3
ある日、信の帰りが夜半近くになった日があった。六月も最後の日だ。
このころでは信吉もきちんと夜には寝るようになってくれていたので、八重子は
信はかなり疲れているようだった。
「ご苦労様です」
八重子はいきなりソファーに座り込む信をいたわって、すぐに食事の支度を始めた。
「食事は簡単でいいよ。それより、ママ、ちょっと座ってくれ」
信に言われて、八重子も恐る恐るソファーに座った。
「明日の新聞には載るだろうけれど、今日南京では我が国の駐華大使と中国当局との間で、日華基本条約の改定の調印が執り行われて、正式にこの共同租界は中国に変換されたよ」
もちろんそのことは知ってはいたが、あまりに思いつめたような表情で信が言うので、八重子の顔はこわばった。ただ、信の疲れ果てた表情の中にも笑顔はあった。
「安心してくれ。これからも僕らの生活はこれまでと全く変わらない」
「え? じゃあ。上海に住み続けられるってこと?」
「そうだよ。明日町内会の幹事さんたちを集めて僕から説明するよう、今町内会長とも段取りを取ってきたのだけどね」
「租界はなくならないの?」
「いや、租界はなくなる。でも、僕らはこのまま住み続けられる」
「工部局は?」
「なくなる」
八重子に緊張が走った。我が夫は失業するのか……だが、当の信は慌てている様子もなく、笑みさえ浮かべている。
「今まで租界の行政を担当していた工部局だから、租界がなくなれば工部局も解体だよ。でもね」
八重子は息をのんだ。
「これから今までの租界だったところも、これまで租界以外の上海を統治していた市政府の統治下に入る。でもこれまでの工部局はそのまま虹口のと川向うの区役所となることになったよ」
「それってどういうこと? パパのお仕事は?」
「まあ、よく聞いて。区役所の区長は当然のこと市政府から中国人の官吏が派遣されるだろうけれど、職員はこれまで通り工部局の職員が任じられる。つまり、これまで通り行政はほとんど日本人が担当するということだ」
「じゃあ、失業しなくて済むんですね」
八重子は大きく息をつき、全身の力が抜けたようになった。そして、その目はうるんできた。
「よかった。パパのお仕事がなくなったらどうしようかと思っていたのよ」
「確かにそんなことになったら、食べていけなくなる」
「そんなことよりも、パパがどんなに落ち込むかと思ってずっとマリア様にお祈りしてた」
八重子は袖を目に当てて、泣き始めた。その震える肩を信は優しく抱いた。
「大丈夫、万が一の時でも、僕がきっと君や信吉、そしてお腹の中の子供を護るから」
八重子は目を上げて信を見た。こんな頼もしい夫に出会えて本当に幸せだと思った。
翌日、町内会の会合には八重子も出た。時局婦人会もみな顔をそろえていたから、その中の一員としてだった。
その場で、信は町内会の幹事たちに状況を説明した。
「今朝の大陸新報にも出ていましたけれど、昨日南京でわが帝国と中国との間で新しい取り決めがあり、この共同租界は中国に返還されることになりました」
共同租界といっても、すでにアメリカやイギリスの勢力は一掃しているから実質上は日本租界である。
「新聞にもありました通り、租界とは欧米による中国侵略の象徴でして、その基地でもありました。今やわが帝国軍が彼らを追い出して租界を手にしましたが、次の段階としてこの租界を中国に返還し中国の主権を回復することで、真の意味での中国の解放が成し遂げられるわけであります。それによって日華両国の善隣友好の絆はますます強くなり、ともに大東亜の建設に向かって邁進することが可能になると、新聞にはそうありましたね」
説明のはずが何だか演説っぽくなっていったが、信は新聞に書いてあったことをそのまま言っているだけだ。それでも人々は拍手喝采だった。
ただ、昨夜の八重子と同様、人々の関心は今後の自分たちの身の上のことであるらしいことは、口に出して誰もが言いはしないけれどその念が伝わってくる。そこで信は言った。
「ただ、私たちのここでの生活は、これまでと何ら変わりません。中国との取り決めの中で、租界だったところは市政府の行政の下に入りますが、我が居留民団も町内会も隣保班もそのまま従来通りの活動を続けるということになりました。日本人のための学校もみんなこれまで通りです。」
