第6章 夕なぎまで

 新しい年、昭和十八年の年明け、それは日華友好の新しい幕開けでもあった。

 南京の国民政府ができてからまだ三年余りだが、その汪精衛の新中国と日本との絆はますます深いものとなった。それ以前の蔣介石の重慶政権とは事変が勃発して戦闘が続いて泥沼化し、今でも重慶軍との戦闘は大陸各地で繰り広げられている。

 だが、正当なる南京の中華民国国民政府の前では重慶政権などただの叛徒にすぎない……と、上海居留民ばかりでなく内地の日本国民もすべてがそう思っていた。

 亜細亜里の隣保班でもささやかながら新年を祝する会合が執り行われたが、話題はそのことでもちきりだった。


 「ついに『支那』も正式に米英に宣戦布告したそうですな」


 集会所の建物で酒を酌み交わしながら、貿易商勤務の山村という若い男が大はしゃぎで言った。だいぶ座も乱れ、盛り上がっている。


 「ああ、山村さん」


 班長の生田が、山村を少し抑えるような感じで言った。


 「山村さんも、そして皆さんも、最近のニュースを聞いて何か気づいたことがありませんか?」


 「『支那』の動きですか? 米英に関すること? それとも我が軍の戦果とか?」


 「いや、そういうことではなくてですな、原稿の文章の表現です」


 「僕は気づいてました」


 やはり少しお酒が入っているまことが言うのを、台所で婦人会とともに給仕に飛び回っていた八重子も耳にした。


 「最近は『支那』ではなく、中国というようになってきましたね」


 「そうそうそう、あれ?って思ったんですよね」


 「実はですね」


 信の説明癖が始まったようだ。


 「汪主席から、これは正式にってわけではないのですが、できれば『支那』ではなく中華民国と、略する場合は中国と呼んでほしいというような旨が我が国に話されたようでしてね」


 「ほう。さすが工部局のお役人」


 何人かは感嘆の声を上げた。だが、顔を真っ赤にしている田窪などは、笑って言った。


 「でもまあ、いきなり変えろっていわれても、われわれは『支那』と呼ぶのが習慣になっているし、急には変わらんでしょう」


 信は苦笑した。


 「まあ、だんだんにでいいそうですけれどもね。これからますます日本と中国は同じ敵に対抗して協力体制を強めていかなくてはなりませんから、なるべく汪主席の意向に沿うようにした方がいいですね」


 「じゃあ、重慶のやつらや共産匪はこれまでどおり『支那』でいいですな」


 田窪の言葉に人々はまたどっと笑っていた。


 帰ってから八重子と二人きりになった信は、少し浮かない顔をしていた。


 「ニュースとかでは報じられていないからあの場では話さなかったけれどね」


 信はさすがに一般庶民では知り得ない情報も持っている。おそらくは家族である八重子にさえ話すことが許されない他の情報もあるのだろう。


 「もともと重慶との戦争も正式に宣戦布告もしていないから戦争ではなく事変だったんだけど、日本が米英に宣戦布告したその日に重慶は日本に宣戦布告していたんだ」


 「まあ、そうだったの」


 「でも、日本の政府は全く相手にもしていないし、同時にドイツやイタリアにも宣戦布告したそうだけどね、ドイツのヒトラー総統などは鼻で笑っただけで終わったそうだよ」


 「でもそれが何か、まずいことでも?」


 「いや、違うんだ。そんなことはどうでもいいんだ。実は……これはまだほかでは話さないでほしいんだけど、日本は欧米の植民地政策で苦しむアジアの人々の解放のために戦ってきて、ここ上海でもようやく米英の勢力の一掃を実現させたよね」


 「はい」


 「それで、ほかのアジアの人々と同じように、中国の人々も解放しなければならない。そのためには、米英を撤退させた後、いつまでも日本が租界を支配していたら意味がない。だから、今後の日本と中国との関係を強化し、ともに米英に立ち向かうためにも、日本は上海の租界を中国に返還して治外法権も撤廃するって動きがあるそうだ」


