第7章 日本の一番長い日
1
昭和二十年八月十四日。
暑い日だった。
この日もくたくたになって汗を拭きながら仕事から帰宅した八重子の姿に、もうよちよちと歩いて
「ママ」
もう、ごく短い言葉なら話すのだ。夕食の支度をしながら潘も振り向いた。
「おかえりなさい、奥様」
だがその顔は、なぜか暗かった。
「奥様」
何かを思い切ったように、体ごと八重子の方を見た潘はうつむいて黙ってしまった。
「どうしたの。
潘はますます下を向く。今朝まではいつもと同じ様子だったのだ。
「ママ、阿媽、公園危ないって」
「え?」
八重子の足もとで
「公園に行くって約束してたの? 阿媽と」
「うん」
信吉はうなずいた。八重子は潘を見た。
「何かあったの? 阿媽」
「あ、いえ、ごめんなさい。なんでもないです」
潘は無理して笑っているというふうで、また夕食の支度を始めた。
虹口公園の東にある上海日本第一高等女学校の、保健室の養護教員補助である。かつて一学期だけでも看護学校に通った経験を生かしての応募で、正式の教員ではない。要は身分は用務員と同等だったが、本来は職務経験のない八重子が就けるような仕事ではなかった。
なにしろ人手不足である。男性が現地召集でどんどん兵隊にとられ、女性も白紙モンペ隊など勤労奉仕隊に駆り出されている。だから人手不足で、それで八重子のような人でも採用されたのだ。
だが、生徒たちは授業を受けていない。学校は衣服工場と化し、教室の机は全部ミシンとなって、生徒は毎日が兵隊の軍服を作る勤労奉仕に明け暮れていた。基本的に白衣の八重子は保健室に詰めているわけだが何もしないわけにもいかず、生徒と同じ作業をすることも多かった。
そして暮れからは、秘密作業の監督官を命ぜられた。もちろん、正規の教員の補助的役目として生徒の監督に当たるのだが、ごく選ばれた生徒は別室でその任に当たっていた。
生徒はもちろん、八重子に対してもその作業についてはきつく
八重子にとって家族はまだ物心ついていない幼い二人の兄妹がいるだけだ。あとは阿媽の潘にさえ言わなければいいということになる。
しかもそれは、たとえ口止めされていなくても決して潘には言えない内容だった。
その作業とは、火薬を袋に詰める作業だった。米粒の十分の一くらいしかない火薬を一定の分量、
その袋に入った火薬が鉄砲の弾に入れられる。こんなうら若き華怜な乙女たちが毎日毎日、人を殺すための銃弾作りに携わっている……なんだかやりきれなくもあるが、こういうご時世だから仕方がないとも思う。
そうして九ヶ月ほどが過ぎて、暑い夏を迎えていた。
仕事から帰宅した自宅の暑いから開けっ放しにしているドアの外で、八重子を呼ぶ声がした。
「木下さん!」
もうすぐ夕食もできるというころだ。八重子が出ると、そこには同じ隣保班の山田夫人が息を切らした様子で立っていた。
「あら、山田さんの奥さん」
「ねえねえねえ、お宅の
「大丈夫って、あの子たちならうちにいますけど。何かあったんですか?」
「何かあったなんてもんじゃないのよ」
「え?」
八重子は息をのんだ。
「足立さんとこの
「なんで? 忠君が何かしたの?」
「そうじゃないの。忠君だけじゃないの。あっちこっちで中国人たちが暴れて、日本人を襲ってるって」
「抗日テロ?」
「そんなこそこそとしたものじゃないみたい。なんか一般の中国人が暴れてるんですって」
八重子はふと気になって、潘を呼んだ。
「はい」
「今の話、聞こえてたでしょ。あなた、何か知らない?」
潘はうなだれたまま、また突っ立っていた。
「はっきり言って。お願い」
「日本、戦争に敗けたよ」
「え?」
「日本、敗けた」
「何をばかなこと言っているの? 日本が敗けるわけないでしょ。そんなこと、日本の兵隊さんに聞かれたら大変よ」
「中国人ならみんな知ってる」
「どこかの海戦か何かで敗けたってこと?」
「違う。大東亜戦争に敗けた」
「だって、今朝のニュースだって、そんなこと言ってなかった」
たしかにこの日の朝のニュースも日本の潜水艦が沖縄戦で敵の空母を撃沈したなどというニュースを報じていたはずだ。いつもと同じように華々しい戦果を報告し、いつもと同じ戦意高揚のための煽りが激しかった。
職場の女学校でも、いつもと同じ話題しか教員との会話には出なかった。
八重子は笑った。
「そんなの嘘だから。阿媽も気にしないで」
それから山田夫人を見た。
「ですよね、山田さん」
「はい」
山田夫人としても、それしか言えないだろう。
浮かない顔で山田夫人は帰っていった。
八重子は潘を見た。
「明日は教会。マリア様の祭日だから。阿媽も一緒に行くでしょ?」
「はい」
潘もまた浮かない顔で、とりあえずの返事をしていた。
翌朝、電話が鳴った。八重子が働いている学校からだった。
八重子とともに秘密作業の監督に当たっている女性教師からだ。
「今日、全生徒に緊急登校命令が下りました。木下さんも休暇願は取り下げです。ただちに出勤してください」
