そんなころに、かつて信が町内会に説明していた租界返還の期日がやってきた。

 中華民国の汪精衛主席も南京から上海に来ているし、どこかで厳かに調印式は行われているであろうが、一般居留民には関係のないことだった。

 町のあちこちに租界返還を祝うアーチが造られているほかはお祭り騒ぎもなく、普段とあまり変わらない感じだった。午後から獅子舞が出た程度だ。


 「なんか生活がどう変わるのかって身構えていたけれど、今までとおんなじねえ」


 婦人会の集会で、北川夫人が言う。


 「だって、居留民の住居営業は認められるってことでしたから、土地建物や財産も保証されるということですわ」


 早速新聞で読んだ知識を八重子は披露する。皆、まことがいたころと同じような顔で八重子の話に耳を傾けていた。


 「居留民団の組織もそのままですから」


 「でも工部局はとうとう看板を下ろすことになって、その引継ぎでお役人の皆さんてんてこ舞いだったそ……」


 そこまで言った田窪夫人の袖を、山田夫人がつついた。田窪ははっとした顔で、八重子に済まなさそうに目礼した。


 「皆さん、あまり気を使わないでください」


 かえって八重子の方が恐縮してしまう。確かに工部局はこれで解体である。建物や財産もすべて中国側に引き渡される。仕事とその書類もだ。

 旧職員はそのまま上海特別市政府の管轄下となる区役所の職員として採用されることになるが、その上司は市政府から中国人が着任するはずだ。

 工部局で働く日本人は南京路近くの本庁舎を含めて総勢五百人、七割方が工部局警察で、信のような総務職職員は三割程度の百三十人ほどだそうだが、それだけの数が市政府の区役所で働けるらしい。


 信がいなくても、新聞にはそう書いてあった。信が生きていても、信は失業することはなかった。あの官舎に住んでいたとしても追い出されることもなかっただろう。だが、逆にあの官舎にいて信がいなくなるという今のこの状態になったのなら、八重子は官舎を出なければならず路頭に迷っていたことになる。

 本当に今の家に引っ越してよかったと、八重子は姉夫婦と天のお恵みに感謝するのだった。


 いずれにせよ、本当の意味で八重子は中国で暮らすことになった。今までは長崎県上海市とかいわれていた上海が、正真正銘中華民国上海特別市となったのである。

 米英に侵略されて中国の主権も及ばない租界ができて百年、日本軍はその米英を駆逐して租界を取り戻し、そしてそれは中国に返還された。これからは新上海を日華両国民が手を携えて築いていくのである……と新聞には書いてあった。


 奇しくもそれと同じ日に、欧米の占領下にあって苦しんでいたビルマを解放し、日本軍の手でビルマ独立が実現した……それも、新聞にそう書いてあった。ラジオもそう言っていた。新しいビルマ政府は即日米英に宣戦布告したそうだ。


 こうして月日はまた過ぎ、八月も半ばになった。

 世間一般なら信の新盆となるが、キリスト教徒にとっては関係がない。むしろその日は聖母マリア被昇天の祭日である。だから平日でも協会で祭日のミサがあるのだが、この年はたまたま日曜日と重なっていた。

 八重子はいつも通りに信吉とともに教会に出向いていた。このころは、ともに阿媽アマの潘にもミサに参列してもらっている。いつも人力車で行くが、やはり自力ではまだ不安である。潘がいれば心強い。


 ミサが終わったあと、何やら風呂敷の包みを持っていた八重子は人力車に乗るときに、ガーデンブリッジを渡ってパブリック・ガーデンの方へと行くよう潘に頼んで車夫に伝えてもらった。

 信吉を抱いた八重子と潘を乗せて、人力車は西華徳シワト路を進んだ。この道沿いには横浜館、万歳館などのホテル、角にドーム型屋根を持つ塔屋が乗った日本電信局など三階、四階建てのビルが密集しており、その向こうにそびえているのがブロードウェイマンションだ。

 ちなみに、西華徳シワト路は今月になってから長治路と名前が変わっているようだ。租界返還以来、市政府はいくつかの旧租界の中の道の名を変えたと聞いている。


 八重子たちは、車に乗ったままガーデンブリッジを渡った。蘇州川にぎっしり浮かぶ小船や黄浦江の上の無数のジャンクの帆という光景は昔のままだ。もはやこの橋の上には何の検問もない。

 橋を渡ったところで車から降りて、八重子は潘とともにパプリック・ガーデンに入った。

 かつて信と初めて来たときに公園内を散策していた多くの西洋白人の姿は今は全くない。もともとありもしないのに人々の間で勝手に印象付けられてしまっている「犬と華人云々」の看板は当然のことながら、かつては確かにあった「自転車と車は乗り入れるな。犬の放し飼いの散歩はするな」という看板さえ今は撤去されていた。インド人の門番もいない。

