まことと八重子が長崎に手紙を出したその翌日の水曜日から、復活祭前の四旬節に入った。すなわちその日が灰の水曜日である。


 その前の日の晩、信は布団の中で言った。


 「去年まではこの時期、川向こうはものすごくにぎやかだったんだよ」


 四旬節に入る直前、西洋ではカルナバルといって四旬節の小斎に入って四十六日間肉が食べられなくなるので、とにかくたらぶく肉を食べお祭り騒ぎをするのだそうだ。


 「今年は静かなものだよ」


 信が言う。それもそのはず、今の上海には西洋人はほとんど引き上げていなくなっているのだ。


 翌日、信は仕事なので八重子は一人で灰の水曜日のミサに与った。その中で、彼女が思ったのは、これからの二人のことであった。

 まずは竜之助の許諾があるかどうかというのが一つだが、それを乗り越えてもまた次の壁がある。教会で無事に結婚式が挙げられるかどうかだ。

 結婚は教会の秘蹟であって、式を挙げなければ教会では夫婦とは認められない。問題は、すでに八重子が妊娠していることである。つまり、二人はカトリックの教義に照らし合わせれば大きな罪を犯しているのだ。

 ミサを捧げている司祭の背中を見ながら、兄の次はこの神父様に結婚のことを打ち明けなければならない。その時に神父様はなんと言われるか。

 一つまた一つと乗り越えなければならない壁が何重にもなって、二人の前に立ちはだかっているような気がした。


 だが、思ったよりも早く兄の返事は来た。開封するまでに八重子は心臓が張り裂けそうだった。すぐには開けず、信の帰りを待って二人で開封した。


 その内容はこうだった。

 すでに信の両親から直接挨拶の手紙が長崎に来たとのこと。信の両親はこの結婚を非常に喜んでいる旨がそこにはしたためられており、兄としてはそこまで話がいっている以上許すしかない。だが、本人たちからの正式な許諾の願いがない以上、自分から言い出すこともできずにただ待っていたとのことだった。

 そうして、ようやく正式に結婚を認めてほしい旨の手紙が届き、晴れて許諾する旨を言ってきてくれたのだ。

 八重子は胸をなでおろした。そして信を見つめた。


 「なんだ、じゃあ、もっと早くにお兄さんにちゃんと結婚を許してほしいって言えばよかったのだわ」


 信も微笑んでうなずいた。


 「そうだね。なんだか遠回りしたね」


 二人は共犯者めいた笑みを交わしたが、その時の八重子は胸が熱くなって、目の前の信と抱擁するよりもむしろ自分自身を抱きしめたくなるような衝動に駆られていた。


 「信さん、よろしくね」


 「うん、もちろん」


 それ以上の会話は必要なかった。


 だが、次の壁がある。教会だ。次の日曜日に、信は何とか仕事の都合をつけて共にミサに与った。ミサの後、いつもなら庭で信と待ち合わせをするが、この日は聖堂内で八重子は信を探した。すぐに信と落ち合うことができた。

 次に神父様をつかまえなくてはならない。以前のポルトガル人の司祭ならミサの後さっさと司祭館の方へ戻ってしまったが、今の日本人の神父はたいてい聖堂の入り口か庭でミサにあずかった信徒と立ち話をしていることが多い。

