第8章 引潮

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 かつて租界が中国に返還されたおととしの八月は、その後どうなることかという皆の心配をよそに、特に生活に変化はなかった。

 しかし今度は果たしてどうだろうと思うと、全く予想のつかない不安で隣保班は肩を寄せ合ってという感じで暮らしていた。

 学校だけでなくここでも男性は現地召集で軍隊に入っているものも多く、婦人会が肩を寄せ合っているという感じだ。


 皆は毎日をまるで会合のように集会所で過ごしていた。そこにいたほうが、居留民団から何か知らせがあったときにすぐにその内容を知ることができる。

 その最初の知らせは、大陸居留民にはそのまま居留を続けさせるというのが日本政府の方針であるということだった。


 「よかった。まだ上海にいられるんだ。てっきり強制的に追い出されるかと思った」


 そう言って喜んだ夫人がいる半面、わっと泣き出した年配の女性もいた。


 「やだやだ、日本に帰りたい。上海は恐い」


 その気持ちもわかる。あれほど平和に仲良く共存していると思っていた中国人たちの一部が暴徒と化して、日本人を目のかたきにしているのだ。

 八重子も、買い物に行くとそこに居合わせた多くの中国人に、暴力は受けないまでも冷たい目で見られ、時には罵声を浴びせられる。それが何を言っているのかわからないだけに余計に怖かった。

 今までは買い物は潘に行ってもらっていた。だが、その潘も怖がって買い物に行こうとしない。


 「私、日本人の家で働いているというだけで、町の人たち石投げます」


 「同じ中国人が?」


 「はい」


 「おかしいわねえ。中国は同盟国でしょ。日本は米英に敗けたのであって、中国に敗けたいのではないはずよ」


 「違います。日本と同盟国だった中国はもうありません。日本敗けた次の日に消えました」


 「え? どういうこと?」


 聞き出したところによると、八重子たちがあの玉音放送を聴いたその翌日に、南京の国民政府は解散して日華同盟も消滅したとのこと。


 「そんな、一つの国がたった一日で消えるなんて、どういうこと?」


 その事実は、八重子の理解を超える内容だった。

 だが、おいおい入ってきた情報を町内会で聞くと、南京国民政府が消えたというのは中華民国がなくなったわけではないらしい。これまで米英と戦うずっと前から日本が戦争をしてきた重慶政権が、中華民国の正式な政府となったとのこと。

 いや、なった《・・・》のではなく、中国政府に盾突く叛徒だと思ってきた重慶政権こそが実はずっと前から正規の中華民国政府であり、その蔣介石の政権の中華民国はむしろ米英の同盟国として日本と戦っていたという。

 だから、日本は米英だけでなく重慶を首都とする中国にも敗けたのだ。

 南京の政府は中国全土ではなく、日本軍が占領していた地域でだけ中華民国政府であったというのが実情らしいが、とにかくそのような話は初耳だ。

 新聞やラジオ委で報道されていた内容とは、ずいぶん話が違う。日華同盟条約など、ただの虚構だったのか……? 自分たちは騙されていたのか……?


 八重子はめまいがする思いだった。八重子だけではない。婦人会の面々もみな同じ思いのようだ。


 「やはり日本に帰りたい」


 一度は上海にとどまれることを喜んだ人々さえ、そう言いだし始めた。だが、それは無理である。二年前に途絶えた日華連絡船の上海航路は全く再開されず今に至っている。汽車で満州、朝鮮経由の帰国も、今の状況では絶望的だ。


 潘も少しずつもっと詳しい情報を仕入れてきたようだ。

 今、市政府はもぬけの殻だという。去年の秋に日本に行っていた中国の汪主席は日本で病気で亡くなり、後継者として租界返還のころに上海市長として赴任してきた陳公博という人が主席となった。

 上海市長だった頃の陳は上海の日本人の間では親しみを込めて陳さんと呼ばれていたが、今はどうなっているかわからない。まだ南京に駐屯している日本軍に逃げ込んだという噂もあるという。

 陳さんの後で上海市長になった周さんも、南京に行ってしまったらしい。


 とにかく何から何まで混乱していた。

 今はまだ日本の陸戦隊が上海にはいるから、それで何とか治安は保たれているという感じだ。

 共に駐屯していた南京政府の建国和平軍は南京政府の解散と同時に、突然消滅した。みんなばらばらになって勝手に故郷に帰ったのか、重慶軍に投降したのかよくわからない。米英相手にも重慶相手にも一度も戦ったことはなかったこの軍隊は、とにかく消えた。