この日は水曜日だけれど教会で聖母マリア被昇天の祭日のミサがあるので、八重子は休暇願を出していたのだ。生徒も夏休み中だが、例の秘密作業の子たちは登校している。だが、本来は休んでいる全生徒が緊急に集められるというのだ。
ラジオをつけると、今日正午に重大放送があるので必ず聞くようにということを繰り返していた。その放送の内容は知らされなかった。
「今日、教会に行けなくなっちゃった」
八重子は潘にそれだけ言うと、二人の子供を託して家を出た。学校までは虹口公園の門を横目に、東へと歩いて十分弱だ。学校へ着くと、なんだか重苦しい空気に包まれていた。
放送による重大発表とは何か、本来ならこの時は見当もつかずにいただろう。これまでの流れで行くと、もしかしたらついに日本が米英相手に大勝利を収めたという発表なのか……だが、昨日の潘の言葉が気にかかる。またあちこちで中国人が暴徒と化しているらしいという噂……。
生徒たちは作業をするでもなく、ただ教室のミシンの前に座って、ただ沈黙のうちに時を過ごしていた。
八重子は養護室で養護教員とともに時を待っていたが、ほとんど会話をすることはなかった。
やがて正午だというので、全校生徒は中庭に集められた。炎天下で、日陰も何もない校庭での整列はかなり苦痛であった。八重子も教員の列の最後尾に共に並んだ。
校長先生がまず朝礼台に立ち、話を始めた。
「今朝からのラジオニュースでご存じだと思いますが、これから畏れ多くも」
足を鳴らして校長は直立不動になる。生徒たちもみな同じだった。
「天皇陛下御直々の御放送があります。謹んで拝聴のこと」
すぐに校庭に設置された大きなスピーカーからまずは国家「君が代」が流れた。そのあとにいきなりガーガーガーという雑音が響き渡った。その雑音の中に、かすかに天皇陛下のものと思われるお声が聞こえてきた。
だが、時には雑音の方が勝って聴き取れなくなる。また、何よりもそのお言葉の文章が漢文訓読調で難しく、あまりよく理解できなかったが「米英支蘇……共同宣言を受託……」という言葉が辛うじて、最初の方で耳に飛び込んできた。
「ああ、やっぱり」
八重子は心の中でつぶやいた。潘が言っていたことは本当だったのだ……。隣を見ると、多くの教員が腕を目に当てていた。校長先生までが大泣きに泣いていた。
生徒たちは冷静にその放送を聴いていた。いや、冷静というよりも彼女らはその内容が聞き取れず、また理解できていないだけなのだろう。
八重子は考える力を失っていた。頭の中が真っ白だった。
天皇陛下の御放送自体は二、三分くらいで終わったが、そのあとも鈴木総理の話やら放送員による解説やらで四十分くらいかかった。
――戦争は終わった。日本は敗けた……
そのあとの解説によって、もうそれははっきりしてきた。ようやく生徒たちも事態が分かったようで、あちこちですすり泣きの声が聞こえた。
だが、八重子は気を抜くわけにはいかなかった。長時間に炎天下に生徒たちは立ちっぱなしである。もし貧血や日射病で倒れる生徒がいたら、養護教員とともにすぐに飛んでいかなくてはならない。だが、今のところそのような生徒はいなかった。
そのあと、生徒たちはいったん教室に入って待機ということになった。しばらくしてから居留民団からの指示を伝える役人が自動車で来たというので、八重子を含め職員全員で迎えた。八重子も職員室に呼ばれた。
「ご存じのとおり、残念ながらわが帝国は米英の共同宣言を受託し、無条件降伏をいたしました」
居留民団の役人が全職員に話を始めた。全職員といってももともと女学校なので女性教員が多いのに、男性教員は現地招集で軍隊にとられているので、職員室内はほとんどが女性か年配の男性教員だった。
「今後の我われ居留民の動向についてですが、」
誰もが息をのんだ。今後自分たちはどうなるのか……口に出してこそ言わないが、誰もが腹の中でそれを思っているはずだ。
「はっきり言って……」
どうも民団の役人はもったいぶっている。何か重大なことを言いそうだと、八重子は胸の鼓動をさえ覚えた。
「はっきり言って……わかりません」
内心「は?」という感じだ。でも、それも無理もないと思う。いきなりのこの終戦は、居留民団にとっても青天の霹靂だったはずだ。
「これからも上海に住み続けることになるのか、内地に引き揚げるのか、いずれしかるべき筋から命令が下ると思います。つきましてはこの学校ですが、これもわかりません。ただ、生徒たちには本日をもって最後の登校になる可能性が強いことも示唆しておいてください。その後は、自宅待機ということでお願いします。先生方も同様に」
職員室の中でもあちこちですすり泣きの声が聞こえた。
八重子も目が熱くなったが、これまでずっと教育に携わってこられた先生たちが泣かれるのと一緒になって、昨日今日雇われたただの用務員の身分である自分が泣くのはおこがましいと必死でこらえた。
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