ちょうど結婚式が終わったころから、お腹は傍目からも目立ち始めた。

 思えば聖週間に入るちょっと前につわりはすっかり収まっていた。いちばんいい時期に式を挙げることができたのも、どう考えてもお恵み以外の何ものでもなかった。

 そして、長崎と同様上海にも梅雨が訪れるころにはもうかなりお腹も目立ち、胎動も感じられるようになった。


 上海の梅雨は気温はそう高くなくてもとにかく湿気が多いので、じめじめと蒸し暑かった。だが、それは全く長崎と同じで、もう八重子は慣れ切っている。そんなことからも、やはりここは長崎県上海市なのかなとも思う。


 大東亜戦の戦況の方も、五月にはビルマを制圧し、これで南方作戦は完遂した。続いてフィリピンのミンダナオ島を占領した。これら作戦の総ては欧米の植民地化にあえぐ東南アジアの人々のため、欧米勢力を駆逐して現地の人々を解放したのだと新聞の解説にもあった。


 そんな中で迎えた梅雨の蒸し暑さである。

 ニュースはアリューシャン列島での日本軍の快進撃を伝え、ダッチハーバーに猛撃を加え。それと同時にミッドウェーを強襲してエンタープライズ、ホーネットという敵空母二隻を撃沈し、華々しい戦果を挙げたということを高らかに強調していた。

 もちろん誰も、ミッドウェー海戦の大勝利を疑う者はいなかった。


 そんなある日、まだ早朝だというのに信と八重子の住む部屋のドアをけたたましく叩くものがあった。

 信がドアを開けると、そこには着の身着のままで息を切らし、髪もとりみだした和服の女がいた。


 「貞子姉ちゃん!」


 信の背後から恐る恐るのぞいていた八重子は、思わず声を上げた。


 「八重子!」


 ほとんど半泣きで、貞子は八重子にすがってきた。だがまず八重子の大きく膨らんだお腹を見て「え?」という表情をしたが、今はそれどころではないという顔つきで涙目で八重子を見た。


 「うちの人が、特高に連れていかれたと」


 「え?」


 声を上げたのは信も同時だった。


 「あなたは八重子のお姉さん?」


 「はい」


 この二人は確かに初対面なのだ。


 「じゃあ、連れて行かれたのは八重子のお義兄にいさんですね」


 信と貞子のやり取りを聴きながら、八重子はただ身をすくめていた。


 「あなた方は僕の妻の姉夫婦でありながら妻を無理やり上海に呼び寄せて、女中代わりに使っていたそうですね」


 「妻?」


 貞子は信と八重子が結婚したことも知らないようだ。当然である。八重子は知らせてはいない。


 「そんなことより」


 八重子がこわごわと信の背後から口をはさんだ。


 「お義兄さん、どぎゃんしたとね?」


 「赤狩りたい。昨日今朝早く大和ホテルの満鉄事務所にどっと特高が来よって、何人か連れて行かれたと。そん中に、うちン人も入とったと」


 「赤?」


 いわゆる共産主義者である。治安維持法により、共産主義者は即刻逮捕である。上海に特別高等警察はいないが領事館警察がほぼ日本国内のそれと同じ職務で、したがって居留民は領事館警察を特高と呼んでいる。


 「お義兄さんは満鉄にお勤めだったよね」


 信が振り返って八重子に聞いた。八重子はうなずいた。


 「はい」


 「そうか」


 信は少し言葉を切ってから八重子の方に首だけで振り向いて言葉をつづけた。


 「かつては上海が無法地帯で日本の法律は及ばないとたくさんの赤が上海に流れてきたことがあったけども。でも今は事情が違う。もうここは日本なんだ。それで、満鉄の事務所が怪しいと工部局でも目をつけていたんだ」


