秋も盛りのころ、信吉のぶよしもようやく首が座ってきた。

 そろそろ外気にも触れさせなければならないとまことは八重子に言った。もちろん、病院の検診のためには外出する。今、内地では全国挙げて健民運動が盛んで体操などが奨励されているが、それが上海の居留民の間にも広がっている。そしてその一環として、赤ちゃんの定期検診も制度化されたばかりだ。

 だが、信吉にもっと広い世界を見せてやりたいと、信は言った。もちろんまだ何もわからない状態ではあるが、少しずつ自分の周りのことに関心を示すようになりつつある。「あう」などという声も発するし、わずかに笑顔を見せたりもするようになった。一日に一回あるかないかだが、そんなときは信は大騒ぎである。


 「笑った、笑った」


 むしろ信の方が満面の笑みだ。だが信吉は、声を上げて笑うにはまだ至っていない。


 そんなころに、折よく上海で一大行事が行われるという情報が入った。

 ちょうど南太平洋のソロモン諸島の東、サンタクルーズ諸島で我が海軍はアメリカ艦隊と交戦し、空母ホーネットを撃沈、空母エンタープライズを中破するなど殲滅せんめつ的打撃を与えたというニュースが流れた後だった。


 もうすっかり秋も深まっている。空も昨日までの雨雲もどこかへ行って、さわやかな秋晴れだった。

 教会でのミサにあずかった後、そのまま信のオートバイのサイドカーに八重子は信吉を抱いて乗った。

 まずは陸戦隊本部の脇を通って北四川路を南下する。左は上海神社に続いてかつては興亜院だったが、今月から大東亜省連絡所と名前が変わった。

 そして久しぶりにガーデン・ブリッジを渡る。新公園近くに引っ越してからは、ブロードウェイ・マンションを見るのもまた久しぶりだ。

 今はもう橋の上に警護の兵隊はいない。かつては決して行くなと言われていた川向うにも、何の緊張もなく行くことができる。

 橋を渡っても建物こそ西洋建築の威容を誇っている摩天楼が並んでいるが、歩いているのは日本人と中国人だけで、白人は全くいない。川向うも虹口の続きとなっている感じだ。

 オートバイはとんがり屋根が天を衝くキャセイホテルの角を曲がって外灘バンドから離れ、南京路へ入っていった。そのまま南京路を進む。ここから先は八重子も初めてだ。左右には多くの店が並び、巨大な建物の百貨店もあった。


 まるで夢の国のようだ。

 かつては夜になるとここはネオンによってまばゆい光の洪水になる。八重子は外灘バンドからちょろりとそれをのぞいたことがあったが、今は果たしてどうなのだろうかと思う。

 目指しているのは、南京路の左側にやがて見えてきた競馬場だ。もうすでに多くの人で競馬場は溢れていた。

 そこですでに始まっている行事とは、大東亜親善体育大会である。主催国の日本のほか南京国民政府の中国、『満州国』など大東亜共栄圏の国々に加え日本の同盟国であるドイツやイタリアからも上海在住の人々が参加した。

 中には頭にターバンを巻いたインド人の姿もあった。さらにはまだ正式に独立してはいないフィリピンも参加国となっていた。

 会場である競馬場には八重子は初めて来たが、その広さには驚いた。その驚くような広さの観客席がすべて人で埋まっているのである。日本人がいちばん多いが中国人も多く、西洋人の姿もちらほらある。フランス租界からも多くの人が来ているのだろう。今やフランスはドイツの占領下だから敵国ではない。

 すでに正面入り口には「満員入場御断り」の張り紙があったが、信の工部局の手帳ですんなりと通された。そしてすでに多くの人が入っているにもかかわらず人をかき分けて、前の方に席をとれた。そこは工部局によって、二人のためにあらかじめ用意されていた席だった。

 本当は今日は工部局も主催者側なのだから信も出勤して行事運営にかかわらなくてはならないのだが、特別に頼み込んで休暇扱いにしてもらった。信が休まなければ、とても八重子と信吉だけではここには来られないだろう。


