夫妻の部屋を訪ね、ともに主の御降誕の祈りを捧げた。

 そしてすぐに、嶺子の満二歳の誕生日だった。

 

 待ちに待った帰国船の乗船案内が八重子のもとに届いたのは、三月になってからだった。本当なら灰の水曜日も過ぎて、四旬節に入ったころだ。

 すでに美代子、芳子姉妹は一月中に帰国の途に就いた。そして小暮夫妻も二月には帰国していった。すでにこの家は小暮夫妻の手を離れ日僑管理処の所有になっていたので、八重子はそのまま住み続けることができた。

 通達によると、持っていける荷物は背中に負うリュックに入るものだけとのことだ。衣類はそれぞれ種類ごとに綿入れは一着、冬着一セットなどと数が決まっていたが、今着ているもの以外ではということなので、とにかく何枚も重ね着で着込んだ。

 三月といってもまだ夜は寒い。どんなに着ても暑いなどということはない頃だからよかった。

 他に爆発物や武器弾薬、刀、カメラ、双眼鏡なども禁止された。実はまことの遺品として木下家の先祖から伝わる日本刀があったのだが、どうせ集中営にも持っていけないだろうと、亜細亜路に住んでいたころ信への最後の墓参りの時すでに墓前の土の上に鞘ごと立ててきた。

 その時に、お墓に祈りを捧げている幼い信吉と嶺子の後ろ姿を入れて、お墓の写真も撮ってきた。

 実は今回携帯禁止物の中には、書籍のほかに写真もあった。だが、どうしても数枚は持って帰りたかった八重子は、上海神社で信や信吉とともに写っている一枚、阿媽アマの潘が信吉と嶺子を抱いて江湾路に立っている写真、信吉と嶺子が家の玄関の外に立っている写真、家の中の窓の下の信吉の写真、そして信のお墓の写真と、これだけは魔法瓶の中に隠した。もっとも普通に中に入れたのではふたを開けて調べることが予想されたので裏のねじをはずし、瓶と外側の間の隙間に写真を隠した。

 ほかに貴金属や宝石類も不可だったが、信から贈られた思い出の宝石はどうしても持って帰りたかった。

 そこでそれは、なるべく汚い布で小さな袋を作り、そこにもみ殻とともに宝石や貴金属類を入れて袋を縫った。同じようにもみ殻だけを入れた袋も、同じような大きさで二つくらい作っておいた。どう見てもそれはお手玉だった。


 こうしていよいよ出発の当日となった。

 その日は雨だった。だがリュックを背負い、嶺子を抱き、信吉の手を引いている八重子は傘などさすのは不可能だった。


 「ママ、どこに行くん?」


 また無邪気に信吉のぶよしが聞く。


 「日本に帰るのよ」


 「日本?」


 言ってしまってから八重子は気がついた。信吉にとって日本は帰る場所ではなく、初めて行く場所なのだ。


 集合場所はかつての日本人クラブの前だった。そこからトラックが出る。トラックに乗れるのは女性と子供だけだ。一般の人々は最終集結地である五条ヶ辻近くの市政府まで歩いていくことになる。

 トラックの荷台に乗ると女と子供だけといっても相当な数でぎゅうぎゅうに詰め込まれた。そんなトラックが何台も連なって呉淞路へ出る。当然、信とともに暮らしたあまりにも懐かしいかつての工部局官舎や三角市場を目に収めているうちに、トラックは呉淞路を北上した。

 あれほどにぎやかだった呉淞路もほとんど人影はない。道の両側の壁のように続く三階建てのビルも、赤い煉瓦の消防署もまるで人の気配のない廃墟のようだ。

 そしてすぐに、トラックは松井通りに入った。毎日仕事に通い、終戦の放送を聴いた上海高女、あの火薬を捨てた川、そんな風景を見ながらトラックは松井通りを一路市政府に向かって進んだ。

 その川を越えたあたりから、風景はぐっと田舎じみてくる。いかにも農村という感じの村が点在する大地の中のほぼ直線の一本道が松井通りだ。

 雨が降っているお蔭で砂ぼこりは上がらないが、その代わり道がぬかるんで時々泥をはねながらトラックは揺れに揺れて進んだ。

 雨はそう激しくはなかったが、荷台に詰め込まれていると雨だけでなく風も当たり、寒いなどという騒ぎではなかった。

 時々ドスンという振動でトラック全体が突き上げられた。嶺子は黙って八重子の胸に飛び込んできていたが、信吉などはむしろおもしろがってぎゅうぎゅう詰めの中でもトラックの振動とともに跳ねたりしていた。

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