 しばらく八重子は黙ってしまった。

 そしてようやく口を開いた。


 「それはそれでいいことでしょうけれど……私たちはどうなるのかしら。もう上海にはいられなくなるってこと?」


 「わからない」


 信は首を横に振った。


 「まずは工部局がどうなるかもわからない。とにかくまだ詳しいことは何も決まっていないようなんだ」


 信はため息をついていた。ベッドの方では、信吉のぶよしがもう安らかな寝息をたてている。二人が帰る前に潘が寝かしつけてくれていたようだ。

 もうすっかり首もしっかりしてきていて、いろいろなことに興味を持ち、またすぐに何でも口に入れるので起きている時は目が離せないときだ。

 そんな信吉の寝顔を見ながら、新しい年がいったいどんな年になるのか、全くの手探りであることを八重子は実感していた。


 信が話していたことが具体化してきたのは、レンネル島沖海戦で敵兵力に大打撃を与えたということが報じられた二月になってからだった。

 租界返還の日華の交渉の段取りができつつあることが、新聞記事として公表された。時局婦人会の集まりに行ってもその話題でもちきりで、彼女たちの関心はとにかく自分たちが今後どうなるのかということだった。

 そして八重子の夫が工部局の人間だから自分たちが知らないこともきっと知っているだろうと、八重子に集中砲火で根掘り葉掘り聞きだそうとする。しかし実際、八重子も彼女らが知っている以上のことは何も知らされていなかった。


 さらに少しずつ春めいてきた三月、話はさらに具体的になった。

 上海中が湧きたったのは、日本の東條首相が上海を訪れ、黄浦江上の軍艦の視察などを行ったことだった。総理大臣が上海に来るということで、虹口挙げての歓迎ムードに包まれた一日だった。しかもその日が日曜日だったので、騒ぎはなおさらだ。

 だが、一般居留民がその姿を見に行くことなどできず、ものものしい警備で、町内会からもあまり外に出歩かないようにとのお達しが来た。信も仕事に駆り出されたので、八重子は教会のミサが終わると信吉を抱いて大急ぎで帰ってきた。


 まだ八重子が上海に来て数カ月のころに、東條首相は一度上海を訪れていた。だがあの頃はまだ首相ではなく陸軍大臣であり、しかも八重子もまだ右も左もわからずにほとんど姉の家にこもっていたころだったからあまり記憶にない。


 実は今回の東條首相の上海訪問は、南京にて中華民国汪精衛主席との会談を終えたのちの帰途だった。その南京での汪主席との会談の中で、租界返還の具体的なことが話し合われたという。


 「まあ、実現するのは夏ごろだろうから、それまでには詳しいこともわかるだろう」


 口では楽観的なことを言う信だったが、その表情は曇っていた。


 「僕たちがどうなろうと、この話は日本にとっても中国にとってもいい話なのだから、甘んじて受け入れるしかないね」


 八重子もまた、黙ってうなずくしかなかった。


 この年は復活祭が異様に遅かった。

 四月二十五日というその日付はもうこれ以上遅い復活祭はあり得ないというぎりぎりであり、実際にも歴史上最も遅い復活祭だということで、そのことが教会でも話題になった。

 だから去年のご復活の二日後だった信と八重子の結婚式だが、今年のその記念の日はご復活よりもはるか前になってしまった。


 思えば去年の復活祭は、結婚を間近に控えて緊張の毎日の中だった。

 そして今年は、今後の自分たちの身の振り方を案じている。

 信吉はといえばもう盛んにはいはいするようになっていて、目を離せられない。名前を呼べば振り返るし、あやせば声を出してけらけら笑うので、その笑い声だけが八重子にとって癒しだった。


 そんなころになってまた、八重子は自分の体調の変化に気が付いた。

 今度はもう経験者だけにそれが病気とかではないことはすぐにわかった。


 「信さん。話があるんです」


 ある夜、思い切って八重子は打ち明けた。今度は病院に行くよりも信に話す方が先だった。


 「あのう、もしかしたらもしかしてなんだけど」


 「何をわけわからないことを」


 信は一度はそう言って笑ったが、ふとひらめいたようで八重子の顔を見た。


 「え? もしかして?」


 「だからあ、もしかしてだって」


 信の顔がぱっと輝いた。


 「そうかあ。病院には?」


 「明日行ってみる。行ってみないとわからないけど」


 そうは言うものの、八重子はほとんど確信を得ていた。

 果たして病院での診察では「もしかして」であり、今度は遅いと叱られることもなかった。


 「二ヶ月ですって」


 夜になってから信に告げると、信は大喜びった。


 「よかった、よかった。体をいたわってくれよ。今度は女の子がいいな」


 「静かにい。のぶちゃんが起きる」


 そう言いながらも八重子は、今日の病院からの帰りに崑山路の居留民団まで行ってもらってきたばかりの「妊産婦手帳」を信に見せた。

 信吉の時は途中からだったが、今度は初めて最初からこの手帳を交付されたのである。


 「信さん、これからもよろしくね」


 「何をあらたまって」


 信は照れたように笑ったが、やがて二人は軽く抱擁した。

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