またもや、いや、先ほど以上に盛り上がった拍手と歓声が上がった。
「俺ら、上海から追い出されずに済むんですね?」
昨日の夜の八重子の反応と同じだ。
「もうすぐ租界が返還されるって噂があったから、この上海で一から築き上げた地位も財産も全部なくして、裸一貫で日本に送還されるのかと思ってましたよ」
そう叫ぶ男もいた。皆はそれをいちばん恐れていたようだ。
「兵隊さんたちは?」
居留民にとって、自分たちを保護してくれている海軍陸戦隊のことも気になっているようだ。
「それも、今の重慶との戦争が終わったら軍隊も引き揚げるとの約束ですが、それまではこれまで通り陸戦隊も上海に駐屯したままです」
これにもまた拍手喝采だ。誰かが言う。
「歌の文句じゃないけれど、『激しい戦火を浴びたが、今は日本軍の手で愉しい平和がやってきた』ってね。その平和を守ってくれている兵隊さんたちだからねえ」
みんな、本気でそう思っていたのである。
「ただし、中国の軍隊の和平建国軍も上海に同時に駐屯することになります。まあ、これは友軍ですから皇軍とも手を携えて上海を防衛してくれるでしょう」
信がそう説明した後で、手を挙げたものもあった。
「フランス租界はどうなるのですか?」
「それは我々日本の管轄外ですから何とも言えませんが、今のところの動きとして早ければ来月にでもフランスもまた我が国に倣って租界を中国に返還するのではないかと見られています」
フランスといっても、今のフランスは日本の同盟国のドイツの占領下にある。だから、日本と足並みをそろえるであろうことは自明だ。
「百年の長きにわたって欧米の中国への侵略基地であった租界は、姿を消すのですよ」
また人々は一斉に歓声を上げた。
それからは、酒宴となった。
内地から来たばかりのものは、上海では今でも物資が豊かで食料もあり、こんな宴会もできるということに目を見張っていた。今の内地では考えられないことだそうだ。
まずだいいちに男たちが皆兵隊にとられてほとんどいない。いるのは中年と年寄りばかりだ。それに、時局も顧みずに酒を飲んでどんちゃん騒ぎしていたら、たちまち「非国民」と罵られるという。
そのような話は別として、この日ばかりは信も上機嫌だった。
その時は突然やってきた。
町内会での酒宴であんなに生き生きとしていた
ついに、
「立っちができた、あんよができた」
八重子は潘とともに大喜びだ。
「パパにも見せたい。
八重子はそんなことを潘に話していた。
今日は黄浦江の向こうの
いずれにせよ今日はそのまま直帰するので、早く帰れるかもしれないよいうようなことを信は言っていた。だから少し早めに夕食の準備をしようと、八重子は信吉を
「奥様、座っていて」
身重の八重子を気遣って、潘はいつもそう言ってくれる。八重子のお腹は気を付けて見ればわかるくらいにはなっていたが、安定期でもあってなかなか藩の言うことを聞かない。
潘もあきらめてかまどでの調理を鼻歌交じりに始めた。当然中国語の歌だが、その旋律にふと八重子は耳を澄ました。どこかで聞いたことがある歌だった。
「あれ? その歌……」
潘は歌をやめて、微笑んで八重子を見た。
「今年からすごく流行っている歌あるよ。そうそう、元は日本の歌、映画の歌」
「映画?」
「この歌があまりにも流行ったので、その映画はまた今年の春ごろに上映された日本の映画」
「なんて映画?」
「
そのような映画は知らない。
「阿媽は見た? その映画」
「いいえ。やってたのが南京路の
「南京路?」
南京路の映画館といえばグランドシアターかロキシー。だが、中国人向けに日本映画を上映しているといえばロキシーだろう。もちろん、八重子も行ったことはない。
「この歌、映画の中で主人公の
「主人公は桂蘭? ……ねえ、もう一度歌って」
八重子の注文に、潘は先程の歌を歌いだした。
「あ!」
八重子はやっと思い出した。かつて第二歌舞伎座で見た『支那の夜』という映画だ。だが、その主題歌はあまり印象に残っていなかったから、すぐには思い出せなかったのだ。
「もう一曲、歌あったでしょ」
八重子は印象に残っている挿入歌の「蘇州夜曲」を歌い始めた。なんとそれに重ねてその曲を、潘は中国語で歌い始めた。
「これも知っているの?」
「はい。この歌も、今年中国人にとても流行っているです」
