まことを含め工部局の職員たちが、婦人会が集まっている部屋に来たのは、皆で協力して握った握り飯の昼食を終えた午後だった。


 「皆さん、今朝がたの砲声について詳しいことが分かりました」


 職員の一人が、立ったまま前に出て報告した。


 「あの砲撃はわが帝国海軍『支那』方面艦隊の旗艦出雲や軍艦の蓮、鳥羽などが、イギリスとアメリカの軍艦を砲撃していた音だそうです」


 「ラジオはついていますか?」


 別の職員がその後ろから言った。婦人の一人がついてはいたが音を低くしていたラジオの音量を上げた。まだ音楽番組か何かで、ラジオからは歌のない曲だけの音楽が流れていた。


 「あ、始まった」


 ある婦人の声とともに、ラジオから流れていた曲は臨時ニュースの音楽に変わった。


 「臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、十二月八日午後一時発表。帝国海軍は本八日未明ハワイ方面の米国艦隊ならびに航空兵力に対し決死的大空襲を敢行せり。帝国海軍は本八日未明上海において英砲艦「ベトレル」を撃沈せり、米砲艦「ウエーク」は同時刻に降伏せり」


 人々の間でどよめきが上がった。そういうことだったのかと、やっとみんな納得できたという感じだ。

 そのあとニュースはシンガポール爆撃、グアムなどの敵軍事施設を爆撃したという発表を告げた。


 「以上、大本営陸海軍部からこのように発表されました」


 また一斉に部屋にいた人たちは、立ち上がって万歳を叫んだ。

 それが収まると、工部局の職員が婦人たちに告げた。


 「本日午前十一時四十五分、畏れ多くも!」


 その職員は、パンと足を鳴らして姿勢を正した。


 「天皇陛下よりアメリカ、イギリスに対する宣戦の大詔が発せられました。またそれより先に、わが皇軍は香港に対して攻撃を開始したという情報も入っております」


 またもや万歳の嵐だった。


 「なお、詔書に関しましては内地ではすでにラジオを通しまして東條総理によって拝読され、また今日の夕方の新聞に掲載されるでしょうけれど、何分こちらでは明日以降にならないと拝見するのは難しいと思われます。ただ、掲載の暁には謹んでご拝読ください」


 人々は一斉に返事をした。


 「この租界では特にさしあたっての動きはないと思われますので、皆さん、どうぞ解散してそれぞれのお部屋にお戻りください」


 八重子はその職員の後ろにいた信を見た。信もうなずいていた。


 「兵隊さんがたくさん川向うに行かれましたけれど、戦争になるのですか?」


 一人の婦人が聞いた。先ほど情報を伝達してくれた職員は笑った。


 「大丈夫ですよ。あの兵士たちは共同租界の旧イギリス租界だった部分を接収しに行っただけです。今の上海にはあの事変以来『支那』の軍隊はもういませんし、イギリスやアメリカが軍隊を駐屯させているはずもありません。唯一の軍事力が黄浦ワンプー江の軍艦だったのですが、先ほどお聞きの通り今朝がたアメリカの軍艦は捕獲、イギリスの軍艦は撃沈していますから、戦争しようにも相手がいません」


 その言葉に皆がうなずいている時、窓の外にふと目をやった婦人が外を指さした。


 「あれは!」


 その視線の先は川向うと思われる当たりの空だった。ちょうどブロードウェイ・マンションの右手だから南京路のあたりと思われる空にアドバルーンが上がっている。気球の下には何か文字が書いてあるが、当然肉眼では見えるわけもない。

 職員の一人が事務所から双眼鏡を持ってきて覗いたが、それでも無理だということだった。


 「おそらくは、もう日本軍が租界を接収したということか、あるいは日本軍が租界の治安を守るという内容が書いてあるのでしょう」


 「そうです」


 別の職員が言った。


 「接収が完了したらあのバルーンを上げることになっていることは聞いていました。あそこには『日本軍が租界の治安を保確・・する』と書いてあるはずです」


 人々の間で、またもや歓声が上がった。


 部屋に帰ってから、八重子は気が抜けたように座り込んだ。すぐに信も一度戻ってきた。


 「なんだか大変なことになったみたいですわね」


 「これも流れだろう」


 さすがに信も、今日は真顔だった。八重子も真顔で聞いた。


 「ひとつ気になるのは、本当に日本軍は米英から『支那人』を解放するために川向うに行ったのかしら?」


 「まあ、いろいろな考え方があるさ」


 「義兄あになんか、日本は租界では常に『支那人』の上に立たなければならないって言ってましたし」


 「上海にはイギリスやアメリカ、フランスが先に来ていて、日本は後から来たからね。それに、日本人は名誉白人として欧米人と同じ扱いを受けてはいるけれど、なにしろ顔つきが『支那人』と同じだろ? だから、欧米人たちにさげすまれないように、自分たちは『支那人』より上だということを見せつけなければいけないのだと考える人たちもいるね」


 「そうなんですか」


 「とにかく、この上海はいろんな考えの人、主義主張を持った人たちの坩堝るつぼだからね。これからもどうなっていくか」


 信の目は遠くを見た。


 「悪いけど、きっとこれからものすごく忙しくなる。降誕祭も教会に行けるかどうかわからない」


 八重子は少し寂しそうな顔でうなずいた。

 それから、二人で夕の祈りをした。こうして、長い一日が終わろうとしていた。


 信の言葉通り、翌日から信の帰りは遅かった。官舎と信の仕事場は同じビルの中なのだが、顔を見る時間はほとんどない。そして日曜日も休めそうになく、結局、待降節の第三主日、司祭の祭服がバラの花の色になるので俗にばらの主日と呼ばれているその日、八重子は一人で教会に行った。