 だが、九月に入って日本が米英や重慶の中国政府に正式に降伏文書に調印したころから、状況は一変した。

 重慶政府の第三方面軍がついに上海に到着した。

 北四川路を大型のトラックやジープに乗って堂々行進し、沿道には多くの中国人民衆が詰め寄せて大歓声でそれを迎えていた。

 あっという間に霧散していしまった和平建国軍と違い、その雄姿はまさしく中国の正規軍の精鋭であって、勝者の軍隊の風格がみなぎっていた。そして、居留民たちが「米鬼」として敵意をぶつけていた米軍もまた進駐してきた。


 その数日後に、帝国海軍陸戦隊はぞろぞろと歩いて浦東の地へ渡っていった。そこに移されて、いずれは日本に帰されるらしい。すでに武装解除させられたらしく、今は装甲車もない。彼らはみな何の武器も持たずに手ぶらでばらばらに歩いて同じ北四川路を南下して行った。

 あの大詔奉戴日の、軍艦マーチとともに海軍旗を先頭とした行進の威風とは今昔の感がある。

 数日後には、さらに南京の方から重慶軍の接収部隊が来たようだ。


 そのころである。

 町内会に集められた居留民に、進駐してきた重慶軍からの命令ということで重大発表が告げられた。

 もうすでに日本の領事館も居留民団も解散している。その後は中国国民党からの指示で、かつての日本大使館上海事務所長だった土田公使をトップにした代表委員会が組織されていた。

 それは、上海に進駐してきた中国側第三方面隊総司令の湯恩伯将軍の命令を伝えるための組織といってもよかった。湯将軍は居留民にとってただただ恐怖の対象で、かつての市長のように陳さん、周さんと気安く呼べるような存在ではなかった。

 もはや大陸新報もごくたまに発行されるくらいで、それも九月には途切れた。ラジオの日本語放送もなくなった。


 その日、町内会では派遣された代表委員会の発表を、居留民全員で聞いた。


 「まずは中国側の我われに対する方針が発表されました」


 誰もが一番の関心事だったので、言葉を発するものはいなかった。固唾をのんでというのは、こういうときのことを表す言葉のようだ。


 「湯将軍はは日本人民が軍閥に強制されてやむを得ず戦ってきたことをよく理解している。そのため中国の抗戦目的は日本軍閥打倒という点にあり、日本人民に対してはいささかの怨念も敵愾心も持ってはいない」


 これに続き、今後の具体的方針が告げられた。

 それによると、今後居留民は上海市内の定められた居留区域内に居住することになるという。その引っ越しの猶予は一ヶ月くらいで、それまで各自に居住地を確保しなければならないことになる。

 そのあと、その居住地の説明があった。上海市内には四ヶ所あり、いちばん大きな第一区はこの虹口だった。

 だが、その範囲は虹口クリークと北四川路の間、蘇州川の手前までであるという。そうなると東も北も境界は虹口クリークとなり、こちらから見ると北四川路の虹口クリークにかかる横浜橋ワンバンジョよりも南ということになる。

 つまり、八重子の住む地域はぎりぎりでその範囲の外になってしまった。もし、その範囲内に住んでいたのなら、わざわざ引っ越す必要はなかったのである。


 「そして今後、邦人居留民は日僑にっきょうと称されます」


 口頭で「にっきょう」と聞いても分からなかったが、「東南アジアに進出している中国人を華僑と呼ぶのに対し、我われは日僑となります」の説明でようやくわかった。

 その日以来、居留民は全員、家の外に外出するときは常に「日僑」と書かれた腕章を左腕につけることが義務付けられた。

 だが、外出といっても、もはや買い物に行っても日本人が経営する店はほとんどが店じまいをしてしまっている。そもそも、もうこれまでの軍票は通用しなくなっていたが、かろうじて南京政権時代の中国の通貨はまだ使えた。

 店が開いていないのなら食料も買えないのだが、そこはまるで陸戦隊の置き土産のように大量の物資が軍の倉庫に眠っていたので、それが居留民に配給されることになった。米や砂糖、小麦粉などで、それが運び込まれた北四川路の福民病院の隣の北部第一国民学校の講堂や教室は、おびただしい物資の山だった。

 これで当面飢え死にだけはしないで済みそうだった。


 まずは八重子も指定された居住範囲内に、引越し先を探さなければならなかった。町内会の人々もそれぞれのつてで動き回っているが、それがある人はいい。八重子には今やまこともおらず総て自力でなさねばならないことだった。

