信の葬儀は、八重子が毎週通っている南尋ナンジン路の教会で行われた。

 信の遺体を乗せた自動車は新公園近くの家を出て、まずは工部局官舎で停まる。そこからは文路を三角市場、領事館警察の脇を抜けて教会まで葬儀の列となる。

 やがて御聖堂おみどうの前に着くと、参列する信者たちによって「賤しめられし骨は主において喜び躍らん」という意味の祈りをラテン語で繰り返し唱えている。

 やがて御聖堂の中へと葬列は入っていく。


 「Subvenite, Sancti Dei, occurrite, Angeli Domini,Suscipientes animam eius,Offerentes eam in conspectu Altissimi.(天主の聖人は来たりて彼を助け、天使はでて彼を迎え、彼の霊魂を受け取りて天主の御前に捧げ給え)」


 そんな歌がラテン語で歌われる中、黒い布をかぶった棺は左右三本ずつのろうそくが並ぶ間に安置された。


 「主よ、永遠の安息を彼に与え、絶えざる光を彼の上に照らしたまえ。ああ、神よ。シオンにおいて主を賛美し、エルサレムにおいて誓いを果たさん……」


 ラテン語の聖歌に合わせて黒い祭服の司祭が入場し、すぐに葬儀ミサが始まる。

 だが八重子の頭は朦朧もうろうとしていて、祈る言葉も耳に入っていなかった。


 つい一年と数カ月前、この同じ教会の同じ場所で、自分と信は結婚式を挙げたばかりなのだ。あの時と同じ人々が今日も集まってくれている。でもみんな着物の色が違う。

 そしてあの日よりもさらに多くの人が今日は参列している。まずは信と八重子の信者仲間と教会の世話人、信のかつての工部局での同僚や上司とその家族、さらには今の亜細亜里の隣保班と時局婦人会の人々が集まってくれた。

 今、聖堂の後ろの方の席で信吉の面倒を見てくれているのも婦人会の人々だ。まだ、今何が行われているのか全く分かっていない信吉の姿は、余計に周りの涙を誘っていた。


 信の両親をはじめ親族も八重子の親族にも知らせは行っているはずだが内地から駆け付けるには間に合わなかったし、今は昔と違っておいそれと上海くんだりまで来られる時世ではない。

 とにかく今の八重子には悲しむというよりも、衝撃の方が大きすぎた。

 まだ事態を把握しきれていない。

 八重子はまだこれは何かの間違いだと思っている。あの映画のように、最後のどんでん返しがあるのではないかとさえ思ってしまう。

 しかし今、信の遺体は確実に目の前にある。つまり、あのどんでん返しは起こりようがないのだ。


 ほとんど時間を感じないうちに、ミサは終わった。

 続いて十字架を手にした司祭によって罪の許しの儀式が行われ、その祈りはすべて小声であるので参列者には聞き取れない。

 最後に司祭は声を上げて祈り、信者の参列者はそれに受け答えをする。


 「Et nenos inducas in tentati-onem.(我らを試みにひきたまわざれ)」


 「Sed libera nos a malo.(我らを悪より救いたまえ)


 「A porta inferi,(地獄の門より)」


 「 Frue, Domine, animam e-jus. (主よ、彼の霊魂を救いたまえ)」


 「Requiescat in Pace.(彼は安らかに息わん)」


 「Amen.」


 すぐに出棺、埋葬である。

 また信の棺は自動車で、新公園の西の方にある日本人墓地へと向かう。焼かずにそこで土葬である。

 信お墓は墓石ではなく木の十字架が立てられた。縦の木には霊名が「ポーロ三木」と書かれ、横木に木下信という名前が墨で書かれた。その十字架は多くの花で埋もれるほどに囲まれていた。


 こうして、信の葬儀は終わって、たった一人の人間がいなくなっただけのはずの家が、なんだか一気にがらんと感じられた。

 だが八重子は一人ではない。やっとつかまり立ちするようになったばかりの信吉がいる。お腹の中には息子か娘かわからないけれど信の子がいる。阿媽の潘にも引き続きいてもらうことになった。

 あとは婦人会の人々がいろいろと援助してくれるが、まだ八重子は実感がわかない。

 まさしく「どうしよう」という感じの毎日であった。


 長崎の竜之助から手紙が来たのは、八月に入ってからだった。今までなら長崎までの手紙の往復が、こんなに時間がかかることはなかった。

 手紙の内容は読む前から予想はついていた。まずは信の帰天に対する慰めの挨拶と、あとはひたすら八重子に帰国を促す言葉の繰り返しだった。


 もう信はいない。だから信の仕事に縛られて上海にいる必要もない。だが、読み終わった八重子は呆然とその手紙をテーブルの上に置いただけだった。

 たしかにもう上海にいる意味はない。これから租界がなくなるという激動の上海で、信吉とこれから生まれるお腹の中の子供と、二人の子供を女手一つで育てていかなくてはならない。