 あれ以来初めて外出するのだが、町の様子はこれまでと特に変わったことはなかった。虹口はこれまでも中国人のほかは日本人がいるばかりで西洋人を見かけることはほとんどなかったが、今では西洋人の姿は全くなかった。

 昨夜、信が寝る前に言っていたが、今や川向うの旧イギリス租界であったところも日本軍が接収し、共同租界全体を日本軍が押さえているという。川向うでさえ西洋人の姿は少なくなっているのだろうかと、八重子はふと思った。

 ただ信の話だと、フランス租界には、日本軍は手を出していないようだ。フランスは日本の同盟国のドイツの敵国ではあったが、すでに去年の時点でパリは陥落し、今はドイツの占領下に入っている。つまり同盟国ドイツが占領している国の租界だから、日本軍は手を出せないのだそうだ。

 教会の中もまた、ほとんど日本人の信徒しかいなかった。ミサの司式司祭だけはこれまでの西洋人の神父だった。

 ミサはラテン語だが、途中で入る説教は八重子の知らない言語だった。そのあと、これまでにはないことだったが、たどたどしい日本語で司祭は話し始めた。


 「ヨーロッパは今戦争のさなかです。私の国、ポルトガルは中立を宣言しています。しかし、イエズス会の本部からの指示で、私はマカオに移ることになりました」


 イエズス会の指示だというが、もしかしたら日本軍の指示かもしれない。だが、そんなことを憶測しても仕方がない。


 「この教会の主任司祭は、明日から日本人の山下神父になります」


 突然の発表だった。

 北支事変から始まった重慶との戦争は、あくまで事変という名称だ。だが日本は、つい一週間前にとうとう本格的に世界戦争に参加した。これまで中立国だったアメリカを敵とし、また同盟国の対戦相手のイギリスにも宣戦布告をした、いわば本格的な戦争に足を突っ込んでしまったのである。

 いずれにせよ、たとえ中立国でも西洋人の司祭では都合が悪いのかもしれない。今や虹口のみならず共同租界全体が実質上日本租界となったのだ。

 説教の最後の方では、司祭は涙声になっていた。

 このミサの中で、八重子も皇国臣民として日本の戦勝を祈るべきだったのかもしれない。だけれども今は、なぜかそのような気にはなれなかった。


 幼いころの八重子にとって降誕祭は本当に楽しみで、指折り数えてその日を待ったものだった。だけれども今、とりわけ今年は、毎日毎日が独りぼっちだ。信は深夜にならないと帰ってこないし、翌朝は早くに出勤していく。

 時々婦人会の会合にも出るけれど、皆戦意高揚していてついていけない。確かに長崎の人が多いけれど、信徒はいないようだ。長崎人が多くても、長崎の人全員が信徒というわけではない。八重子の住んでいた浦上に信徒が多いだけで、それでも浦上の人が全員信徒ではない。

 よって、全く一人で閉じこもって毎日を暮らすよりかは幾分ましだったけれど、それでも婦人会に行っても気が晴れるものでもなかった。


 そしてついに降誕祭の当日が来た。この年は水曜日がイブだった。そのイブの夜のミサに、ようやく信も一緒に参列した。いやむしろ、無理したのかもしれない。

 ミサの間は男女は席が分かれるのだけれど、帰りが夜遅くなるので八重子一人で帰ってこさせるのは心配だと信は言った。

 この日は皆手にろうそくをもってミサが始まり、聖歌が響いた。そして教会の鐘が打ち鳴らされた。

 教会の外観のいつもの派手な電飾は抑え気味だった。だいたいこのようなことは西洋人の信徒が得意とするところだったが、今年は彼らはいない。

 いつになく厳かにミサは進行した。

 そして、説教は日本語となった。


 「皆さん、主の御降誕、おめでとうございます」


 「「「おめでとうございます」」」


 「今日、ダビデの町に私たちのために救い主がお生まれになりました。今から二千年前のユダヤの田舎のベトレヘムの馬小屋の中で、世界で最初の降誕祭が繰り広げられていました。参加者はイエズス様のご両親のほかは、羊飼いたちでした。その羊飼いたちに天使はよき知らせを告げました。それが先ほど歌いました“グロリア”の歌です。待降節の間は歌いませんから、久しぶりに聞く旋律ですね」


 日本人の山下神父の話は分かりやすく、時々ユーモアもあった。


 「”Glória in excélsis Deo, et in terra pax homínibus bonæ voluntátis.”これは『天のいと高き所には神に栄光、地には善意の人に平和あれ』という意味なんです。これが、羊飼いたちが聞いた天使の歌なんです」


 神父の声は、一層高くなった。


 「そして天使はよき知らせ、つまり『福音』を告げ知らせました。それは、闇の中に一条の光が灯されたということです。その光は希望の光です。神のみ言葉が受肉して人となり、われわれを直接導いてくれる。それが『よき知らせ』でなくて何でしょう。そのお方は、常に私たちとともにいてくださる方です。どんな境遇にあっても、どんな状況下にあっても、希望の光を灯してくださる。そんな主の御降誕を皆さんお一人お一人が受け入れる、迎え入れる、その良き日が今日の御降誕であります。希望をもって邁進しましょう。聖父ちち聖子と聖霊の御名みなによって」


 「「「「アーメン」」」」


 八重子は心が急に温かくなるのを感じた。どんな状況にあってもすべてを主にゆだね、お任せする。そこの希望と力が湧くのを感じるのだった。

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