第5章 とこしえに
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そして、年が明けて昭和十七年の正月早々にフィリピンのマニラを占領、十一日にはクアラルンプールを占領し、この日にオランダにも宣戦布告をした。
八重子たち長崎人にとって「おらんださん」として長く親しく接してきたその国も、とうとう敵国となってしまったのである。
そしてマレー半島での戦闘が始まったようだが、日本軍は快進撃を続けていた。
大東亜戦争と名付けられたこの戦争で日本軍は次々と戦果を挙げ、そのニュースが入るたびに上海に住む日本人たちの万歳の声が上がったが、日常生活はこれまでとあまり大差はなかった。
だが、信たちの仕事はそうはいかないようで、これまで以上に多忙を極めて家にいる時間もほとんどなくなった。
なにしろこれまではイギリス、アメリカ、南京政府の中国と共同で上海の共同租界の行政を担ってきた組織が工部局である。だが今や共同租界は日本軍が制圧している。工部局でもアメリカ人やイギリス人が占めていたポストは、日本人が代わるようになった。
だが本来はイギリス主導の組織であり、南京路の本部では一部イギリス人職員も残されているそうだが、工部局もほとんどは日本の機関のようになった。
だから、工部局に代わって日本軍が租界を統治するようになったといっても、工部局の役割は終わったのかというとそのようなことはなく、かえっていろいろと事務が煩雑になってそれで信も多忙を極めているらしい。
そのようなことをたまに帰宅した信は八重子に話してはくれるが難しすぎて話は八重子の頭の上を飛んでおり、また信も信でたまの帰宅なのだからあまり仕事の話はしたがらなかった。
だが、八重子は信に話さなければならないことがあるそぶりで、だが今一つ決心がつかないという様子を見せていた。
中国の正月である春節も過ぎた。ちょうど信に求婚された日だ。この年は日曜日に当たったのでこれまで以上に大騒ぎになると予想されたが、騒いでいるのは中国人たちだけでなく、
いよいよこれまでイギリス領だったシンガポールが陥落し、日本の占領下に入ったというのである。
実際そのニュースが広がったのは翌月曜日だったが、その日八重子は一人で外出していた。
行き先は北四川路だ。大陸の気候は春節が過ぎると本当に春めいてくるが、この日はまだ木枯らしが吹きすさび、洋装の八重子は木枯らしから身を護るようにショールで頭をくるんでいた。
そして用途先の病院を出た八重子は、鉄筋七階建ての堂々たる病棟を見上げた。上海でいちばん大きな病院だそうだ。陸戦隊本部の手前にある陸戦隊病院もかなりの規模だが、ここも負けてはいない。しかも、この病院は陸戦隊病院と違って個人が建てて運営している病院だ。
病院の門を出ると、外はいつもの陽気な北四川路だ。平日でもかなりの人出である。もっとも中国人にとっては日本風にいえば正月三賀日の二日目なのだからたくさんの人出があってしかりで、昨年同様道から少し入ったあたりからは爆竹の音が絶え間なく聞こえる。
南へ向かっていくと、左側の歩道に沿って病院の隣は学校だ。日本人のための北部第一小学校だったが、去年の春から小学校は国民学校と称されるようになった。そして第一歌舞伎座、ブルーバードダンスホールと続く。
呉淞路とともに日本人街のメインストリートである北四川路は道の両側とも三階建ての建物がずっと壁のように続き、その一階部分が店舗だ。いろいろな看板も見える。アメリカ人が建て日本人が改築したその建物たちは、アメリカ風でもあって日本式が混ざっていたりもした。
そのあたりから、八重子は路面電車に乗り込んだ。上海に来たばかりのころは勇気がなくてなかなか乗れなかった電車だが、今では何とか乗れるようになった。だが、やはりまだなじめずにいる。
まずは長崎の電車と違ってとにかく汚い。そしていつも混んでいる。乗っているのが全部日本人ならいいのだが中国人もかなり乗って、それがぎゅうぎゅう詰めで体を接するのだから八重子には怖くもあった。
だが、病院から住んでいる官舎まで歩くと三十分近くかかってしまうので、八重子は電車に乗った。
それにもう一つ、今はそんなに長い時間歩いてはいけないのだ。その事実を、先ほど病院で聞いたばかりである。それを思い出し、電車の中でも八重子は思わず微笑み、そして覆いかぶさる現実に少しため息も出た。
電車だと結構すぐに文路に着く。
「
そう叫んで人をかき分けなければ降りるのも大変だ。八重子は上海に来てからも中国語を話す必要は全くなかったが、こういった必要最低限の言葉だけは何とか言えるようになっていた。
もうここからなら工部局官舎まで歩いて数分だ。
