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八重子には「妊産婦手帳」が交付されることになった。
この手帳はすべての妊婦が所持するものだそうだ。妊娠が分かったのと同時に交付されることになるということだがその制度はこの七月にできたばかりで、八重子はもう妊娠八ヶ月にもなってようやくこの手帳を途中から手にすることになる。
そんな梅雨も終わった頃、強い陽ざしの中の北四川路を信はサイドカー付きのオートバイを走らせていた。サイドカーには八重子が乗っている。
人の多い北四川路だし、また振動で八重子のお腹の子に障るといけないので、信はかなりゆっくりとした速さで運転していた。
「お
速度が出ていないので、八重子は信に気軽に話しかけられる。
「何だろうね。事務所の方に急に電話が来たんだけど」
あの事件以来、市場での買い物のついでに昼前に貞子が八重子のもとを訪ねてきたり、なんとか以前の姉妹関係を取り戻そうと互いに接するようにはしていた。
だがそれもまだわずか一週間くらいしか続いていない。
「でも話があるからって、なんで私もいっしょに家まで来てほしいなんて言うのかしら。なんだか変なお話」
昔の姉夫婦の家なら工部局の官舎から歩いてもすぐだ。だが、たしか今は新公園の方に住んでいるとのことだった。だから今、信は北四川路を新公園の方へと向かっているのである。
やがて北四川路の突き当りの四川路底を左に折れ、陸戦隊本郡と上海神社の間の道から新公園に行き着いた。公園の入り口は銃を持った日本の兵隊が守り、江湾路との境には鉄格子が張り巡せられている。
この公園も今は日本軍が接収して、陸戦隊の演習場や駐屯地になっているようだ。
そんな新公園の入り口で信は江湾路を左へ折れた。すぐに洋風の二階建ての堂々としたアメリカ風の建物が左側に見えた。バルコニーなどついているとんがり屋根の建物で、信はその建物の庭の塀の手前の角を左へと折れた。
「これが満州国の領事館だよ」
信はそう説明しながらも、細い道に入っていく。そしてすぐに左側にオートバイを停めた。
「着いたよ」
八重子はきょろきょろと辺りを見回した。信は電話で重吉からその家の位置を聞いていたようで、それをメモした紙を見ながら歩く。
ここはやはり社宅街のようで、同じような作りの建物が並んでいる。いかにもアメリカ人が建てたという感じの洋風建築だ。
だが住んでいるのは日本人ばかりだとすぐわかるような日本の生活感があちこちに漂っていた。
静かで、落ち着いた感じの一角だ。
紙には「色渡路」と書かれてあるその狭い道からさらに右に折れるもっと狭い路地へと信は入っていく。路地の入口には黒い鉄格子の門があり、今は開かれている。入ったところの右壁には「亜細亜里」と書かれてあった。
「えっと、たしか亜細亜里九号って言ってたな」
信はつぶやきながらゆっくり歩くので、その後ろを重いお腹を抱えて八重子も従っていた。
するとその赤い煉瓦の建物のドアが開き、和服の貞子が顔を出した。
「うちの人も待っています。さあ、どうぞ」
貞子は愛想笑いを浮かべた。
建物は隣とつながってはいるが、かなり大きい部分がひと家族用だ。外から見ていると二階建てだと思っていたが、ちょっとした三階もついていた。
通された応接間で、重吉はブランディーなどを持ち出してきた。
「帰りもオートバイで帰りますから」
信はほんの少しなめた程度で、あとは茶をもらった。それから先日の件について重吉からあらためて謝意が話された。
「それで、例の大西って男はどうなりましたか?」
話題を見つけがてらに信が聞いた。
「あいつは内地に送還になったよ。たぶん向こうの特高であらためて取り調べを受けるだろう」
「逮捕されたのはその人だけですか?」
「つるんでた連中が何人か一緒に逮捕されたようだけど、中共諜報団にかかわっていたのは満鉄ではやつだけだ」
「上海はいろんな人が来ますからね」
その先は言葉には出して言わなかったが、八重子には信が言いたいことがなんとなくわかった。前にも信から聞いたことがある。
日本から上海に来るのは一旗挙げてやろう、金儲けをしてやろうという人たちと同じくらいの数、日本にいられなくて逃亡してきた人たちもいる。犯罪者や
その大西という人もその一人だったのだ。学生時代からのマルクス主義者となると、かなりの活動家だったのだろう。
「ところで」
重吉の顔に重みが増した。
「実は私も、まあ、そのなんだ、とばっちりと言ったらなんだけど、この間しょっ引いて行かれたことだけでは済まなくてね」