 八重子が上海に来てから親しく接した人々といえば、亡き信のかつての職場である旧工部局の官舎の婦人会の人々だ。その夫は皆信の同僚だった人々である。

 だが、信の帰天後は、ほとんど付き合いはなくしていた。


 とりもなおさず、八重子は教会に向かった。八月の暑くて長かったあの一日以来、八重子はなかなか教会に来ることもできずにいた。外を出歩くの危ないし、また皆が大騒ぎしているのでその機会を逸していたのである。

 だが、教会に着くまでの町は、驚くほど静かだった。今は電車も動いていないし、中国人の人力車も日本人は乗せてくれない。仕方なく八重子は子供は潘に預け、一人で北四川路から呉淞路を通って四十分かけて教会まで歩いて行った。炎天下だったらまいったであろうが、すでにかなり涼しくなっていたころだ。


 北四川路や呉淞路の両脇にひしめき合っていた日本人の経営する商店や食堂は、皆門が閉ざされていた。ちょっと前ならいつ中国人に襲われるかもしれないというので、女性が一人で歩ける状態ではなかった。

 だが、潘が言った。


 「蔣介石主席から、すべての中国人に指示が下りました。中国人は日本人に危害を加えてはいけないと。上海に来た湯将軍が、そのこと伝えました。報怨以徳パオイェンイーター、仇を恩で返すということです」


 八重子は涙腺が溢れそうだった。かつて信も同じようなことを言っていた。キリスト者はそうでなければいけないと、信は言っていた。


 「その言葉、どこかに載っている?」


 「中国の古い本、『老子』という本です」


 残念ながら蔣介石が聖書を読んでいたというわけではなさそうだ。


 そんな潘からの情報によって、一応は安心して八重子は町を歩けるようになった。

 教会に着いて司祭館の方へ行くと、神父も疲れ果てた顔で出てきたが、八重子を見てすぐに相好を崩した。


 「おお、おお、どうしているかと思っていましたよ」


 あの特殊な結婚式、そして信の葬儀といろいろと世話になった神父だから、神父の方でも八重子をよく覚えていた。


 「まあ、中にお入りなさい」


 八重子は司祭館の応接室のような部屋に通された。


 「神父様もご無事で」


 「すべて主とマリア様のご加護です」


 対面して座り、神父は話し始めた。


 「マリア様といえば、不思議な因縁がありますね。マリア様は日本の守護者です。八月十五日は聖母マリア被昇天の祭日ですけれど、その日にフランシスコ・ザベリオが日本に初めて上陸しています。そして京都の教会、当時は南蛮寺といっていましたけれど、その献堂式も八月十五日、そして、今年の八月十五日にあの玉音放送がありました。今まで大詔奉戴日とされていた十二月八日は、無原罪のマリアの祭日です。何か、不思議な因縁がありますね」


 「ええ? そうなんですか。でもそのせいで、無原罪の聖マリアの祭日も、今年のマリア様被昇天の祭日もごミサにはあずかれませんでした」


 「上海の日本人は皆そうですよ。ほとんど私が一人でミサを捧げました」


 神父はそう言って少し笑った。


 「あとは、我がイエズス会の創設の日も八月十五日なのですけどね。それはいいにして、あなたは今日、引っ越し先を探してきましたね」


 「え? なんでわかるんですか?」


 「もう何人もの信者さんが、教会に引っ越しさせてくれって来ましたからね」


 先を越されていた。


 「でも申し訳ないのですが中国側からの指令で、この教会に信者さんを住まわせることはできないのですよ」


 「そうなんですか」


 「この教会だけでなく本願寺も本圀寺も宗教施設はすべて、そして学校や日本人クラブまでもが日本人収容区域外の日本人が引っ越すのは禁止です」


 「そうなんですか」


 「今、上海に日本人は約十万、でもこれからどんどん膨れ上がりますよ」


 「減るんじゃなくて増えるんですか?」


 「中国の奥地、漢口ハンカオや杭州、南京など、中支の居留日本人がどんどん上海に集結します。そういった人たちの居住のために、これらの施設は空けておくようにとのことなんです。おそらくこの教会も、そういった人たちの収容施設になるでしょう」


 なるほど、それなら一応は理解する。それらは皆収容区域内にある。でも、日本人は今後もできる限り定住という方針だったのではなかったのだろうか。

 八重子はそのことを聞いてみた。


 「確かに、そんなことも言われましたね。でも決めるのは日本の政府ではなく、中国の政府と米軍です。方針は今後もころころ変わる可能性はありますね」


 とにかく、すべてが混乱しているのだ。


 「でも、収容範囲に住んでいる信者さんの家庭に、区域外の信者さんを住まわせてあげられるよう、教会委員会の方で今動いています。あなたもその希望があるならば申込用紙に記入して、連絡をお待ちなさい」


 神父は優しく言ってくれた。

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