ちょうどお昼前で市場はぎりぎりでまだやっているだろうから、買い物をしていくことにした。八重子は工部局のビルの隣の三階建ての三角市場に向かった。
すべて壁のない建物で、柱と二階、三階には白い手すりがついているだけだが、ところどころ筵を垂らして臨時の壁にしているところもある。
中国人の買い物客も多いが、ここでの買い物はすべて日本語で事足りた。売る側でたまに日本語がわからない人もいたが、それに必要な言葉くらいは八重子も覚えていた。
そのまま午後は
ところがこの日はただいまも言わず、信はつかつかと八重子のそばに歩み寄ると、その両肩に手を乗せた。
「八重子。正直に言ってくれ。何か僕に隠してはいないか?」
「え?」
「いや、その」
信も言葉を選んでいるようだった。
「どこか具合が悪いのなら、正直に言ってほしいんだ」
最初、八重子は呆気に取られていた。
「あのう、今日お話ししようと思っていたのに、どうしたのですか? 突然」
「やはり、どこか悪いのか」
両肩に乗せた手を放し、信は不安そうに下を向いた。
「どこも悪いなどということはありませんのよ。とにかく、マントをお脱ぎになったら?」
とりあえず信は、言われたとおりにしていた。そして、八重子の座っているソファーのそばの椅子に座った。
「どうしていきなり、そんなことを言い出すんです?」
「今日、職場の山崎君が持病のリュウマチが悪化したっていうんで、午前中休みを取って病院に行ってたんだよ。そうしたら、病院を出る時に、君が病院に入っていくところを見たって」
「そうでしたの」
八重子は声を上げて笑った。
「笑い事じゃないんじゃないか? どこも悪くなかったら病院なんか行かないだろう? それとも、誰か入院してるとか?」
「実は、私が病気でも誰かのお見舞いでもないのですよ。私が行った先は産婦人科」
「え?」
しばらく信は言葉を忘れ、八重子の目を見た。八重子はすぐに笑って一度目をそらした。
「そんな見ないで。恥ずかしい」
「って、もしかして」
「はい」
今度はしっかりと信を見て、八重子はうなずいた。信の顔がぱっと輝いた。
「そうか」
「二か月だけど、もうすぐ三か月ですって。本当はもっと早く受診しなければダメだって、先生に叱られましたわ」
「そうだよ。それに僕にも言ってくれなきゃ」
「でも……」
やはりそこは、いくら一番身近な人でも男は男だ。言いにくいこともある。
「去年の暮れから今年になってもずっと月のものがなくて、でもこれまでも遅れることもあるし、しばらく待っていたんです」
「そうか。ここではそのようなことを相談できる女の人はいないものな」
姉の貞子とはほとんど音信不通である。長崎にいたのなら兄嫁の竹子や隣の永田先生の奥さんの
「でも、先月の中ごろから食欲はなくなったり体がだるくなったり、吐き気がひどくなってきたんです。それで婦人会の人に思い切って相談したら、もしかしてもしかするから早く病院に行けって病院を紹介されて」
「そっか。それで今日行ってきたのか」
「はい。だいたい察しはついていました。看護学校で一応婦人科のことも学んでましたし。でも、上海の病院に一人で行く勇気がなくて」
「あの病院はいい。あの病院を建てた方は小豆島の出身でね、つまり僕と同じ香川県民なんだ」
「小豆島って香川県なんですか。知らなかった」
信は笑った。
「それよりも、まずはよかった。体をいたわって、元気な赤ちゃんを産んでくれ」
だが、そう言ってからすぐに信の笑顔も消えた。
「問題は」
「はい。結婚のことですね」
八重子が帰りの電車の中で、微笑みながらも暗い陰りを感じていたのはそのことだった。子供ができた以上、生まれる前には正式に結婚をしておかないといろいろとまずい。
すでに信の両親の許可も得ている。信の家は士族で八重子は平民だが、そのようなことに気にする人たちではないようだ。
法律上は何の問題もないが、士族の中にはまだまだこだわる人たちもいる。
それよりも問題なのは、八重子の兄だ。反対しているわけではないようだが、家長としてはっきりと「許す」のひとことがない。
「子供ができたってことを知らせれば、許してくれるかも」
信の言葉に、慌てて八重子は首を横に振った。
「だめです。そんなこと言ったら逆効果で、ふしだらだって決めつけて上海まで殴り込みに来かねません」
「そうなのか」
「ここは誠心誠意、はっきりと結婚を許してほしいと手紙で訴えるしかない」
「そうだね。僕からも直接手紙を書くから同封してくれ」
これで話は決まり、その日の夜、二人の共同作業で八重子の兄、竜之助に手紙を書いた。何度も書き直して、ようやく完成したのは夜も更けてからだった。
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