日本に帰ろう……それは決意とかいうものではなく、ただ何となくという八重子の思いだったが、なかなか決意にまでは至らずに日々を過ごしていた。


 新聞を見てもラジオを聴いても、南太平洋上での戦闘の成果が何度か華々しく報じられた。ブーゲンビル島では敵機三十四機を撃墜して奇跡的戦果を挙げたとか、敵大型輸送船三隻を撃沈したとか、そのあとも時々どこそこで敵機や敵艦を撃沈したという報道が続いた。


 「我が皇軍は連戦連勝、この分なら割と早く日本が勝って戦争も終わるかもね」


 婦人会の寄り合いで、誰からともなくこんな話題が出る。


 「そうですよね」


 八重子も話に入った。


 「やはり内地に帰った方がいいかしら」


 皆が一斉に八重子を見た。誰も何とも言えないふうだった。八重子のように、自分の自由意志で身の処し方を決められる立場に彼女らはいない。皆それぞれの夫の仕事によるのだ。

 実際、信がいたころの八重子も、信の仕事のために自分の意志で上海を離れるなどということは考えられなかった。だが、今はそれができる。それなのに決心がつかずにいるのだ。


 「それは木下さんが帰りたいのなら早い方が」


 田窪が言う。たしかにそうだ。今なら安定期だが、ぐずぐずしているとすぐに臨月になる。さらに、生まれたら余計に乳飲み子を連れての帰国は困難を伴うだろう。今が潮時かもしれない。


 「でも……」


 やはり、信との思いであふれる上海を離れたくないという気持ちが根強く八重子の中にあった。


 そうこうしているうちに九月になった。

 上海中に飲酒自粛の命令が出て、居留民団の指示で日本人居住区では居酒屋や料亭も午後五時から十一時に営業時間が短縮された。

 飲食店が時短営業を要請されるばかりでなく、在宅にあってもこの時間外の飲酒は自粛するようにとのお達しだ。同時に市政府からも同様の達しが中国人の全市民にも出て、派手な宴会も禁止された。

 もちろんお酒など飲まない八重子だったから直接は関係なかったが、それでもますます皆が戦争に向けて一丸となっていくのを感じた。

 戦果はますます上がり、ソロモン諸島での戦いも勝利の連続だ……と新聞もラジオも報じていた。

 一つ影が落とされたのは、日本の同盟国のイタリアが無条件降伏という文字があったことだ。だが、なんだかイタリアの情勢は複雑なようで、いくら新聞を読んでも八重子にはさっぱりわからなかった。こんな時にまことがいてくれたら解説してくれたのにと思うと、またもや切なくなる。


 信吉のぶよしも一歳の誕生日を迎えた。手を取ってあげればよく歩く。一人歩き始めるのももうすぐだ。

 そして八重子にとって涙が出るほどうれしかったのは、自分を見て「ママ」と信吉が言ってくれたことだ。今はまだそれしか言えないが、すぐに言葉をしゃべるようになるだろう。おっぱいもほとんど卒業して、多くは食事をするようになっていた。

 八重子のお腹も、もう誰にも妊娠しているとわかるくらいの大きさになってきた。

 こうなると、もう感傷に浸ってはいられないという感じだった。検診に行った福民病院の医師に相談すると、長崎へ里帰り出産するならばどんなに遅くても九ヶ月目が限度だという。だが、できれば八ヶ月のうちにとのことだった。そうなると、十月いっぱいである。

 八重子はぎりぎりまで粘ることにした。


 十月十日は、中華民国双十節だった。いわば中国の国慶節で、この日は上海市内でも中国側のいろいろな式典が行わるようだった。目に見える行事としては、上海市内を中国の和平建国軍の行進があった。これまで帝国海軍陸戦隊の行進はあったが、中国の軍隊、それも友軍としての軍隊の行進は初めてだ。


 そのうち秋風が吹き始め、十月も終わるまでには八重子はついに帰国の決意がついた。

 上海中が日華同盟条約締結で沸き立っていたころだ。里帰り出産の期限が過ぎた十一月に入ってすぐに、まずは船の切符を確保しようと八重子は思った。その目処めどがついてから婦人会にも報告し、帰国の準備を始めようと思っていたのだ。

 とりあえず問い合わせと思って、八重子は重いお腹を抱えながら日本領事館の隣にある船会社のビルへと人力車で足を運んだ。

 だがなぜか、長崎行の連絡船の切符売り場は閉まっていた。

 そこで八重子は、仕方なく事務所の方に行ってドアから顔を出した。


 「あのう……」


 近くのデスクから、国民服の若い男が立ち上がって八重子のそばに来た。


 「なんでしょう?」


 「あのう、長崎行の船の切符なんですけれど、売り場が閉まってて」


 「あ、長崎行ですね。当分ないですよ」


 「え? どういうことですか?」」


 「これ以上は申せません。お察しください」


 「そんな……いつまでないんですか?」


 「当分です。どうしても内地へお急ぎとのことでしたら汽車で『満州』に行かれて大連からの連絡船に乗るか、あるいはさらに汽車で朝鮮に入って釜山から下関に行くかしかないですね」


