五月になって大連に行った姉の貞子から手紙が来た。

 もちろんこれまでも何度か手紙のやり取りはしていたが、今度はやけに長い手紙だった。

 挨拶の部分に続いて、手紙にはこう記されていた。


 ――此度このたび私共は大連ば離れて、新京へと移ることになりました。満鉄も改編となり本社が大連から新京へ移る為です。

 今、慌ただしか毎日ですばつてん、『満州』でもニユースで上海の事の度々たびたび報じられ、長年暮らした懐かしか上海の事ば思ひ出すと共に、あなた方の事が心配でなりません――


 手紙にはそのあと租界返還のニュースを聞き、上海居留民の今後のことが懸念されるということや、今後の世の中の推移への実感が軽く述べられた後、やはり上海を離れて信の故郷の高松なりあるいは長崎なりへと帰った方がいいのではないかということが綴られていた。

 そしてかつて上海での市街戦の時に、いかにして一時日本に引き揚げたかということが延々と描かれていた。


 ――あの『支那事変』の時の恐ろしか事は、今でも忘れません。あの時弘子はまだ生後六か月の乳飲み子でした。日本人の婦女子は全員に引揚ひきあげ命令が出ましたが、女子供だけでも二万人くらゐはゐたと思ひます。夫は満鉄の仕事がありましたけん、帰国する訳にはいきません。私一人で乳飲み子を連れての引き揚げはとても無理と思い、死ぬのなら家族一緒にと私は引揚を拒み続けました。

 当時住んでゐた満鉄の社宅では続々と奥さん方や子供は引き揚げていき、広い社宅に家族全員が残つてゐるのはたうたう私たちともうひと家族のみとなりました。

 社宅の前方に在る大きか石油タンクに爆弾ば投じられ、昼夜延々と燃え続ける炎の凄まじさと恐怖は、未だに忘れることができません。日増しに激しく成る市街戦の為、無理矢理軍の命令で軍艦に乗せられての引揚だつたとです。

 まだ歩けもしない弘子ば抱いて、トランク一つば持つて私はたつた一台残つてゐた囚人護送車のシートの下に身を隠しました。

 この、軍艦へと走る車の窓にビユンビユンと当たるたまで窓硝子ガラスは粉々に砕け、その恐ろしさに口もきけない状態でした。

 私たちの到着も待ち受けて軍艦は出航、その直後今度は軍艦に爆弾が投下され、大音響とともに激しく揺れる船体に、私は弘子をしっかりと抱きしめて、泣き叫ぶ弘子と共に私も泣き叫んでをりました。

 それがわずか六年前の昭和十二年八月九日の事です――。


 この時八重子は高等女学校の生徒だったが、ちょうど夏休み中で、突然上海から帰ってきて転がり込んできた姉の話をあまり詳しくは聞いていなかった。兄の竜之助には話していたようだが、なにしろ家出同然に上海に行ってしまった姉に少しばかり反感を持っていたのだ。

 

 ――後から聞いた話ですが、あんなに宗教嫌いの夫もこの時ばかりは「だうか無事に日本に辿り着いてくれ」と、神様に祈つてゐたといひます。どんな神様かは知りませんが。

 私も、これで夫との今生の別れとなるであらう、でも子供の命だけは守らねばいけんと決心し、断腸の思ひで帰国するやうにといふ夫の命令に従つたのです――。


 話には聞いていたし、今も上海のあちこちに残るあの上海戦の爪痕の廃墟と化した建物なども目にしてきた八重子だったが、このような臨場感あふれた描写に接するのは初めてだった。やはり当事者の言うことは違う。自分は直接体験していないあの出来事が、生々しく八重子に迫ってきた。


 ――そして長崎に帰つた私ですが、上海の戦火が落ち着いたといふ知らせもあり、夫が上海にゐる以上何時迄いつまでも上海に戻らずにゐる訳にもいきません。でもだうしても弘子をまたあんな恐ろしか目に遭わせる事はできないと、悩みました。そこで無理を言つて弘子は長崎に残してきたとです。その事で八重子サンにも随分迷惑ばかけてしまひましたネ――。

 