 しばらくは信が貯えておいてくれた財産がある。だが、それも永遠にあるわけではない。客観的には、兄の言う通り日本に帰るべきかもしれない。


 しかしここには、もう信はいないけれども信との思い出が染みついている。この町は八重子にとって信の存在そのものといってもよかった。だから、この町を離れて生きていくなんて、八重子にはできそうもなかった。

 誰にも相談できない。誰に相談しても、日本へ帰ることを勧めるに決まっている。

 ただ、冷静に落ち着いて自分の今後のことを考える余裕は、この時の八重子にはなかった。


 今後の自分の身の振り方を考えるもなく、ただぼんやりと毎日を暮らして日々は過ぎていった。まるで信の思い出と共に生きながら、信を忘れるために生きているともいえなくもなかった。だが、八重子自身はそのようなことは肯定しない。

 辛くなったら信吉を抱き上げて抱きしめた。そして自分のもう膨らみかけたお腹をさすった。

 だが、まだ信吉は話をすることもできない。八重子の唯一の話し相手は阿媽の潘だけだった。


 日がたつにつれて、信がいなくなったという事実が現実味を帯びてきた。そうしたら今度は、その現実をどう受け入れるかということとの闘いの日々となった。

 霊魂は不滅である。信はいなくなったのではなく、主のみ元にあって天国で見守ってくれている。自分もいつかその国で信と再会する。それまでのしばしの別れである……、頭ではそうわかってはいても心で割り切れるものではない。


 ただ、葬儀ミサの当日は気が動転してよく聞いていなかったが、ミサの中で読まれた書簡の朗読には、キリストが再来するときには「号令と御使みつかいおさの声と神のラッパとともに、自ら天より降り給わん。その時キリストにある死人まず甦る」とあった。今さらながら八重子はその聖書の一節を思い出した。

 それだけが今の八重子にとって一筋の光であった。


 信吉も伝い立ちが上手にできるようになっており、手を引けば数歩くらいは歩ける。でもまだ自分で何にもつかまらずに立ったり歩いたりは無理だ。

 八重子のお腹のふくらみは服の上からも感じられるようになり、傍目からもおめでただとわかるくらいになった。そして、確実にお腹の中で赤ちゃんは動いている。

 その二人の子供に励まされる形で少しずつ元気を取り戻した八重子は、時局婦人会の集会にもまた顔を出すようになった。夫を亡くしたばかりであることと妊娠中であることで、皆本当に優しくしてくれた。

 教会も最初は信の葬儀を思い出してつらかったが、信者仲間は本当に心の深いところでつながっていた。また、上海にいる居留民はただでさえ長崎県人が多いのだが、教会は特に多かった。思い切りふるさとの言葉をしゃべれるのも教会ならではだった。


 このころ、空襲に備えての防空訓練も租界挙げて行われ、八重子の町内会も例外ではなかった。

 もう婦人はみんな普通の和服ではなく、下にはモンペを履いていた。かつては農村の農家の作業着であったモンペも、内地ではもう昨年のうちに政府からすべての女性が着用するよう義務付けられていたようだ。

 そして、上海でも最近になってうるさく言われるようになって、女性は皆モンペでそろえていた。男性のいわゆる国民服は、もっと前からだった。

 防火訓練も、体力的なものは八重子は遠慮した。


 「体に障らない程度でいいのよ」


 八重子には皆がそう言ってくれたし、八重子もそこは気を付けているところだった。


 「皆さん、お国のために活動しているのですから、私だけ家でボーっとしているわけにはいきません」


 隣保班や婦人会の人たちとの連携もますます強く感じるようになった。 


 「でも、本当に上海に空襲などあるのかしら」


 いつもの山田さんが言う。田窪さんも防火水のバケツを運びながら話に入る。


 「でもこの間、南京が空襲されたらしいですよね。米軍は非道にも民間人を狙ったって新聞で非難してましたし」


 「木下さん、どうなんです?」


 八重子は急に話を振られたが、ここのところ新聞もろくに読んでいない。以前ならいつも信から戦局や国際情勢を聞かされていたのでその知識をここで披露し、婦人会の人たちもその情報を当てにしていた。

 だが今は、それもできない。婦人会の人たちもそれを悟ったのか、言葉を引っ込めた。


 「木下さん、ごめんなさい」


 「いいえ」


 少なくとも顔でだけは、八重子は笑っていた。

 それからは、なるべく新聞を読むことにした。上海の空襲を想定しての防火訓練だったけれど、新聞によると皇軍は在支米空軍を殲滅したので、当面は空襲はないとのことだった。

 そして共同租界に先立って、フランス租界の返還引き渡しの調印式も行われたことも知った。

 ただ、以前は新聞の下の方にある広告も北四川路や各所の映画館、劇場などで上映上演される項目の楽しそうな大型広告が多かったが最近はそれらはほとんど姿を消し、生活必需品や薬などの地味な広告ばかりになっていた。

 ものが豊富だった上海もさすがに物資が乏しくなり、昨年くらいから食料はほとんどが配給制となっていた。配給切符はこれまでは工部局からだったが、今後はどうなるかはまだ八重子は知らずにいた。

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