「『支那の夜』、またやってたんだ。もう一度見たかったなあ」
小声で八重子はつぶやいた。この再上映の情報は、八重子の耳には全く入っていなかった。それもそのはず、題名も変えてということは中国人向けの上映だったのだろう。主題歌の中国語版の大流行が先のようだ。
あの映画を見たのはわずか三年前。上海に来てからまだ十日くらいしかたっていない時だった。だが、今の八重子にとってはなんだかはるか遠い昔のように感じられて、ものすごく懐かしくもあった。
その時、けたたましく電話の音が鳴った。それまでおとなしくしていた背中の信吉がその音に驚いたのか、電話の呼び出し音に負けないくらいの声で泣き出した。
「阿媽、出て」
八重子は電話を潘に託して、信吉をゆすってあやし始めた。ようやく信吉が泣き止んだので潘のところに行くと、潘は慌てて受話器を壁に戻して目をむいて八重子を見た。
「奥様、大変! 旦那様が!」
「パパがどうしたの?」
「川に落ちた!」
「なんですって?」
潘に聞いたところ、とにかく今は信は
一時間近くかかってたどり着いた楡林路のその病院は、二階建ての白い壁の小さな町医者だった。
このあたりまで来るともう租界の外であって、ドイツを追われてきた多くのユダヤ人が住んでいる地域にも近い。
病院にはすでに旧工部局の職員だった、八重子にとっては見た顔の人々も集まっていた。
「あ、奥さんがみえた」
八重子を見ると皆すぐに悲痛な顔で、八重子のそばに来た。
「奥さん、遅かったです」
目を伏せて、たしか田口といったその若い男は黙って首を横に振った。
到着まで人力車の上で、八重子は何回「めでたし聖寵~」の「天使祝詞」を唱えたかわからない。
だが、今回ばかりは八重子の祈りは天には届かなかったようだ。
身重の体であることも忘れて八重子は階段をのぼり、信がいるという病室に入った。そこには信の工部局での上司の山崎がいた。信がいちばん信頼していた人で、その奥さんとは官舎にいたころの婦人会で八重子とも親しくしていた。
ベッドの上に信は横たわっていた。顔には白布がかかっていた。
「うそ! うそでしょ!……ああ、どうしよう」
八重子は、それ以外言葉が出てこなかった。
隣に二、三人の男がいて、八重子に泣きながら頭を下げてきた。
「奥さん、申し訳ありません。私どもが一緒にいながら、木下さんを助けられませんでした」
あとも何か言おうとしていたが、彼らも涙に詰まって言葉が出ないようだった。
代わりに山崎が、悲痛な顔で八重子を見た。
「浦東での視察が終わって。渡し船に乗ろうとしたとき、ちょうど波で船が岸から離れて隙間ができてしまって、そこに木下君は足を取られてしまった。普通だったら川に落ちても浮き上がってきて泳いでいるところを引き上げられるのだけど、落ちる時に木下君は岸壁のへりにしこたま頭を打ち付けて、打ち所が悪かったんでしょうね、おびただしい血を流しながらしばらく浮かんでこなかったんです」
八重子は山崎の説明をよそに、信の体に縋りついた。そして白布を取った。頭に包帯を巻いた状態で、信は目を閉じていた。
「だいぶたって少し離れたところでようやく浮いてきたのですぐに引き上げたのですけれど、かなり水を飲んでいまして。なにしろ浦東は中国人の集落があるくらいで病院もないのです。次の渡し船で渡して、こちら川の岸から一番近いこの病院に車で運んだのですけれど、もう……」
たしかに、黄浦江のこちら側は東京や大阪に負けない先進近代都市だけれど、浦東は上海がまだ漁村だったころそのままだと聞いていたことがある。
だが、今の八重子の耳には山崎のそのような言葉は入ってこない。信の頬に頬ずりした。冷たく、硬かった。
「パパ、苦しかったでしょう。冷たかったでしょう……」
ようやく、八重子の目から涙が出てきた。だが、今はまだ、どういう事態になっているのか、完全には受け入れきれずにいた。
「今日早く帰れるかもしれないよ」
そう言って笑いながら信が出かけて行ったのは、ほんの今朝のことなのだ。
「どうして、どうして、どうして」
八重子は泣き叫びながら、信の体をゆすった。
信の同僚たちは気を使って、静かに病室から出て行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます