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 教会から電話があったのは、九月の終わりかけたころだ。呉淞路と海寧路の交差点近くの信者さんが、八重子一家を迎え入れてくれることになった。

 八重子は十月に入ってすぐに、その小暮さんという信者さんの家に三歳の信吉のぶよしを乳母車に乗せ、一歳九ヶ月の嶺子れいこを負ぶって、三十分歩いて挨拶に行った。


 この「日僑」と呼ばれた日本人居留民が収容される区域を、このころから「集中営」と呼ぶようになった。

 小暮夫妻は八重子より少し年配の夫婦だったが、子供はいないとのことだ。

 奥さんもとても優しそうで、にこにこして迎えてくれた。


 「うちは夫婦二人では広すぎるし、二階には三部屋もあるから、その一つの部屋を使ってください」


 八重子が恐縮して礼を言うと、小暮夫人は笑った。


 「まあまあ、同じ共同体の一員で同じ信仰を持つ間柄じゃないですか。あなたのことは教会でよく見かけていました。困っている時はお互い様です」


 「助かります。マリア様のお恵みですね」


 八重子も心温まる思いだった。

 その日から数日かけて、八重子は子供を潘に預けて、ぼちぼちと家財道具などを大八車に乗せて小暮家へ運び始めた。女の手ひとつで運ぶのだから、一度にそう多くは運べない。

 だから何日かに分けて、ゆっくりと運ぶつもりだった。

 信との思い出のあるこの家ともお別れだけれど、荷物を運び終わった日にゆっくりと別れを惜しもうと、八重子は悠長に思っていた。


 ところが、本当にある日突然、その日はやってきたのだ。

 もうすっかり秋めいた陽ざしの午後、亜細亜里の入り口の鉄格子の門から、赤い腕章をつけた明るい緑色の軍服の兵士四、五人がジープから降りて入ってきた。手には銃剣を持っている。

 その中の一人が、大声で叫んだ。


 「みんな、よく聞け! この一帯に住む日僑は今から二時間以内に、全員立ち退け! 二時間以内だ。出て行って、決まっている集中営に行け! 残ってたら殺す!」


 たどたどしかったが、日本語だった。

 驚いてどの家からも人々が飛び出してきたので、兵士はもう一度同じことを繰り返した。


 「二時間なんてそんな。集中営に行く期日はまだあるはず」


 婦人会のリーダー格の村田という婦人が前に出て抗議すると、兵士はさっと銃剣の先を村田に向けた。


 「方針、変わったね。日僑は今日中にみんな、集中営に集める!」


 さすがに村田も、何も言えずただ真っ青になって立っていた。八重子もただ驚きと恐怖で、腰が抜けそうになっていた。潘が飛び出してきて兵士と何やら話していたが、最後には潘も兵士から怒鳴られていた。


 「なんだって?」


 八重子はすぐに潘から事情を聞こうとした。


 「日本人は全員、日本に送り返す。そのために急いで集中営に入らせると」


 「え? そんな……。できる限り定住させるってことじゃなかったの?」


 「状況が変わった。中国とアメリカの話し合いがあった。そこでそう決まった」


 何しろ新聞もラジオもないから、世の中で何が起こっているのかわからない。


 「そして、私は一緒に行かれない」


 ポツンと、潘は言った。


 「だめだって」


 「そんな……」


 「日本人に雇われている中国人は解雇させるというのも、決められた方針」


 潘は最後は涙声だった。八重子もまた目が潤んでいた。それでも、潘は言った。


 「早くしないと、時間、ありません」


 そうなのだ、二時間以内に退去しないといけない。この鉄格子の門の中の塀に囲まれた部分には、約三十軒ほどの同じような形の家が軒を連ねているけれど、そのすべての家が二時間という時間の中で一斉に引越しをするのだ。

 それはもう上を下への大騒ぎだ。皆それぞれ大八車を都合し、どんどん荷物を乗せる。だが、大八車の大きさや、またそれを引く人員のことを考えたら、それほど大きくて重い荷物は乗せられない。

 ましてや八重子のように女の力ひとつで、しかも幼い子供を二人も連れて行くのだから車に乗せるのは本当に限られた身の回りの日常用品だけだった。いちばん大きいものは布団だ。それに化粧道具や調理器具、食料などを積み込んだ。衣類はすでに何度かに分けて小暮家に運んである。