 「今日はね、上海中の日本人国民学校や中学校、女学校の児童や学徒が開会式前に、パブリック・ガーデンからここまで工部局の音楽隊とともに大行列で行進したんだよ。それが圧巻だったろうけど」


 「仕方ないですわ。私たちは教会に行かなくてはなりませんもの」


 二人がこんな会話を交わしている間も信吉は泣きもせず、盛んに手足を動かしている。もちろん、まだ何もわかっていないはずだ。

 この競馬場はかつてここがイギリス租界だった頃に、イギリス紳士の娯楽場として作られた競馬場だ。だが今日は、馬ならぬ多くの国の人々がそこで走ったり跳んだりと競技をしている。

 どんなに前の方の席でもあまりにも競馬場は大きいので、その中央近くで競技している人たちは豆粒くらいにしか見えない。それでも人々の歓声や拍手などから、楽しそうな様子は伝わってくる。

 そんな会場を、南京路を挟んで建っている茶色い背の高い四角いビルのパークホテルが見下ろしている。信の話ではこのビルが上海でいちばん高いビルだということだから、ブロードウェイ・マンションやキャセイホテルよりも高いということになる。

 競技はそれぞれお国自慢の演技や、上海の日本人国民学校の児童、女学校の生徒などによる体操や弓道、柔道の試合などもあり、またドイツやイタリアの選手は陸上競技を披露したりしていた。

 さらには銃剣術やフェンシング、さらにはメリケン粉で顔を真っ白にしての飴食い競争もあった。


 「東京でもたしかあったのよね」


 八重子が競技を見たまま、隣の信に聞いた。


 「あの年は東京オリンピックが中止になって、その代わりとして東亜競技大会が東京と奈良や兵庫で数日間にかけて開催されたからね。参加国がアジアの国々だってだけで、かなりオリンピックに近いものだったみたいだけれど、今日のは違うね」


 信が少し笑った。八重子は真剣に演技を見ている。


 「ええ。なんだか国民学校の運動会の大きいのって感じ?」


 「それにしちゃ大きすぎだ。」


 信は今度は声に出して笑った。

 そのうち、会場がひときわ盛り上がったのは二人三脚のレースだった。国別の対抗ではなく、違う国の人同士がひもで足を結び、肩を組んで走って競う競争だった。

 八重子は一つため息をついた。


 「世界の人々がこんな感じで仲良く競技を楽しめたら、本当に平和よねえ」


 「そうだね。戦争のことも忘れてしまいそうだ。忘れちゃいけないんだけれど。でも、上海だからこそできるのかな、こういう催しは。内地では今はどうだろう?」


 信の顔はほんの少し曇ったが、少なくとも今この場所では人種も国境も超えて人々は融合した楽しいひと時を過ごしているのは事実だった。

 

 だが、同じ行事でも約ひと月後の行事は、真っ向から戦争と向かい合うものだった。

 もうすっかり冬で、寒い日が続いていた。教会では待降節に入っており、その待降節第二主日の二日後、つまり火曜日であって平日だが、この日にまた租界挙げての行事があった。

 平日でも、日付を動かすわけにはいかないのである。

 十二月八日…黄浦江上の米英の軍艦を砲撃する爆音でたたき起こされたあの日から一年たった。

 この日、上海でも大詔奉戴日の式典が執り行われた。


 朝から八重子の住む家のすぐそばの新公園で記念式典が執り行われるようで、だいぶ外が騒がしかった。

 平日だから信は出勤していっており、八重子は信吉を負ぶって江湾路の、満州国領事館の脇まで見に行った。江湾路はひっきりなしの車が走って新公園に吸い込まれ、また徒歩で公園の中に入っていく人も多い。

 ここからは公園の入り口がよく見えるし、中の様子もまた音も手に取るように分かった。


 周りには同じ路地に住む近所の顔見知りの主婦たちも大勢出ていて、公園の中の様子を遠巻きながらうかがっていた。

 朝の七時半、東方遥拝から式典は始まった。小春日和ともいえるぽかぽかとした陽気だった。

 八重子たちも町内会の亜細亜里隣保班の時局婦人会として路地に整列し、公園内の掛け声に合わせて東に向かって遥拝した。

 そして上海総力報国会の会長による開戦の詔勅の拝読の声も、朗々と聞こえてきた。その間はもちろん直立不動である。

 この後、一時間ほどして式典は終わって参列者はそのままぞろぞろと上海神社の方へと向かっていった。婦人会としてもそのあとに続き、八時四十分からの上海神社必勝祈願祭への参列となった。