 今日もちょうど入り口を出てすぐのところで何人かの婦人と立ち話をしていたので、二人はそのそばでその話が終わるのを待った。


 その間、八重子の緊張は最高潮に達した。

 この神父になって以来、直接話をするのは初めてなのだ。

 やっと前の人との話が終わって、話をしていた夫人は挨拶をして教会を後にした。行きかけた神父を信がつかまえた。


 「あのう、神父様、ちょっとよろしいでしょうか」


 「はいはい、何でしょう」


 気さくに笑って、神父は足を止めた。


 「あのう、実はお話したいことがあるのですが」


 信があまり深刻な顔なので、神父もその顔の笑みを少し消した。


 「あのう、ここでは」


 「そんなあらたまった話なのですか?」


 「はい」


 神父は二人を聖堂とは別棟の、信徒が会合をする信徒会館の方に招き、その一室でテーブルをはさんで座った。


 「私は信者で、木下信と申します。彼女は内藤八重子です。実は」


 ゆっくりと信は話し始めた。隣で八重子は、ただ身を固くしていた。


 「僕たち、結婚したいと思うんです」


 「そうですか。それはおめでとうございます」


 神父は相好を崩した。


 「結婚は恋愛とは違って社会的責任を伴うものです、まして、信者同士の結婚であればこれは秘蹟であって、一種の召命でもありますからね」


 「はい」


 信は浮かない顔でうなずいた。そして思い切って言った。


 「ただ一つ、重大な問題があります。それは……」


 一度、信は言葉を切った。


 「私たちは罪びとです」


 「それは誰でも」


 「いえ、そういうことではなくて、実は……実は彼女のお腹の中には子供がいるのです。もちろん僕の子供です」


 神父ら笑顔が消え、みるみるその顔は曇っていった。


 「このような私たちは、教会で結婚式を挙げることは不可能でしょうか」


 神父はしばらく黙っていた。八重子の心臓ははち切れんばかりに高鳴っていた。


 「たしかに」


 神父はやっと口を開いた。


 「未婚の信者の男女が子をなすというのは大いなる戒めであって、大きな罪です」


 予想通りの言葉だった。


 「ただ、」


 だがすぐに、神父は言葉を続けた。信も八重子も息をのんで神父の口元を見つめ、次の言葉を待った。


 「あなた方は結婚を望んでいる。これは大いなる恵みでもあります。お互いのご両親のお許しは得ているのですか?」


 「はい。僕の両親からは手紙ではありますが許す旨を伝えてきましたし、とても喜んでくれています。また彼女はもう両親は世にないのですけれどお兄さんが家長で、ようやくそのお許しも得ました」


 「お二人とも、初婚ですよね」


 「はい」


 また神父は少し黙った、八重子にはその沈黙の間がとてつもなく長い時間に感じられた。


 「イエズス様は罪びとを招くために、この世に遣わされました。この世の人たちはみんな誰でも、背中に重荷を負っています。私とてそうです。イエズス様は、そのような重荷を負うものは私のもとに来なさいと仰せになりましたよね、罪を背負っているというのはイエズス様に立ち返るいい機会であって、これもお恵みでしょうね」


 やっと神父の顔に、ほんの少しだけ笑みが戻った。


 「教会では、教会で結婚式を挙げることができない要素がいくつかあります。教会で結婚式が挙げられないということは、いくら戸籍上の結婚届を役所に提出して世間的には夫婦になっても、主のみ前では夫婦とは認められていないということになります。そうなると、終生聖体拝領もできなくなります」


 信の顔がこわばった。


 「ただ、」


 信も八重子も少し身を乗り出した。神父は話を続けた。


 「結婚前に子をなしたというのは天主の十戒にも反する姦淫の罪で大罪ではありますけど、教会での結婚ができないという条件には触れていません」


 まさかそれでぱっと笑って安心するなどということは二人にはできないが、少しだけ希望の光が見えた気がした。


 「今はちょうど四旬節です。どのみち四旬節の間は結婚式はできません。絶対に禁止されているのは聖週間だけですけれど、四旬節の間も控えた方がいいでしょう。四旬節が終わるまでまだ一ヶ月半もありますから、その間に自分の罪を浄めて、心を正して主に向き合うことです」


 信も八重子もうなずいた。


 「まずは告解をしてください。でも、それで終わったと思わないで、この主の御苦しみを分かち合い受け入れ、自らを悔い改める期間にお二人でそれぞれご自身のことを見つめ直してください。そして生まれてくる子供もすぐに洗礼を受けさせて、信仰の道に入らせることを義務として誓約してください」


 「それはもちろんです」


 「そういえば今何ヶ月ですか?」


 神父は八重子に聞いた。


 「もうすぐ三ヶ月です」


 「そうするとあと一ヶ月後では四ヶ月か五ヶ月。まだお腹は目立ってはいませんよね?」


 「どうでしょうか」」


 そのようなことを聞かれても、八重子は初めての妊娠経験なのだからわかるはずもない。


 「まだそれほど目立たないと思います」


 義姉の竹子の妊娠時期の記憶をたどっての曖昧な返事だった。


 「そうですか。もう少し遅くてお腹が目立つようでしたら、やはり教会の結婚式はダメとは言いませんがあまり勧められませんから。そうなった場合は生まれるまで延期した方がいいかなって感じなんですよ」


 「はあ」


 こればかりは八重子にも何とも言えなかった。


 「それともう一つ、ミサは挙げられますけれど、普通の結婚式のような仰々しい華やかなミサは控えてくださいね。申し訳ないけれど、こういった方々にはみんなそうしていただいています。簡素なものになりますけれど、よろしいですか?」