 この車に乗せられるだけのものが、日本に帰れるまでのすべての財産になる。大部分の家財道具は、そのまま置いていくしかなかった。信とともに買いそろえ、それぞれに思い出が染み込んでいる家具も持っていくことはできない。


 潘は挨拶もそこそこに、ほかの家の阿媽アマたちと一緒に兵士たちに連れて行かれた。

 一時間半が過ぎたころから、準備ができたものから大八車を引いて門を出て行った。互いに別れを惜しんだり挨拶をする暇もない。

 二時間の制限時間ぎりぎりでようやく八重子も準備が整った。だが、いざ大八車を引こうとしても、重くて最初の一歩がなかなか出ない。そこで、荷物の上に座らせていた子供たちを下ろし、嶺子はおんぶ紐で負ぶって、信吉は隣を歩かせた。


 「どこへ行くん?」


 何も知らない信吉が聞いてくる。


 「お引越しよ」


 「なんで?」


 無邪気といえば無邪気だが、今は子供にわかるように説明している暇はない。


 「押しますよ」


 近所の中学生の男の子が、八重子の大八を押してくれた。


 「ありがとう」


 それでようやく大八車も動きだした。


 「助かったわ」


 男の子は笑いながら軽く手を振り、自分の家の車の方へと走って行った。

 そうして何とか江湾路に出た。

 引っ越しを命じられたのは八重子の住んでいた隣保班の三十軒ばかりだけではなく、かつての陸戦隊本部の周りの地域に住む総ての居留民に引っ越し命令は出されたようで、北四川路は大八車であふれてものすごい砂ぼこりだった。皆が一斉に南の集中営に向かって進む。

 とにかく横浜橋ワンバンジョを渡れば一安心だ。

 その光景は、昼ではあったがまるで夜逃げ集団の大八車の行進のようだった。


 十一月になって、小暮家での八重子の生活もどうにか落ち着いてきた。互いに配給の食料を出し合って何とか食べていた。

 ところが、この集中営の人口は一気に増えた。奥地の漢口ハンカオや杭州、南京あたりからの邦人居留民が次から次へと入ってくる。彼らは引っ越し先のつてなどあるはずもなく、十月に組織されていた中国側の日本僑民管理処の配分で余裕のある民家や学校、宗教施設などに収容された。

 小暮家でも二階にある三部屋のうち、八重子たちのいる部屋の他の二部屋にも漢口からの引き揚げ者が入ってきた。聞くと漢口から米軍の輸送船で送還されて上海に着き、上海市政府前の広場一面に設けられたテントにしばらく詰め込まれて居住していたという。

 こうして一つの家に四世帯の同居が始まったが、その一軒の家を「戸」という単位にし、十戸で「一甲」、十甲で「一保」という「保甲制度」が敷かれた。

 この制度は宋の時代からずっとある中国の伝統的制度で、最近でも租界時代には工部局が租界内の中国人人口にこの保甲制度を導入して管理していた。今度は、日本人側が管理される番である。

 管理といっても別に収容所に閉じ込められているという感じではなく、行動は自由であった。この集中営を出さえしなければ自由に歩き回り、何をしていてもよいのである。ただし、夜の八時以降は朝の六時まで外出は禁止された。

 集中営は横浜橋ワンバンジョからブロードウェイ・マンションの北側まで、呉淞路を中心とした結構広い区域であった。しかも、もともと日本人がいちばん多く居留していたエリアである。

 日本人側のかつての土田公使をトップとする代表委員会も、日本僑民自治会という名称で租界時代の日本人クラブに事務所を構えていた。そこで中国側の日本僑民管理処からの伝達や命令を受け、それぞれの保長に知らされる。それが保長から甲長へ、そして戸長へと末端まで行くようになっている。自治会の役員は、選挙で選ばれた。

 この時点で居留民はすべて一斉に調査された。それで新たに名簿が作られるようだ。かつての居留民団が作成していた名簿に代るものだろう。


 ここでの生活はとにかく暇だった。だが、配給の食料ではとても足りないし、その配給もいつまであるかわからない。物資の在庫がなくなったらそれまでという可能性もある。だから、お金が必要だった。

 そもそも今の時点で上海にいる日本人は、まともに仕事をしている人はほとんどない。皆がそろって失業者でもあるのだ。店は開いていないが、ちょうど小暮家から至近距離の呉淞路と海寧路の交差点のところに、自治会によって食糧販売所が設けられ、そこでは買うだけでなく自分の店を出すことも許された。