 それも信の仕事のうちの一つだった。


 「そんな、いくらなんでもお義兄さんが赤のわけなか」


 「そうたい。うちの人、そぎゃんこつに頭を突っ込む人じゃあなか」


 八重子も貞子もかなり興奮している。


 「とにかくお義姉ねえさん、中に入って。二人とも落ち着いて。僕がとりあえず事務所に行って聞いてくる」


 信はすぐに浴衣の寝間着から洋服に着替えて、同じ建物の中にある自分の職場の工部局の事務局へと出かけて行った。


 部屋には八重子と貞子の姉妹だけが残された。姉の顔を見るのは一年半ぶりだ。


 「そんで姉ちゃん、家から走って来たと?」


 「うんにゃ、今はあそこにはもう住んどらんと。新公園の近くの郵船社宅のそばに住んどっと。その方が、あの人の職場の満鉄の事務所が入っとる大和ホテルも近かけん」


 「そぎゃん遠くからこぎゃん朝早くに」


 「『支那人』の朝は早かよ。すぐ人力車拾えた」


 たしかに暗いうち、日本人がまだ眠りについているころから中国人たちは活動を始めている。

 そして貞子は八重子のお腹を見た。


 「今、何ヶ月ね」


 「もう七ヶ月たい」


 「いつ結婚ばしたと?」


 「四月。御復活のころ」


 「あんちゃんは知っとっとね?」


 「ええ。ちゃんと許しばもろた」


 短い会話が続く中でも、貞子の目は宙を泳いでいた。


 「あん人は赤じゃあなか。もしそげじゃったら私が知っとっと」


 「うん、なんかの間違いたい」


 そんな話をしていても、途中かなりの時間会話が途切れる。信の帰りがやたら遅い気がした。もしかしたらこのまま出勤ということになって、帰ってくるのはいつもの帰宅時間なのだろうかとさえ思ってしまう。

 そんなことを考えているうち、昼前には信は戻ってきた。


 「分かったよ。お義兄さんの身柄は今は領事館の警察署だそうだ」


 「領事館警察ならすぐそこじゃない。助けられそう?」


 八重子は信に詰め寄った。確かに領事館警察署は毎週通っている教会の手前だ。歩いても二、三分の距離である。


 「お願い、すぐ行って」


 その後ろで貞子は椅子に座り、重い表情でうつむいていた。


 「いや、実はいろいろと複雑な問題があって、ちょっと厄介だよ」


 今八重子たちが住んでいるこの茶色いビルは信のような工部局事務職員はほんの少数で、大部分が工部局警察の巡査の官舎だ。工部局警察と領事館警察との関係も絡んでくるのだろうと、さすがに八重子でもそのくらいの察しはついた。


 「まあ、かつて工部局警察がイギリス主導だったころに比べたら、だいぶ状況は変わってきているけどね」


 かつての工部局はイギリスやアメリカ、そして日本で共同で運営していた。だが、実質上はイギリスが牛耳っていた。たしかに信の言う通り、その頃だったらいろいろと面倒だっただろう。だが今は、工部局の参事会も要職もみな日本人が占めている。工部局警察と領事館警察ではともに日本人同士であり、役割分担もできている。租界の治安と居留民の保安という点では共通の任務だが、工部局は租界内の中国人の管理および警備や交通安全の方に重点があり、領事館警察は日本国内の特高警察の役目を負っている。


 「昔よりはいいといっても、そう簡単にはいかないよ。逮捕されたのが僕の身内ということであっても、それはあくまで私事だからね」


 貞子はそれを聞いてますます落胆の様子で、もう何も言わなくなった。


 「とにかく、今から川向うの工部局の本部に行ってくるよ」


 工部局本部は外灘バンドの近く、三馬路というところにある。かつて八重子が信とキャセイホテルで食事をした時にその近くに見えたので、あれが工部局の本庁舎だと信が八重子に教えてくれたのを覚えている。かなり大きな堂々としたビルだった。