 「はい」


 信が答えた。


 「どっちみち今のこのご時世ですから、華やかな結婚式はまずいでしょう」


 こうしてもう一つの壁はなんとか乗り越えた感があったが、八重子にはただひたすら長い緊張の時間であった。

 最後に神父はやっとまたにっこりと笑った。


 「とにかくまあ、おめでとう」


 そのひとことで緊張が一気に解けた八重子は、その場に泣き崩れてしまった。


 もうすっかり春めいていた。日本ならちょうど桜が満開のころだ。

 桜のない春というのもなんだか物足りないものだが、今年の八重子はそれどころではなかった。いよいよ信との結婚式を迎える。今年は御復活祭が四月五日で、つまり聖金曜日が神武天皇祭、復活祭当日は中国の清明節に当たっていた。


 そんな春の陽ざしの中に教会の鐘が鳴ったのは、復活祭から二日後の火曜日だった。この日が大安だった。

 まずは教会の祭壇の前、いつもは聖体拝領をする台に二人はひざまずいた。

 八重子は純白のウエディングドレスは避け、少しピンクがかった簡易なドレスにしていた。

 気になっていたお腹の方だが、入浴の時など衣服を着していないとだいぶ目立ってきてはいたけれど、幸い着衣だとまだほとんど目立たなかった。

 ただ、とにかく緊張でカチカチだった。

 参列しているのは信の仕事の関係の工部局の人たちと官舎の婦人会の人たちで、ほんの数人程度だった。つまりががらがらの聖堂でのオルガンによる音楽の演奏もない挙式だった。


 「汝、三木パウロ木下信、あなたは聖なる御母の教会の聖なる儀式に従い、このマリア内藤八重子を妻としますか」


 司祭はそういう意味のことをラテン語で言った。司祭も日本人であるが、こういった受け答えはすべてラテン語だ。信も一所懸命覚えてきたラテン語で「はい、致します」という意味のことを答えた。同じ内容の言葉が、八重子にも繰り返された。

 そして二人が手を重ね、司祭はその上に聖水を振りかける。


 「私は父と子と聖霊の御名によって、この二人を結婚のために結び合わせます」


 司祭が唱えたラテン語の祈りは、こういう意味だということはあらかじめ信と八重子には知らされていた。

 そして指輪の交換となるが、その指輪の祝福にも司祭と信および八重子の間で祈りの受け答えがラテン語であり、これを覚えるのは本当に大変だった。


 「我が助けは主の御名にあり」


 「その主は天地の創造主」


 「主よ、我が祈りを聴き入れたまえ」


 「我が叫びを御前みまえに至らしめたまえ」


 「主、汝らとともに」


 「また司祭とともに」


 ここは信と一緒だから八重子も何とかラテン語で答えられた。

 それから司祭はまたラテン語で指輪を聖別する祈りを捧げ、十字を切り、またそれらを一つ一つ信と八重子に手渡す時もラテン語の祈りの受け答えがそれぞれあった。

 そうしてようやく指輪の交換となるが、その間も二人はずっとひざまずいたままだ。

 また少し司祭の祈りがあって、ようやく婚姻のミサが始まる。

 とにかく八重子は緊張がまさって感動どころではない感じだったが、やはり所々で今こうして信と教会でこの日を迎えたことは紛れもなくお恵みであり主の賜物であることを実感していた。

 いつものミサだとオルガンに合わせて聖歌を歌う箇所が多々あるが今日はすべて祈りを唱えるだけなので、比較的短時間で終わった。


 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神があなた方と共にありますように。自らその祝福をあなた方の上にとこしへに在らしめ、あなた方の子供の子供を三代、四代までもみそなわし、とこしへの命を終わりなく得さしめたまえ。聖霊とともに世々に生き支配しておられる御子、私たちの主イエズス・キリストによって」


 「アーメン」


 このラテン語の祈りで、ミサは終わった。

 そのあと、司祭が退出しても新郎新婦は御聖堂おみどうに残り、今日の恵みを深く感謝して祈りを捧げる。このころになってようやく八重子は、感動が込み上げてきた。緊張が一気に解けたからかもしれない。

 一つだけ心残りは、この教会のすぐそばに住んでいるはずの実の姉の姿がなかったことである。


 二人は表に出た。春の陽ざしがぱっと二人を包んだ。先に退出して外で待っていた信の同僚や婦人会の人々の拍手に迎えられて、二人は腕を組んで外に出た。

 八重子はやっと笑顔になった。その横顔を横目に見て、信は言った。


 「今日の君は一番きれいだね」


 控え目にではあったが、また教会の鐘が鳴った。

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