 「そうだったの……」


 手紙を持つ八重子の手は震えていた。すべてが初めて知ったことだった。自分の子でありながら弘子を厄介者と思って、それを他人に押し付けて自分だけ上海に帰ったとばかり思っていた。

 自分の勘違いが恥ずかしかった。

 心底姉に申し訳ないと思うにつけ、八重子の目には涙が込み上げてきた。実はこんな事情があったのだ。

 でも、そのおかげで自分は信と出会うことができた。一切が水も漏らさぬ天主様のご計画なのだろうと、八重子は今さらながらに恵みに感謝した。

 一見不幸と思われることにも、背後には底知れぬ仕組みが働いている、信仰の世界は実に奥が深い世界だから、やはりあるがまま、なすがままという素直さが大切なのだと実感する。

 だが、姉はこう言うのだ。


 ――ただ、私の所為せいで八重子サンを上海に呼び寄せてしまつたことに成つたばつてん、これから上海もどうなるか分からないと思ひます。あの時の私のやうに命からがら上海を引き揚げるなんて事になつたら気の毒です。いくら租界を返還するのが日本と同盟国である新中国だといつても、あの時私達に砲火を浴びせた『支那』兵は今でも重慶で燻つてゐます。そして日本と戦つてゐます。今はまだ上海も平和だと思ゐます。平和なうちに、平穏に帰れる時に日本に帰つた方がよかと私は思ひます――。


 「そんなこと言われても……」


 八重子はつぶやいた。無理に決まっている。

 信が帰ってきてから、その手紙を信に見せた。信も難しい顔をしていた。


 「お義姉ねえさんのお気持ちは痛いほどわかるよ」


 だが、その先は言われなくても八重子には十分理解していた。今八重子が日本に帰るということは信吉と二人でということになり、信とは離れ離れとなる。信は帰れないことは、あの上海戦の時の重吉と同じだ。ましてや、信は租界を統治する工部局の一員である。上海を離れることは不可能だし、ましてや工部局を辞めるなどということは現実的でなさすぎる。

 そして日本に帰っても仕事はない。さらには、今日本に帰ったら、ほぼ間違いなく兵隊にと召集される。


 「そういえば連絡船も、今は上海丸一隻しかない。切符を取るのも難しい」


 八重子が上海に来た頃は上海航路には上海丸と長崎丸の二隻の船が就航していたし、その後日本製の神戸丸も加わった。だが、これは一般の民間人は知らされておらず、八重子だけが信からこっそり聞き出したことなのだが、昨年五月に長崎丸が、十一月には神戸丸が相次いで海難事故で日本の商船と衝突して沈没している。

 だから今は上海航路には上海丸一隻しかないのだ。こう立て続けに連絡船が沈没したとなると、残っている上海丸も危ないということになってしまう。そうなるとますます、あえて日本に帰ろうとせずに上海にいた方がいいということになる。


 「とにかく今後租界がどうなるかということは未知数だから、しばらく様子を見よう」


 信がそう言うので、八重子は従うことにした。


 今回、八重子のつわりは前回ほどではなかった。しかも一度妊娠・出産を経験しているということは、それだけで心の強みだった。

 そのころ、これまでどこそこで帝国海軍が戦果を挙げて敵艦を撃沈したとか、大陸のどこそこで陸軍が敵を掃討して住民を解放したとかいう華々しいニュースばかりだった中に、暗いニュースも飛び込んできた。


 連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将の戦死のニュースだ。ラジオも新聞もそのことを繰り返し伝え、特集も組まれた。

 実は実際には四月にもう戦死していたそうだが、一カ月以上もたってようやく大本営からの発表となった。六月に東京で国葬とのことだったが、戦果湧きたつ中での一点の暗いニュースに、誰もが嫌な予感を少し感じたようだ。


 八重子にとってはその頃はようやくつわりも収まってきたころで、信吉もかなりの速さではいはいができるようになっていた。離乳食も進み、生まれたばかりのころに比べるとはっきりと成長が分かった。

 そうしてまたじめじめした梅雨を迎えると、いよいよ租界返還の調印式などの話が具体的になっていった。

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