「はあ」
信は顔をこわばらせた。
「満鉄の方から大連の本社に呼び戻された。やはり、あのような人物を結果的にかくまってしまっていたことへの一種の懲罰だろうね。所長なんかは内地勤務だよ」
「確かに、とばっちりですよね」
「ああ」
重吉は苦笑した。貞子はもう知っているらしく、黙って座っている。そんな貞子を八重子は見た。
「せっかくまたお姉ちゃんと会えるようになったとに。また会えなくなるんね?」
「うん」
貞子は力なくうなずいた。
「そこでだ」
重吉は話題を変えた。
「この家だが、君たちに住んでもらえないかね? もうすぐ子供も生まれるのだろう? あの官舎じゃ、こういってはなんだが狭すぎるのではないか?」
言われてみれば確かにそうだが、信も八重子もどう答えていいかすぐにはわからず、顔を見合わせていた。
「前の家は?」
八重子が聞いてみた。
「あの家はもう、人手に渡っている」
前の家の方が教会にも信の職場にも近いのだが、今はそれを言っていられない。いつかは官舎を出るのなら、降って湧いたありがたい話だと信も八重子も思った、いや、何よりもこれは天主様のお仕組みだと感じていた二人は、互いの顔を見てうなずき合った。
「ありがたいお話なので、お言葉に甘えさせていただきます」
信が言うと、重吉は重く笑った。
「それがいい。もう、来週には我われは大連に出発するから、そのあといつでも都合のいい時に引っ越してきなさい」
「はい」
そのあとは戦局の話や世間話などして、時間が過ぎた。
帝国海軍は先月の初めにミッドウェーで敵空母を二艦も撃沈という華々しい戦果を挙げた後も、アリューシャン作戦でのアッツ島占領と、フィリピン全土の占領と大いに活躍しているらしい。
「これでフィリピンの人々も我が帝国の軍隊によって、欧米の圧政から解放されたのだ。めでたいではないか」
一人でブランディーをのんですっかり出来上がっていた重吉は、高らかに笑った。
その後も日本軍の戦果のニュースは、次々と新聞やラジオで伝えられた。
オーストラリアの近くの南太平洋に浮かぶソロモン諸島近辺の海域で、帝国海軍は敵大艦隊を
そんなある日、午後の陽ざしを浴びた新公園前の広場は、もう幾分暑さも和らぎ始めていた。ここから見ると右手が陸戦隊本部、左が上海神社となる。
そんな一角の近くにある新居のドアを、八重子は押した。かつては姉夫婦が住んでいたこの家に引っ越してきてからもう二カ月がたつ。
「ただいま」
「まあ」
驚いたような声を上げたのは、最近雇った中国人の家政婦の潘美娟だ。上海居留民の日本人の間では、中国人の家政婦を「
潘は八重子よりも五歳くらい年上のようだった。
「奥様、買い物なら私行ったのに」
「いいのよ、阿媽。あなたにはそう迷惑もかけられないわ」
「だって、奥様、赤ちゃんが」
八重子のお腹はかなり大きくなっている。すでに臨月だ。潘は少し笑った。
「私、この家に来てよかった。奥様も旦那様もとてもいい人。奥様と会って、日本人への考え変わったよ」
八重子は買ってきた食材を台所のテーブルに置きながら、微笑んでいた。
「あら、以前はどう思っていたのかしら」
「それは」
潘は口ごもった。とても口に出せないであろうことは、八重子にもわかったのでそれ以上追及しなかった。
中国人は決して敵国人ではない。そのことは信も八重子に説明してくれていた。今日本が戦っているのは重慶の蔣介石政権そしてそれと手を組んだ共産党軍とであって、中国とではないというのは以前から信が言っていたことである。
中国の政府である南京の中華民国国民政府は日本と友好関係を築いており、日華基本条約も結ばれている。日本の同盟国であるドイツやイタリアもこの政府を承認している。だから中国は敵国どころか、日本の友好国なのである。
上海の日本人は、たしかに誰もがそう信じていた。実際、租界以外の上海市全体を統治しているのは、虹口よりもすっと北にある上海市政府だが、もちろんあの日本軍と重慶の国民党軍が上海市街で戦った事変より後は南京政府の系統である。
その一方で、重慶の蔣介石政権は逆にアメリカやイギリスに接近しているようだ。
しかし八重子は、潘とそのような政治的な話は極力しないようにしていた。
「でも、今は日本人にもいい人いると、私分かったね」
潘も微笑んだ。
「さあ。夕食の支度」
「私、します。奥様、無理するのよくないある」
「でも、不思議な感覚ね」
台所に立った八重子は何げなくつぶやいた。
「この私のお腹の中で私ではない別の