 また、室内には八重子と貞子が残された。八重子はとりあえず昼食の支度をした。


 「ごめんね。八重子、ごめんね」


 口を開くと、貞子は泣きながらその同じ言葉を繰り返すだけだった。


 「あんなひどか仕打ちばしたうったちなのに」


 「もう、よかよ。今はとにかくお義兄にいさんが無事帰ってくるこつだけを、マリア様にお祈りせんね」


 力なく貞子はうなずいて、昼ご飯を呼ばれた。

 信が戻ってくるまで、またかなり長い時間が過ぎたように思われた。


 三時過ぎごろに戻ってきた信が言うにはこうだった。


 「やはり工部局警察の上の方の人も、一度領事館警察が逮捕した身柄に関して工部局警察が関与することはできないと言っていた。逆に工部局警察が邦人を逮捕した場合は、身柄は即刻領事部警察に引き渡すことになっているからね」


 「そんな。じゃあ、何もできないの?」


 八重子が突っかかるように言うと、信はそれをなだめるように手で抑えるしぐさをした。


 「まあ、落ち着いて。こういうことだ。工部局警察として表立って動くことはできないけれど、僕が個人的にかかわる分には大目に見るそうだ。ただしあくまで自己責任でと言っていた」


 うつむいていた貞子が、さっと顔を上げて涙目のまま信を見た。


 「今から領事館警察に行ってくるよ。領事館の警察署ならすぐそこだし」


 「私も行く」


 八重子が言ったが、信は笑って取り合わなかった。


 「そんな大きなお腹で君が行ったところで、何ができる? 君はここでお姉さんの力になってあげるんだ」


 「わかりました」


 八重子は一度立ち上がったものの、また座るしかなかった。

 そしてまた姉と二人で、信を待つ時間となった。だが今度は、一時間くらいで信は帰ってきた。


 「話はついた。釈放だそうだ。今から迎えに行こう。お義姉ねえさんも一緒に」


 「え?」


 貞子の顔がぱっと輝いて、そして立ち上がった。


 「ありがとうございます」


 その声はまた涙ににじんでいた。


 「私も」


 「ああ、一緒に行こう」


 八重子も同行を許されて、三人で部屋を出た。

 下に降りるエレベーターの中で、貞子は小声で八重子に聞いた。


 「うったちあげにあんたのことひどかあつかいばしたとに、なしてこぎゃん親身になってくれっと?」


 「ひどかこつされたなんて思っとらんよ。仮にそうだとしても、人もし汝の右の頬を打たば、左をも向けよってイエズス様も言うとらすと」


 信も口をはさんだ。


 「たしかに恩を仇で返す人って多いけれど、仇を恩で返すのが主のみこころにかなっているよね」


 そうしているうちにエレベーターは下に着いた。そのまま三人は、歩いてすぐの日本領事館警察に向かった。三角市場の脇の文路を行くと、その隣の一階に郵便局が入っている堂々としたビルが領事館警察署だ。


 中へ入ると、信の顔を見た警察官が三人をすぐ応接室のようなところへと無表情で案内した。

 三人とも無言のまましばらく待っていると、二人の警察官とともに重吉が部屋に入ってきた。寝間着の浴衣のままだ。

 三人は立ち上がった。


 「あれ? 君は……」


 八重子を見て重吉は驚いた顔をしていた。


 「しばらくです」


 八重子は頭を下げた。警官は一つ咳払いをした。


 「あなたが工部局の木下さんの、こちらにおられる奥さんの義理のお兄さんだということで大変失礼をした。実は満鉄事務所の大西勇夫いさおの件で参考までに所長も含めて満鉄の方全員にご足労頂いた。決して逮捕連行したわけではない」