 もちろん、キリスト者であることを理由にそれを拒むことは八重子にはできない。むしろ数年前にバチカンの方から日本のカトリック教会へ、国民儀礼としての神社の参拝は「愛国心のしるし、すなわち皇室や国の恩人たちに対する尊敬のしるしと見なされ、社会的な意味しか持っていない」とし、カトリック信者がそれに参加し、他の国民と同じように振る舞うことは許されるという通達も来ている。


 工部局の官舎にいたころも婦人会はあったものの工部局の傘の中で生活していたが、ここに引っ越してからは一般の居留民の中に信も八重子も放り出されたのである。

 居留民団の町内会の隣保班に属し、信も工部局での仕事のほかに隣保班常会や自警団に駆り出され、八重子も時局婦人会にたびたび顔を出していた。

 ただ信の場合職場が工部局ということで、ほかの民間人とは少し違う立ち位置にいたようであるが、詳しいことは八重子は知らなかった。信は話してはくれるのだが、複雑すぎてよくわからなかったのである。


 それから新公園で今度は陸戦隊の兵士の観兵式が行われていたようだが、そのあと午前十一時五十八分、耳をつんざくようなサイレンが租界中に響き渡った。往来の通行人も車もすべて足を止め、東方遥拝して戦勝を祈願した。

 サイレンは約一分間続き、その間人々はずっと最敬礼だったのだ。

 そして正午からは新公園の方からけたたましく軍艦行進曲が聞こえ、巨大な海軍旗を先頭に陸戦隊部隊は市中行進に出発した。

 八重子は三度目だ。一度目は紀元二千六百年式典での行進だったが、二度目はそのような行事ではなく本当の意味での出動だった。

 それが一年前のこの日である。

 米英との開戦に際して、陸戦隊の兵士や装甲車は延々と列をなして川向うへと進軍していった。

 そして三度目の今日はその一年後の同じ日、今度は実戦ではなく、また行事としての行進だ。

 そのあとまた婦人会で招集がかかり、北四川路の映画館で記録映画の上映があるのでそれを見に行くとのことだった。

 さすがに信吉は阿媽の潘に預けて行った。


 「木下さんは小さなお子さんがいるから、いろいろと大変よね」


 北四川路を歩きながら、隣の家の山田さんの奥さんが話しかけてきた。


 「でも、皆さんがいろいろと助けてくださいますから」


 吉村さんの奥さんもまた話に入ってくる。


 「困ったことがあったら何でも言ってね。そんなときに助け合うための隣保班ですから」


 隣保班とは内地でいうところの隣組となりぐみだ。

 ここでは皆、それぞれの夫の職業はさまざまである。そこが、工部局官舎の婦人会とは大きく違うところだった。


 記録映画はこの一年間の日本の戦局を知らせるもので、時々映る日本の町も東京がほとんどだ。長崎とは大きく違う東京の町の映像にむしろ上海に近いものを感じ、あまり懐かしいという感じは受けなかった。

 他はソロモン海戦から南太平洋海戦、そして大陸各地での華々しい戦果の連続で、帝国陸海軍がいかに快進撃を続けているかという内容だった。

 決して自国の利益ではなく、欧米の植民地政策にあえぐアジアの人々を解放し、白人勢力を駆逐して真のアジア人による大東亜の建設が着々と進んでいることをいくつものニュース映画が伝え、見る者の心を熱くした。

 その盟主が我が大日本帝国なのである……と、誰もがそう信じていた。

 こうして、大東亜戦争も第二年に突入していった。


 教会ではその翌週が待降節第三主日であり、待降節のろうそくも三つともった。そしてろうそくが四つともると上海に来てから三度目の降誕祭クリスマスのミサで、八重子は信とともに、そして今年はさらに信吉をも伴って参列した。信吉にとっては、初めてのクリスマスだ。

 だが、教会の外は静かな平日の夜だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る