潘も微笑んだ。
「こんな世の中だからせめて心くらいは明るく持って、闇を照らす希望の光になりたい」
それがキリスト者の生き方だと、八重子は思っていた。
その日の夜、寝室で八重子は信に今日の潘の言葉を伝えていた。
「日本人にもいい人はいるってか」
信は苦笑していた。
「やはり政府と民衆というものは全く別物だな。上海にいる『支那人』たちは親日的な南京の政府の中華民国国民で上海市政府も南京側だといっても、一般大衆は日本をどう思っているかわからない。
「え? それこそ敵……よねえ」
「うん。でも逆の意味からいうと、じゃあ彼らがみんな悪い人かというと、一概には言えないだろう。僕は仕事柄大東亜戦の開戦前は工部局で多くの米英人と共に働いてきた。アメリカやイギリスは敵国だけれど、今から思い出せば一人一人はいい人だった。今はみんないなくなってしまったけどね」
信は声を落とした。
「こんなことはよそでは言えないな。それこそスパイ容疑がかかる」
そしてまた苦笑した。
「でも、『支那人』も日本人もアメリカ人もすべて唯一の天主様の被造物。天の御父のみ前ではみんな同じなんだよな」
「ええ。早く平和な世の中になってくれるといいのだけど」
「そのために兵隊さんたちは戦ってくれているんだから、銃後の我われはただ天主様に祈るしかないだろう」
八重子も静かにうなずいていた。
裏口のドアが開いた。
「奥様。いちばん大きいのもの、買ってきたよ」
汗にまみれて入ってきた潘の方には、大きな西瓜が網に入って背負われていた。
「まあ、大きい。早く食べましょう」
「奥様のお腹には負けるよ」
「やだあ」
二人で笑った後、涼しい風が吹き込んできた。
「もうそろそろ今年の西瓜も終わりかもね」
八重子がそう言っている間に、潘はドアを閉めようとした。
「阿媽、いい風。ドアを開けておいて」
もうすぐ秋とはいっても、まだまだ蒸す日が続いている。
「早く、台所に持っていこう」
八重子は床に降ろしてあった西瓜の網を持とうとした。
「奥様、だめ。重いもの持っては!」
潘がそう言って西瓜を持って台所に向かったので、八重子も中に入った。手で二、三度顔の前をあおいで、風を起こしながら流し台の下の
「阿媽は本当に買い物上手ね」
そう言って微笑みながら包丁を出し、流しの脇に立てかけてあった
「うっ!」
声を発して、八重子はその場にうずくまった。
「奥様!」
潘が慌てて駆け寄ったが、八重子はうずくまったままうめき続けた。ハッと気づいた潘は急いで廊下に出ると玄関まで走り、表通りまで走って人力車を停めてその車を家の玄関まで誘導してきた。
すぐに八重子を支えて連れ出して人力車に乗せると、潘が行き先の病院名を車夫に告げた。
潘は家の中に取って返し、信のいる工部局に電話をした。
「もしもし」
電話に出た人に、潘は信の名前を連呼した。
「木下先生、木下先生」
すぐに信に変わった。
「潘です」
「え? どうした?」
潘が信の職場の工部局に電話をすることなどこれまでになかったので、信は驚いている口調だった。
「奥様が、奥様が」
「落ち着いて! 八重子がどうした?」
潘は八重子が産気づいて倒れ、人力車で病院に向かっていることを告げた。
「福民病院だね?」
「そうです」
「わかった。僕もすぐ行く」
信の電話はそれで切れた。
信が駆けつけると、八重子はもう分娩室に入っていて会えなかった。廊下の長椅子に座って待っているうちに、外はもう暗くなっていた。天井に張り付くように天井扇風機が回っているが、あまり効果はない。
分娩室の中から産声が聞こえたのは夜になってからだった。
看護婦が顔を出した。
「元気な男の子ですよ。奥様もお元気です」
信は全身の力が抜けるようにまた座り込んでいた。
洗礼名はペトロと名付けられた。
それからというもの新米パパと新米ママの奮闘の日々が始まった。まだ日本人家庭で親をパパ、ママと呼ぶ家は少ないが、信が欧米人との付き合いが多かったことやキリスト信者の家庭ということもあって、パパ、ママと呼ばせようと信と八重子の間で話がついた。
八重子は自分が親をそう呼んだことがなかっただけに、自分が「ママ」と呼ばれるであろうことにむずかゆい感じがしていた。
信は信吉の前ではもうデレデレになっていて、信がこんなに子煩悩だったということを八重子は初めて知った。なんだか信の、今まで知らなかった一面を発見したような感じだった。
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