 やけにその最後のところを強調する。それを聞く重吉も渋い顔をしていた。

 そのまま三人はもう帰っていいというので外に出た。そろそろ宵闇が迫るころだった。それでもむっとした暑さがぶつかってくる。

 歩きながら信は重吉に頭を下げた。


 「お義兄にいさん。お初にお目にかかります。木下信といいます。八重子とは今年になってから結婚をさせていただきました」


 「あなたが、八重子君が言っていた工部局の方か。ま、今回はお世話になったということで、礼は言っておこう」


 「いや、危ないところでしたね。とにかく私たちの家に。その格好ではちょっと」


 たしかに、重吉は寝間着のままなのだ。幸い市場は午前中しかやっていないので、今は誰もなくてひっそりとしている。小走りに走って、四人で官舎に駆け込んだ。

 部屋では重吉と貞子に、とりあえずソファーに座ってもらった。


 「なにが参考人として来ていただいた、だ」


 重吉はまだ興奮していた。


 「そうですね」


 信がテーブルのところから持ってきた椅子に座って、相槌を打った。


 「それならばまだ就寝中にそんな寝間着のまま連れて行きませんよね」


 「だってあの時、特高は突然ドアをけたたましく叩いて、うちの人の両腕を掴んで引きずっていったのですよ」


 貞子もそう証言する。重吉は信を見た。


 「あなたが口をきいてくれたのですかね」


 信は笑みを含めた顔を横に振った。


 「いいえ、私なんかにできることはありませんよ。ただ、工部局は表向きには関与できないと言っていましたけれど、表ではなく裏では動いてくれたのかもしれません」


 「そうですか。それにしてもなんか怪しいとは思っていたんだよ、あの大西という男には」


 「さっきの警官も言っていましたけど、誰なんです? 大西とは」


 信と重吉のやり取りを、貞子と八重子の姉妹はただ聞いているしかなかった。


 「満鉄うちの職員だがね、やつが赤だったんだ。東亜同文書院の出だけど、在学中にもう中共ともつながっていた」


 東亜同文書院は上海にある日本の大学で、かなり有名な大学である。大西という男は、その在学中に中国共産党ともつながっていたらしい。


 「それが大連の本社から調査部員としてこちらに回されて、表向きは重慶の『支那』軍の戦力とか調べていたけれど、さっきの警察署での話では、やつは陰でこそこそ八路パールーともつながってたようだ。陸戦隊に出入りしては軍の情報を手に入れて、それを全部共産匪に漏らしていたということだよ。いや、驚いたねえ」


 八路パールーは中国共産党の毛沢東が率いる軍隊だが、今は重慶の国民党軍と一時的に手を組んで日本と戦っている。つまり日本軍の情報が敵に筒抜けになっていたということだ。


 「釈放される直前になって教えてくれたけど、去年の秋ごろに東京でソ連の諜報員や旭日新聞の記者とかが逮捕された事件があっただろう」


 「はい、大事件でしたね。逮捕された中には近衛前総理の側近だった人もいて、近衛前総理にも累が及びかけた……」


 信はそう言うけれど、八重子は知らない。


 「あの時は『外人』を含むおびただしい数の関係者が逮捕、または事情徴収されたようだけど、その芋づるで大西の名前も露見して、特高警察当局はずっと大西に目をつけていたらしい。我われ満鉄としては全く与り知らないところだけど、今までやつの諜報活動に気づきもせずに野放しにしていたということでかなり叱責されたよ」


 重吉は苦笑していた。

 その後、八重子の手料理で食事をした。そしてとりあえず信の服を重吉に貸し、寸法が全然合わなかったものの着替えてもらい、それで重吉は貞子とともに帰ることになった。

 帰り際に立ち止まって、見送る八重子を重吉は見た。


 「本当にすまなかったね。君にはかつてはひどいことをした。許してくれたまえ」


 「もちろん許します……なんて、なんか上から目線でおこがましいのですけれど、でも、イエズス様は七の七十倍までも許せと仰せになりましたから」


 「それと、遅ればせながら結婚おめでとう。さらには、今おめでたのようだね。二重におめでとう、だ」


 「ありがとうございます」


 八重子はなんだかものすごく胸が熱くなる思いだった。


 「八重子。これからは家は遠かなったばってん、頻繁に行き来ばしようね」


 「もちろん」


 八重子は貞子にもにっこりほほ笑んだ。

 重吉は信にも頭を下げた。


 「今回の件では世話になった」


 重吉と貞子を乗せたエレベーターのドアが閉まった。

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