 他に、そのあたりの路上には屋台が立ち並び、多くの女性が軽食を売ったり、また骨董品などを売る路上のマーケットも出現していた。


 そこで八重子も二人の子供を連れて、何とか持ち出した骨董品や貴金属の装飾品などを売り始めた。どれも信がコレクションしていたものであり、手放すのは惜しいものばかりだ、だが背に腹は代えられない。

 中国人の骨董好きの老人などが割と高価で買ってくれて、まとまったお金もできた。

 その頃、廃刊となった「大陸新報」に代わって、ようやく日本語の新聞が復活した。だがその「改造日報」は中国の日僑管理処が実質上編集・発行している新聞で、そのタイトルからすぐにわかるように日本人を軍国主義、帝国主義から民主主義の思想へと改造しようという内容の記事がほとんどだった。

 だから読んでもあまりおもしろくないので、八重子はほとんど読まなかった。そんなものを読むよりも、『聖書』を読んでいいた方がずっといいと思った。


 小暮家の二階の三部屋の、八重子が住んでいる部屋の隣に入った家族は漢口ハンカオから引き揚げてきた姉妹だった。八重子よりは少し若いけれど、ほぼ同年代といえた。島根県の人だといっていた。

 とにかくここでの生活はやることがないので、二人はしょっちゅう八重子の部屋に遊びに来ていた。信吉や嶺子もすっかりなついている。信吉がたどたどしく「おばちゃん」と呼ぶので、特に十九歳の妹の方は笑っていた。


 「お姉ちゃんって呼んでちょうだい」


 姉が西川美代子、妹が芳子というらしい。漢口には新聞社に勤める兄に呼ばれて来たのだがその兄は現地召集で兵隊にとられ、姉妹二人で仕事をしながら暮らしていたのだという。一応、兄の無事の確認は取れているそうだ。


 「漢口はきれいな町でしたよ。町中が鈴懸の並木で、租界には洋館が立ち並んで落ち着いた雰囲気で」


 妹の芳子が無邪気にもそう説明していたが、隣で姉の美代子は少し顔を曇らせていた。


 「でもそんなきれいな町も、空襲でほとんど焼けてしまいました」


 上海も空襲はあったことはあったけれどそれほどたいしたことがなかったのが幸いだったと、八重子は口には出さないがそう思った。


 「ほんと、皆さん大変な思いをされてきたんですね」


 「木下さんもお子さん二人抱えて、ご主人は亡くなったって」


 うつむきがちに芳子が言う。八重子はにっこり笑った。


 「でも、皆さんがよくしてくださって。いい人たちに囲まれてきました」


 ふと美代子が何かを思い出したようだ。


 「そういえば木下さんって、長崎でしたよね」


 「はい」


 「新型爆弾は大丈夫でしたの?」


 「ああ」


 そういえば終戦直前にまずは広島に、そして数日後には長崎が米軍の新型爆弾御攻撃を受けたと、たしかに新聞にはたった数行の記事で書いてあった。


 「でも、たいしたことはないって新聞に書いてありましたし」


 たしかに広島の新型爆弾については、大本営発表は「八月六日、広島市は敵B29少数機の攻撃に依り相当の被害を生じたり。敵は右攻撃に新型爆弾使用せるものの如きも、詳細目下調査中なり」とそれだけであり、それ以上の詳しい報道はなかった。

 その数日後の長崎での新型爆弾攻撃に至っては大本営発表もなく、ただ軍からは「被害は比較的僅少なる見込み」とあっただけだ。


 「それがねえ、木下さん。終戦の後の八月下旬ごろの新聞には、『広島は残留放射で今後七十五年間は生物の生存は不可能』って出てましたわ。広島がそうならば、長崎もそうではなくって?」


 八重子は一瞬嫌な予感がした。七十五年も生物が生存できないのならば、被害は僅少ということがあるだろうか……。

 八重子は少なからず衝撃を受けていた。八月の下旬といえば新聞も一切なくて、上海の日本人はすべての情報から遮断されていた時期だ。


 「あ、ごめんなさい。そんな心配させるようなつもりでは」


 八重子の様子を見て、慌てて美代子は言った。八重子は微笑みを作った。


 「いいえ、今はとにかく情報が入ってきませんから、どんな些細なことでも情報がほしいのです。教えてくださってありがたいです」


 それでも、なんだか胸騒ぎがする八重子だった。

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