 今やここは紛れもなく中国の公園であり、誰が入っても自由なはずなのに公園内は閑散としている。そればかりか誰も整備していないようで、まるで廃墟のように公園内は荒れ果てていた。

 公園の木々の向こうには高層ビル群のスカイラインが、これまでと何ら変わることなくそびえている。その景色だけは、三年前に初めて来たときと何ら変わっていない。

 公園の、蘇州川に沿ったへりは蘇州川の黄浦江への注ぎ口まで塀も手すりもなく、公園全体が階段状になって蘇州川の水面近くまで降りられるようになっている。その階段状の部分の上に、川に向いていくつかベンチがあった。

 左はガーデンブリッジ越しにブロードウェイマンションが見え、対岸はソ連領事館とドイツ領事館、旧アメリカ領事館、そしてわが日本領事館が川沿いに並んでいる。旧アメリカ領事館は、空き家なのかほかの用途に使われているのかはわからない。ソ連領事館も、今では使われていないようだ。

 そのベンチに、八重子は新吉を抱いて腰かけた。新吉は機嫌よく手足を動かしている。隣には潘が座った。


 「いろんなことがあったわ」


 八重子は川の濁った水面を見ながら言った。はっきり言って風が吹くと、あまりいいにおいは川の方からは来ない。


 「たった三年なのに、不思議ね」


 ふと八重子は言った。

 上海の町もしんの時代に漁村だったころから百年、イギリスとフランスが租界を築いてイギリス租界はアメリカとの共同租界になり、あとから日本が来て日本人街を作って、そして大東亜戦が始まって米英を追い出して日本軍が統治するようになって、そして今月の中国への返還である。


 「やっと上海も、元の持ち主に帰ったのね」


 「はい。奥様は中国を愛してくださっている。亡くなった旦那様もそうでした。お互いの国を好きになって尊敬しあう、これ、仲良くするための第一歩です」


 「ねえ、阿媽アマ。今日は八月十五日でしょ」


 「はい」


 「今日は教会ではマリア様の被昇天の祭日だったけど、一般の日本人にとってはお盆。でも、もう一つあってね」


 八重子は信吉を潘に預けて、隣に置いていた風呂敷包みを膝の上に乗せて開いた。


 「まあ」


 中身を見て、潘は驚きの声を上げた。


 「これ、旦那様の……」


 「そう、あの人が作った船の模型」


 よく休日に信は木材を手に入れてきては、裏庭でのこぎりを引いたりして作っていた船だ。長崎丸か上海丸を模したもののようで、三十センチくらいの大きさであろうか、細かいところまでよくできていた。


 「今日、八月十五日は長崎では精霊流しっていうお祭りがあって」


 「お祭り?」


 「うん。一年の間に家族で亡くなった方がいる家は、船を作って海に流すお祭りなの。その船がトラックで運ぶほどの大きい船もあるし、これくらいの小さな船もあるけどその船の行列が町中を練り歩いて、町全体でばんばんばんって爆竹鳴らして」


 「春節のように、ですか?」


 「そう、まさにあの通り。いえ、もっと激しいかも。で、ずっとチャンコンチャンコンって鐘を鳴らし続けて、船を担ぐ人はドーイドイ、ドーイドイって掛け声をかけ続けて、そりゃあもうにぎやかよ」


 「どうして船、流しますか」


 「亡くなった人の霊魂を、その船に乗せて天国に送るの」


 「あ、それでこの船を?」


 八重子はうなずいた。


 「この船、信さんが作ったものだから、信さんの魂がこもっているかも。だからこの船が、間違いなく信さんの霊魂を天国に導いてくださいますようにってね」


 「ここで流しますか?」


 「うん。もともと水に浮かべるために作っていないから浮くかどうかわからないけれど」


 八重子はそういって、船をもって川面かわもへの階段状の河岸を下りて行った。


 「ふつう、カトリックの信者は精霊流しでも船は流さないんだけど、今日は特別」


 八重子はしゃがんで、そっと船を水面に浮かべた。見事に船は浮かんだ。そしてくるりとひと回転して、ゆっくりと漂った。だが、なかなか流れて行かないことが、信がこの世に残していった八重子への未練を表しているようだ。

 やがて風に押されてか、船は少しずつ黄浦江への注ぎ口へと流れて行った。このまま、日本まで流れ着くだろうか……。


 八重子の目に、涙があふれた。町の喧騒をよそに、時間だけは静かに流れて行った。先に帰天した信と残された八重子、その二つの人生を象徴するかのようだった。

 そして八重子は、小さな声でつぶやいた。


 「私も日本に帰ろうかな……」 

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