 身重の八重子にとってそれは、とても現実的とは思えない話だった。

 とりあえず帰るしかなかった。

 帰りの車の上で、八重子は急に胸騒ぎがした。まさか……と思った。帰ってから、ここ数日の新聞を引っ張りだして隅々まで見た。だが、八重子が思ったような記事はなかった。

 上海丸は沈没したのではないのか……? だが、そのような記事はない。記事はないけれども、そのような出来事もなかったということにはならない。そのことは八重子はよく知っている。

 すでに上海航路は新しい神戸丸も八重子が長崎から乗ってきた長崎丸も、去年沈没している。その時も新聞にも出なかったし、ラジオのニュースも何の報道もなかった。

 だが、長崎丸に関してはだいぶたってから、その事故から生き延びた船長が責を負って切腹したという記事だけが新聞に載った。そこで信に聞いたところ、本当は家族にも箝口令かんこうれいが敷かれているのだが……という感じでこっそりと教えてくれた。

 それによると神戸丸は去年の五月に機雷に触れて、そして長崎丸は同じく去年の十一月に日本の貨物船と衝突してともに沈没したのだという。

 だとすると、最後の一隻であった上海丸も沈没したのか……今は戦争中だから、たとえそうだとしても何ら報道されないのは不思議ではない。

 だが沈没となると、長崎への航路は事実上閉鎖で、どうしても内地に帰るとすれば今日船会社の人が言っていたように『満州』からの船便か朝鮮経由でしか帰れないということになる。いずれにせよ大連まで行くのが一苦労……いや、今の八重子の体で幼児を連れてではほとんど不可能といえた。


 帰国はあきらめるしかなかった。

 せっかく決意したのに……と、八重子は落胆した。

 

 そうして八重子はそのまま上海で臨月を迎えた。教会は待降節に入ったが、巷ではまた十二月八日の大詔奉戴日で、今年も新公園で記念式典が行われた。だが、八重子は大事を取って、自宅近くの江湾路から式典の様子を窺った。隣にはもうちょろちょろ歩く信吉が八重子に手を引かれている。


 朝七時半までにぞろぞろと人々は新公園に入っていく。その新公園だが、最近は元の名称である虹口公園と呼ぶ人が多くなった。

 なんとこの日集まった人々は三万人だという。まず国歌斉唱から始まって東方遥拝、そして大東亜戦開戦の詔勅の拝読、さらには上海興亜報国会の矢野会長による演説が始まった。

 八重子は立っているのもつらいので、道端の座れるところを見つけて座って聞いていた。八重子の膨らんだ腹部を見れば、誰も咎める者はいなかった。

 そのあとは三万人の「海ゆかば」斉唱、そして万歳三唱がものすごい音量で虹口の空に響き渡った。

 そのあと人々はぞろぞろと上海神社に向かい、戦勝祈願祭に参列するようだが、今年は八重子はそれも辞退させてもらった。臨月ということは、もういつ生まれてもおかしくないのだ。

 去年と違うのは、今年は陸戦隊部隊の行進はなかった。

 町中には「断じて敵米英の航空戦力に打ち勝たう」というスローガンが、日章旗と青天白日旗の下にあちこちに張られている。「勝とう、断じて勝ち抜くのだ」というのが人々の合言葉になっている。

 さらには献金献身隊ということで、報国会婦人部の人々による街頭献金が行われているようだ。これには中国側からも多数の応援が出て、日華両国民共にこの大詔奉戴部を祝し戦勝を祈願していた。

 そして昼前の午前十一時五十八分のサイレンは去年と同じで、八重子はそのサイレンに潘とともに自宅で東方遥拝をしていた。


 八重子が産気づいたのは、暮れも押し迫ったころだった。

 今年は降誕祭クリスマスの夜半ミサも自宅で心を合わせて祈り、翌日の大正天皇祭の日の降誕祭日中のミサにだけ出かけた。陣痛が始まったのはその二日後である。

 ちょうど日曜日だったが、福民病院の婦人科は休んでなどいない。すぐに分娩室に入り、廊下では潘が信吉とともに新しい生命の誕生を待っていた。

 夕刻、産声が上がった。その声ですぐに女の子だとわかった。


 信の忘れ形見の長女は嶺子れいこと名付けられた。そして新年早々に洗礼となり、マリア・マグダレナという霊名をもらった。

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